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罪を背負うべきもの

物書き初心者です;見苦しい点などもございますが、お話が伝われば幸いです。


罪を背負うべき者



如何なる感情も、真髄を蝕めば故郷となる。



僕はそこで本を閉じた。当てもなく本を読んで、その文章が視覚から入って体中を巡りまわった時、答えを見つけたような気がした。

その言葉が僕という精神に馴染むのは、果たして何かを得たことになるのだろうか。それとも、本当に手に入れたかったものから遠ざかったことになるのだろうか。

息を吐いて立ち上がる。どちらにしても僕という存在は変わりはしない。僕はあくまで僕であり続けるのだし、その僕が辿って行く道も1つしかないのだ。決めるのは覚悟だけ。例え溺れたとしても、もがき苦しむことはせずに、ただ次に誰かから差し出される運命を受け取るだけなのだ。僕がそれに抗わない事すら、運命の決定事項に含まれているのだから。


僕の場合、物質的な視覚 ― つまり眼球から伝わる光景と、心の目は、ほぼ真反対の価値観を持っていた。周りに溢れた幸せな人々も、その幸せを羨む人々も、安売りセールに参加する主婦のようにそれを

掴もうとする人々も、僕にとってはただの静止した物質でしかなかった。その辺りの芝生や、住めるだけの部屋にある壁と何ら変わりない。ただ眼球が捉えるだけの物質でしかない。


僕はいつも思う。幸せになることが、同時に誰かを不幸にすることだと人々は認めているはずなのに。

どうして、誰も裁かれないのだろう。幸せは、不幸になった人が訴えることのできない、唯一の罪なの

ではないのだろうか。そしてその罪は、不幸になった人々が背負うべき処刑人なのではないかと。


そのような人々に、多種多様な運命など用意されているのだろうか。



瞳を閉じて黒く淀んだ闇に思考を巡らせていると、ドアの開く音がして、妹の良香が入って来るのが見えた。

「お兄ちゃん。良香準備できたよ」

落ち着かない動作でドアを閉めて、良香は僕の所に走り寄ってきた。

「あ、また本読んでる。もう。出ていく前なのに、お兄ちゃんはいつでも落ち着いているのね」

餅のように頬を膨らませて、良香は本を取り上げた。その反動で、僕が先ほどまで読んでいたページが、まるで良香に見せつけるように開いてしまった。

「何これ。どこなる感情も、しん……しん、……を、えば、こごうとなる。よくわからないけど、どういう意味なの?」

「僕にもよくわからなかったよ」

妹の壊滅的なまでの漢字力に、弱々しく首を振って答えたが彼女には伝わらなかった。

すると突然息で埃を払うように、良香は表情をぱっと変えて僕の腕に掴みかかった。

「もう学校に行かないと! 今日は転校初日なんだから、遅れたら怒られちゃうわ!」

「あのね、良香。細かいようだけれど、例え初日じゃなくても……」

「またお兄ちゃんってば! ネクタイ緩めてる! だらしがないのは良くないんだからね!」

小動物のように手をせわしなく動かしてネクタイを整えようとする良香に、僕の口元がふと緩む。

綺麗に梳かされた、夜の象徴のような黒く透き通った髪を指で遊ばせながら、僕は大人しく良香が

ネクタイに四苦八苦するのを眺めていた。


今回で、一体何度目の転校になるだろうか。


数えるという行為をとうの昔に放棄しているのに、校舎や出会ってきた人々の情景を元に、頭の中で数を重ねていく。多くの罪はそこかしこにあった。その罪の多さに、刻んできた学校の数は到底及ばず、あろうことか巨大な罪の霧に呑まれていた。


そうか、と僕は口を少し開いて息を呑んだ。だから数えることをやめたのだった。こういうことが時々起る。何故やめたのか、その理由を忘れてしまうことが。


良香は中学2年生で、僕は高校2年生だった。だから、お互い別々の学び舎に向かわなければならなかったが、それは仕方のないことだった。良香は見るからに陰鬱な影をその愛らしい顔に落として、僕の袖口を引っ張っていた。

僕がそれを優しく、絡め取るように、確実に払いながら苦笑すると、揺れた良香の瞳はまるで曇天を映す水たまりのようだった。そんな彼女の様子を見て、僕たちはずっとこんなふうに固い絆で結ばれてきたのだということを初めて確信する。最早これは、僕の中で一種の儀式ですらあった。

神の慈愛をこの手に受け取ることができるのかどうかを、窮地に陥って縋る、彼を崇める人々と僕は何ら変わりない。彼らと同じように、僕もまた僕の不安に見合うくらいの印を最愛の妹に望んだ。



そしてまた、僕は1つの罪を見届ける時刻に巡り合う。



屋上は、1つの罪が浄化される玄関口としてよく利用された。歓迎されているのか、それとも邪険に扱われているのか、状況によって判断の変わる強風がその屋上には吹き荒れていた。

(きっと邪険に扱われている方だ)

目を細めて風からの攻撃を交しながら、僕はドアから少し離れたフェンス選りの壁際に腰を下ろした。

フェンスに触れようと手を伸ばしたが、届かなかった。

「僕は、死なない」

フェンスに向かって話しかける。風がぴたりと止んだ。まるで風なんて最初から存在していなかったかのような静けさだったが、僕は怯まなかったしそれについて深く考えることもしなかった。

僕はフェンスに話しかけたのだ。

もしかしたら、フェンスは風を通して僕に答えてくれたのかもしれないけれど、 正直どちらでも良かった。


「ここから飛び降りたくても、僕は飛び降りることができないんだ。

僕はね、貴方にとっては唯一の、手をかけさせてあげることのできない人間なんだよ。

ねえ。貴方は、死ぬってことは何か底の知れない悲しみだと思ってない? 貴方のような冷たい風に晒されて、太陽のような温かいものが遠くにあるのをずっと同じ場所で見上げ続けるようなものを、死だと思ってない? でもね、死はそういう面があるってだけの話なんだよ。本当は、滅多に見えない面が別にあるんだ。それは反対側にある面でも、横にあるものでもない。底にあるんだ。多くの人に押さえつけられている重い死が、見せることのできない面さ」

今、僕は本当に残忍に歪んだ存在そのものなのだろうと思う。

だけど、それは神が僕に与えた特権なのだと考えれば、僕は、所詮醜いものの残像に過ぎないのだ。


来たるべき罪は、やがて僕の前に、如何にも反省でやつれた様子を身に纏って現れた。

良香と同じくらい小柄だったが、短い髪の少女だった。サイドだけ少し長めの栗色の髪先が、穏やかな風に揺らされている。彼女はどうやら歓迎されているらしい。


これは既に予測してたことでもあり、前例通りの流れでもあるのだが、やはり少女は僕という、学校では目にしない不釣り合いな存在に目を見張らせていた。僕から極力目を逸らさないように、僕の制服をじっと見て、体はと言えば既に逃走体制に入っていた。そんな彼女を、僕はただ微笑んで見返す。

「どこの人ですか?」

首を引込めようとする亀のように縮こまったまま、彼女は用心深く尋ねてきた。

「高校生だよ。ここからそんなに遠くない場所にあるんだけど、知らない?」

ただ制服が違うという警報しか鳴らしていなかったのか、彼女はもう1度、今度は じっくりと僕の制服を観察して、「あぁ」と納得の合図を出した。

「何をしてるんですか?」

より一層疑わしげに眼を凝らして、彼女は僕を静かに睨んだ。

「ん? お見送り」


僕の動きに釘付けになっていた彼女の集中は、その一言でどうやら拡散したようだった。


「僕、夜が好きなんだ。だから夕日を見送っているんだよ」

彼女がここで初めて僕から目を逸らして、空に伸びる夕日を見た。空は既に炎のような夕焼けに燻り始めていた。

「それまで話し相手になってくれる?」

振り向いた彼女の虚ろな瞳は、先ほどまで怯えを抱えていたそれとは思えないほど 光を失っていた。

それに対しても、僕は変わらない笑みを向ける。

「男の人と話すのなんて久しぶりだから、うまく話せないかもしれないですけれど。それでもいいなら」

「大丈夫。ちゃんとうまく話せているよ」

言い訳を考えようとしたのか、彼女の伏せた睫毛が辛そうに揺れていた。

ゆっくりと力なく微笑んで、彼女は僕の間に、人1人分の間隔を空けて座った。


「皐月美雨です」

「よろしく、皐月さん。僕は九條貴雄」


皐月美雨は瞳を少しだけ泳がせた後、諦めたように壁に寄りかかって、真正面に広がる夕日を眺め始めた。

「男の人と話すの久しぶりって、ここが男子少ないから?」

「えぇ……。まぁ、そんなところです」

「妹がね、ここの学校なんだ」

彼女の瞳が再び疑惑に光始める前に、良香の話を差し出した。

「妹も言ってるよ。男の子がいないから寂しいって」

「そうですね。寂しいです」

ごく自然に、まるで彼女の中にその言葉が住んでいるかのような言い方だった。

皐月美雨は、振り絞るように、恐らくは長年積もらせてきたであろう言葉を、1つずつその口から語り始めた。


「誰にも、わかってもらえないのが、寂しい」


長い沈黙の間、僕は彼女の心境に触れて、そこに溶け込もうとしていた。

「同じだよ」

「きっと違うわ」

「そうだね。今、僕は皐月さんの寂しいって気持ちが分かるって言ったから。皐月さんは、少なくとも誰かにはわかってもらえたんだ」

「……ふふ」

皐月美雨は半分嬉しそうに、半分寂しそうに笑った。

「私はね、女の子に恋しちゃってるの」

彼女はどこか挑戦的な目線で僕を見上げてきた。

「まだわかるなんて、さすがに言えないでしょ?」

「そうでもないよ。やっぱり同じだ。何も違わない。僕だって許されない恋をしている」

「本当に?」

「うん」

彼女は考え込むように、体操座りした膝に顔半分を埋めて、無機質なコンクリートの 床を見つめた。


薄暗い群青の闇に吹く風が、一段と冷たくなった。

消えてゆく炎は、ここから見える空の淵でうねって、僕を燃やし尽くせなかったことに腹を立てている

ように見えた。僕は笑みを潜めることなく、フェンスを見て、そして皐月美雨を見た。


「恋花は、男の子が苦手だったの」


底辺にある死は、たった今、持ち上げられた。


「恋花と会う前、友達はみんな恋をして、私だって男の子に恋はしたけれど、 でもダメだった。

いつの間にか、私はみんなに向き合えなくなっちゃったの。 拒否されるのが怖くて、いっぱい逃げた。

孤独が嫌だったのに、1人になろうと必死に逃げた。 逃げ切るのは簡単で、それが私すごく悲しかった。戻れなくなって、辛くて……。その後、恋花と会って、恋花は男の子が苦手だって言って、私そのことを知ってなんとなく嬉しかったの。恋花はすごく可愛くて、優しくて、良い子で。 私たち、趣味や話も合ったからたくさん遊んだわ。でもね、恋花は気にしていたのよ。 自分が男の子駄目だったこと。私はね、気づいたの。恋花に、そのままでいてほしいって思ってることに。どうしてかわからなかった。

そうしているうちに、恋花には彼氏ができた」


お経のように彼女は言葉を紡ぎ続けた。僕はと言えば、その間中ただひたすら真剣に彼女の話に耳を傾けて、今ではすっかり沈んでしまった夕日のあった場所を、吸い込むように見ていた。


「その後このことは想像がつくでしょ? 他のカップルとの温度差はあったって、 することは同じ。

私の知りたかったことや求めていたものを、恋花は気乗りしないまま手に入れた。

でも、憎いなんて思わなかった。寂しかったの。恋花は、ずっと私と一緒だと、 私と運命を分かち合ったような、それくらい同じだと思っていたから。他の人に触れてほしくなかった。正直ね、恋がどんなものなのかは分からないけれど。これだけ、求めているんだもの。こんなに、傍に居たくて、居てほしいんだもの。私は、本当に、恋花だけだったのに」

荒々しい気持ちを、大切に、しっかりと彼女は吐き出した。

僕は皐月美雨を見た。きっと、こんな所でしか流せない涙なのだろう。

罪を嘆く滴が幾筋も流れていて、僕は言いようのない不安に襲われ始めていた。


脳裏で砂嵐の音と、白黒に潰された写真が、目で追えない速さのシャッターで切られていく。

過去が、勢いを増して揺れている。誰かの奇声が聞こえる。


罪は、消えない。何が罪なのかは、決まっている。


「もう自分を責めなくてもいいんだ」

皐月美雨が顔を上げた。縋り付くような視線だった。

「貴方は、もう、そのことでこれ以上苦しんじゃいけないなんて、自分を 追い詰めることはしなくていいんだ。逃げていいんだよ。それが、いけないことだなんて思わなくていい。恋花さんの生んだ幸せが与えた罪に振り回されなくていい。誰かの幸せの裏側にある罪を背負う必要なんてないんだ」

「そんな……こと……」

「それは、他人の十字架だ。持つのか持たないのか、それは皐月さん自身が 決めることだけれど。

ある種の孤独や虚しさに弱い人は、その十字架を捨て られずにいる。そして周りからどんどん隔離されていくんだ」

「言っていることがわからないわ」

腕で涙を拭いながら、彼女は泣き声混じりに言った。

「皐月さんは、もっと深い所で苦しんでいるんじゃない? 恋花さんが誰かと一緒になって、自分とは違うものに成り果ててしまったことに 寂しさを感じてしまった。それも尋常じゃない程の寂しさだ。自分は1人だ、 誰にもわかってもらえない。だけど本当に苦しんでいたのは、その考えに 捕らわれてはいけないという、この世の常識になんじゃないの? その思考に溺れている自分に嫌気が指したんだ。

「だから僕は言ったんだよ。もう自分を責めなくていいって。 それは幸せがもたらした罪だ。つまり他人の十字架なんだ。幸せがこうであると いう以上は存在し続けるもので、皐月さんのような考えの人は、その幸せには 相応しくない器だから。だけど……」

僕は一旦言葉を切った。そしてもう1度だけ、「だけど」と自分にも 付け足す。

「気にしなくていいんだよ。それは、幸せが生んだ罪なんだから」


怒号のような風が僕に当たった。その強風は皐月美雨も巻き込んでいて、彼女の短い髪と制服はまるで踊っているように見えた。耳障りな沈黙の後、皐月美雨が口を開くと風は無くなった。


「貴方は、誰に許されない恋をしているの?」


まるで水を欲する砂漠のように乾いた瞳だった。

僕は一呼吸置いて、今度は吹き荒れる過去の映像を受け止めて、静かに告げた。


「血の繋がった人に」


その瞬間、時間が逆戻りして、先ほどの夕日が姿を見せたのかと思ったほどだった。それくらい鮮やかな鮮血が、色のない過去に飛び散り、不規則なノイズの中で刃物が音を立てて落ちる音が確かにした。


誰かの泣き声がする。


― 血の繋がった人に


足りない。十分すぎる悪夢なのに。それこそが全てに思えるのに。

何かが、欠けている。


皐月美雨が「そう」と呟いて立ち上がるのが見えた時、僕の時間が再び 流れ始めた。

「もう行くんだ?」

「うん」

忽ちのうち彼女の姿は闇と同化していき、もう僅かというところで彼女は足を止めた。

フェンスに指をかけて、ほんの少し名残惜しそうに振り返った。

「九條さんは、私を止めないんですか?」

「お互い、正しいことに従った生き方はしてないだろう?」

今度こそ皐月美雨は満足そうに、穏やかな微笑を血の気のない顔に浮かべた。

「ありがとう。貴方と会えて良かった」


それは、正しくないことが正しいものとなって昇華される瞬間だった。

死の底辺が引っ繰り返って、彼女の背負った十字架が降ろされる罪の幕引き ―


だけど、罪は簡単には消えないものだということを、僕は思い知らされる。



「駄目!」

闇と風を切り裂く真っ直ぐな声のした方を向くと、僕は自分の目を疑った。

「良香」

ほとんど掠れて声にならなかった声は、彼女たちの激しい動きに弾き返された。

良香は、まさにフェンスを飛び越えようとしていた皐月美雨の腰回りをしっかりと掴んで、コンクリートの床に引きずり戻そうとしていた。

「お願い、良香ちゃん! 離して!」

「嫌! 美雨、様子がおかしいと思ったらこういうことだったのね!」

一体小さな体のどこからそんな力が出るのか、良香は美雨をフェンスから引き剥がし、自らも一緒に

なって床にそのまま叩きつけられた。美雨は壊れた玩具のように首を振りながら、悲痛な泣き声を漏ら

していた。


僕は、ほとんど無意識に拳を強く握り締めていた。全身を駆け巡る血が、悔しさと、思い通りにならなかった怒りで更に熱を増す。


違う、と呟いた。彼女は、美雨には、まだ迷いがあったのだ。


高い泣き声がもう1つ重なっていた。良香の顔はよく見えなかったが、 声が明らかに感情に揺さぶられているそれだった。

「勝手にいなくなったりしないでよ……。美雨は国語が得意だって言ってたから、良香、美雨に漢字教えてもらおうと思ってたのよ」

「そんなもの、私じゃなくてもいいでしょう」

「恋花だって悲しむよ」

2人の啜り声が同時に止んだ。美雨は、今日初めて知り合った転校生を、恐らく信じられない思いで見つめていた。

「良香ちゃんなんかに……。何がわかるっていうのよ。恋花には、大輔くんがいるからいいじゃない」

実際にはそれで解決する問題ではないことを、僕も、きっと美雨もわかっていた。それでも、1人で虚無感を抱えながら生き続ける道がどんなものなのかを知っている僕らだからこそ、それを放棄するという選択肢を選ぶ権利もあるのだ。

「死んで全部おしまいなんて、そんなことはないの」

僕ははっとなって顔を上げた。夜の良香が、そこにはいた。

「恋花は、きっと終わらせきることはできない。恋花のことが好きなんでしょ? だったら好きな人のために生きなさいよ。好きなのに、実らないことに耐えきれずに死んでしまえば、それこそ本当に諦めたことになるかもしれないわ。好きな人のために傍で見守って良い友人であり続けるのも、私にとっては立派で美しい恋だわ。もちろん、それ以外の方法だってあるけれど、死んでしまうのだけは良くないこと」

「それは貴方だから言えることよ! なら貴方が私の人生を歩んでみなさいよ! 

私と同じ考え方をする、そうなってしまうような人生を歩んで…… それでもそんなことが言えるの!?そんな無責任な常識論で、苦しみに耐えきれない私の心を殺してしまうの!?」

「美雨は、きっとその苦しみから解放される。死んでしまえば、もうその苦しみに戻ることもできない。そしてまた、逃げ切ることもできなくなってしまう」

美雨は怒りに震える体を両腕で抱きかかえながら、目を大きく見開いて良香の姿を焼きつくように見て

いた。良香は、蝋燭の小さな炎のように、まだ目に溜まった涙を揺らしながら続けた。

「好きな人を守り続けられる恋を、罪なくできるうちに叶えられることを祈っているわ。美雨、苦しみから解放されたいのなら、今美雨がやるべきことは、そこから飛び降りることじゃないね。誰かの1番になりたいのなら、誰かにわかってほしいのなら、多分なおさら。そこから飛び降りたら、美雨は1人ぼっちになってしまう」

「良香ちゃんは、こんな馬鹿げたことをしようとした私を、責めないの? 軽蔑しないの?」

「そんなことはしない。ただ、祈るだけ。美雨が解放されることを」

僕は、呼吸を完全に彼女の言葉に、存在に奪われていた。拳は握りしめたままだったし、彼女の名前を

呼んでから、時間がそんなに経っていないような感覚にも襲われた。僕の代わりに周りの空気は震えていて、今にも破裂しそうだった。


「聞いてもいい? 良香ちゃんも、何かに苦しんでいるの?」

「私は……」

ゆらりと、亡霊のように良香が立ち上がった。

「私は、許されない恋をしているわ。何もかもが、許されないの」

「良香ちゃんも、解放される日がくるの?」


そんな日は、来ない。ずっと逃げ続けるだけなんだ。

「きっと、幸せになれる日が来るわ」


同じなのに。矛盾した想いに、僕は我慢できなくなって良香から目を逸らした。

皐月美雨だって、これから罪悪感と嫌悪感に苛まれながら生き続けるはずなんだ。

それなのに、僕は良香がどうしてそちら側に縋り付こうとするのか、まるで理解できなかった。




来る日も来る日も、僕は新聞に目を通し続けた。たまに読めない日がかつてあったのだが、あの日からは欠かさないようにしている。目当ての記事が見つからずに、落胆の息を吐いてバイオリンのケースに手を伸ばす。気の赴くままに、好きな曲を自分の気持ちに忠実にアレンジしながら、僕はあの日の出来事に意識を傾けていた。


良香の気配を感じると、僕は目を開けて演奏を止めた。

「いい曲だったのに」

「……ないなぁ」

「え? 何がないって? バナナ?」

「飛び降り自殺」

その一言に良香は飛び上がり、手を耳にかざして聞き直そうとしていた。僕が要望に応えようとすると、急に妹は声を荒げて僕に歩み寄った。

「何言ってんの、お兄ちゃん!! なくていいでしょう!?」

「ああ、だから安心したよ。……なんてね。でもよかったね、良香」

いつも通りにこやかに対応するつもりが、ほとんど声に感情が籠らないことに心の中で苦笑しながら、僕は言った。

「何が?」

あくまで答えないで苦笑いの僕を、良香が訝しむように見た。

「お兄ちゃん、また何か企んでいるでしょう?」

「別にいいだろう? 1人ぐらい許されないことを許してくれる人がいても、構わないじゃないか?」

「我儘ね。社会がおかしくなっちゃうでしょう?」

「だけど、僕たちは社会におかしくされているんだから」

妹を引き寄せて額を重ねると、良香の息と瞳の動きが止まった。

「こういうこともできなくなるよ」

大事に抱き寄せて、唇を合わせる。そんなことで小さく震える良香が、堪らなく愛おしかった。

「愛してるよ、良香」


過去の映像を燃やすように、僕はそっと彼女の耳元でそう囁いた。



最後まで読んでくださり有難うございました。

なんとなく、くらーいお話ですが……。

まだまだ拙い点がたくさんあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら遠慮なくお伝えください。感想など何でもお待ちしております。

ありがとうございました。

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