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黒い水

作者: カルタ

 黒い水に足首まで浸かっている。黒い水そのものに、嫌悪感と恐怖を、同時に抱く。これは何だ、どうして足が動かない。


 私の一日は、野菜を洗うところから始まる。レタスやトマトをふんだんに使った生野菜サラダを朝食で食べるためだ。トマトやレタス、季節によってはアスパラガスなどの栄養がありフレッシュな野菜たちは、私の朝を実にさわやかに演出してくれる。

 友人の中には朝食を食べないものもいるが、それはよくない。朝食は午前中の元気の源であるからだ。熱心に勧めてはいるのだが、1度ついた習慣というものは中々抜けないらしく、改めてもらうのは難しそうだ。また、恥ずかしながら1ヶ月ほど前までは私も朝食は取らず、起きたら水を一杯飲んですぐに家を出ていたので、彼らの気持ちも分からないではない。


 今日も野菜をしっかりと取り、余裕を持って学校に向かう。私の現在の住居であるアパートは駅のすぐ近くで、学校はその駅をはさんで反対側にある。距離は大したことないだが、早めに教室に行って自学自習というのも悪くない。

 

 いかに真面目な私でも、講義が終われば友人と談笑くらいはするのだ。いつもは友人と昼食をとりながら取り留めのないことを話して時間を潰しているのだが、この日は多少違った話題から始まった。

 

「最近、なにかあったか?」


 席に着くなり、柳川にこう聞かれた。普段は陽気でお気楽なこの男が心配してくるなど、よっぽどのことだ。しかし、私には全く心当たりがなく、そのまま聞き返してしまった。


「なにか、とは?」

「いや、それはわかんないけど。なんかここ最近テンション低いし、目元に隈できてるし」

「気のせいではないか? 私は普段通りだ」

「そうとも思えないんだけどな。寝不足っぽいし」

「毎日六時間寝ている。これ以上寝るとボケが早くなる」

「とてもそうは見えないけどな」

「お前が普段から寝すぎなだけではないか?」

「そんなことは」

「ないのか」

「あるかもしんないけど」

「そら見たことか」

「俺の話はどうだっていいんだよ。あ、そういえば最近彼女とどう?」

「どうと言われてもな」

「だから、上手くいってるかーとか」

「うむ…別れた」

「はあ?」

「そんなに驚くことか」

「や、長くは持たないかなとは思ってたけどさ」

「それはそれで失礼ではないか?」

「そーじゃなくてさ、今まで黙っていたことに驚いたわけで。いつから?」

「1ヶ月ほど前から」

「はああ!?」

「だから、そんなに驚くことか?」

「だってさ。あーでもそうか」

「ん?」

「や、そのへんから元気ない感じだったから」

「自覚は全くないんだが」

「気にならないようで気になってるんだって」

「そういうものか?」

「そーいうもん。まあ、もともとバランス悪かったしな」

「お似合いだと言っていたではないか」

「そりゃ付き合ってる最中はな。だって、見た目淡白で中身も淡白なお前と、見た目大人しくて実はプライド高いって女、どうやったら釣り合うのさ」

「価値観の食い違いはあったな」

「はは。まあ、あれだ。終わった恋は忘れて、新たな愛を育めばいいさ」

「湿気で頭までやられたか」

「あのな、人がせっかく慰めてやってんのに」

「うむ。まあ感謝しておくか」

「そうそう、素直にそう言っておけばいいの。また新しい子紹介してあげるから」

「ふむ」




サークルなどに所属していない私は、放課後になるとすぐに家に帰る。別段ああいう活動を否定する気はないが、私にとって有意義な時間というのは、たとえば読書であったり、勉学に励んだりという行為であって、遊び呆けることではないのだ。

 自宅に辿り着くのはほとんどの日が夕方であり、大抵の日はそのまま銭湯に向かう。それは1ヶ月ほど前に家の風呂が壊れているせいでもあるが、銭湯自体も気に入っているためでもある。


 私は少々潔癖症の嫌いがあるようで、子どものころは気にしなかったのだが、今は銭湯の湯船に浸かることに抵抗がある。他人の垢やら汗やらが混ざっているかと思うと、入る気になれないのだ。番台さんには呆れられるのだが、こればっかりはどうしようもない。


 銭湯から帰ると夕飯の準備に取り掛かる。肉などはあまり食べず、主に野菜の煮物や魚などを食べるのだが、やはり和食というものは日本人の体によく馴染む。いくら栄養があっても、高カロリーなものを必要以上に食べ続ければ健康に悪く、日ごろの生活にも影響が出てくる。また、材料も新鮮であればあるほどよい。


 夕飯を食べ終え、後片付けが終わってもまだ夜遅く、とは言えない時間だ。そこから勉強をしたり読書をしたりと、有意義に就寝までの時間を使う。といっても、寝る時間自体も大分遅いほうらしいのだが。自身の性格のためか夢見が良かったことはなく、あまり寝ることが好きになれない。ここ最近はとくに同じ夢ばかり見るのだが、どうにかならないものだろうか。




 暗い。臭い。足が濡れている。不快だ。暗闇の中で、しかし水の色だけは分かるという矛盾。ここは夢だ。

 膝まで浸っている水は黒い。しかし、夜の海のような塗りつぶした黒さではなく、汚物が溶け、混ざり、これ以上にないほど濁った結果としての黒なのだ。しかもヘドロのような、顔を背けて嗅がなかったことにしたくなる臭いがする。

 これは夢だと分かっている。しかし、こうも感覚や意識がはっきりしていては、たとえ夢でも非常に耐え難い。吐き気がするような光景や汚臭、いつ訪れるかも分からない目覚め。寝ている間は耐え難い感覚に、起きている間は眠ることへの恐怖に精神を磨り減らす。まさに悪夢だ。逃れることは、かなわないのか。




 あの夢を見るようになってから、朝の訪れがこの上なく嬉しい。腐臭から開放されて、新鮮な野菜がより一層味わい深いものとなる。そして、今日も目の下の隈がほんの少し濃くなるのだ。あの悪夢から逃れられるのなら、何を代償にしても惜しくはない。



「やっぱり疲れてるんじゃないか?」


 今日も友人に指摘された。段々ごまかすのも難しくなってきた。正直に打ち明けてしまおうか。いや、変に心配など掛けたくないし、精神を病んでるかと邪推される恐れがある。


「休息は十分にとっている」

「や、そういう意味ではなくてな。精神的に参ってるんじゃないか、やっぱり」

「やっぱりとはどういう意味だ?」

「ほらさ、彼女と別れたりするからだ。贅沢なやつめ」

「互いにじっくりと考えた結果だ。仕方がない」

「それでも心底納得出来てるとは限らないだろー」

「まあそうかも知れないが」

「あーそうそう。ちょっとお前に紹介したい子がいるんだけど」

「早速だな」

「ま、早いほうがいいだろ、いろいろと。明日、連れてくるから」

「ふむ」


 そんなことで心が休まるはずもなく、家についてから暗澹とした気持ちになった。日課をこなして時間を潰しているうちに、ついに夜半を過ぎてしまった。しかし、寝ないわけにもいかない。




慣れることのない不快感に、私は顔をしかめた。吸い込むだけで、自分が腐っていくかと錯覚する汚臭。足元に滞留する、どろっとした何か。太ももの半ばまで埋まっていた。今日まで気がつかなかったが、足が動かないのではない。この黒い水が重過ぎて、足を動かせないのだ。水位が上昇したことで、その存在感は一層大きなものとなる。


 そして、そのときになってようやく気がついた。この黒い水には、なにかがいる。暗闇のせいではっきりとはしないが、私の正面の水が少し盛り上がっているのだ。



「さて、この子が昨日言った優梨子ちゃん。こちら、顔面凶器の北川くん」

「え、北川さんって顔面凶器なんですか?」

「私も初耳だ」

「その顔で何人の女を泣かせたことか…」

「私の知る限りでは0だな」

「これだからモテ男は。俺がひっそりとお膳立てしたの、全部壊しちゃうんだから」

「お前、そんなことやってたのか」

「だから、いい加減搦め手はあきらめて、正面から行くことにしました」

「それが普通だ」

「ね、意外とゆかいな人でしょ?」

「ホント、ビックリしました」

「そうそう、ちゃんと話せば返してくるんだから。ガンガンいっちゃえ」

「ハイ。ガンガンいっちゃいます」

「おい…」


 香川優梨子さんを紹介してもらってからしばらくは、柳川に間を取り持ってもらった。香川さんはあまり自分から話を振るタイプではないらしく、柳川の話に個性的な相槌を打ち続けていたのだが、二人きりになってしまうと気詰まりな沈黙が訪れる。向こうはこちらを知っているらしいが、私からしてみればほぼ初対面。どんな話題を持ち出せばいいのかさっぱり分からず、思考の空回りをしていたところ、香川さんが小さく口を開いた。


「あの…」

「ん?」

「明日、おヒマですか?」


 丁度今日は金曜日。恐らく柳川もこれを狙ったのだろう。


「暇だ」

「ああよかった。なら明日、隣町のショッピングモールに買い物に出かけません?」

「ふむ、構わないよ」

「ふふ」

「どうかしたか」

「いえ、北川さんって誰に対してもそのしゃべり方なんですね」


 たいして話したわけではないが、香川さんには好感が持てた。以前付き合っていた女性は、大人しく控えめな様子を装っていた。しかし、その本性はわがままで押し付けがましく、そこがしばしばいさかいの元となったのだ。香川さんはその逆で、明るく振舞っているが実は人見知りで、その頑張りが可愛らしく思えた。明日のデートも楽しみだ。

 そのせいで忘れたわけではない。気が緩んでいたのだ。しかし、楽しい気分の日くらい見なくてもいいだろうに。




 昼間が楽しかった分、夜は憂鬱だ。逃れようもない悪夢に、今日も捕まってしまった。いつもと同じような腐臭、暗闇。しかし、今回は少し様子が違う。

 正面の黒い水が、昨日より盛り上がっている。それだけに留まらず、ゆっくりと動いていた。

『それ』は起き上がった。『それ』は人の形をしていた。『それ』は真っ黒で、常にどろどろした黒い水を垂れ流していた。そして『それ』は、ゆっくりと、私の、首に、手を…。




 翌朝目が覚めたとき、汗でびっしょりしていた。心臓も早鐘を打つようで、未だにあれに恐怖していた。何故あんな夢を見るのか。息をつくために水を飲もうとした。透明なコップの中身は、黒い水。驚いてコップを取り落としてしまう。しかし、床に広がった水は透明で、普通の水道水だった。それでも、そこから何かが浮かんでくるという幻想をぬぐえず、自分の恐怖心に急きたてられるように服を着替え、家を飛び出した。


 待ち合わせの場所のショッピングモールに着いたのは、約束の時間より随分前だった。しかし、待った時間はほんのわずか。私は香川さんが来た時間に驚いたが、香川さんは私がすでに待ち合わせ場所にいたことに驚いていた。そして、二人して笑い合った。私は少し気が楽になった。

 

 デートそのものは順調に進み、話も弾んだ。そして、ウィンドウショッピングも一通り終わり、フードコートで休憩をしようという話になった。私が何か買ってこようとすると、香川さんはそれを押し止め、自分が買ってくると言い出した。別段断る理由もなく、私はいすに座ってのんびりと待っていた。


「北川さん」


 声のした方を向くと、香川さんがアイスクリームを二つ持ってこちらに駆け寄ってきた。バランスを取るために腕を突き出す格好。その腕の先には私の首がありその姿は黒くここは悪夢なのか!



 香川さんが呆然とへたり込んでおり、左の頬が腫れていた。周囲は痛いほどの沈黙を守り、好奇の視線を向けている。私は、何をしたのだ?


 状況から見れば私が香川さんを殴ったのだろう。ああ、またやってしまったのか。周囲が喧騒を取り戻していく中、私は場違いなことを思い出していた。今まで私が無意識の底に封じ込めていたもの。そう、以前にも私は女性を殴ったことがある。1ヶ月前まで交際していた女性、津山遼子。


 香川さんには丁寧に謝った。納得したわけではないだろうが、恐怖心のほうが勝ったらしく、逃げるように帰って行った。しかし、彼女のことを気に掛けている余裕はない。




 家に帰りついた私は、迷わずガムテープをはがし、風呂の引き戸を開けた。とたんあの生ごみの臭いを何倍にも圧縮したような腐臭が漂い、悪夢で見た通りの光景が広がっていた。ドロドロになった黒い水も浴槽にたまっていた。悪夢の原因はこれだったのだ。


 浴槽の栓を抜き、黒い水を無理やりに流す。流れないほどの塊はビニール袋に捨てる。悪夢のとき以上の臭いや存在感があったが、これであの恐怖から開放されるなら安いものだ。


 以前付き合っていた女性を殴ったのは、彼女を落ち着かせるためだ。ヒステリーに陥った女性の対処法を私は知らず、かといって私の部屋でこれ以上騒がしくされると、近隣の住人に迷惑がかかる。しかし、この試みは失敗、いや成功しすぎた。殴ったときにか、あるいは壁に激突したときにか分からないが、床に倒れて沈黙した彼女は、すでに事切れていた。


 工務店でハンマーを買ってきた。硬い部分はこれで砕いて細かくしよう。小分けにして三重に包んでごみとして出そう。多少臭っても、生ごみを溜め込んだと思うだけだろう。ああ、気分が高揚してきた。


 明らかに事故だが、彼女は私の部屋で死んでしまった。部屋に死体がある以上、誰かに見つかったら言い逃れは出来ない。死体を持ち出すところを見られたら、もっと面倒だ。それなら家の中において置こう。台所、クローゼット…どこも駄目だ。臭いが漏れる。そうだ、風呂場ならどうだろうか。多少の密閉性もあり、近くに銭湯もある。そう考えた私は、死体を浴槽に入れ、少しでもにおいを軽減するために水をため、風呂場の引き戸隙間と換気扇をガムテープで覆ったのだ。


 死体を入れたゴミ袋を捨ててきた。幸い明日は燃えるゴミの回収日。これで心配事はなにもなくなった。万が一ということもあるから、まだ油断は出来ない。しかし、こんな晴れやかな気分は久しぶりだ。


 私にとって些細なことなので、一晩寝たら忘れてしまった。しかし、自分の風呂場が占領されていることが精神衛生上良くなかったらしく、ああして悪夢を見る羽目になってしまったのだ。


 風呂をしっかりと磨き、丹念に換気をし、風呂場を元通りにした。その後、自分の部屋の風呂で体をきれいにした私は、何の憂いもなくぐっすりと眠った。




 翌日、実にさわやかな気分の私を迎えたのは、実に珍妙な顔をした柳川だった。


「北川」

「どうした、朝から不景気な顔をして」

「そういうお前は好景気だな」

「まあな」

「なんで。昨日散々なことしておいて」

「それには理由があったんだ」

「理由って…。優梨子ちゃん完全にパニックだったぞ」

「彼女には悪いことをした。後で改めて謝らなければ」

「はあ。そうしとけ」

「うむ」

「まあそれはともかく。今日ご機嫌なのは、まさか優梨子ちゃん殴ったからか」

「理由そのものではないが、要因のひとつではある」

「は?」

「近頃夢見が悪くてな。その原因を、彼女のおかげで思い出せたのだ」

「…まあいいや。ともかく、きちんと謝っておくんだぞ」

「うむ」

「ところで北川」

「ん?」

「昨日、ちゃんと風呂入ったか?」

「ああ」

「そうか」

「なんだ?」

「いや、気を悪くしないでくれ。なんかさ、臭うんだよ」

「臭う?」

「うん。お前から」

「風呂にも入ったし、服も清潔なものだ」

「ううん、そうなんだろうけどさ」

「そんなにか」


 気になって左手を鼻に近づける。そして、手が黒いことに気がついた。腐っている。


「どうした?」


 柳川が何か聞いていたが、それに耳を貸す余裕はない。家に急いだ。

 

 風呂場で手を洗う、洗う。しかし色は落ちない。代わりににガリガリと皮膚が削れる。落ちない、落ちない、汚れが落ちない。ああ、腕が腐っているのか。切り落とすか。


 風呂場を出ようとした私は、何かに足を滑らせ、そのまま浴槽に落ちた。なににか。自分の足にだ。足もすでに腐っていたのだ。ああ動けない。手が溶け出した。浴槽の水が、黒く染まる。




数日後、北川卓也の死体が自宅のアパートの浴槽で発見された。室内は神経質なほどに清潔に保たれていたが、近隣の住人から死臭がすると報告があり、アパートの管理責任者が確認した。死因は溺死。

 しかし、発見された死体は左腕の損傷が激しく、浴槽の水は彼自身の腐敗した血液により、黒く染まっていたという。

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