第三十八話 うまくやっていた、という幻想
38話です。
朝、畑に立った瞬間、違いが分かった。
音が、少ない。
声も、少ない。
だが、
手が止まっていない。
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「……今日は、静かだな」
誰かが言う。
「集中してるんだろ」
別の声。
だが、それは違う。
様子を見ているのだ。
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鍬を振る。
一振り。
二振り。
いつもなら、
そこで身体が覚えて次に行く。
今日は、
一拍、間が入る。
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「……数」
小さな声。
誰が言ったか、分からない。
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午前。
畑の中央で、
ベテランの男が作業している。
動きは滑らか。
無駄がない。
――ように見える。
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子どもが、そっと近づく。
「……それ、
昨日より多くない?」
男の手が、止まる。
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「何がだ」
「水」
男は、足元を見る。
確かに、
少し溜まりすぎている。
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「……今日は、
暑いからな」
言い訳は、自然だった。
子どもは、首を傾げる。
「でも……」
言葉を探す。
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「いい」
男は、遮った。
「分かってる」
だが、
分かっていなかった。
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先生は、遠くから見ていた。
何も言わない。
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昼前。
別の場所。
若い女が、
縄を結び直している。
「……その結び、
二回やってる」
子どもの声。
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「念のため」
女は、笑う。
「でも、
一回で足りるって、
先生言ってた」
空気が、固まる。
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「……前から、
こうやってた」
女の声が、低くなる。
「問題、
起きてない」
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「でも……」
子どもは、続ける。
「昨日、
時間、余った」
その一言が、
刺さる。
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午後。
集まりができる。
自然発生だが、
避けられない。
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「……正直に言うとさ」
ベテランの男が、口を開く。
「今まで、
うまくやってたと思う」
誰も否定しない。
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「失敗、
してなかった」
「飯も、
食えてた」
頷きが、広がる。
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先生は、
そこで初めて口を開いた。
「失敗していないのと、
最適であることは、
違います」
空気が、冷える。
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「……否定するのか?」
男の声は、荒くない。
だが、
揺れている。
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「否定しません」
先生は答える。
「限界を示します」
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板が出される。
久しぶりだ。
今まで
→ 回っていた
今
→ 余裕がない
これから
→ 人が減る
沈黙。
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「回っていたのは、
余裕を削っていたからです」
誰も反論できない。
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「……じゃあ」
誰かが言う。
「俺たちは、
間違ってた?」
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先生は、首を振る。
「間違ってはいません」
安堵が、広がる。
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「でも」
続ける。
「次に進めません」
その言葉で、
安堵が消える。
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夕方。
畑は、
いつもより早く終わった。
誰も、喜ばない。
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ベテランの男が、
一人で座っている。
「……俺さ」
誰にともなく言う。
「自分の勘、
信じてた」
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セラが、隣に座る。
「……悪いことじゃない」
「でも」
男は、手を見る。
「数字に、
負けた気がする」
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セラは、否定しない。
「……負けたんじゃない」
「え?」
「更新されたんだよ」
男は、黙る。
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夜。
集まりは、短い。
誰も、声を張らない。
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先生は、最後に言う。
「誇りは、
守るものではありません」
全員が、顔を上げる。
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「更新するものです」
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翌朝。
畑は、
静かに回っている。
動きは、
昨日より少ない。
だが、
確実だ。
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子どもが、言う。
「……今日、
無駄、少ないね」
誰も返さない。
だが、
誰も否定しない。
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板の下に、
一行が残る。
経験
→ 誇り
→ 幻想になると
→ 次に行けない
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農村は、
一つ捨てた。
「うまくやっていた」という
安心を。
代わりに、
先に進める不安を手に入れた。
誤字脱字はお許しください。




