第一話 目が覚めたら、畑だった
第一話です。
目を開けた瞬間、空が近すぎた。
雲が低い。
手を伸ばせば触れそうなほどで、実際にはもちろん届かない。
それでも、天井がないという事実だけで、胸の奥がざわついた。
背中に、土の冷たさ。
湿っていて、少しだけ柔らかい。
藁の匂いと、獣の匂いと、人の汗が混じっている。
――畑だ。
起き上がろうとして、身体が重いことに気づいた。
痛みはない。ただ、使い慣れていない筋肉が、静かに抗議している。
「……」
声を出すと、喉が乾いていた。
記憶は、ある。
黒板。
チョーク。
数式を書き、文章を区切り、理由を説明していた。
誰かに教えていた感覚も、確かに残っている。
だが――
なぜ、ここにいるのかだけが分からない。
「起きた?」
上から声が降ってきた。
逆光で、顔はよく見えない。
ただ、影の輪郭から、女だと分かる。
「……ここは?」
問いに、女は一瞬だけ間を置いた。
その“間”に、警戒が含まれている。
「うちの村。
見ての通り、農村」
そう言って、彼女は腰に手を当てた。
日に焼けた腕。
作業着は簡素で、胸元が大きく開いている。
汗をかいた肌が、朝の光を反射していた。
「畑で倒れてた。
昨日の夜じゃない。今朝、見回りの途中で」
倒れていた。
眠っていた、ではないらしい。
「名前は?」
言葉が、出てこなかった。
思い出せないわけではない。
ただ、名乗る必要を感じなかった。
「……必要なら」
女は眉を上げ、それから笑った。
「じゃあ、先生って呼ぶね」
「……なぜ」
「理由?」
彼女は畑を見渡した。
曲がった畝。
間隔のばらついた苗。
途中で詰まった水路。
「その目。
畑を“見る目”じゃない。
説明する人の目」
胸の奥で、何かが静かに定まった。
――役割だけが、残っている。
「私はセラ。
この村のまとめ役みたいなもの」
“みたいなもの”という言い方は、正確だった。
責任はあるが、権限は曖昧。
中世の農村によくある立場だ。
「先生」
セラは一歩近づいた。距離が近い。
生活の距離だ。警戒と親しさが、同時にある。
「ここで、何してたの?」
「……考えていました」
「畑で?」
「ええ」
セラは吹き出した。
「変な人」
そう言いながらも、笑いには棘がない。
この村では、変であることは即ち役立つ可能性でもある。
「正直に言うね」
セラは声を落とした。
「今年も、きつい。
祈っても、鍬振っても、収穫は増えない」
彼女は言わなかったが、分かる。
食べられない年が続けば、身体を売る。
それもまた、農村の現実だ。
視線を落とすと、畑の癖が見えた。
作付け密度が一定でない。
土の踏み固め方が雑。
水の流れが途中で死んでいる。
「この畑、何人で耕しました?」
「五人」
「鍬の幅は?」
「ばらばら」
「だから、収量が安定しない」
セラは目を細めた。
「祈りじゃない?」
「面積と密度です」
地面に指で線を引く。
「ここから、ここまでを一単位に。
誰がやっても同じ長さで測る。
それだけで、畑は嘘をつかなくなります」
「……数の話か」
「生活の話です」
セラは黙った。
理解しきれてはいないが、拒絶もしていない。
「先生」
彼女は少しだけ声を低くした。
「ここに居場所はないと思うよ。
この村、よそ者には厳しい」
「承知しています」
「それでも?」
「それでも、畑は同じです」
セラは先生を見た。
長く、じっと。
「……泊まる場所はある」
「ありがとうございます」
「ただし条件がある」
「なんでしょう」
「教えるなら、全部見せて。
うまくいくところも、いかないところも」
それは、契約だった。
遠くで、村の子どもたちがこちらを見ている。
好奇心と警戒が半分ずつの目だ。
その中に、
妙に静かに立っている少年がいた。
年の割に背が高く、視線が落ち着いている。
漁に使う縄を肩にかけているところを見ると、
港のある村から来たのだろう。
――波を見る目だ。
先生は、その視線に一瞬だけ引っかかった。
「じゃあ、先生」
セラが言う。
「畑で起きたなら、畑から始めよう」
こうして、
農村編の最初の授業が始まった。
チョークはまだない。
黒板もない。
あるのは、
土と、人と、
そして――
変えられるかもしれない現実だけだった。
誤字脱字はお許しください。




