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とある司祭(パードレ)の憂鬱(メランコリア) ~聖なる侵略者~  作者: John B.Rabitan
Capitolo 11 La decisione di un Padre(とある司祭の決断)
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Episodio 9 Incontro con Shogun e morte di Dom Francesco(征夷大将軍との会見とドン・フランシスコの訃報)

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 平戸から博多までは、フスタ船ならば半日もあれば着く距離だった。

 いくつもの岬を回りなだらかな湾の奥にある博多の港へ、船は滑り込んで行った。

 このあたりも島が多い。島というよりも海の中に円錐形の山があると最初に見たときは思ったくらいだった。

 博多の港はそんな二つの島に守られたような形で、その奥にあった。

 港自体は水深はそんなに深い港ではないようだが、フスタ船は軍船の中では小さい方なので、浅い海でも航行できるというのが特徴だった。

 二つの島は港に向かって右手のが能古島ノコノシマ、左手のが志賀島シカノシマというそうだ。

 陸地の上には遠くに丘陵地帯が横たわっているのが見えるものの、それほど高い山は見えなかった。平らな土地がかなり広いらしい。


 そういえば小耳にはさんだところによると、その昔、今から三百年ほど前に世界を席巻しエウローパをも脅かしたモンゴリアがこの日本にも襲来し、その時に上陸したのもこの博多の港だったらしい。

 私がまだローマにいた時に初めて日本のことを知ったのはエウローパで今も大流行の『Il(イル) Milione(ミリオーネ)』という本によってだったが、著者のマルコ・ポーロがチーナに滞在していた時はちょうどそのモンゴリアの時代で、モンゴリアの日本侵攻もその本で読んだのを思い出した。


 一度は港に接岸して、フロイス師が日本人修道士数名とともに状況を聞きに下船した。戻ってきたフロイス師によると、関白殿下が博多に到着するまではまだ一週間くらいありそうだということだった。

 町は荒廃しているとはいえ完全に廃墟になっているわけではなく、商人たちの屋敷もいくつかは点在しているという。また、寺や神社は残っているものもあるとのことだった。

 関白殿下の軍勢のうち、この地に残って陣を張っている武将もいるようだ。だから、情報はすぐに入ったのだ。


「このまま、船で過ごしましょう」


 フロイス師の提案を、コエリョ師は受け入れた。上陸しても泊まるところがないのである。

 そこでフロイス師は、港に停泊していっるよりも、市街地からちょっと西に行ったところにある姪浜メイノハマというところはとても景色がいいので、そこに船を回そうと言い、そうすることになった。

 今の日本にいる司祭の中で、日本のあちこちを熟知している人といえば、フロイス師をおいてないだろう。


 そのまますぐに夜を迎えた。月があったら、月に照らされたこの浜はまたすごくきれいなのだということだったが、残念ながらちょうど月のない頃だった。


「上陸した時に、意外な大人物が今博多にいることを知りましたよ」


 船の中での夕食の時、フロイス師はコエリョ師に語っていた。


「私にとっては懐かしくもある人ですけどね」


「誰ですか、それjは」


 コエリョ師も興味を持ったようだ。


「かつて公方クボー様と呼ばれた、日本の武士サムライの頂点にいた方です。私は都で何度かお会いしたことがある。その後、織田殿に追放されて、毛利殿の領国に隠れて住んでいたはずですが」


 私はこの二人と食事をともにするなど、本当はとても嫌だったのだが、仕方がない。話を聞いているうちに、公方様というのは足利義昭殿という人のことではないかと分かった。

 公方様とは「異民族を征伐する大いなる将軍ジェネラーレ」という意味で「征夷大セイイタイ将軍(ショーグン)」と呼ばれている。

 かつて織田殿の長男の城介勘九郎殿がこの地位に就くことになっていたその矢先に、あの本能寺屋敷の事件で織田殿とともに勘九郎殿も命を落とされた。この足利殿は、私にとっても興味深い人物だ。


「そのような方がおられるのならば、あいさつに行かねばならないだろうね」


 コエリョ師もそのつもりのようなので、私はもういちいち同行の許可を得るのも腹立たしく勝手についていくことにした。

 どうせコエリョ師は「好きにしなさい」としか言わないに決まっているからだ。

 翌日、船から降りるときに私の同行についてコエリョ師は少しだけ顔を曇らせ、一言二言皮肉めいたことを言ったがそのまま黙認という形だった。


 毛利殿の領地にいたはずの足利殿がなぜ今博多にいるのか……私はなんとなく予想はついていた。

 足利殿は姪浜からも近いある寺に入っているという。

 コエリョ師とフロイス師、そして私の三人は進物を運ぶ修道士らとともに、船の中で挙げたミサが終わるとその公方様がいる寺へと歩いて向かった。

 すでに日本人修道士を向かわせており、アップンタメント((アポイントメント))はとってあった。公方様からは歓迎の意を伝えてきた。

 修道士を先に行かせて進物を届けさせ、それが公方様の目に入ったであろう頃を見計らって、寺の門をくぐった。

 玄関で、公方様は自ら立って出迎えてくれていた。

 細身で、それなりに年はとっているけれど、関白殿下よりは若そうだった。


「いやあいやあこのような所でお会いするとは」


 公方様は愛想がよかった。三人の中でも公方様はまず、フロイス師に話しかけた。


「前にお会いしましたね」


「はい。よく覚えております。私が都で初めて織田様にお会いした時でした」


「いやあ、懐かしい。さあ、どうぞどうぞ」


 我われは寺の中に通された。ホトケのある本堂ではなく、僧が生活する建物のようで、普通の武士サムライの屋敷となんら変わらなかった。


「先ほど拝見しましたが、結構な品々、実に珍しい南蛮の品々を頂戴し、真にかたじけない」


 上座に座ってはいたが、公方様は我われに頭を下げた。

 フロイス師がコエリョ師を公方様に紹介し、日本の司祭団の長であることなどを長々と話していた。そして私に関しては名前だけだった。


「フロイス殿でしたね。あの時、いろいろとキリシタンの教えについてお聞きしましたけれど、いや実に道理を得ている教えだなと思っておりました」


 フロイス師は恐縮の頭を下げ、その内容をコエリョ師に告げた。


「皆さん方はあのあと都に南蛮寺を造られた由、風説に聞きました。その時私はすでに信長めに追放されて、安芸で隠遁生活です。でも、今でもなお私は征夷大将軍なのです。職を辞してはいません」


 この事実は意外だった。将軍は武士サムライの最高位である。関白殿下の「関白」は、実際は貴族アリストクラッツィアの最高位なのであるが、どうも今の関白殿下からその意味合いが変わったようだ。

 しかし、この公方様が今でも将軍の地位にあるのならば、織田殿の長男の勘九郎殿をその将軍にという話がなかなか難航していたのもそういうわけだったのかと思う。

 勘九郎殿を将軍にするにはまず今この目の前にいる公方様に将軍を辞職させるか、あるいは帝から公方様の将軍職無効を宣言しなければならなかったはずだ。だがその前に、例の本能寺屋敷の事件が起きてしまった。


「信長もあんなことになっていい気味だとも思いましたが、少し気の毒でもありますな。でも信長を討ったのがかつては我が家臣だった明智殿と聞いて、よくやってくれたと思ったものです」


 公方様はそんなことを、笑いながらいった。


「それで安芸で安穏に暮らしておりましたのに、秀吉が九州に出陣するということで私の住む鞆の浦の町のそばを通り、それで私に会いに来て無理やりここまで連れて来られたという次第です」


 だから彼はここにいるのかと、ようやく分かった。


「恐らくは、秀吉が大坂を留守にする間に私が再び天下を狙って兵を挙げるとでも思ったのでしょうかね。それを封じるために私を連れて来たのかと。いや、やつなら考えかねないです」


 たしかにそうだと思う。


「実際、あの本願寺の光佐上人も連れてきている。留守中にまた一向宗が反旗を翻さないかと恐れているのでしょう」


 そうだ。関白殿下は八代での会見の時、そのようなことを言いだして途中でやめた。やはり本願寺の上長をつれてきているのだ。

 たしかにあの尾張での戦争の時に、留守をついて根来衆が大坂の町を攻撃した。関白殿下はその再現を恐れているのだろう。

 そんな感じでいろいろ思うところがあったが、私は黙っていた。


「その本願寺のお上人も博多にいますが、会いますか?」


 公方様が聞く。その言葉をフロイス師から聞いたコエリョ師は、苦笑して首を横に振った。


「会っても仕方がないし、会う意味もない。結構です」


 コエリョ師は即断だった。公方様も笑っていた。


「まあ、そうでしょう。本願寺とて今さら反旗を翻そうなどとは思わないでしょうけれど、私はここに連れて来られて、秀吉の真意がそうではないかと憶測した時にその手があったかと思いましたよ」


 本気なのか冗談なの分からないが、公方様は高らかに笑っていた。


「今頃気づいても、もう遅いですね。それに、今の私には手持ちの兵などありませんけどね」


 またひとしきり笑ってから、公方様は真顔になった。


「でもいつの日かまた、私が将軍として天下に君臨する日も来るかもしれない。その時は全国に触れを出して、すべての民をキリシタンに改宗させ、他の教えはすべて禁じますよ」


「ありがとうございます。そうなったらうれしいですね」


 フロイス師はそう言って頭を下げたが、フロイス師とてまともには受け取っていないだろう。だが、この国の様相は日々一刻と変わるから、予断は許さないと私は思っていたが言わなかった。

 そのうち酒と食べ物も運ばれて、公方様自ら酒を継いでくれて、話は盛り上がった。

 だいぶ話してからそろそろ辞そうという時に、公方様はキリシタンの教えについてもっと聴きたいと言いだした。これも福音宣教の一環だということで、同行していた日本人のレアンけいという、元は仏教の僧だったという修道士を残していくことにした。



                  2


 それからの毎日も、関白殿下が到着するまで暇かというとそんなこともなく、毎日我われに会いにいろいろな人がフスタ船を訪ねてきた。

 中には船を見に来るのが目的の者もいたが、キリストの教えを聞きたいという者もいた。博多に教会があった頃の信徒クリスティアーニの人たちもまた、喜びのうちに訪ねてきた。


 中でも関白殿下の配下の武将の天徳寺宝衍(ホーエン)という人は印象深かった。

 若い頃に関東の最高教育機関でありあのベルシオール道三先生もかつて学んだと言っていた足利学校というところを首席で卒業したらしく、知識欲旺盛で、キリストの教えをただ聞きに来たというだけでなく細かく疑問点を自ら納得のいくまで質問した。

 今は下野シモツケという故郷の土地を追い出されて、その土地の名門領主である佐野家を相続できなかったので関白殿下に仕えているが、いつの日か関白殿下の力で下野の佐野の殿になれた暁には、領内にキリスト教を広めると言ってくれた。

 公方様よりもこちらの話の方が、幾分真実味が感じられた。


 そうして本当に一週間くらいして、次の週の木曜日には関白殿下の大軍が博多に到着した。前日に大宰府というところに宿営していた時に知らせはもう入ったので、早速翌日面会を申請するために修道士を博多の町まで行かせた。

 返事はしばらく戦後処理の九州における殿の新しい配置などを協議するので、二、三日待ってほしいとのことだった。準備ができ次第、連絡をくれるとのことであった。


 またしばらく待たされることになるが、では我われは暇になったかというとそのようなことはなかった。

 今まではキリストの教えを知りたいという人たちや船が見たいという人たちが押し寄せてきていたが、それに加えて関白殿下の軍に参加していた武将や兵たちの中のかなりの数の信徒クリスティアーニがどんどん訪ねてきたのである。

 私は関白殿下の出陣の時に天満橋を渡る彼らの様子を大坂の教会の窓から見ていたが、軍勢の中に多くの十字架の旗や武具が見えた。だから、関白殿下の軍には相当数の信徒がいることは分かっている。

 彼らは罪の告解のためや、戦争という非日常の異常な状況の中で感じた精神の不均衡を訴えて、光を求めてきたようだ。


 そんなある日、長崎の教会から修道士が二人、かなり速く馬を駆けさせて我われの船が停泊しいている姪浜までやってきた。

 かなり疲れて息も切らしていたのでとりあえず水をのませ、二人を船室に招き入れた。


「どうしました?」


 コエリョ師が直接対応した。彼らのうち一人は、手紙をコエリョ師にさしだした。


「とりあえず、こちらをお読みください」


 私がちらりとのぞくと、ポルトガル語の手紙だったから、どこかの教会の司祭からだろう。

 読んでいたコエリョ師は、途中で何度も大きく息を吸っていた。そして、読み終わったらフロイス師に渡した。


「豊後のラグーナ神父(パードレ・ラグーナ)からだ」


 私と同期のその司祭はあの豊後の騒乱の時も下関や山口に行かず、臼杵でたった一人ドン・フランシスコ大友宗麟殿に付き添っていたはずだ。

 そのラグーナ師からの手紙、それが早馬で届けられ、コエリョ師の悲痛な顔……言われなくてもあまりいい知らせではないことは分かる。読み終えたフロイス師も目を閉じて祈りを捧げているようだった。

 なんだかついでという感じで、手紙は私にも回ってきた。

 やはり予感は的中で、そこにはドン・フランシスコの帰天のことが書かれていた。

 病気のためだという。


 その亡くなった日付を見て、私は唖然とした。6月28日……つまり先週の日曜日だ。平戸にいて参列した主日のミサで、朗読されたパウロの手紙が私の印象に残っていた。


「もしキリスト、汝らにいまさば、体は罪によりて死にたるものなれど霊は義によりて生命いのちらん」


 そういうことだったのかと思う。この日にドン・フランシスコは亡くなっていた。だからこそこのパウロの書簡のこの部分が耳に残ったのだ。ラグーナ師の手紙にも、やはりこの朗読箇所のことは書かれていた。


「日本のキリスト教界にとって、大村のドン・バルトロメウ、豊後のドン・フランシスコが相次いで天に召されたということは、大きな損失だ」


 フロイス師は、ぼそっと言った。コエリョ師もつぶやいていた。なにしろ知らせはまず馬で長崎にもたらされ、そこからまた長崎の修道士が準管区長に知らせるためにまず平戸に行ったという。だが、コエリョ師はとっくに平戸を後にした後だったので、そのままこの博多まで馬を走らせてきたということだ。

 だから、知らせが届くまでに十日もかかったのだ。

 ドン・バルトロメウはその子息サンチェスはまだ若い。ドン・フランシスコの場合は長男のドン・コンスタンティーノは本当にぎりぎりでの入信だった。

 もし、彼がまだ洗礼を受けていないうちにドン・フランシスコが帰天したら、豊後での布教も厳しいものとなっただろう。すべてが『天主ディオ』の水も漏らさぬお仕組みなのだと私は感じていた。

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