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とある司祭(パードレ)の憂鬱(メランコリア) ~聖なる侵略者~  作者: John B.Rabitan
Capitolo 9 Il Kanpaku o consigliere capo dell'Imperatore(関白)
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Episodio 4 Buddismo e Shintoismo(仏教と神道)

                  1


 もう秋の気配濃厚とはいっても、都の周囲の山々が紅葉に染まるにはまだかなり間がありそうだった。

 私が教会に入ると、日本人の同宿の少年たちがすぐに水の入ったたらいを持ってきてくれて、足を洗ってくれるのである。

 もうすっかり慣れた日本の風習だが、それでもまだ奇妙な思いを感じる。

 自分たちの文化と違うというだけなら、こういうものなのだと割り切ってしまえばいい。日本はエウローパとは違って履物を脱いで裸足で屋内へ入るので、足を洗うのだということは分かる。

 エウローパでは履物はいたままだから、いちいち足は洗わない。

 ただ、奇妙なのは、「福音書エヴァンジェリウム」などを見ると、イエズス様の頃のユダヤではどうも日本と同じ習慣があったようなのだ。

 我われが復活祭バスクアの前の聖週間に特殊な儀式として洗足式を行うが、それは最後の晩餐でイエズス様が弟子の足をお洗いになったというところにあるのであって、足を洗うというその行為自体はなんら特殊なことではなく、むしろあの時代のあの地域では普通の習慣だったようである。

 それが、日本でも同じというのが不思議だ。


 実はほかにもいろいろ感じたことがあるのだが、ここでは割愛する。

 だが、我われの国々ではすでに失われた古代ユダヤの風習が、この地球の裏側の日本では行われていることが不思議で。そこに天の摂理さえ感じたりする。


 教会では出迎えに出てくれたカリオン師に、私はオルガンティーノ師のいいつけで仏教や神道の諸宗派を学ぶために派遣された旨を伝えた。


「大坂のオルガンティーノ神父パードレ・オルガンティーノからは、すでにこちらにも手紙が届いていますよ」


 マカオ以来の旧知のカリオン師は、そう言って笑っていた。

 私は旅装を解くや、ヴィセンテ兄とともに早速に歩いて三十分ほどのベルシオール道三先生の屋敷へと向かった。

 我われは初めてここを訪れた時のあのけんもほろろの扱いとは打って変わって、取次に出たベルシオール先生の弟子たちは我われの姿を見って瞬間に親愛の笑顔を見せた。


「これはこれはバテレン様、さ、どうぞどうぞ」


 弟子は奥に取り次ぎの伺いに行くこともなく、我われはすぐに中へ通された。

 小部屋に通され、ほとんど待つこともなくすぐにベルシオール先生は弟子たちに体を支えられて姿を見せた。


「おやおやおや、これは高槻に行かれたバテレン様とイルマン様ですな。お懐かしい」


 ご高齢の方にしては、はっきりとわれわれのことを覚えておいてくれた。


「お久うございます。もう十カ月にもなりますか」


 私はベルシオール先生の耳の遠さを気遣って、神学校セミナリヨの何十人も学生がいる教室で彼ら全員に語りかける時と同じくらいの音量で話した。ベルシオール先生は自分の耳後ろに手をあてて音声を拾い、いちいちうなずいていた。


「いつ、都へ?」


「さっき着いたばかりです」


「それですぐに私の所に来はったいうことは、どこか体のお具合でもお悪うて?」


「いえいえ、すこぶる元気です」


「元気な人が医者のもとに?」


 ベルシオール先生は声を挙げて笑った。


「では、何かまたありがたいお話が聞けるのですな」


「いえ。今日は逆に、我われが先生に教えを請いに参りました」


「なんと」


 私は手短に、オルガンティーノ師からこの国の宗教の諸宗派を学ぶように命じられてきた旨を告げた。

 もっとも、仏教の教えを知りたいのなら仏教の寺に行くのが最善の方法だが、我われがこの顔とこの格好で寺に行ったら、僧侶たちは我われが論争を挑みに来たと構え、ひどい時には門前払いの可能性も大きい。

 だから、ベルシオール先生に学べということなのだ。


「その目的は何どす? 他の寺の僧などが論争を挑んできた時に論破するためですか? 唐土もろこしの『孫子』という兵法書には『彼を知り己を知れば百戦殆あやうからず』とありますしな」


「モロコシ」とはチーナのことだろう。


「まあ、彼を知らずして己を知れば一勝一負ってところどすな。知っておいたに越したことはない」


 私は実際に目撃したことはないが、確かにこれまでも仏教の僧侶が多く教会に来て論争を挑んできたことがあったという。

 そしてそれをいちばん多く論破して引き下がらせるか、逆に感化させてキリストの教えに改宗させてきたという経歴を持つのは、あの大坂にいるロレンソ兄だとも聞いている。

 だが、ロレンソ兄は日本人だ。日本人の修道士は若い人は別として、年のいった人ならかつては仏教徒であり、改宗してキリストの教えに入った人たちだ。だから、仏教の教えも熟知している。

 我われエウローパからの宣教師である司祭も、彼らと同等の知識を身につける必要がある。これが、かねがねオルガンティーノ師が主張していたことだ。

 そして、元仏僧でもあった経歴を持つベルシオール先生は、教えを受けるのに最適な人であるというのも、オルガンティーノ師の考えだった。なにしろ博識であり、さらには権威もある。


 さすがにそのようなベルシオール先生だけに、オルガンティーノ師の意図は伝えずともすでに悟っていた。

 ただ、私には、ほんの少しだけ違う考えもあった。

 論破というと、相手の主張の誤りを突き、非を指摘して自らの主張の正しさを突きつけて相手を納得させる、つまり、相手に自分の非を悟らせるというところにある。

 だが私は自らの体験として、ヴァリニャーノ師もともにいたあの豊後から薩摩を経て長崎への船旅の途中で、薩摩のある老婆を改宗させたときのことを思い出す。

 その老婆は一向宗の門徒だったが、私は幸い豊後から都へ行く時の船の船頭が一向宗門徒で、その船旅の途中に瀬戸内海上において一向宗の教えのあらましを聞いていた。だからその知識を利用して、一向宗の教えとキリストの教えは何ら矛盾しないということの方を強調して、結果改宗へと導いたのである。

 このやり方はその時同行していたフロイス師からは、邪道だと徹底的に批判された。彼は私のやり方を妥協だと言った。適応主義と妥協とは違うとも言っていた。だが私はあれを妥協とは思わない。

 では何いなのか……分からない。

 ただ、改宗させる相手の信じるものを知ることで、何か不思議な力が働くような気がした。スパーニャがインカで行った強制改宗とは似ても似つかないもの……そこまで考えてふと大村のことが思い出されたが、あえてそれは封印した。いや、したかった。


 私が仏教の諸宗派や神道のことを知りたいのも、論破するためというのとはちょっと違うのである。

 だが、今それを言うと話がややこしくなるので、言わなかった。

 しかし、フロイス師が考えるように、そしてカブラル師もそうだったであろうしコエリョ師もそのような節があるが、仏教の仏や神道の神はすべて悪魔であるという考え方はどうも腑に落ちないのである。


 天地の創造主、全能の父なる唯一の『天主ディオ』以外を崇拝することは、確かに悪魔崇拝ということになろう。そう教えられてきた。だが……。

 それ以上は、私の立場で言えることではない。

 とにかく、今はベルシオール先生に学ぶことが先決だ。そのベルシオール先生も、神や仏を悪魔と称することは控えるよう言っていた。それは福音宣教に妨げになるということだった。


「まず仏教は大きく分けて三つの流れがあります」


 私がそんなことを考えていると、いきなりその場ですぐに講義が始まった。


「一つは一向宗のような阿弥陀を信奉して極楽往生を目的とするする流れ。もうひとつは私がかつて所属していた寺の禅の流れ。そして日蓮の教えを汲む法華宗ですな。それらは皆三百年ほどの歴史しかありません」


 意外と新しい。十三世紀初頭というところか。


「もっと古いところでは高野山の真言宗の教え、そして比叡山の天台の教え、これらは密教で、この都が作られたころに唐土より伝えられしもの」


 つまり八世紀か九世紀、それでも新しい。


「そもそも、日本に仏教が伝えられたのは?」


「千年ほど前ですかね」


 六世紀ごろとなる。

 もうローマ帝国も滅んで、ゲルマン人の国家が栄えている頃だ。そもそも仏教の開祖であるゴータマ・ブッダという人はキリストご降誕よりも五百年か千年かも前の人と聞く。

 そうなると、今のゴアのあるインディアの地に始まった仏教が日本に伝わるまでにかなりの長い時間を要したことになる。それならば、それまでは日本は神道だけだったはずだ。


「仏教が来た時に、日本の神道は抵抗しなかったのですか?」


「もちろん、大騒動だったようどす。それに関しては、あとで日本の歴史書を提供しますさけ、それを読まはったらよろしいでしょう」


 それからまずは、ベルシオール先生が属していた禅の宗派の話から始まった。

 話は決して専門的にならないように噛み砕いて、分かりやすく話してくれた。時には、我われがこの国の人々に福音を告げ知らせる時の話よりも分かりやすいのではないかと思うくらいだ。

 ただ、ずっとベルシオール先生が話してくれるという形ではなく、時に弟子に何冊かの書物を持って来させ、それを閲覧するようにと言って席をはずすこともあった。

 それらは入門書のようなたぐいの本だが、量が半端なかった。

 それから数日、私は毎朝のミサの後で朝食をとるとすぐにベルシオール先生の屋敷を訪ね、途中聖務日課のお昼の六時課、午後三時の九時課はヴィセンテけいと二人でベルシオール先生の屋敷で行い、そのほかの時間は勉学に当てた。そして日没の晩課ヴェスピリまでには教会に戻るという毎日だった。


 ただ、ベルシオール先生の話をずっと聞いているわけではなく、提供された書を披見する時間の方が圧倒的に多かった。ベルシオール先生も医者としての仕事がある以上、一日中私たちにつき合っている暇はないはずだ。

 書物を見るときは、ヴィセンテ兄がいてくれて大変助かった。私は一応日本語の読み書きはできるが、書物を読むとなるとまた大変で、特に日本の本はチーナ語で書かれているものも多い。

 書かれている文章はチーナ語なのだが、日本人はそれをチーナ語の発音ではなく日本語で読んで意味を理解してしまうからすごい。

 それらは決してチーナから来た本ばかりではなく、日本人が日本で、日本人対象に書いた本もチーナ語なのだ。


 ヴィセンテ師は器用にそれを日本語で読んでくれるが、その日本語がまた今の日本語ではなく古代日本語であったりするので、ヴィセンテ兄が現代の日本語に直してくれたり、時にはポルトガル語で言ってくれたりした。

 それでもどうしても分からない専門的なことは、夕方にベルシオール先生にまとめて聞くという形になった。



                  2


 こうして四日ほどで、私は禅のあらましを知ることになった。

 貸し与えられて読んだ本は「正法眼蔵ショーホーゲンゾー」というすこぶる難解な内容のものだった。

 同じ禅でもかつてベルシオール先生が属していた臨済宗ではなく曹洞宗という宗派の本だそうだが、そのタイトルは「真実の法の目の宝」というような意味らしい。「目の宝」ということからしてよく分からないが、だいたい目を通した後、ベルシオール先生に聞くしかなかった。


「本来、禅いうものはその教えを言葉で伝えるものと違います」


 ベルシオール先生はそう言った。


「お貸しした本はあくまで方便ほうべんといいまして、書物で学ぶのは本来の禅の心とはいえまへんな」


 方便ホーベンとは、目的を達成するための手段というような意味の仏教用語のようだ。


「禅は教えを受けて知識を得るのではなく、ひたすら座禅を組んで瞑想に入り、自らの悟りでもって智慧に達するものどす」


 そういえばかつてヴァリニャーノ師は、日本の教会の組織を討ち建てる上で、仏教の諸宗派の中では禅宗の寺がいちばん手本になるようなことを言っていた。少なくとも禅宗は我われの教会に、牙を剥いて敵対してくるようなことはない。

 だが今回、「方便」ではあるがある程度禅の教えに触れ、我われとはあまりに違い過ぎるのでさほど敵視してこないのではないかとも感じた。


 なにしろ禅の教えは霊魂を否定する。これは前にも聞いていたことだ。肉体がそのまま心であって、それは刻々と変わるもの、死後に肉体から魂が離れて仏教の他の宗派のいう極楽、我われのいう天国で暮らすなどという考えはそれがそのまま執着となって悟りの妨げになるというのだ。

 そうなると、同じ仏教の中でも禅は一向宗などとは真っ向から対立することになる。


 そして禅では時々、公案コーアンという課題のようなものを与えることがあり、または師との問答も行われるという。

 こうなると、我われイエズス会特有の、ロヨラ師の「霊操」と通じるものがあるかもしれないが、禅全体が礼拝や書物の学習を主体としていない以上、宗教というよりもどちらかというとギリシャ哲学に似たようなところがあるかもしれないと私は感じた。

 もっとも、ほんの二、三日かじっただけなので、私のその感覚が正しいかどうかは分からない。


 次に、一度はその輪郭を聞いたことのある一向宗について学ぶことにした。正確には阿弥陀教という宗派で、浄土宗、浄土真宗、時宗の三つうがあって、そのうちの浄土真宗のことを一向宗と呼ぶらしい。

 そういえばあの一向宗の門徒の船頭さんも、一向宗という呼び方は他からの呼び方で、自分たちは絶対に一向宗とはいわないと言っていたのを思い出す。

 いずれにせよ真宗もしくは一向宗は、今の大坂城が立っているところにあった本願寺を本山としていた宗派だ。


 貸し与えられた本は「教行信証キョーギョーシンショー」というティートロ((タイトル))で、さしずめ「浄土へ至る道の真理の教えと実践、そしてその実現化」というような意味らしい。

 この本を書いた親鸞シンランという人は師である法然ホーネンという人の教えと、古代インディアからチーナを経由して伝わった「イル・スートゥラ・ディ・アミターユス(大無量寿経)」という経典をバーセ((ベース))にしているという。


 「教行信証」はとにかく莫大な量で、これをヴィセンテ兄が私に読んでくれるだけでも大仕事だった。これはさすがに私もヴィセンテ兄も降参だった。

 そのことを告げるとベルシオール先生は、弟子に別の本を持って来させた。それは親鸞の弟子が書いたもので、先ほどの本よりも薄く、チーナ語ではなく日本語で書かれていた。「歎異抄タンニショー」という本で、「異端に対する嘆き」という意味らしい。

 そこに書かれていたのは、私が以前にだいたい聞いていた通りだった。この宗派はただ阿弥陀という仏の名を唱えてすがるだけで極楽という天国へ行けると信じている。

 「阿弥陀アミダ」というのは前にも聞いたが「無量の光」という意味の「アミターユス」というインディア語からきているという。そこが『天主ディオ』は光なりの我われの教えとも矛盾しない。

 禅と違ってこの一向宗は平易な教えであるため、禅が政治的指導者や学者、芸術家などの間で広がっているのに対し、一向宗は一般民衆の間に広まったらしい。

 その「歎異抄」の一節には「世間では悪人でさえ極楽に行けるのだからましてや善人はなおさらだと考えられているが、実際は善人でさえ極楽に行けるのだからましてや悪人は必ず極楽に行けるというのが正しい」というような意味の部分があった。

 この逆説パラドッソはイエズス様の山上の垂訓の「幸福なるかな、心の貧しき人。天国はその人の者なり」を、想起させる。全く同一というわけではないが、そのスフマトゥーラ((ニュアンス))が似ているように感じられた。


 このように、だいぶキリストの教えにも近い部分をも持っている一向宗なのに、なぜいちばん我われを目の敵にしてくるのかどうもよく分からない。

 目の敵にしてくるといえば、法華宗もそうだ。


 ここでちょうど一週間たって、翌日は日曜日なのでベルシオール先生の屋敷を訪ねるのは一日休んだ。

 日曜日は主日のミサがあり、ベルシオール先生も教会に来るであろうからである。

 ミサでは、ジョアキム小西殿とも会った。


「今度大坂に行きまっせ。わても商人あきんどやめてまた武士サムライとして関白殿下にお仕えすることになったし、家内のわくさは奥方の北政所きたのまんどころ様にお仕えします。まあ、せがれの弥九郎の働きのお蔭でんな」


 ジョアキムは私の顔を見るなり、そんなことを言っていた。ジョアキムの妻のわくさとは、マリア・マグダレナのことだ。

 たしかに、子息のドン・アゴスティーノは関白殿下の家来の中では抜きんでた働きをしている。


 そうして次の月曜日から、また私のベルシオール先生の屋敷通いが始まった。

 次はやはり我われを目の敵にする法華宗で、この教えはインディアの「妙法蓮華経」という経典をバーセ((ベース))にしているということだが、「真理の教えのロートの花」というティートロ((タイトル))の経典自体は新しいものではない。古くから日本にも伝わっていたらしい。

 だが、十三世紀の日蓮という僧がこの経典の題目を唱えるだけえ救われるという教えを広めたようだ。


 この宗派に関しては本ではなく、日蓮が時の権力者に対して書いたという手紙の写しをベルシオール先生は示してくれた。

 その教えのあらましはベルシオール先生が話してくれたが、どうにもよく分からなかったし、キリストの教えとの共通点も見いだすことはできなかった。

 彼らは近すぎても目をむくし、全く異質でも目をむいてくるのである。


 他にも織田殿や関白殿下に楯突いてひどい目に遭わされた比叡山の天台宗や高野山の真言宗などの話も聞いたが、どうにも同じ宗教とはいえないくらい仏教はいろいろあることを知った。

 もはや仏教という言葉では括れないほど、それらはそれぞれが一つ一つの別の宗教といってもいいくらいだった。


「元はゴータマ・ブッダという一人の人から出た教えであるはずなのに、どうしてこうもばらばらに分化対立しているのだろう」


 そんなことをベルシオール先生の屋敷からの帰り道、ヴィセンテ兄と話したりしていた。


「そうですね。でも、こんなにばらばらでも、元を手繰ればお釈迦さんに行きつくというのは不思議ですよね」


 お釈迦さん(オシャカサン)とは、ゴータマ・ブッダのこの国での呼び方だ。

 だが私はその、ヴィセンテ兄の何気なく言った言葉にはっとした。そうなのだ、どんなに分化対立している教えでも、元は一つなのだ。

 しかもそれが、この小さな島国の中で、若干のいざこざはあるにしてもそれらがまとまって存在していることも不思議だった。この日本以外で、一つの民族の中でこれだけ多くのさまざまな宗教が混在して同居している国など他にないだろう。

 普通、一つの民族を一つに結びつけるのは宗教の力だ。

 しかしこんなにもそれぞれ信じる宗教が違うのに、それでも日本人は一つにまとまっている。そのまとめている力は何なのかという疑問が、この時私の中に湧いていた。



                  3


 その疑問への答えは、翌日にベルシオール先生がくれることになった。

 つまり、仏教が初めて日本に入ってきた時に日本の古来の神道との対立はなかったのか、日本人はすんなりと仏教を受け入れたのかということで、そのことは我われの福音宣教にも大きなヒントをくれそうな気がしていたのだ。


「これは日本の歴史書です、これの、日本に初めて仏教が伝わってきた時のことを描写しているところがここですから、読んでごらんなさい」


 ベルシオール先生がその日持ってきてくれたのは、「日本書紀」という題の歴史書だが、やはり古代チーナ語で書かれてあった。ヴィセンテ兄はそれをすらすらと古代日本語の発音で読んだ。

 外国語であるチーナ語を、チーナ語の発音で読んで日本語に翻訳するというのではなく、チーナ語の文章を直接日本語で読んでしまうこのからくりを、どうしても私は知りたかった。

 いくら文字は共通だからと言っても、どうしてもそれが謎だ。我われが例えばポルトガル語をいくら似ているとはいっても、そして文字は同じだといってもそのままイタリア語で読むことなどできない。

 ましてや日本ととチーナ語は、文字こそ共通だが発音や文法構造は全く違うと聞いている。

 やはりこの国は、もう五年の滞在になるがまだまだ謎の部分が多すぎる。


 さて、日本に仏教が初めて伝わった頃の描写だが、やはりかなりの摩擦があったようだ。

 時のミカドは初めて外来の宗教として伝来した仏教について家来たちに諮ったが、当時勢力のあった二つの貴族のうちの蘇我ソガ一族は仏教を信仰することを主張し、物部モノノベ一族は日本には神道のカミがいるので仏教など受け入れられないと主張、この二つの氏族は後に戦争にまでなった。

 結局仏教を信仰する蘇我一族が戦争に勝ったので、仏教は当時のミカド皇太子プリンシペでもあった摂政レジェンツァによって日本の国教となって国立の寺院も建てられたとある。


 この頃の仏教は今のように多くの宗派に分かれているものではなく、仏教という一つの宗教しかなかったようだ。

 それにしても、その伝来から日本の国教となるまでの間わずか四十年というから驚きだ。なんと日本人であるヴィセンテ兄でさえ、そのような歴史は初めて知ったと言って驚いていた。

 日本人はあまり自分の国の歴史について学ぶ機会はなく、むしろチーナの歴史に詳しい人の方が多いというので、今度は私が驚く番だった。


 それにしても、反対する勢力はあったにせよ日本では仏教が迫害されることもなくすんなり受け入れられたばかりでなく、わずか四十年後には国教となっている。

 我らがキリストの教えはイエズス様の御昇天の直後には使徒たちによってローマに教えは伝えられたがすさまじい迫害に遭い、多数の殉教者を出し、それでも広まっていったキリスト教がローマのコンスタンティヌス帝のミラノの勅令で公認され、テオドシウス帝によってローマ帝国の国教となるまで三百年以上もかかっているのだ。

 この違いは何なのか……そこで一つ、あることに気付いた。


 ローマではキリストの教えの国教化に伴って、それ以外の総ての宗教、つまりミトラ信仰やローマ古来の神話の神殿などはすべて破壊され、キリストの教え以外の信仰は禁止された。

 だが日本では、従来の日本の神社の神道は仏教の国教化によって禁止されたという形跡は「日本書紀」からは読み取れないのである。

 事実、仏教の国教化から千年近くたった現在でもいたるところに神社はあり、神道のカミは祭られている。

 こうなると、仏教がそれぞれ分化対立してさまざまな宗派が存在するだけではなく、さらには日本古来の神道までもが一つの民族の中に混在していることになる。


「そのようなことが可能なのですか」


 私は、「日本書紀」を読みながら、ヴィセンテ兄に聞いてみた。


「仏教と神道は並立して存在しているのではないようですよ。仏教の中では例えば一向宗の門徒、日蓮宗の信者というふうにきちんと分かれていますけれど、仏教の信者と神道の信者というのがきちんと分かれているかというと、そのへんは混沌としています」


 そのようなことを言われても、私には理解の範疇を超えていた。

 すでに日本滞在五年とはいっても、これまでいかに教会という限られた空間の中にしか自分はいなかったかということが痛感させられる。接してきた日本人も、その大部分が信徒クリスティアノばかりだった。


「神社には氏子ウジコという集団もありますけれど、神社に参拝している人たちはみな仏教徒です」


 しばらく私は、なんと答えていいか分からなかった。

 そういえばミカドが仏教を国教として広めた時代もあったというが、そもそも帝とは地上の君主ではなく、この国ではいわば宗教的権威であると以前に聞いたことがあった。つまりは、日本の総ての神社を束ねる神道の頂点に当たる人だと。

 その神道の頂点的存在がなぜ外来の仏教を信じ、それを国教とし、広めたりしたのか……。

 ヴィセンテ兄はよく知らないようだったので、私はその日の午後にベルシオール先生に直接そのことを聞いてみた。


「たしかに寺と神社は一体となっておりますな。我われは子供の時からそないどしたさかい、特に不思議に思ったことはありまへんなあ。特にここ二、三百年の間に仏教と神道の融合は一段と進んだようどす。つまり、神社の神々は実は仏典の仏たちが姿を変えた存在だと主張する人もおます」


 なんとも乱暴な話だが、それを可能にしてしまうのが日本の神道なのだろうか?

 神道には特定の開祖のような人はおらず、経典もないようである。また信者とそうでない人の区別がなく、いわば日本人であればどんな宗派の人でも神社には参拝する。しないのは日本人で信徒クリスティアーノになった人たちだけだ。


 そういう意味では、神道はイエズス様以前のユダヤ教に似ているかもしれない。

 だから、日本人は一つの民族の中で仏教の諸宗派という実質上は別宗教ともいえるさまざまな宗派を信じる人たちが混在して同居しているにもかかわらず一民族としての統合ができているのは、もしかしたら神道のなすところなのかもしれない。


「そういえば……」


 私の中で忘れかけ家ていたある記憶がよみがえった。あれはやはり豊後から長崎へ向かう船旅の途中、薩摩でのことだ。私は通りかかった神社の鳥居の中から仏教の僧たちの祈りの声が聞こえたので不思議に思っていると、その地元の信徒クリスティアーノの人が説明してくれた。

 それによると、この神社を管理しているのは神社の敷地内にある寺の僧たちであるということで、神社と寺とはつながった建物だった。

 そのことを私はここでは口に出さなかったが、ベルシオール先生はさらに話を進めた。


「神社の神々については、お貸ししている『日本書紀』のもっと前の方をご覧になったらよろしおす」


 先ほど神道には経典はないと思ったが、この「日本書紀」は歴史書であるだけでなく、日本の神道の聖典でもあるのだろうかと思った。

 そこで翌日は、言われたとおりに「日本書紀」の最初の方を読んでみることにした。もっとも、ヴィセンテ兄に読んでもらった上で現代の日本語に直してもらったというのが正確な表現だ。


 もともとは巻物であったようだが、今では冊子形式に書き写されている。記述は年代ごとになっているが、書かれている年代は日本の元号による年代なので、私にはいつ頃の時代のことかよく分からなかった。

 ただ、日本の最初のミカドである神武天皇という方が登場してからが人間の歴史ということになり、それ以前は多くのカミが登場する。それだけでなく、さまざまな文学的物語がそこには展開されていた。まるでギリシャの神話を読んでいるようだ。

 そこに出てくる神々はギリシャ神話に登場する多くの英雄たちのように、まぎれもなく「人間」だった。泣き、笑い、恋をし、結婚もして子供を産む。そして、最後は死ぬのである。

 前にベルシオール先生に対し、我われは神社のカミは悪魔とは認識しておらず、人間にすぎないと思っているだけだとオルガンティーノ師は言っていたが、全くその通りであった。『天主ディオ』のような霊的な存在ではなかった。


 だが、さらに一番最初、つまり冒頭を読んだ時の衝撃は忘れられない。

 そこに書かれてあるのは紛れもなく、『旧約聖書ヴェトゥム・テスタメントゥム』の「創世記ジェネシス」の第一章そのものであった。

 そこにはほぼ同様の天地創造の様子が描かれていた。私はしばらく言葉を忘れ、ぽかんと口を開けてそれを聞いていた。

 「創世記」と違うのはたくさんの「神々」が登場する点であるが、それらはもはや人間ではなかった。紛れもない霊的な存在だ。

 とにかく私は頭が混乱するまま、ベルシオール先生がこの部屋に来るのを待って、質問した。


「この最初の部分は、天地創造ですね。でも、『天主デウス』は御ひと方です。ここに登場する多くの神々は、もはや「人間」ではないでしょう。人間は天地創造にはかかわっていません。でも、こんなたくさんの『天主デウス』が存在したわけがありません」


 ベルシオール先生は、少し笑った。


「天使は大勢いてはりますねね」


 私ははっと息をのんだ。なんだかすごい光明が私にぶつかってきた気がする。

 ここでいう神々は天使なのか……? しかし、それにしては『天主ディオ』に当たるような方が記載されていない、いや、ぼやかして隠されているような気さえする。

 その後に初めて男と女という性別を持った「カミ」が登場するが、このあたりから人間の話になっていくようで、その男女の「カミ」はまるでアダムとイヴのようだ。

 しかも、この二人は性的な交わりで次々と「カミ」を生む。この男女の二神でさえ創られてはいない。つまり、日本のこの「日本書紀」の話では「カミ」も人間も一切創られてはいない。()()()()()のである。だから「カミ」と人との隔たり、断絶がないように思われる。


 私はますます分からなくなった。日本のカミは人間なのか天使なのか……? それをどうベルシオール先生に尋ねたらよいものか、それさえも分からなかった。

 ただ、日本の神道というもの奥深いものがあるということを悟っただけだった。



                  4


 こうして約二週間の学びが終わった。

 かなり長時間を勉学に当てたので、期間は二週間だったけれど神学校セミナリヨの学生が一年かかって学ぶほどの情報量を学んだ気がする。


 一応勉学を終えたし、高槻に戻ろうと思ってその旨を大坂に手紙で伝えた。

 だが、三日後に大坂のオルガンティーノ師から来た手紙には、大坂の神学校セミナリヨの完成までまだ一月以上かかるのでそれまで都にいるようにとのことだった。

 それ以外のことは何も書いていなかったが、私にはその行間が読み取れたような気がした。

 もしかしたら……

 私は胸が熱くなるのを感じた。


 それからは都の教会でカリオン師の補助をしたりで毎日を過ごした。カリオン師もここでは司祭は一人で、あとは修道士と同宿がいるだけだったので助かると言ってくれた。

 ベルシオール先生の所にも、最初の二週間のように入り浸りで勉強をしに行くことはなくなったが、時折ふとまた疑問な点が浮かんだりしたらお邪魔して教えを請うたりしていた。


 そして秋も深まった11月の下旬、いよいよオルガンティーノ師から手紙が来て、「神学校セミナリヨが完成して学生たちも呼び戻すので大坂に来るように」とのことだった。「高槻に戻れ」ではなかった。やはり、人事は私の願いどおりになりそうだ。


 私は暇乞いのため、ベルシオール先生の元を尋ねた。


「そろそろ紅葉の時期や。せっかくなんで紅葉を見てから行かはったらよろしゅうおす」


 そう言って、ベルシオール先生は一つの寺を紹介してくれた。


「紅葉を見に行くだけと違うて、やはり学んだ以上実際に寺を見ておいた方がいい。できれば大坂に行く途中少し寄り道して、奈良にも行かれたらええ」


 奈良にはかつて帝が仏教を国教としていた時代に建てさせた巨大な仏像があるという。そのような大きな仏像は、都では見られないというのだ、


 そういえば昔、天草で亡くなったアルメイダ師が修道士時代に奈良でそれを見たと語っていた。

 やはり文字と言葉で学ぶだけではなく、実際に目で見る必要があるだろうと、私はその提案を受けることにし、オルガンティーノ師の承諾を得るために大坂に手紙を書いた。返事はすぐに来て、承諾してくれるとのことだった。


「大いによろしい」


 手紙にはそう書かれていた。


 まずは奈良を経て大坂に帰る予定の二日ほど前に、私はヴィセンテ兄とともにベルシオール先生から紹介された寺へと向かった。教会からだと南東の方角にあり、歩いて一時間ほどだった。

 まずは南北に伸びる烏丸カラスマ通りをひたすら南下し、やがて左に折れて鴨川を東へと渡ってまたしばらく南下すると、その寺の山門が見えてきた。

 その寺は東福寺トーフクジといった。

 この寺も、かつてフロイス師が訪れたことがあるということで、話には聞いていた。さらにあの織田殿が、本能寺の屋敷ができる前に何度か宿所にしたこともあったという。

 門はとてつもなく巨大だった。二階建てのような構造になっていて、一階部分は何本もの柱に支えられていた。

 中央が門になっていて人々が通れるようになっており、この時は紅葉の季節もあって多くの都の市民たちが自由に出入りできるようになっていた。

 人が通るといっても、普通の人の背丈の三倍くらいある巨人がいたとしても、楽にくぐれるほどだ。


 驚いたのは、その左右にある二体の巨大な仏像だった。あまりにも大きいので、見上げてしまう。

 まさしく悪魔だ……ベルシオール先生は、寺の仏や神社の神を悪魔と称するのは控えるようにと言っていたし、私自身も何でもかんでも悪魔とする考え方は腑に落ちずにいた。

 だが、今我われが見上げている像は非常に恐ろしく醜悪な憤怒の相をしており、悪魔以外の何ものでもなかった。


 同行しているヴィセンテ兄も、日本人ながら寺には初めて参るようで驚きの声を挙げていた。


外国とつくにの方がご覧にらはったら、恐ろしう思いますやろな」


 いきなり話しかけられて、私はどきっとして振り向いた。そこにはひとりの老齢の僧侶がにこにこして立っていた。


「南蛮寺のバテレン様どすな」


 私は少々身がまえた。私がこの寺に論争を挑みに来たと思われたのではないかと身構え、そうでないことをいかにして分かってもらうか頭の中で瞬間に考えていた。

 だが、僧侶は依然にこにこしている。


「曲直瀬道三先生よりご連絡いただいております。ご案内させていただきます」


 私の身構えは不要なものだった。ほっとして、私も笑みを漏らした。


「これはかたじけない。よろしゅうお願い申します」


「ほう。聞いてはおりましたが、やはり日本語は達者でいてはりますな」


 まずはすぐ近くの巨大な悪魔(?)の像を見上げた。


「これは人びとは普通仁王さんと呼んでますけれど、正式には金剛力士いいます」


「なぜ、こんな怖い顔を? 悪い仏様ですか?」


 私はあえて悪魔とはいわなかった。僧侶は声をあげて笑った。


「あなた方から見れば妖魔か悪鬼のように見えますやろな。でも、なんでこの仏さんはこんな怖い顔してはるかといいますと、ほんまに悪い悪鬼などがが寺に入って来いへんように守ってはるんどす。優しい顔してはったら、悪鬼に軽う見られますさかいな。つまり、悪に対して睨みをきかせとるんどす」


 そういわれてみれば理屈だ。つまり、寺を守る衛兵のような像で、確かに衛兵は侵入者に対しては憤怒の形相でにらみつけるものだ。


「このお像が造られたのは、今から三百年ほど前どすか。ようごらんなさい。右の方は口を開けてはる。左のは口を閉じてはりまっしゃろ。右のは『』、左のは『ウン』を表しとります」


「『ア』と『ウン』?」


「梵字の最初と最後ですな」


「梵字とは古代インジャの言葉です」


 ヴィセンテ兄が私の耳元で補足して、ポルトガル語で囁いてくれた。その古代インディア語である梵語、つまりサンスクリット語のアルファベットの最初と最後……私は思わず心の中で唸っていた。それはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字と同じではないか……すなわちアルファとオメガ……。


 ――今いまし、昔いまし後来たり給う主なる全能の『天主デウス』言い給う「我はアルファなり、オメガなり。……はじめなり、おわりなり――。


 ヨハネの「黙示録アポカリプシス」にある言葉だ。そのアルファとオメガをこの二体の像が表しているとすれば、これは悪魔などではない。むしろ、キリストの教えと根本でつながっている証拠だ。

 私は僧侶にはそのことはあえて言わなかったが、内心うれしくなった。


「こちらのお寺の宗派は何ですか?」


  私はその代わりに話題を変えていた。


「臨済宗どす。禅の一派でんな」


 かつてベルシオール先生が仏僧であった時に属していた宗派だ。だから顔が聞いたのだろう。仏教の中でも我われと一番友好的な宗派が禅宗だ。だからこの僧侶もベルシオール先生の口添えだけでなく、禅宗ということで我われを親切に迎えてくれたらしい。


「この門が三門どす。ほかの寺は山という字を書いて山門といいますが、この寺では三つという字で三門どす」


 その巨大な門はくぐることはできず、その脇を通って中に入るとそこは寺の境内である。

 私は日本に来たばかりで長崎にいた頃には、仏教の寺は悪魔崇拝の場所という概念を植え付けられていた。

 だが、今その悪魔崇拝の場所に足を踏み入れても、なぜか心がすがすがしく感じるから不思議だった。

 だが、建物から感じる雰囲気の違和感はあった。だがそれは霊的に悪魔崇拝云々の問題ではなく、単に文化の違いによるものにすぎないようだった。

 すぐにまた巨大な建物があって、そこが本殿のようだ。

 中には奥に仏像が祀られていた。中央に立っている一体と、左右に小型の仏像がある。先ほどの仁王像に比べると、さほど大きな仏像ではなかった。


「釈迦三尊像です」


 僧侶が説明してくれる。つまり、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダである。この寺が祀っているのは阿弥陀アミダ観音クヮンオンというホトケではなく、人間が祀られているということになる。

 確かに私がベルシオール先生のもとで学んだことによるろ、禅は他の仏教の宗派のように仏に礼拝するよりも、座線という修行で悟りを開くことを主眼とするとあった。

 本殿を出ると普通の寺ならこれで終わりだが、この東福寺に関しては終わりではなかった。三門と本殿は全境内の一角に過ぎなかった。実に広大な敷地のあちこちに巨大な建造物が点在しているのである。それ全部を含めて東福寺であった。


 まずは三門や本殿を含め、それらの巨大建築がすべて木材で造られているのは、城の天守閣と同じだ。

 安土で巨大な天主閣を見た時、天を衝くような巨大な建物がすべて木材で造られていることにはすでに十分驚いていた。エウローパにも巨大な教会はあるが、皆石造りである。さらにはエウローパの教会はどんなに巨大でも、単体で存在する。このように広大な敷地に巨大な建物がいくつも点在するという光景はない。


 それらの建物とは禅寺であるだけに座禅の道場であったり、ほかの仏像を祀ったり、僧たちの住居であったりとさまざまだ。

 そしてかなり歩いて、それでもまだ寺の境内だったが、ちょっとした庭園まで造られていた。そこは谷間になっていて、その谷間の木々がみごとなほど真っ赤に紅葉していた。もうどちらを見ても真っ赤な世界だ。花も美しいが、木の葉でもここまで色がつくと見事に美しいものである。

 春の桜も美しいが。桜は日本じゅういたるところで見ることができる。だが、紅葉はこのように限られた場所に出向いてこないと見られないので貴重な体験だ。

 さらに谷間を横断するように屋根の付いた橋がかけられており、渡り廊下のようにもなっていた。その上に案内された。そこから見下ろす谷間の紅葉は、これまた見事だった。庭園は人工のせせらぎや池と、みごとに大きな石が配置された日本独特の庭園造形美だ。


 そもそも宗教の施設である寺に、このような見事な庭園があるということ自体が不思議だ。もちろんエウローパにも見事な庭園はたくさんある。だがそれらは教会の中ではなく、王侯貴族の宮殿の中にある。エウローパでは庭園は、王などの地上の権力者がその力を誇示するためのものだ。

 日本に来てから五年もたって、やっと得られた貴重な体験に私の魂は揺さぶられていた。

 いくつかの建物には天井に龍という生き物の絵があった。かつてフロイス師が日本の寺の天井には巨大なトカゲの絵があるなどと言っていたが、トカゲなどではない。エウローパのドラーゴ《(ドラゴン)》とも違う。それは決して「動物」ではあり得ない。むしろ神々しさを感じるものだった。

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