Episodio 4 Seminario di Takatsuki(高槻のセミナリヨ)
1
それから急に、秋は深まっていったような気がした。
連日晴天が続き、都の周りの山々も赤く色づき始めた。教会の三階のオルガンティーノ師の部屋の窓からは、その様子が手に取るように見える。
そんな頃に高槻の教会のフルラネッティ師から来た手紙では、いよいよ高槻の神学校も外装は完成し、内装も間もなく終わるとのことだった。そうなると、なんとか待降節の前には移れそうである。
そしてその日はあっという間にやってきた。
それまでに、いつも逐次情報をもたらしてくれていたジョアキムのその情報によると、どうも世間では三七殿と羽柴筑前殿との対立がますます激化したようだ。
清洲で会議を開いた長老のうち、柴田殿を除くあとの二人、つまり丹羽殿と池田殿はすべて羽柴殿の側についてしまったという。だが、越前に帰った柴田殿もその家来の前田又佐殿という殿を羽柴殿のもとに遣わして、なんとか和解が成立したらしいとのことであった。
我われは一応胸をなでおろした。我われの祈りが『天主』に届いたのかもしれない。だが、世の中がこのまま落ち着いてくれればいいという願いとともに、一抹の不安もあった。
羽柴殿にあれだけ怒りの炎を燃やしていた三七殿が、柴田殿と羽柴殿が和解したからとてあの炎を消すだろうかということだ。それどころか、逆方向へ向かいそうな情報もあった。
羽柴殿の陣営は、どうも三七殿の兄の茶筅殿、今は御本所殿と称しているその殿を自分たちの側に引き込んだらしいということだった。
織田家当主である三法師殿は、御本所殿と三七殿が共同で後見ということになっていたから、兄が羽柴側についてしまったら三七殿としてはかなり不利になる。
そんな気がかりもあったが、待降節に入る前の週、つまり最後の年間主日の翌日の26日の月曜日には、いよいよ私はこの都の教会で狭い思いをしていた神学校の学生を引きつれて高槻に移ることになった。それに先立ち、一度は国許に帰していた近場の学生たちにも連絡をし、そういった者たちも続々と教会に戻って来て安土からこの都へと逃げ帰ってきた時とほぼ同じ人数がそろった。
また、下の方の同行も気になっていたが、準管区長からオルガンティーノ師への特別な連絡はここのところ全くないとのことだった。
学生たちの引率は私とシモン・アルメイダ兄、そして日本人修道士のヴィセンテ兄の三人だった。二人の修道士とも安土からずっと学生たちの指導に当たってきた人たちで、このまま高槻の神学校でも引き続き学生たちの教育を担当することになっている。
他にはかつて長崎からた来たジェロニモ・ヴァス兄や今回私とともに有馬から来たバリオス兄が強力な神学校のペルソナーレである
近隣の住民に目立たないようにと、早朝に我われは出発した。早朝ともなると少し寒さを覚える季節になっている。安土にいた時の学生三十人ほどは、そのまま都の教会を後にした。四条通りまで見送りに出たオルガンティーノ師やカリオン師にエウローパ式に手を振りながら、我われはまずは道を西へと向かった。
そして川沿いに南下すれば約五時間くらいで高槻には着く。かなり早朝に出発したので、大勢でのんびり歩いても昼過ぎには目指す高槻の城が見えてきた。
高槻の城は山の上ではなく平坦な土地にある。しかも大きな天守閣もないので、見えたといっても堀と塀と櫓が見えたくらいだ。
船で川から上陸した時とは違って街道からだと北側から城に入ることになる。そうなると、北の城門を入ってほど近い所に教会と新しい神学校の建物があった。
この大人数でぞろぞろと街道を歩いてきただけに我われの到着はすでに教会に知らされており、教会前の大きな十字架のそばには大勢の信徒が出迎えてくれていた。
どの学生の顔にも、喜びがあふれていた。
「周りが山に囲まれてへんいうんは、なんとも開放感があるなあ」
そんなことを満願の笑みで言っていた学生もいた。
「うわあ、大きい!」
新しい神学校を見た学生の感想は、ほとんどがそれだった。そして教会とは渡り廊下でつながっている。
教会も巨大な建物なので、三階建ての神学校と並んで建っていても引けを取らなかった。
神学校はとにかく新しいのでまだ木材の香りが心地よく、床も柱の木もまだ白かった。
迎えに出たフルラネッティ師も笑顔で嬉しそうだ。
「あさって、開校式をしましょう」
私はなぜあさってなのかと思っていた。
「まず明日は、殿であるジュストにご挨拶でしょう」
なるほどそういうことかと思った。
翌日、フルラネッティ師とフランチェスコ師および私と、今度あらためて高槻に来たアルメイダ兄やヴァス兄、ヴィセンテ兄で城に上がり、殿であるジュストに面会することを私は想像していた。
ところがその会見を申し入れた時、ジュストの方からの返事は、今度来た神学生約三十人全員を連れてきてほしいとのことだった。
学生たちは、皆緊張で身を固くした。安土にいた時も、安土の城で織田殿に謁見などということは全くなかった彼らである。ただ、安土の織田殿と違ってここの殿は熱心な信徒であることも知っている。それでもやはり領主と対面となると、緊張するなという方が無理であろうと思われた。
かつて都の教会の集会室に彼らが押し込められていた時、その部屋でジュストと我われは話をしていたこともある。だからその時にジュストの顔くらいは見たことがある者も多いはずだ。
だが、その時点で国元に帰っていた学生たちの場合は、ジュストと会うのは初めてのはずである。
我われとの対面の時は、三七殿もそうであったが、ジュストも自分が下座に座り我われ聖職者を上座に据えてくれた。だが今日は学生たちもいるので、城の本丸の御殿の大広間では一応我われは下座に整列した。
やがて襖が開き、ジュスト高山右近殿が姿を見せた。
学生たちは一斉に畳の上に上半身を折って平伏した。
「ああ、ああ、ああ、ああ」
慌てたのはむしろジュストの方であった。
「みんな顔を挙げて」
そして立ったまま言った。
「今日は良く来られた。あなた方の顔を見ることができて、私はとてもうれしい」
ポルトガル語だった。
学生ったちは驚きの声を挙げた。学生の中でもポルトガル語が分かる者は多い。全員が流暢に話し、聞けるわけではないが、かなりの割合のものが少なくとも少しはポルトガル語をかじってはいる。
さらには、これはもう全員といってもよいがローマ字は身につけていて、日本語をローマ字で書いたり読んだりすることは完璧にできるはずだ。
「都からはるばる、疲れたでしょう?」
「いえ、一晩寝れば元気になりました」
学生の中でもひときわ聡明なパウロ三木がポルトガル語で答えたので、ジュストも満足げに笑顔でうなずいて学生たちのそばに歩み寄った。そして整列している彼らの真ん中に入った。自然と学生たちはジュストの方を向き直して、彼を囲む形となった。その真ん中に、ジュストはやっと腰を下ろした。つまり、学生の輪に囲まれている状態だ。
「さあ、みんな、畏まらなくてもよい。その元気な顔を見せておくれ」
言われたように顔を挙げたその学生一人一人を、ジュストは笑顔で見渡していた。
「やはり日本語で話そう。さすがにずっとポルトガル語では、私も疲れる」
そう言ってジュストが笑うので、学生たちもやっと緊張がほぐれてともに笑った。
それからかなり長い時間、ジュストは学生たちと問答をしていた。国はどこなのか、両親はどういう人かなどから始まって、キリスト教の教義にまで話は及んだ。さらにはイエズス様との出会いや、日ごろ思っていることなどうまく話を聞きだしていた。
そのうち、一人の少年は涙ぐみ始めた。
「ここで一緒に学んでいる人は、殿様の子やおさむらいの家の人が多いけど、我が家は百姓だ。戦の時だけ鎧を着て戦うけど、いつもは田んぼを耕してる。それなのに、誰も私を蔑んだり、分け隔てする人はここにはいてへん。そんで今日は、なんと、お殿さまとこんな近くで直接に話しかけてもらって……」
もう、ほとんど嗚咽に近かった。
「主のみ前では殿も百姓もない。『天主様』から見れば、みんな平等なのだよ」
優しく、ジュストは言う。
「ここでの暮らしが始まるのだけど、私のことを殿様とかではなく、あなた方の父親だと思ってくれ。今日からは、みんなかわいい私の息子だ」
そうなると、涙にむせび始めたのだ一人ではなくなった。
ジュストはすくっと立ち上がった。
「ご足労かけたけれど、今から私があなた方の神学校を見せてもらおう。今から行こうではないか。さあ、みんな立って」
それから全員で外に出た。学生たちが領主である殿を囲んで談笑しながら道を歩くなど、この国のほかの町では絶対にあり得ないことだろうと思う。いや、エウローパでさえあり得ない。それは実に不思議な光景だった。
本丸の門を出て教会まではほんの二、三分だ。教会も城の敷地内にあるのである。
新築の香りする神学校の中を歩きながら、ジュストは何度も感嘆の声を挙げていた。
「いやあ、学生たちがうらやましい。私もここに入学してともに学んでもいいだろうか」
そんなことを言うので、案内していたフルラネッティ師も笑っていた。
「とんでもございません。殿にはぜひ我われとともに教壇に立ち、むしろ学生たちを教えてもらいたいものです」
それを聞いてのジュストの笑い声が、神学校の廊下や教室に響いていた。
2
それからは、まるで夢にまで見たあの安土での日々が戻ってきたように、私にとっては充実した日々だった。学生たちの輝く瞳に囲まれて、その交流は楽しいものだった。
彼らは優秀で怜悧ではあるがまじめ堅物というわけでもなく、時には冗談を言い、いい意味でふざけ合ったりして和気あいあいと快適に日々を過ごし、その姿を見るのもまた喜びだった。
あくまでこちらが教える立場ではあるが、彼らから学ぶものも多かった。大人になるといろいろと世間というものに縛られるが彼らは純粋で、本当の意味での日本の姿、そして日本の未来の姿を見るようでもあった。
『天主』の大愛と主キリストの恵みに包まれて、毎日は平穏に過ぎていっていた。世の中のことも気にならないではなかったが、さすがに政治の中心である都ほどにはあまり情報は入ってこないので、平和なのだろうと安心していた。
それでも微かに不安はある。
織田殿亡き後、今やこの国全体を統率する天下人が空席なのだ。
帝は王や皇帝ではなく教皇と同様に宗教的権威であるようで、実際の政治活動はなさらないようだ。
織田家当主は子供だし、後見人も政治からは外されている。政治のことは織田殿の家来の長老四人の合議によると定められたようだが、その四人が今やごたごたしている。
そんな話を私はフランチェスコ師とした。
「そうですね。今の平和はどうも一時的なかりそめのもの、悪く言えば嵐の前の静けさのような気もしてならないですな」
フランチェスコ師もそう言っていた。彼もアルメイダ兄もヴィセンテ兄もともに、織田殿が亡くなった直後のあの安土での大混乱の後、命からがら都へと逃げ帰ってきた仲間なのだ。
季節はどんどん寒さを増していった。
典礼暦も待降節に入り、その第一主日、第二主日と過ぎ、司式司祭がバラ色の祭服を着る第三主日を迎えた。
高槻の教会には日本にはまだここにしかないオルガーノがあり、その音色を聞くのを楽しみにしていたが、待降節に入ったのでミサでそれが演奏されることはなくなった。
そして待降節のうち唯一第三主日のバラの主日だけオルガーノ演奏が許されるので、やっとその音色を堪能することができたのである。
しかも奏者は日本人だった。
そしてその翌日、朝のミサの後、ミサに参列していたジュストが浮かない顔で我われのもとへと来た。
彼は日曜の主日のミサだけではなく、毎日の早朝のミサにも参列している。供もつけず一人で本丸から歩いて来るが、教会は本丸の門を出てすぐのところにあるし、ここも城内なので別に憚られることはない。
「実は今日は、皆さんに少し話しておきたいことがあるのです」
いつもは陽気で気さくなジュストがこのような顔をするということは、よほど何かがあったらしいと、我われは皆息をのんだ。
「では、とりあえず司祭館の方へ」
ミサを司式したフルラネッティ師がそう言って、ジュストを我われの司祭館の集会室のような部屋に案内した。
そこでは車座になって座った。
「実は、昨日の夜にもたらされた情報なのですが」
そう前置きするジュストの顔は、ますます暗くなっていた。
「皆さんもご存じのとおり、織田家の家督を継いだのはあくまで三法師様です。ですから、三法師様が当主であります。そして当主である以上、上様亡き今は安土城にお住まいになるべきで、そのことは先の清洲での合議でも定められたそうです」
「今は三七殿が後見役なので、仮に三七殿の城である岐阜にお住まいということですな」
ジュストはフルラネッティ師を見てうなずいた。
「その通りです」
そして、また我々全体を見回した。
「ところが天下のことを合議で運営される長老衆方が三七様に、三法師様を今すぐ安土にお移しするようにと申し出られたそうです」
「しかし、安土のお城は焼けてしまったではないですか」
フランチェスコ師が口をはさむ。それは私も言おうとしていたことだった。ジュストは今度はフランチェスコ師を見た。
「いえ、焼けたのは天主閣のみで、そのほかは無傷です。ですから、お城としては十分に機能するそうです」
言われてみれば確かに、あとで様子を見に行ったアルメイダ兄からそのような報告を受けていた。今、ここにいるのは司祭だけで修道士はミサの後学生たちとともに神学校の方に戻っていたのでアルメイダ兄は同席していないが、そういうふうに言っていたのを覚えている。
ただし、町はチタ・ファンタズマになっているとのことだったはずだ。
「ところが問題は、三七様が頑なにそれを拒まれたということです」
そうだろうと思う。まだ幼い三法師様を安土によこせというのは、羽柴筑前殿がそう言うのだろう。そこには、三法師様を三七殿から取り上げようという羽柴殿の思惑が丸見えである。
なぜなら三七殿の兄である御本所殿も同じく三法師様の後見であり、その御本所様は今や羽柴殿側についているという話だったからだ。
「困った事態とは、ここからです」
我われはまたもや息をのんだ。
「三七様のそのような態度は謀反に当たるということで、なんと羽柴殿と御本所様は岐阜の城の攻撃を始めたとのことです」
「そんな……」
これは衝撃だった。たしかに三七殿の羽柴殿に対する怒りは尋常ではなかった。しかし、まさか羽柴殿の方からかつての主君の子である三七殿を攻撃するなど、全く予想外の展開だった。
「三七殿が、羽柴殿に殺される……?」
フルラネッティ師はぽかんと口を開けていた。だが、その内心の驚きは、そこにいた我われ全員に共通のものだった。
「いえいえ」
ジュストはすぐに首を横に振った。
「羽柴殿もまさか三七様を殺すつもりで兵を挙げたわけではないでしょう。あくまで目的は三法師様奪還です。だから力づくで岐阜の城を陥落させようとは思っていないでしょう。そんなことをして三法師様にもしものことがあったら、元も子もありませんから。それに、岐阜の城は天涯の山上にある難攻不落の城と聞きます。あくまで岐阜のお城に対する挙兵は、三七殿に対する威嚇かと思われます」
「それならば少しは安心ですけれど、決着までには時間がかかりますね」
フランチェスコ師が言った。私もそれに同調した。
「三七様は間もなく洗礼を受けようというお方で、バテレン様方とも親交のあった方ですから、お耳に入れておこうと思いましてお話ししました」
ジュストはまだ、あの三七殿の悪魔の形相での豹変を知らないのだ。だからこそ、今回のことは意外に思って、むしろジュストの方が戸惑っているのかもしれなかった。
フルラネッティ師は静かに言った。
「分かりました。わざわざのお知らせ、ありがとうございます。我われはただ『天主』のみ意通りになりますように祈りましょう」
そして、ジュストが帰ってからも、しばらく我われはその場にいた。
「このことはやはり都のオルガンティーノ神父にも知らせておいた方がいいだろうか」
フルラネッティ師がそう言うので、私は首を横に振った。
「いえ、都の教会の信徒にジョアキムという情報通の方がおりますから、このことはすぐにでもその人からオルガンティーノ神父のお耳には入るでしょう」
私がそう言うと、皆が納得していた。
3
世間のそのような状況をよそに月日はどんどん冬へと進んでいき、いよいよ待降節も終わってナターレを迎えた。
今年は第四主日の翌日の月曜日がヴィジーリャ・ディ・ナターレで、さすがに一万人以上も信徒がいる高槻だけあって、夕刻のミサの何時間も前から次々に人びとは教会へと集まり始めた。
城の中にある教会だが、毎週日曜日のミサの時には城門も解放されて、一般領民も信徒であれば身分に関係なく誰でも城内に入ることができるようになっている。
だが、ナターレともなるとジュストの治める領内の遠方からも、普段の日曜にはなかなかミサに与れな人々も続々と押し寄せるので、ミサの始まる二時間も前から教会の前の広場から本丸への城門の前まで人々でごった返した。
私が日本に来てから三度目のナターレとなる。
最初は豊前の臼杵の教会で、そして二回目となる去年は下の大村の教会で私はナターレを過ごした。
毎年、ナターレを迎える場所が違うけれど、去年の大村でのナターレも圧巻だった。殿であるドン・バルトロメウの領内の領民すべてが信徒になっているということで、ものすごい数だった。だが、高槻の信徒の数は遥かにそれを上回っている。
しかし、いつかジュストが話したことによると、これでも全領民の三分の二くらいにしか過ぎないというのだ。
高槻が大村と比べて絶対的に人口が多いことにもよるだろうが、私が大村で全領民が信徒であることに対して感じた何か違和感というか危惧というか、そういうものはまだ信徒となっていない三分の一の領民の存在によってここでは感じなかった。
ジュストは領主として、決して領民に信徒になることを強制してはいない証拠だ。
ジュストも言っていた。
「信仰というものは強制するものではないでしょう。その人それぞれの魂がどのようにキリストと出会い、キリストを受け入れるかということですから」
全くその通りだと思う。そうなると逆に、強制していないのに領民の三分の二が信徒となっているという方がすごいことである。
大村は別としてドン・プロタジオの有馬、豊前のドン・フランシスコの府内や臼杵、そしてこの高槻と同じ摂津ではドン・ジュアンが治める岡山や明智に味方して追放されたドン・サンチョの三箇も、数だけでいえばかなりの数の信徒がいるにしても、領民の総数に対する信徒の割合はここ高槻ほどは多くない。
やはりそれはジュストの人徳といえるだろう。「後ろ姿で導け」とはこのことなんだなと、本当に我われの方がむしろジュストから教えられることは多い。
24日の日は没し、いよいよヴィジーリャ・ディ・ナターレ、すなわちナターレの前夜ミサが始まった。
当然すべての信徒が教会堂に入りきれないので、城内の教会堂の前に当たる広場も人々で埋め尽くされた。
私にとって胸が張り裂けんばかりに感動的だったのは、フルラネッティ師が祭壇の脇に、ほんの小さなものではあるがキリストが生まれた馬小屋を模型で再現したプレゼーピオが設けられていたことだ。
イタリア半島では教会はもちろん各家庭でも、このプレゼーピオはヴィジーリャ・ディ・ナターレに飾られる。
三百五十年ほど前の人でフランシスコ会の創設者のアッシジの聖フランチェスコの考案によるものだが、今やイタリア全土に普及している。これがないとやはりナターレという気分は出ない。
この高槻の教会のそれはローマのものとは違ってマリア様もヨセフ様も羊飼いたちも三博士も日本の着物を着た日本の人形だが、赤ちゃんイエズス様だけは信徒の人が布を材料に手作りで作ってくれたようだ。
この風習はイタリア半島だけのもので、まだ他の国にはそれほど広がっていない。だからゴアやマカオでももちろん、日本でも府内や大村ではこのナターレの習慣は見られなかった。
だが、今や高槻の三司祭ともにイタリア人だ。他の国出身の司祭に遠慮することなく、堂々とイタリアの習慣をここに持ち込んだ。
鐘が打ち鳴らされ、オルガーノの音がもう暗くなった夜空に響く。
こうして静かに厳かに、ミサは進んでいった。これまで復活祭や聖体の祝日を高槻で迎えたことはあったが、当然のことながら高槻のナターレは私にとって初めてだ。
司式は、まずはここの司祭の中で最年長のフランチェスコ師だ。
そして夜半ミサと続く。このミサがナターレの中心ともなるミサで、司式はフルラネッティ師だった。年齢はフランチェスコ師が最年長だが、フルラネッティ師は私と同年代だけれどもこの高槻の教会の主任司祭なのだ。
前夜ミサで御聖堂内に入れた人は入れ替え制で全員出され、外にいた人が中でミサに与った。
翌日の早朝のミサ、日中のミサでも同じシステマが採られることになっている。聖職者以外ですべてのミサに御聖堂内で与れたのは聖歌隊を務める神学校の学生と領主のジュストおよびその家族のみだった。
ジュストは最初は一人でも多くの領民にミサに与ってもらいたいと自分が参列することは遠慮していたが、我われの方から頼んで聖堂内で参列してもらった。
参列する会衆に背を向けてのミサが進行し、やっとフルラネッティ師がその顔を参列者に向けたのは、福音書の朗読を終えての説教になってからだった。
「フェリーズ・ナタル!」
開口一番はラテン語ではなくポルトガル語だったが、すぐにフルラネッティ師は日本語で話し始めた。
「私の国では“ブォン・ナターレ”といいます。この国では“ナタル、おめでとうござる”となりますね」
修道士は別として今高槻にいる司祭が皆イタリア人であるだけに、馬小屋の模型のプレゼーピオだけでなくそういった話にも遠慮はいらない。
「今日、皆さんはいまここにこうして集まってナタルつまり主のご降誕を祝っていますが、今日、世界のあちこちで言語は違っても同じ意味の“フェリーズ・ナタル!”という言葉が飛び交っています。なぜめでたいのか、それは『天主様』からの最大の贈り物であり、最大の恵みを私たちは頂く日だからです。こちらをごらんなさい」
フルラネッティ師は御聖堂の外にいる大群衆にも聞こえるようにということなのか大声で話しながら、祭壇の上の四本のろうそくを示した。
「『天主様』からの恵み、それは具体的には何でしょうか? これらのろうそくが、それを表しています。これまでひと月にわたって、主日のミサごとに一本ずつろうそくに火は灯されていきました。最初に灯されたろうそくは希望の光です。今、この国は混沌を極めています。この国だけではありません。海の向こうの、私たちバテレンが生まれた国々でも同じように“乱世”です。でも、そんな混沌とした世にも、『天主様』は御ひとり子をお遣わし下さった。それは何を意味しているのでしょうか? それは“大丈夫だよ。何も心配することはないんだよ。すべてうまくいくよ”、そうおっしゃりたいのだと私は考えています。すべてを『天主様』にお任せして信仰を貫けば、今悲しいこと、つらいこと、苦しいことがあってもそれは一時的なもので、一切がよくなるための準備なのです。絶望する必要はない。絶望している人は、ただキリストに想いを向け、心を向ければ、希望は与えられると信じています」
本当にこの声が御聖堂の外の大群衆にまで聞こえるのかどうか分からないけれど、人びとは静まりかえっているので、あるいは届いているかもしれない。
「そして二本目は平和。先ほども申し上げましたように、この“乱世”のどこに平和があるのかと思われるかもしれませんけれど、『天主様』は必ず平和をもたらしてくださいます。必ず! なぜなら、イエズス様がお生まれになった夜、天使が歌うのを羊飼いたちは聞きました。“天のいと高き所には『天主』に栄光、地には善意の人に平和あれ”と。今混沌としていても、いつか必ず平和は訪れる。今もこの国のあちこちで戦が行われています。でも、真の平和を築くため、悪魔と戦うのだと、希望を持って戦っている方たちも多くいると信じています。しかし本当の目的は敵を殲滅することではありません。敵を滅ぼせば憎しみが残り、やがては自分が滅ぼされます。戦いの負の連鎖が繰り返されるだけです。そうではなく、真の平和は和解にこそあります。和解こそ恵みです。そしナタルのもうひとつの意味は『天主』との和解です」
フルラネッティ師の話は、普通の神学的説教とはどこか違うと私は感じ始めた。今のこの国のあり方に即しているようにも感じた。ジュストも、もちろん熱心に聞いている。
「そして希望を持ち平和がもたらされれば、皆さんの心には何が生じるでしょうか。それは喜びですね。三本目のろうそくはその喜びを表しています。今、悲しんでいる方、どうかこの三本目の喜びの光をじっと見つめなさい。『天主様』は必ずや喜びをお与えくださいます。そして」
フルラネッティ師は、一段と声を張り上げた。
「四本目のろうそく、それは御大切の光。希望も平和も喜びもすべてを無にしてしまうものはなんでしょう。それは恨み、憎しみです。人を恨み憎しみをもっている間は平和は訪れません。そのような心は、このナタルを機に捨てるべきです。どこまでも許すことです。許せばあなたの罪も『天主様』は許してくださいます。許せないというのは、裁きの心があるからです。人を裁いてはならないと、イエズス様はおっしゃいました。姦淫を行った女を多くの市民が裁いて罰しようとした時も、イエズス様は“あなた方の中で罪が全くない人だけが、この女を罰するがよい”と言われたのです。誰も、その女を罰することはできませんでした。裁きは避け、人を許し、和解する、そこにすべての道が開けるのです。これらがナタルの意味であることを心に刻んで、ともに祈りましょう」
それはまるでここにはいない誰かに向けて言っているようだった。
我われ司祭がミサの説教で政治的な話をすることはまずない。だが、表向きはキリストの教えを述べているが、そこに内包されているのは明らかに政治的な意味合いを含んでいると私は感じていた。
次の早朝のミサの司式は私だった。
説教では少し意向を変えて、自分が子供の頃のローマの教会でのナターレのミサの話をしておいた。
最後の日中のミサはフルラネッティ師司式に加えフランチェスコ師と私の共同司式となった。
そしてその後、以前にここで復活祭を過ごし、ヴァリニャーノ師がまるでローマだと感嘆したあの時と同様に人びとの行進と宴が始まった。
4
こうして激動の1582年も終わり、引き続き激動の年となるか平和の年となるかまだ分からない1583年が幕を開けた。だが、日本の暦で新しい年になるのは、まだ半月ほど先だった。
我われの暦で新年早々、あのナターレでのミサでの祈りが届いたのか、希望の知らせをジュストはまた我われの教会にもたらした。
三七殿が羽柴殿に降伏し、三法師殿を安土へと引き渡したという知らせだった。
「降伏という言い方ですと、三七様は無念であっただろうと普通は思いますが、やはりあのミサでの祈りが届いて、三七様は和解の心になったのではないでしょうか」
ジュストも、そのように言っていた。フルラネッティ師もうなずいた。
「すべてが『天主様』のお仕組みでしょう」
「実際、羽柴殿は五万の軍勢で美濃へと向かったのですが、実際の戦闘は三七様の御家老の斎藤玄蕃殿の加治木城を攻めて降伏させただけで、やはり岐阜城は包囲したに過ぎなかったようです。ですから三七様は半月以上の籠城の末に、三法師様を引き渡すということで和解が成立したということのようです」
「やはり『天主様』はご実在しておられることを痛感しました」
そのジュストの言葉に、話を聞いていた私もうれしくて大きくうなずいた。
やがて、日本の暦での正月も近付いてきた。
我われにとってはただの平日なのだが、あくまで日本の風習を尊重するという修道会の方針にのっとり、日本の正月に当たる1月14日から三日間、神学校の授業は休みとし、学生でも郷里が近い者で希望する者には帰省を許した。
その三日間はジュストも城で領主として正月の諸行事に追われているようで、なかなか教会に足を向けることができずにいたようだ。ようやく日本の正月の四日目、すなわち17日の木曜日になって朝のミサに参列したが、その後でまた彼は顔を曇らせていた。
「今度は滝川左近殿です」
何がだろうと思っていると、羽柴殿へ反旗を翻したのだという。滝川殿も織田殿の重臣の一人だったが、本能寺の事件の時は遥か東の方にいて、清洲の会議にも参加していないようだ。
招かれていたのに東の方の国から駆けつけたけれど時間的に間に合わなかったとか、招かれなかったとかいろいろな情報があってどれが本当かよく分からない。
本拠地は都から南東の伊勢という地方らしい。その伊勢で、日本の暦の正月元旦に挙兵した。
「何もよりによって正月に……。羽柴殿は今度は七万の軍勢を引き連れて伊勢に向かったとか。今度も長引くでしょう。なかなか世の中は落ち着きませんな」
ジュストも苦笑していた。
その後、滝川殿との戦がどうなったのか気がかりではあったが、我われの生活に直接影響するようなこともなかった。私は再び神学校の学生らとともに、無事平穏な日々を楽しく過ごしていた。
そうして灰の水曜日を迎え、四旬節に入った。
だが、その四旬節も終わりに近づいた枝の主日……、高槻の城下でもあちこちで桜が満開だったが、この日から聖週間が始まり、聖木曜日、聖金曜日と続いて復活徹夜祭から復活祭となる。
復活祭は日付が毎年変わるが、今年は3月31日だった。
その枝の主日のミサに参列していたジュストは、また例によってミサ後に我われ司祭団をつかまえた。だが今回は単に情報を伝えてくれるというだけではないようで、かなりあらたまった様子で我われと対座した。
「バテレン様方、申し訳ない」
いきなりジュストは我われに頭を下げた。
「聖週間も、復活祭も私はミサに与れません。この高槻にいないのです」
「殿様ですから、いろいろと事情はあると思いますので、頭を挙げてください」
フルラネッティ師が慌ててジュストに頭を挙げるように促した。
「羽柴殿から私にも、参陣するようにとのお触れがまいりました。私は戦に行かねばなりません」
もう三カ月近く膠着状態になっている滝川殿との戦争に今さら駆り出されるというのもおかしな話なので、我われは皆一斉に事情を察した。
もちろん詳しくは分からないが、これまで以上の大きな戦争が始まったのだということくらいは分かったのである。
「差し支えなければ、事情をお話しいただけませんか」
フランチェスコ師が尋ねた。
「今までは雪に閉ざされて動けなかったと思われます越前の柴田修理殿が、雪解けとともについに大軍を動かして近江に向かいつつあるというのです。間もなく近江に対羽柴の陣を大々的に布陣するであろうと予測されます。滝川殿との戦のために伊勢に赴いていた羽柴殿も、その軍を率いて取って返し、いよいよ羽柴殿と柴田殿との一大決戦になりそうなのです。そうなると、これまでの局地的な戦ではなく、大々的な天下をかけての戦になるでしょう」
そうなると、これまでの平和は一時的なものだったのかと思われる。
「三法師様もその後見の御本所様も羽柴殿の側にあります。御本所様の兵力も羽柴殿の兵と合力するでしょう。三七様はもう三法師様の後見は解かれています。何もできません。丹羽殿も池田殿も羽柴殿と心は一つです。そこで織田家のかつての武将のほとんどに参戦が命じられて、私も出陣しなければなりません。柴田殿には私の父ダリオが越前に追放されていた時には大変お世話になりましたので、その柴田殿相手に戦うのは心苦しいのですが致し方ありません」
「分かりました」
フルラネッティ師は言った。
「そのことについて、私どもは何も言える立場ではありません。でも、『天主様』は何も心配することはないとおっしゃっているように感じます。主祷文にも『天において思し召すままなるごとく、地においてもあらせたまえ』とありますね」
我われは皆、ジュストが毎朝早朝のミサよりも早く教会に来て、この主祷文を五回も唱えていることを知っている。
「すべて『天主』の思し召しのままになりますように、今一度、ご一緒に主祷文を唱えましょう」
こうして我われ司祭三人とジュストとで日本語で主祷文を共に唱え、ジュストは戦場へと赴いて行った。
領主不在の高槻ではあったが、教会では変わることなく厳かに聖木曜日、聖金曜日、そして復活徹夜祭のミサが執り行われ、大勢の信徒が押し寄せた。
徹夜祭の復活讃歌は神学校の学生たちが、見事なラテン語で歌いあげた。一般の信徒たちは言葉が分からないはずなのに、それでも感動の涙を流している者も多かった。
復活祭当日、ジュストの両親であるのダリオとマリア、妻のジュスタや子のジョアン、ルチアもそろってミサに参列し、また教会に入りきれないほどの大群衆といってもいいほどの信徒で城内の教会のあるあたりは埋め尽くされた。
思えば、私が日本に来てから初めての復活祭は、この高槻で迎えた。叙階式のあったマカオでの復活祭のちょうど一年後だった。去年は都の教会でそれなりに盛大に祝ったが、都の巨大さの陰には埋もれていた感があった。
今、私にとって日本での三回目の復活祭は、最初の高槻に戻ってきた形となる。今年もオルガンティーノ師は高槻には来ず、都の教会で復活祭を祝っている。理由は去年と同様、領主のジュスト不在に対する遠慮からであろう。
思えばジュストも去年の復活祭の時は織田殿に従って甲斐の武田と戦っていた。今年は羽柴殿の軍に加わって柴田殿と闘っている。ジュストにとっては、また彼が引きつれていった多くの信徒の兵たちにとっても二年連続で復活祭を戦場で迎えることになり、私は少々気の毒に思っていた。
復活祭当日のミサの司式は、フルラネッティ師だった。そのミサの中での説教が、また印象的だった。
「皆さん。ご復活、おめでとうございます。キリシタンにとって一年でいちばん重要な意義があり、盛大であるべき祭りは何か…それは復活祭であります。ナタルよりも重要なのが復活祭です。主イエズス・キリストの十字架と復活、それを受け入れるのがキリシタンの信仰の基本であります。使徒パウロもコリントの教会に宛てた手紙で、次のように述べています。『もしキリスト甦り給わざりしならば、我らの宣教も空しく、汝等の信仰もまた空しからん。もしキリスト甦り給わざりしならば、汝等の信仰あ空しく、汝らはなお罪に居らん』と。キリストの復活は、ただ死んだ人が生き返ったということではありません。それはキリストが死に打ち勝ったこと、そしてそれは『天主』のみ業によってなされたということです。今日の復活祭を機に、皆さんも新しく生まれ変わることが大切です。一度死んで生まれ変わりなさいということではなく、生きながらにして生まれ変わるのです。キリストは言われました。『人新たに生まれずば、神の国を見ること能わず』と。今、この日本の国も瀕死の状態にあります。去年の復活祭の時に、皆さんのうちだれが一年後の今がこのような状態になっていると予測できましたか? 私もまた思ってもいませんでした。多くの日本人はこれからのことを憂い、この国を憂い、不安にさいなまれています。でも、皆さんはそうではないはずです。今日、皆さんはキリストとともに復活いたしました。今日読まれました第二朗読も使徒パウロの手紙で、コロサイの教会に宛てた手紙です。ラテン語でしたので皆さんは分からなかったと思いますから、その内容を日本語で言いますと『汝等もしキリストとともに甦らせられしならば、上にあるものを求めよ。キリスト彼処にありて天主の右に坐し給うなり。汝ら上にあるものを念い、地にあるものを念うな』。あなた方は異教徒とは違って、この地上で繰り広げられている権力闘争や戦争などに目を向けず、もっと上を見るとそこに父である『天主』の右に坐しておられるキリストを感じることができるはずです。そんなあなた方の力によって、この国も今日を機に新しく始まる、いわば復活を遂げるのです。今日の復活祭はこの国の新しい出発の日でもあります。そのためにも、ともに祈りましょう」
ナターレの時と同様、フルラネッティ師の説教の中には普段はまずしないであろう政治的な話が込められていた。だが、混迷の中で翻弄されているこの国の信徒の心には灯をともしたと私は思って聞いていた。
ミサの後は、二年前にこの地で迎えた復活祭と同様、おびただしい数の信徒の行進が高槻の町を練り歩き、その数はやはり二万人近くに膨れ上がっていると思われた。ヴァリニャーノ師がまるでローマだと感嘆されたあの時となんら変わらなかった。




