Episodio 6, Gli Esercizi spirituali, Ordinazione e viaggio in Giappone(霊操・叙階、そして日本へ)
1
年も明けて1580年の1月中旬から、我われは霊操の修行に入った。
この年は1月16日がこの国では正月一日なのだということで町中赤い紙でできたランプのようなものが飾られ、教会の聖堂にも同じようにそれは横一列に取り付けられた。異教徒が正月を祝うだけで宗教的行事というわけでもないようなので、司教も許しているのだという。
この国の暦で新しい年が明けたその日は、町中がうるさいほどの爆竹の爆発音で包まれた。爆竹はチーナ人住民によって鳴らされていた。その滝のような音の渦の中で正月を迎えるのは、エウローパの一部の地域と全く同じなので驚いた。
そんな爆竹の音の中で、我われの霊操は始まった。
霊操の修行は黙祷用の小さな個室で行われる。聖堂を小さくしたような部屋で、正面の祭壇には十字架像が祀ってあった。窓は小さく中は薄暗い。そこには私のほかには、指導の司祭がこのプログラマの内容を伝えに時々入って来るだけで、基本的には私一人だ。指導の言語は、すべてラテン語であった。
最初に、このプログラマの原理と基礎が指導の司祭によって告げられた。『創造主』はなぜ「私」は創られたのか、それは『天主』に奉仕し、『天主』のみ手足となるためである。そしてすべての被造物は、そうした『天主』の使徒である人間のために創られたのであり、それが有益ならばそれを使用し、有害ならば遠ざけるべきで、あらゆる物質的な欲望を遠ざけ、「私」が創造された目的へ導くものだけを望み、また選ぶべきである――この霊操はそのための霊的修行であるということだった。
そして毎日その都度与えられた課題について黙想し、観想する。黙想はそれぞれ一時間、最初は深夜から始まり、次に起床してすぐ、午前中のミサの前か後、夕の祈りの時、夕食前の計五回、それぞれが一時間である。
準備として、まずは自分の心の中にしっかりと場面設定をする。具体的な場面については、その都度指導の司祭が教えてくれた。そしてその回の霊操の目的をしっかりと把握し、その目的を達成できるためのご加護を願う祈りを捧げる。そうして、与えられた課題について瞑想し、観想を行う。そして最後に『天主』との対話を行うのだ。
そのほかに、毎日昼食後と夕食後に自らを見つめ直す「糾明」という黙想をする。ただ漠然と黙想をするのではなく、四週間にわたって毎日する「糾明」の課題は、あらかじめ指導の司祭によって与えられた。
一日五回の霊操は、最初の週は「罪」についてであった。
深夜の第一霊操は堕天使の罪、アダムとイブの罪、そして地獄に落ちた人びとの罪について観想し、与えられた内容に沿って『天主』との対話を行う。
それは心に浮かんだことを言葉に出して、僕が主人に対するように『天主』に言い表すことである。だから対話とはいっても一方通行だと、少なくともこの当初はそう感じられたものであった。
早朝の第二霊操は自分自身の罪を、さかのぼって徹底的に思いだす。膿のかたまりと化した自分を客観的な目で見つめ、そこからどれだけのおびただしい罪と穢れが吐き出されるかを心の目で見るように指示される。そして、自分が反逆してきた相手が実はどのような方であったのか、よくよく思いめぐらすという課題も出た。対話では、そのような状況にもかかわらず自分は許されて生かされていることの意味を言い表すのであった。
午前の第三霊操は、第二霊操の繰り返しである。対話では聖母マリアに罪を忌み嫌う心を持てるように願い、次に御子、最後に御父との対話となる。夕方の第四霊操はそれらの総括。夕食前の第五霊操は地獄を実体験するよう、想像の眼で地獄を思い浮かべ、その臨場感の中で地獄を体験する。
この内容を一週間毎日繰り返すのである。食事の時も互いに談笑は禁じられ、また明るいこと、楽しいことを思い浮かべることすら禁じられた。この一週間というもの窓は全部締め切りで、薄暗い中での生活だった。
霊操がない時間は自室にいていいのだが、勧められたのがむち打ちなどの苦行であった。自分で自分の体に鞭をあてて血を流し、罪の深さとまたその贖いを実践するのである。苦行の一環として食事も毎日が一切の肉類を口にしないという小斎であり、この週は満足な食事は一回だけという大斎に準じたものでもあった。睡眠時間も、夜中と早朝に霊操があるため、普段より削られる。
もしこの第一週だけでやめてしまった人がいたとしたら、自分を責めさいなみ、魂は委縮し、再起不能な状況で今後の人生を送らなければならないことになろう。だが、まだ次の週がある。無論この時、次の週には何をやるのかは告げ知らされてはいなかった。
一週間後に総告解で司祭に罪を告白し、ゆるしの秘跡を頂く。
閉めきっていた窓が開放され、やっと明るい光の中での修行となった。
そして二週目は、イエズス・キリストのご生涯のうち、エルサレム入城までのご事跡を、福音書と共にたどっていく。福音書の指定された場所を読んでの感想だった。この週は前の週と違って毎日同じ内容の繰り返しではなく、一日一日と新しい課題が与えられる。まずは聖母マリアへの受胎告知から始まってベトレヘムへの旅、主の御降誕、御公現、ヨルダン川での洗礼、使徒の召命、山上の垂訓、湖上の歩行など、要は毎日少しずつ、キリストのご生涯をたどるのである。
その途中には、荒野の二つの旗、一つは悪魔の旗、もう一つはキリストの旗という二大陣営の旗を観想し、それぞれの陣の王であるキリストと悪魔の対比を観想した。どんなものをも打ち負かすほどのお力のある王であるキリストが、なぜ無抵抗に受難の道を歩まれたのかも、併せて考えさせられることである。
さらには、その他に毎日、地上の王とそれに従う従者を観想し、その王にキリストをスライドさせ、忠誠心を養うことが要求された。
黙想の途中にはさまざまな想いが心に浮かぶが、それが善天使によるものなのか邪霊のささやきなのか、それをしっかり見分ける方法、さらには邪霊の魔語に打ち勝つ方法も同時に伝授された。
三週目はイエズス・キリストの受難の観想である。まずは最後の晩餐からゲッセマニの園でのことを思い描くが、指示では想像の眼であたかも自分がその場に居合わせているかのような臨場感を感じるようにとのことであった。最後の晩餐の食卓に自分も居合わせ、手を伸ばせばものに触れることもでき、使徒たちを自分の目で見て、その声を聞いているというところまで意識を持っていく。そして日を追うごとにキリストの苦難、十字架の道行きと、一週間かけてそれを追体験するのである。
そして、そこから得たものを対話として、キリストに対して言い表す。その喜びの霊操を、一週間の間に何度も繰り返す。
四週目は全く同様に、主キリストの復活に臨在するのである。この時はもう部屋も明るくし、快適な生活の中で行うことが許された。こうした一ヶ月弱にわたる良心の糾明、黙想、観想、言葉に出しての祈り、心に念じる祈りなどを通して、『天主』と深く交わり、『天主』のみ意が那辺にあるのかを目指してきたわけだが、対話においても終始『天主』は沈黙を保たれていた。
たしかに魂は鍛えられたかもしれない。しかし、体の方はただ疲れたといっていい状態だった。
だが、その余韻にいつまでも浸っているわけにもいかなかった。
このマカオにおける、それだけではなく我が人生における最大のイベントスである叙階の日がまもなくやってこようとしていた。準備に慌ただしい。準備といっても霊的な準備そのものは「霊操」がそれであったわけで、あとは現界的な準備に奔走する毎日となった。だから、この「霊操」によって自分がどれだけ成長したのかなどということを実感として感じるには、毎日があまりに忙しすぎた。
2
すでに二月も中旬になり、この町はすっかり春めいてきていた。司祭への叙階式は、最初は4月3日の復活祭の日と決まっていた。助祭への叙階式も復活祭であったことを考えると、私は不思議な因縁を感じないではいられなかった。
そんなある日、私と、叙階予定の日本から戻ってきた助祭・修道士たちの合わせて六人が司教座に呼び出された。司教が出てこられるまでずいぶん待たされたが、ルッジェーリ師とともにお顔を見せたカルネイロ司教は深刻そうな様子で元気もないようだった。自然、我われの間にも緊張が走った。
「実は大変な問題が起こりましてな」
緊張はさらに増した。司教も奥歯に物が挟まったようで言いづらそうだった。そのあとの少しの間が、どうにもじれったかった。
「実は」
そのあとすぐに言葉が続くのだが、我われにはそれがすごく長い時間に感じられた。
「まずは叙階式に必要な司祭団の数が足りないのです」
我われは皆、黙っていた。それに対して何かが言える立場ではない。だから、息をのんで司教の次の言葉を待った。助祭の叙階と違って、司祭の叙階では、司教のほかに司祭団からの按手が必要である。その司祭団の数は決まってはいなかったが、最低十人は必要とのことだった。
「今、マカオには司祭は九人しかおりません。まあ、これは前から分かっていたことですからマラッカから司祭を派遣してもらうように手を打ってはおきましたが、どうにも船の便が都合がつかないとのことで、復活祭には間に合いそうもないのです」
また我われは、黙って聞いているしかなかった。
「だが実は、もっと困ったことが起こったのです」
さらにまた我われは、息をのんだ。
「実は…昨夜この司教座に賊が入って、聖具やポルトガル通貨などが根こそぎ盗み出されてしまいまして、その中には聖香油となるべきオリーブ油も含まれていたのです」
はっと顔を挙げて、我われは互いにその顔を見合わせた。
「オリーブ油?」
アルメイダ兄が眉間にしわを寄せて聞き返した。司教はゆっくりとうなずいた。
「ほんの少しでも残ってはいないのですか?」
「全部です。一瓶もありません」
人々の間から、ため息が漏れた。
私は思い切って顔を挙げた。
「その賊は…」
そこまで言ってから、私は失言を悔いた。司教は黙って首を横に振っておられる。その横でルッジェーリ師が口を開いた。
「すぐにカピタン・モールに連絡して賊を捜索してもらおうと思いましたが…」
それから、師は司教を横目で見た。司教はうなずいた。
「キリストは仰せになりました。『汝を訴えて下着を取らんとする者には、上着をも取らせよ』と」
言われるまでもない。ここで賊を責め、賊を裁いてもどうにでもなるものではない。だが、現実問題は賊云々よりも今ここにオリーブ油が一滴もないという事実である。そのことを思うとまた緊張が走る。
聖香油は司祭の叙階式にはなくてはならないもので、司教と司祭団の按手と共に司教の手によって叙階を受ける者に油が塗られる。その油が聖香油であるが、もとはオリーブ油を聖別したものだ。
ミサで拝領するキリストの御体と御血の元はパンとぶどう酒でなくてはならないように、聖香油の元もオリーブ油でなくてはならない。
「オリーブ油を他から入手することはできないのですか?」
私は恐る恐る尋ねてみた。司教はまた首を横に振った。
「パンとぶどう酒ならばこの国にもありますが、オリーブ油はエウローパからもたらされない限り、この国では手に入りません」
我われが食用としているパンも故国よりもたらされてはいるが、ミサで使う御聖体となるパン、すなわち酵母を入れないホスチアならこの国でも作れる。そもそもインジャでもこのマカオを含むチーナ大陸でも、酵母を入れないパンは日常の食事で普通に食べられているからかえって驚いたものだった。
我われにとって酵母を入れないパンはミサのホスチアか、古くはユダヤの民が過越の晩餐に食したくらいだったからだ。さらにぶどう酒も、このチーナでは普通に安く売られている。もっとも、我われの国のぶどう酒に比べると、かなり甘みがきつい。
だが、オリーブ油は一切ない。かといって聖香油を、この国の人びとが食用に普通に使っている動物性のラルドやごまの油で代用するわけにもいかない。
「だめでもともとと思ってカピタン・モールにも聞いてみたが、その邸宅にもオリーブ油は一切ないということでした。そうなるとまたマラッカから取り寄せるしかない。でも、マラッカから司祭を招こうとしてもまだ到着していないのに、今からまたオリーブ油を頼んでも司祭の到着と行き違いになる恐れもあるし、そうそう船便もありませんからね。それに、マラッカには司教がいないので、果たしてオリーブ油があるかどうか……。いや、申し訳ない」
なんと司教の方から我われに謝罪するので、むしろ我われは慌ててしまった。
「司教様」、「司教様、そんな」、「司教様!」
我われ助祭団は逆に恐縮して口々に司教に目を向けた。
「あのう」
また、恐る恐る私が顔を挙げた。
「フィリピナスのマニラの方が、マラッカより近いのでは? そこにも我らイエズス会の司教座がありますよね」
その私の発言を、アルメイダ兄が手で制した。
「同じイエズス会があるとはいっても、マニラはイスパニアの領土ですよ。まあ、ここにイスパニア人のカリオン兄やラグーナ兄もおられるからなんだけれど、ポルトガル王の付託を受けて我われはこのポルトガル人が居住するマカオで福音宣教している以上、イスパニアの領土からものを取り寄せることは憚られますな、政治的に」
その「政治的」という言葉に、私にはほんの少し違和感を覚えた。
「マカオとマニラには航路もありません」
ポルトガルとスパーニャの相克は、こんなところでも変な形で顔を出すものだ。福音宣教に意識を集中するあまり、私はそのへんの事情には疎いところがあった…この頃は。
その時、司教が音を立てて椅子から立ち上がった。皆、びくっとした感じで一斉に司教を見た。司教は再び、目を伏せてうつむいた。
「この期に及んでは、皆さん方に次のいずれかの道を選んで頂くよう、お願いするしかありません」
また、皆が一斉に立ち上がって、司教に顔を挙げてもらった。老司教は立ったまま話を続けたので、皆もそのままで聞いていた。
「状況として、司祭の到着が遅れるだけならば、叙階式を延期すれば済む話です。でもオリーブ油が復活祭に間に合わなければ、早くても一年後。万が一ゴアから取り寄せるなどということになればいつ船が来るかわからない状況ですから、数年後になってしまいます。そこで」
六人とも一斉に息をのんだ。早くても一年後というのは、聖香油は司教の手によって復活祭前の聖木曜日の午前中のミサで聖別されて聖香油となるからである。つまり、一年に一度しか聖香油の聖別はできないのだ。オリーブ油の到着が半日遅れて聖木曜日の午後に届いたとしたら、叙階式は一年後までできない。
「まずはこのマカオでオリーブ油の到着をお待ち頂くか、あるいはゴアまで行って叙階式に臨むか、もう一つはこのまま日本にお戻り頂くか」
我われはどよめいた。
「今、日本では」
口を開いたのは、アルメイダ兄ほどではないにしろかなり年長のサンチェス兄だった。
「司祭がとても不足しているのです。だから我われに一刻も早く叙階させようというのが巡察師のお心なんです」
「そうですね。このまま日本に戻ったら、巡察師はがっかりされるでしょう」
若いカリオン兄もそう言葉を継いだ。
「かといってゴアまで行って戻ってきたりしたら、下手をすれば三年くらいかかってしまうかもしれない」
ラグーナ兄がそうつぶやいた時、アルメイダ兄はついに嗚咽を漏らし始めた。それを見て、私はふと我に返った。衝撃のあまり、まるで人ごとのように他の助祭たちの話を耳に入れていた自分だったのだが、これは私にとっても大きな問題なのであった。
彼らは「日本に戻る」という表現だが、私にとってはこれから「日本へ行く」のである。彼らは司祭への叙階のためにわざわざマカオまで来たのだから、ここで叙階を受けずに日本に戻れば手ぶらで帰ることになる。ましてや三十年の歳月を経てやっとの叙階ということになったアルメイダ兄にとっては、その衝撃は本来なら嗚咽では済まないところであろう。今は司教の前だから、遠慮しているのだ。
だが、私にとっても助祭のままで日本へ行ったのなら、司教のいない日本では叙階されることは不可能だ。かといってやっとの思いでゴアからここにたどり着いたばかりの私が、またゴアへ逆戻りというのも耐えきれない話だった。
そんな時、涙をぬぐって、アルメイダ兄が皆に呼び掛けた。
「待とうではありませんか、この地で。すべてを『天主様』のみ意にお任せして、あるがまま、なすがままに従順にそのみ意に従いましょう」
誰も異を挟む者はいなかった。それを見ていた司教の目にも、うっすらと涙が浮かんでいるのが見て取れた。
3
それからというもの、私は毎日修練院の聖堂で祈った。
司教は船の便があり次第、すぐにでもマラッカにオリーブ油を取り寄せるための書簡を送る手はずを整えたが、予定通りの復活祭での叙階式というのはもはや物理的に不可能であった。
それでも私は祈った。
ちょうど霊操で身につけたばかりの、『天主』との対話という方式で祈った。
まずは司祭となって日本に赴かなければ、福音宣教の活動も制限されてしまう。だが、今自分と共に叙階しようとしている諸兄はそのような限定された条件下でも日本で十年も二十年も、あるいはアルメイダ兄のように三十年も福音宣教に従事して来られた方たちである。その方たちがやっと叙階を受けようという時のこの障害を取り除いてくださるのは『天主』のお力以外にはないと、もう頭から湯気が出るのではないかと思われるくらいに毎日毎日私は祈った。
自分のためだけではなく、すでに日本で福音に従事して来られた諸先輩方のために祈った。
そこにあったのは、『天主』に対する絶対的な信頼であった。
それでも『天主』は霊操の時と同様、沈黙を保たれたままだった。
そうして祈り続ける日が過ぎていき、マカオの町もかなり春らしい様相を呈してきた。
いつしかもう、三月の中旬を過ぎていた。復活祭まであと半月しかないが、そんなある日、とうとう結論が下された。
皆を集めた席で、アルメイダ兄は厳かに言った。
「ここはやはりゴアまで行って、叙階を受けようではないか」
誰もが涙を流しながらも、それに賛同した。だが少し間をおいてから、アルメイダ兄は私を見た。
「コニージョ兄、あなたはどうします?」
そう、私だけ彼らとは立場が違うのだ。
だが、何も考えないうちに、私の口はほとんど勝手に答えを言っていた。かつてはいろいろと悩んだりもしたが、今となっては答えはひとつだったからだ。
「私は日本へまいります」
この私の決意にも、誰もが納得したようにうなずいていた。さらに私は話を続けた。
「私の目的、いえ、『天主』が私にお与えになった任務は日本の地での福音宣教に他なりません。ここでゴアに逆戻りして日本へ行く時期を遅らせるのは、み意にかなっているとは思えないのです。皆さんは司祭に叙階されるためにマカオに来られたのですから、その目的を果たすためにさらにゴアに赴くのは仕方がないことだし、また当然のことだと思います。でも、私の場合は違う。ここで皆さんとはお別れすることになりますけれど、単身で日本に渡るべきだと思うのです。日本では司祭にはなれないでしょうし、いつまたこのマカオに来て叙階を受ける機会があるかは分かりませんが、今は私が司祭になるかどうかよりも日本での福音宣教の方が先だと思うのです」
最初はサンチェス兄が、次にアルメイダ兄が拍手をしてくれて、それはすぐに全員に広がった。
「先に日本に行って待っていてください。我われもなるべく早く日本に向かいますから」
サンチェス兄が、涙ながらにそう言って手を握ってくれた。
そうなると、どうしてもマカオでこの復活祭に叙階をというこだわりは吹っ切れ、一切の執着は断ち切れた。その分、私もそうだったが彼らもだいぶ心が軽くなったようだった。
「どんな状況でも、すべて『天主』のみ意のままです」
アルメイダ兄がそう言って何度もうなずいた。すべてが『天主』のみ摂理としてあるがままに受け入れる。そこには『天主』の計り知れない遠謀がおありになるに違いないからだ。だから、もはやマカオの復活祭での叙階を願う祈りはしなくなったが、それでも『天主』に対する絶対的な信頼は何一つ揺るぐことはなかった。
するとその翌日のことである。
司教座の方に数名の、イエズス会とは別の修道会に属する司祭や修道士が訪ねて来ているという知らせを受けた。彼らはチーナ大陸の方から陸路マカオに到着したということで、その知らせに私は奇異な感じを受けたのである。
そもそもイエズス会がマカオに教会を建てているのは、チーナ大陸への福音宣教の基地とするのが目的であった。だがチーナ大陸を領有している明という国はかなり強硬に国を閉ざしており、外来勢力が入りこむのには大きな壁があった。
このマカオの司教座からも明への福音宣教はほとんど足踏み状態になっているのである。それを明があるチーナ大陸の方から宣教団がマカオに来たというのはどうにも不思議な話である。
その日のうちに、いろいろと情報は修練院へももたらされた。
彼らはカプチン会の司祭と修道士ということであった。カプチン会とはフランシスコ会から分派した修道会で、かつては教皇領やナポリ公国などイタリア半島内でのみ活動が許されていたが、五、六年前にその禁が解けて今やスパーニャなど世界に広がっている。そして今やそのスパーニャが領有するヌエバ・エスパーニャ(ポルトガル語でノバ・イスパニア=かつてアステカ文明が栄えた地)にも多くの修道院を有し、彼らはそのヌエバ・エスパーニャから来たスパーニャ人だということであった。
その彼らがチーナ大陸の方からやってきた理由は明の広東での福音宣教を志して太洋はるばる西へと渡ってきたが、どうにも明の国の壁は厚く、ついに挫折してこのマカオへ退去してきたとのことであった。
スパーニャ人だからスパーニャが領有するマニラに行きたかっただろうが、マニラまでは海を越えねばならず船の定期便もない。広東からマカオなら地続きで、徒歩でも一週間くらいで着く距離だという。それでとりあえずマカオを訪れたとのことであった。
マカオには当然彼らの修道会はなかったが、彼らは異端というわけでもなく同じ教皇様に属する公教会の別の修道会というだけのことなので、イエズス会としても歓迎して我が修練院に逗留してもらうことになった。
彼らが修練院に到着した時にあいさつしてその風貌を見たが、茶色い僧服に先がとがった頭巾を一様にかぶっているのが印象的で、それが「カプチン」という会の名前の由来にもなっているという。
そのあと彼らは司教座での歓迎の宴に呼ばれていったが、アルメイダ兄が興奮した状態で私の部屋に駆け込んできたのはその宴も終わったであろうと思われる頃の時刻であった。
「みんな、みんな集まってください。朗報です!」
その言葉通り、正確には私だけでなく他の日本からの助祭たちすべての部屋を兄は回っていたようで、広間に集まった我われにアルメイダ兄は説明を始めた。
話は司教が催したカプチン会士たちの歓迎の宴のことで、宴では最初は広東における布教の様子に終始しており、特にこれからチーナ大陸での福音宣教を志すルッジェーリ師が中心となってあれこれ聞きだしていたようだが、やがてこの地での料理の味付けや、このチーナの料理についてのことに話題が移っていったという。
その中で話が食用の油のことに及び、チーナでは動物脂やごまの油しかないということになって、司教がこの地ではオリーブ油が手に入らないことに言及されたという。
そしてひょんなことから、彼らがオリーブ油を所持しているということが分かったということであった。さっそく司教が今のこの状況、すなわちオリーブ油がないために司祭叙階式ができずにいることを話すと、彼らはオリーブ油を提供してくれることを快諾してくれたとのことだった。
「『天主様!』」
と思わず私は故郷の言葉で天を仰いで叫び、それから地に伏した。ほかの皆も手を取り合って飛び跳ねたり、アルメイダ兄は号泣していた。
ひとしきりの興奮の後、司教座から使いの修道士が来て、明朝全員司教座に集まるようにとの旨を知らせてきた。もはや用件は行かずとも分かっている。まさしくそれは「よき知らせ」であった。
その足で私は聖堂に向かった。そこでひざまずいて、涙と共に祈った。
『天主』は沈黙などなさってはおられなかった。言葉での問いかけや対話には沈黙を守ってこられた『天主』だが、まぎれもなく『天主』は実在しておられることを痛感した。『天主』は人間の思惑とは別のところで実在しておられる。そして強く祈れば必ず動いてくださる。『天主』におできにならないことは何もない。天地の創造主、全能の父である『天主』なのだから、できないことがあるはずがない。
そんなことを、これほどまでに強く感じたことはなかった。
全智全能の『天主』はまさしく『在りて有るもの』、すなわち「厳としてお在します有力光」、実在してすべての力をお持ちのお方なのである。沈黙どころか、こんなにも雄弁に『天主』はご自身の実在をお示しくださった。
私は顔が涙にぐしゃぐしゃになりながら、感動のうちに感謝の祈りを捧げ続けていた。
4
司祭叙階式は、4月3日の復活祭のミサの中で行われた。場所は当然司教座の大聖堂である。
思えばリスボンを出発してから、すでにまる二年の月日がたっている。緊張のうちに迎えた当日では、まず司祭団十二人が、頭に司教冠のミトラをかぶって手にバクルスという杖を持つカルネイロ司教と共に入堂した。その中にはカプチン会の司祭三人も混ざっていた。修道会を越えての司祭団というのは異例だが、規定に反するわけではない。
カプチン会の来訪はオリーブ油の提供ばかりでなく、司祭不足をも解消してくれたのである。
木造の堂内には、聖歌の合唱が響いている。これだけの数の司祭が祭壇上に並ぶのは壮観だった。
ミサは福音書の朗読に至るまでのことばの典礼までは通常通りで、そのあとの感謝の典礼の前に叙階式となる。
まずはカルネイロ司教からの言葉があった。
「皆さんはすでに日本という国で福音宣教に従事されている方ばかりです。中にはこれから初めて日本に行かれる方もおられますが、ともに司祭として『天主』の手足として世界の隅々にまで福音を告げ知らせるために、困難に打ち勝ってほしいと思います。イエズス会の戦士として、ザビエル神父やトルレス神父の遺志を受け継いで尽力して頂きたい」
だいたいそんな内容の話があってから、司教は福音書の一節を引用された。
「マタイによる福音、『見よ、我、汝らを遣わすは、羊を狼の中に入るるがごとし。この故に蛇のごとく聡く、鳩のごとく素直なれ』。これから日本という異教徒の国にあなた方が遣わされるに当たって、あなた方一人一人にキリストはこのように語りかけておいでです。『蛇のように賢く頭を働かせよ。鳩のように素直になりなさい』ということですね。それはつまり、『決して相手に敵対してはならない。心の下座によって相手を救いなさい』という教えです。心の下座が救いの妙計なのです。それに続く部分も、皆さん各自で読んでおいてください。もうどこに書いてあるかは、お分かりですね。そしてキリストはまた、次のようにも仰せになりました。『大いならんと思う者は皆に仕うるものとなり、頭たらんと思う者は、すべての者の僕となるべし。人の子の来たれるも、仕えらるる為にあらず、却って仕うることをなし、また多くの人の贖償として己が生命を与えんためなり』と、これはマルコによる福音書です。あなた方も、日本の民に仕える者となってください」
司教の話に、式典の途中なのに目に熱いものがこみ上げてしまいそうになるのを、私は必死でこらえていた。
それから、我われ一人ひとりの名が読み上げられた。それから司教は、祭壇の前にひざまずく我われ叙階者六名に、聖香油の塗油を行った。この聖香油が今ここにあるということこそ、『天主』のみ摂理以外の何ものでもない。まさに奇跡の聖香油であった。
それから一人ひとりの頭の上に司教は手を置き、いわゆる按手をしながら祈りを捧げていた。
六名はフランシスコ・ラグーナ、フランシスコ・カリオン、ミゲル・ヴァス、アイレス・サンチェス、ルイス・デ・アルメイダの各新司祭五名と、それから私であった。
次に参列している十ニ名の司祭たちからも次々に頭に手を置いての按手の祝福を受け、一人ひとりに司祭の祭服であるカズラが着せられていった。そしてまた一人ひとりのミサで使うキリストの御血を入れる杯のカリスと、御聖体を入れるパテナが授与された。
それからミサは、通常の感謝の典礼へと移っていった。
晴れて司祭に叙階した私たちは、ミサが終わると通常のアビト・タラーレに着替えたが、頭にはみんなで初めて帽子をかぶった。それが司祭であることを表しているかのようだった。
そして私ども新司祭は、いよいよ日本のナガサキに向けて出港することとなる。ただ、季節風の関係があるので出航は七月になってからとのことであった。
それまでは私も司祭として新しい任務をこなし、初ミサも終え、同時に日本語の勉強にも精を出した。今はアルメイダ師をはじめ、日本帰りの方たちから直接に会話の手ほどきを受けることもできる。ようやく私も片言ならば日本語を話せる程度にはなった。
マカオのカピタン・モールも昨年日本より戻ったレオネル・デ・ブリトからミゲル・ダ・ガマという人に替わっており、我われはそのミゲル・ダ・ガマが船長を務める船に乗ることになる。
我われ新司祭は一度、そろってそのミゲル・ダ・ガマにあいさつに行った。ひげ面で顔は無骨そうだが愛嬌もあり、軍人でありながら何よりも主キリストを深く信仰している人のようであった。しかも、聞くとポルトガル人で初めてインド航路を開いたあの有名なヴァスコ・ダ・ガマの孫だという。
さらに私にとっては、ずっとリスボンから行動を共にしてきたルッジェーリ師と、ここでお別れすることになる。
そうして7月3日の日曜日、聖トマスの祝日のミサの後に、司教はじめルッジェーリ師を含む多くの司祭たちに見送られながら、我われのナウ船は帆に大きく風を受けてマカオの港を出発した。
約二十日間の順調な航海の末、ついに我われの船の前方に陸地が見えた。
島国という印象からもっと小さな陸地かと思っていたが、目の前に横たわる大地は見た目は大陸のそれと変わらなかった。ただ、近づくにつれて山がちな大地を覆う緑が目にまぶしく、豊かな自然がある国なのだなというのが第一印象だった。海岸すぐ近くにまで山は迫っているが、結構高い山でも頂上まで見事に緑に覆われている。
そういった風景で目を楽しませていたが、ふとある瞬間に私の魂に戦慄が走った。緑が日に映えているばかりではなく、目には見えない黄金の光に国土全体が包まれているような気がしたのだ。
「黄金の国、Zipangu」
私は、思わずそうつぶやいていた。実際に黄金の色が見えたわけではなく国土はあくまで緑だが、私はその神々《こうごう》しさに思わず息を呑んだ。そして同時に、はじめて来る土地のはずなのになぜか懐かしいという不可思議な感情が私の中で芽生えていた。