表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とある司祭(パードレ)の憂鬱(メランコリア) ~聖なる侵略者~  作者: John B.Rabitan
Capitolo 6 Incidente di Honnoji(本能寺の変)
53/96

Episodio 8 Fuga da Azuchi(安土脱出)

                  1


 普通の馬速ではなく、私は馬を全速力で走らせていた。

 風が顔に当たる。空は雲の間から晴れ間が広がっている。

 雨の日はそうでもないが、晴れるとそろそろ汗ばむ頃である。だが、顔に当たる風のせいで涼しかった。

 川に突き当たると東に折れて川の上流に向かってほんの少し北上したら、橋が見えてきた。

 さすがに都は巨大だ。このあたりまで来ると、あの大騒ぎがまるで巨大な町のほんの一角での小さな出来事であるかのように、人々はいつもと変わらぬ日常生活を続けている。


 この三条の橋を渡って東へまっすぐ進み、山にぶつかって右に折れる登り坂になるとそこが都の入り口、先日織田殿を出迎えた粟田口である。

 思えばここでの会話が、織田殿と接した最後になってしまった。その時は、まさか今のような将来になるという予感すらなかった。

 だが、今この場所に馬がさしかかろうとして急に今までなぜか実感がわかなかったある事実が、現実味を帯びて私にぶつかって来た。

 織田殿がもうこの世にいないのだという。それがいかに重大なことなのか、この時になって初めてその重みがのしかかってくるようになり、いきなり飛び出してきた何者かから鼻面を思いきり殴打されたような感覚を味わった。

 しかし、あくまで伝聞なのである。

 伝聞ではあれ、動かしがたい事実でもある。

 織田殿の死ということに対して、私はそのようなつかみどころのない感覚を抱きながら馬を走らせていた。

 だが、確実に言えることは、これから世の中が変わる。日本が変わる。

 だが、どう変わるかは全く予想がつかない。それよりも何よりも身近なこととして、安土がどうなるか分からない。神学校セミナリヨがどうなるか……そうなると、学生たちはどうなるのか……今の私にとってそのことが急に山が背中にのしかかるようにして覆いかぶさってきた。

 学生たちの無邪気な笑顔が、純粋な目が頭の中をかすめる。彼らを守らなければならない……そう思うと、私はさらに馬を速く走らせるのであった。


 だがしばらく行くと道が上り坂になってきたので、仕方なく少し馬速を緩めた。坂の登りきるとすぐに山科の盆地に差しかかったので、そこをまた一気に駆け抜いた。今のうちに走っておかないと、やがて逢坂山の峠道になる。そうなると、峠を越えるまでは速歩トロット程度にせざるを得ない。

 やはり日本の馬は小さいので、どんなに襲歩ガロッポで走ってもエウローパの馬の半分くらいの速度しか出ないようだ。それでも私はこんない早く馬を走らせたことはなかったので、まずは振り落とされないようにするので必死だった。


 そしてすぐに峠道に差しかかった。馬の速度も落ちた。そうして私はまた頭の中で今回の事件についていろいろ考える余裕が出た。

 なぜ織田殿は突然天に召されたのか……避けて考えられないのが明智日向守という殿だ。本来織田殿の家来というか、むしろ客分として仕えていた老人、明智日向守殿が織田殿を裏切って、反旗を翻したというのはもう疑いようのない事実といえるだろう。

 今の日本は織田殿がそのほとんどを制圧しつつあったとはいえまだまだ内戦状態である。そのような国において家来が主君に謀反を起こして権力を手に入れた事例は数限りなく耳にしているし、さして珍しいことではない。

 下剋上ゲコクジョー(家臣が主君を倒したりその上にのし上がること)の風潮は、この国では当たり前のことだ。

 だが実際、客分ではあれ主君に当たる信長殿を明智殿が裏切って殺したという事実に遭遇して、私の頭をかすめたのはイスカリオテのユダという存在だった。

 もちろんユダはイエズス様を直接殺したわけではない。ただ裏切って、イエズス様を殺そうとする勢力に引き渡す形となった。それに何よりも裏切られた織田殿をイエズス様に比例するのはあまりにも畏れ多いし、次元が違いすぎる。

 だが、明智殿とユダは何となく重なってしまう。

 何よりも奇妙な符合は最後の晩餐でイエズス様がユダに言われたみ言葉、「汝がすことを速やかにせ」、このみ言葉について折しも私は今年の聖週間のミサでずっと考えていた。そして信長殿が明智殿を安土から坂本に帰らせる時にも「明智殿は自分の城に戻って、貴殿のなすべきことをなされよ」と言ったとヤスフェから聞いた。

 この符合は前にも気になっていたことであるが、まさかその時は将来こういう事態になろうなどとは思ってもいなかったので、いつの間にか忘れていた。


 もちろん、何から何まで一緒だというわけではなかろうし、もし同じだなどと結論付けてしまえばそれは強引なこじつけになってしまうであろう。ただ、気になることは確かだ。


 私は聖週間のミサのとき、ユダの裏切りは『天主ディオ』にもユダにも何か意味があることだったのではないかと考えていた。

 それならば、今回の明智殿の裏切りにもただ単に主君を倒してのし上がりたいというような下剋上の風潮だけではなく、何かほかの意味があるのかもしれない。

 血気盛んな若者ならいざ知らず、あの老人のことだ。きっとやむにやまれぬ引き返せない事情があったのではないかと思う。信長殿からは下にも置かず丁重に遇されていた明智殿だけに、個人的な恨みではないはずだ。


 そしてそれは、日本から見れば外国人である私だからこそ見えることかもしれない。

 しかし、今はまだとにかく情報が少なすぎた。そしてもう一人、明智殿と同様に気になるのが、徳川三河守であった。

 なぜ織田殿は徳川殿を殺そうとしたのか……。


 そんなことを考えているうちに道は峠を越えて下り坂になった。手綱を締めないと馬が暴走してしまう。私は思考を馬の手綱さばきにと集中させた。やがて視界が開けて、大津の町と琵琶湖が見えてきた。

 今回は大津の町は素通りである。

 私は再び馬速を襲歩ガロッポにしてすごい速さで大津の町を駆け抜けた。だいたい普通ならここまでで三時間半以上かかるところを、今日は一時間とちょっとで着いてしまった。

 九時過ぎに都を出て、今は時計がないので正確な時間は分からないが太陽の高さを見る限りまだ昼には間がありそうだ。おそらく十時半くらいだろうか。

 私はそのまま琵琶湖に沿って南下した。対岸はみるみるこちらに接近してきて、湖はだんだんと細くなる。そしてしまいにはそのまま琵琶湖から流れ出る瀬田川となるのだが、私はようやく瀬田川にかかる長い橋のところに差しかかった。

 橋自体は古い橋だが、かつて織田殿が修繕して赤い色のきれいな新しい橋になっており、そこに旅人のための休息所があったはずだ。私はそこの休息所で少し馬を休めようと思っていた。


 だが川の小さな中島にあったはずの休息所まで小橋を渡ると、そこには大勢の武士サムライたちが武装してたむろしていた。そしてその脇には白い布で囲まれた陣屋が設けられていた。

 それを見たとき、私ははっとした。

 もちろん実物を見たことがあるわけではないが、絵画等で見た古代イスラエルの、『旧約聖書ヴェトゥス テスタメントゥム』に出てくる幕屋とほとんど同じ形態のものがそこにあったのである。

 だが、それは『天主ディオ』に祈る幕屋というよりも、明らかに戦争のための陣地のようなものであった。これには驚いた。


 だが、いつまでも驚いている場合ではなく、私は馬の速度を落として、一度馬から降りた。

 この中島では休息所を作った信長殿に敬意を表して、皆一度必ず馬から降りることになっていたのだ。

 そしてそのまま再び馬にまたがり、武士サムライたちに頭を下げて長い方の橋を渡ろうとした。だが、二人の兵士が私の馬の前で槍を交差させて、私の動きを止めた。


「そのように急いで、いずこに参られる?」


「安土です」


 兵士の一人の顔がちょっと動いた。そして私の顔を馬の下からのぞき込み、ハッとした表情を見せた。


「異国の方か。もしや南蛮寺のバテレン殿では?」


「いえ、安土のセミナリヨのものです。所用があって都の南蛮寺に行き、今安土に帰るところです」


「そうでありましたか」


 兵士の態度が、急に慇懃になった。


「都でちょっとした騒動がありまして、今、通行人を改めているところです。失礼致した」


「そうですか」


 ちょっとした……ではないだろうと私は内心思ったが、あえて知らない顔をした。この兵士たちが織田殿の側か明智殿の側か、まだ分からないからである。いずれにせよ私が外国人であることから、事の次第を詳しく告げるつもりはないようだった。


「まあ、少し都も騒がしかったですね」


 これも「少し」ではないのだが、私もとぼけておいた。


「我われはこの瀬田の地の城主で、安土の上様にお仕えする山岡やまおか美作守みまさかのかみ様の手のものでござる。間もなく逆臣がこの橋を通って安土を目指すかもしれぬ故、こうしてここを守っており申す。渡るなら早く渡られよ。間もなくこの橋は焼き落とすことになっていて、今はその準備中なれば」


 果たして兵士たちは、信長殿の側の人たちだった。それにしても危なかった。もう少し遅く来たら、この橋を渡れなくなっていた。この川幅が広くて流れが速い川には、ここのほかに橋はない。

 あとは大津から船だが、船着き場を抑えられてしまっては船も出ない。私は安土に帰れなくなるところだった。こういうところにも細かい『天主ディオ』のお仕組みが働いている。


 それにしても驚いた。私がかなり迅速に都を出てきたつもりだが、明智殿の謀反の知らせは、もうここまで届いているのだ。

 そして明智殿は、このあと安土を狙うらしい情報も得た。もっとも、この橋が焼き落とされれば、少しは時間が稼げるであろう。

 とにかく私は、安土へと急いだ。



                  2


 私は礼を言って橋を渡り、そのあとは織田殿によって整備された幅の広い街道を全速力で馬を走らせ、安土に着いたのはちょうど昼頃だった。


 普通なら朝出て夕方にやっと着く都から安土の距離を、わずか三時間余りで走破してしまったのである。さすがに馬も疲れているようだった。

 しかし、私も疲れた。崩れるように神学校セミナリヨの玄関を入ると、私の突然の帰還に驚いているオルガンティーノ師たちに思わずイタリア語で叫んだ。


「大変です。都で一大事です!」


 そこにはポルトガル人の修道士たちもいるので、もう一度ポルトガル語で同じことを叫んだ。

 それから私は、床の上に座り込んだ。ペレイラけいが持ってきてれくれた水を一杯飲み、そして目を挙げ、オルガンティーノ師をはじめフランチェスコ師や修道士たちを見た。


「織田殿が、殺されました」


「え?」 


 オルガンティーノ師は眼を見開いたまま、しばらく言葉が出ないようであった。フランチェスコ師も呆然としていた。


「なんと……」


 そして一言だけ言った。


「織田殿が、殺された」


 私は今度は日本語で、日本人であるヴィセンテけいに同じことを告げた。彼は黙って首を横に振っていた。


「どういうことですか? 誰に? 詳しく!」


「あの明智殿が謀反を起こして、織田殿を殺しました。今朝早く、いきなり大勢の軍勢で都にやってきて信長殿の本能寺の屋敷を襲撃したのです。そこで織田殿は……」


「織田殿は?」


「爆発とともに木っ端みじんに吹き飛ばされました。殺されたのです、明智に」


 私はまだ肩で息をしながら、とぎれとぎれではあるがそれだけのことを告げた。その場の空気が凍りついた。


 フランチェスコ師も驚きの表情のまま固まっていたが、しばらく間をおいてから尋ねた。


「教会は?」


「無事です。屋敷は爆発しましたが、周りの家屋への延焼はありませんでした。教会も無事です」


「爆発?」


 オルガンティーノ師はやっと口を開き、一瞬怪訝な顔をした。だが、とにかく教会が無事と知って一同は安堵の胸をなでおろしていた。


「ヤスフェは? いつも信長殿といっしょにいたけれど」


 そう尋ねられて、私はオルガンティーノ師を見た。


「ヤスフェは無事です。一度は敵に捕らえられましたけれど解放されて、今では教会にいます。織田殿が亡くなった時の詳しいことなどは、すべてヤスフェを通して我われは知ることができたのです」


 オルガンティーノ師はため息をついた。


「この国は内戦状態にあっていつ何が起こるか分からないし、家臣が主君を殺すということも珍しくないけれど、まさかあの織田殿がそのようなことになるなんて」


「そうなりますと、我われ修道会にとっても一大事ですね。織田殿の庇護のもとにこれまで宣教活動を続けられた」


 フランチェスコ師も心配そうだ。オルガンティーノ師も、いつもの明るさは消えている。


「それもそうだし、また日本の国全体がどうなっていくのかも分からない。この安土の城と町もどうなるか」


「今、琵琶湖から流れる川にかかっていた大きな橋は焼き落とされているでしょう。だからしばらくは明智殿はこの安土に来られないとは思いますが、やがて安土をも占領しに来るのは時間の問題でしょう。学生たちも心配です」


 私がそう言うと、オルガンティーノ師もうなずいた。


「彼らはこの近辺の殿の子息も多いし、親が武士サムライである者が大多数です。世の中が動くとすれば、彼らの実家も大きな渦に巻き込まれるでしょう」


「でも、まずは彼らを守らなければならない」


 私がそう言っているうちに、もう外が騒がしくなり始めた。見に行かせたシマン・デ・アルメイダ兄が戻ってくると、もう安土の町には織田殿が亡くなったという情報は伝わってきているらしい。

 今朝の都での出来事が、昼にはもう安土に伝わっているのである。人々は口々に明智が来たら安土の町は焼き払われると噂し、家財道具をまとめて逃げ出す者たちで町中が大騒ぎになっているという。

 中には家財道具はあきらめて、身一つで駆けだしていく人々もあふれ、それらが狭い町中でぶつかりあい、叫び声が上がり、子供たちは大泣きしてひどい混乱状態だという。


「もう、まるで世の終わりの最後の審判の時を迎えようとしているかのようです」


 見てきたアルメイダ兄はそう報告した。そこへ次々に町の日本人信徒たち(クリスティアーに)も教会に押し寄せてきた。

 オルガンティーノ師はまず神学校セミナリヨの学生たちを落ち着かせるよう指示し、午後の授業は中止としてとりあえず教室で待機という旨を伝えさせた。

 そして司祭と学生についている修道士以外の修道士、そして町の信徒たち(クリスティアーニ)も加え、神学校セミナリヨの広間で今後の身の振り方について話し合うことになった。


「まず、このままここにいたら危ないです」


 そう言いだしたのは、信徒クリスティアーノの一人の若い男だった。自宅で何かものを作っている職人のようだ。


「たしかに」


 それは、我われ司祭団とて同意見だ。

 口に出してこそ言わないが、この神学校セミナリヨにはこの国の人たちにとっては珍しいものと思われる財宝がある。だが、それよりも何よりも、国の宝ともいえる多くの青少年たちを守らねばならない。


「瀬田の橋を焼いたとはいえ、いつかは明智はこの安土に来るでしょう。そうしたら町は焼き払われ、あちこちで略奪が行われるのが世の常です。城にも近いこの神学校セミナリヨはいちばん危ない。信長殿の重要な家来たちは皆遠い国で戦争の真っ最中で、おいそれとは戻ってこられないでしょう」


 オルガンティーノ師があまりにもゆっくり話すので、フランチェスコ師は少しいらいらしているようだ。


「ここで話し合いなんかしている場合ではない。とにかく逃げましょう」


「逃げると言ってもどこへ?」


 オルガンティーノ師に言われて、誰もが口をつぐんでしまう。あてがない。都へは瀬田の橋が焼かれているであろう以上、行かれない。ましてやその向こうの高槻はもっと無理だ。どこへも逃げようがないのだ。

 沈黙が漂った。


「あのう」


 そこへ一人の信徒クリスティアーノの、少し年をとった男が口を挟んだ。


「わしのある沖の島ならどうやろか。とりあえず隠れるにはちょうどええほんな」


「そや、ほこならしばらくは安心や」


 日本人の信徒たち(クリスティアーニ)はみな口々に賛成した。


「ぜひおいでやす」


 少し年をとった男とはシモンという名で、漁師だと聞いていた。毎週日曜日には船で安土まで来ているという。

 今日は日曜日ではないが、急を聞いて慌てて島から駆け付けてきてくれたようだ。

 オルガンティーノ師は眼をつむっていたが、やがて眼を開けて人々を見渡した。


「そうですね。それしかありません。シモンもそう言ってくれていることですし。『天主デウス』に感謝します」


「でも、船は?」


 ヴィセンテ兄がそう言った。

 沖の島というのがシモンの住む島の名前らしいが、名を聞くのは初めてだった。説明を聞けば沖の島はこの湖上に浮かぶ島で安土からも近く、陸地からも離れてはいないという。だが、安土は湖の入江の奥にあり、島はその入江の左側の岬の陰になるので安土からは見えないのだということだ。


「わしの船は漁船ですさかい三人くらいしか乗れへんけど、港まで行けば大きな船もありまひょう。何とかなりまっさ」


 シモンがそう言うので沖の島行きはほぼ決定となった。

 私はオルガンティーノ師から言われて、明日この神学校セミナリヨを離れて沖の島へ移るということを学生たちに告げた。学生たちの動揺は凄まじかったが、彼ら全員を納得させるよりも今は一刻も早くこの安土から離れる方が先決だということを、私も含め司祭団も修道士たちも皆実感していた。



                  3


 その日は私は都からこの安土までを三時間ほどで到着するという相当な馬の早駆けをしてきたのでくたくたのはずだったが、恐怖と不安とまた疲れ過ぎてかえってほとんど眠れなかった。

 

 翌早朝、こんなときでもミサは欠かせない。学生たちもすべてが参列してミサが捧げられた。ミサの中で司式していたオルガンティーノ師は、そこだけ日本語で織田殿のために祈った。


「『天主デウス様』。昨日、あなたが天に召された織田信長殿の霊魂が安らかに憩うことができますように。今、主のみ前に立つ織田殿に自らの罪を認め、悔い改める力をお与えになり、あなたの国に受け入れてください。私たちもいつかその国で、永遠の命に与ることができますように。私たちの主イエズス・キリストによって」


そのあと、皆で唱和した。


「アーメン」


 そのミサがちょうど終わった頃である。ニコラオけいがあわてて階段を下りてきた。


神父様方パードレス、たいへんです。お城が燃えています!」


 オルガンティーノ師はじめ、一階の広間にいた私たちは一斉に三階まで上がった。三階の窓から見ると、この神学校セミナリヨから至近距離の城のある山の中腹から太い黒煙の柱が上がっている。だが、城の「天主閣」が燃えているわけではなさそうだった。


「あのあたりは織田殿の家来たちの屋敷が並んでいるあたりだな」


 オルガンティーノ師が近くの煙を見ながらつぶやいた。


「もう、明智の軍勢が来たのですか?」


 フランチェスコ師の問いに、状況を実際に見てきた私は否定した。


「それはあり得ません。橋のないあの川を軍勢が渡るのは無理です」


 だからといって湖から来たのだったら、まず城を焼く前に港から上陸して、軍勢は城まで町の中を行軍するはずである。


「おそらくは」


 オルガンティーノ師が遠くの煙を見ながら厳かに言った。。


「織田殿の家来の誰かが明智側に寝返ったのでしょう。そういったときに自分の屋敷に自ら火を放つのは、日本ではよくあることです」


 そうなると、誰なのかが問題になる。そしてその火災で町中の人々が昨日に増してパニコ((パニック))状態に陥っていた。彼らにとって明智軍が来ると城は焼かれ、また安土の町中に放火し、略奪して回るはずだという噂は根強い。


「あれは」


 日本人のヴィセンテ兄が我われの背後から窓の外をのぞきこんでいた。


「織田殿の家来の中でも中心となるような存在だった山崎源太左衛門(げんたざえもん)殿のお屋敷ではないでしょうか」


 聞いたこともないような名だったし、それよりも我われはまずは神学生たちの身の安全を確保しないといけない。『天主ディオ様』よりお預かりしている大切な若者たちだ。全員をつれて、ここから逃げ出すことに専念しなければならないのだ。


「とにかく急いだ方がいい。持って行けるだけの祭具、聖杯カリスなど持てるだけ持って港へ向かう」


 オルガンティーノ師の指示だ。

 それからは大忙しだった。聖堂の祭壇の装飾や十字架、御絵、香炉、燭台、畳の上に敷かれたじゅうたんなど、皆で手分けしてそれらを箱に詰め、荷台に乗せた。


「みんなまとまってでなくてよい。準備のできた人からそれぞれ港に向かって走っていくように」


 オルガンティーノ師の声が響く。それは、人々の笑いをもたらすいつもの陽気な声ではなかった。

 そして留守番として日本人のヴィセンテけいと何名かの同宿の少年が残ることになった。神学生たち二十八人は全員連れて行くことになっている。


 我われはいつものスーダンの上に日本の着物キモノを身に付けた。少しでも目立たないようにしようという工夫だ。

 まずは最初にオルガンティーノ師と、学生たちを引率する私とが神学校セミナリヨを出た。

 次にアルメイダ兄が荷台を引き、ニコラオ兄がそれを押して出発した。

 町の中はすでに強盗が横行している。家財道具をまとめて自分の実家へと避難しようとしている人々を襲っているのだから、街上あっちこ地で怒号や鳴き声、叫び声などが充満していた。そのような中を港へ向かうのは至難の技だった。

 織田信長というたった一人の人間が死んだことによって、世の中はこんなにも大混乱に陥ってしまうのだ。


 我われ二司祭と二修道士は荷物とともに無事に、そしてわりと早くに港に着いたが、そのほかの司祭や修道士たちは待てど暮らせどその姿を見せなかった。

 我われを島まで案内してくれると言っていた信徒クリスティアーノのシモンはすでに先に着いていて、我われを待ってくれていた。他にも日本人信徒クリスティアーニが四、五名、我われに同行してくれるという。

 しばらくしてからフランチェスコ師が息を切らせながら走って来た。彼は白いスーダンのままだった。


「ひどい目に遭った」


 着くや否やフランチェスコ師は肩で息をしながら、膝に手を当てて前かがみに立っていた。


「賊に襲われた。銀の塊を持っているだろうから出せというのだけれど、私が持っていないと言うと、私の袖とかを探りだしてそこに入れていた祈祷書を奪われた。銀塊だとでも思ったのでしょう」


「あのラテン語の本を奪っても、彼らには読めないでしょう」


 オルガンティーノ師がそう言う。


「おそらく売ろうという魂胆でしょうな。珍しいものだから高く売れると見たのですね」


 私はそう言っておいた。


神父様方パードレス!」


 その時、叫び声が走って来た。見ると、上半身裸だが顔はまぎれもなくペレイラ兄であった。泥だらけで、顔にはあざもあった。


「どうした?」


 心配のあまりに声をかけたオルガンティーノ師の前まで来ると、ペレイラ兄はその場に座り込んだ。


「やられました。私が道を間違えて、あわてて港を探していたところをとり囲まれました。着物はすぐにとられて、彼らはスーダンをも取ろうとしたけれどボタンのはずし方が分からなかったようで、前後に引きちぎられて持っていかれました」


「けがは?」


「少し殴られましたけれど、大丈夫です」


「命があっただけ、感謝しないといけない」


 オルガンティーノ師がペレイラ兄にそのようなことを言っていたとき、背後から太い声がした。


「おお! 留吉とめきちやんけ!」


 見ると、いかにも船に乗っているような感じの男だ。その声に反応したのはシモンで、留吉というのはシモンの日本での名前らしい。

 だが当のシモンは、その男を見るやあからさまに顔を曇らせた。だが男はお構いなくシモンのそばに歩み寄る。


「島へ帰るんけ? まあ、明智が来やがるさかい、みんな国へ帰りよる。われも帰るんなら、わしの船に乗らんけ?」


 訛りはきついが何となく分かるので、私もオルガンティーノ師も目を挙げた。だが、シモンは我われに目配せをしてかすかに首を横に振っている。それが何を意味するのか、よく分からない。


「おや?」


 男は、我われに気づいたらしい。


「バテレン様たちでおまんな。そういやあ、われはキリシタンになったいうな。ほな、バテレンさんがたもみんなわしの船に乗るとええ」


「この者たち全員が乗れますか?」


 オルガンティーノ師が、神学生の少年たちを示した。


「おおよ。わしの船は大きいんや」


 豪快に男は笑っていた。


「では、お願いしましょうか。いや、ありがたい。これも『天主デウス』のみ仕組みです。『天主デウス』に感謝」


 シモンは何か言いたそうだったが、我われに耳打ちしようと近づくと男がキッと睨むので、それもできずに我われに付いてきていた。


 全員の乗船が終わった。船は港とつないだ縄をはずし、帆をあげた。ちょうどいい風だった。空はどんよりと曇り、今にも雨が降りそうだった。

 すぐに船は港を出た。振り返ると山の上にそびえ立つ城の天主閣が我われを見降ろし、その近くの屋敷の黒煙はまだ登り続けていた。ここからは入江の左の岬の陰になって、島は見えない。そもそも、安土の町から見ると、天然の堤防のような細長い陸地が外の湖を隠しているから天主閣にでも登らない限り外の大湖は見えないのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ