Episodio 7 Attacco alla villa Honnoji(本能寺屋敷襲撃)
1
今日安土を発ったとなると、早くても織田殿の都への到着は夕刻以降であろう。
それを知ると私はいてもたってもいられなかった。
ずっと曇り空だったが、昼過ぎからまた雨が降り出した。それでも私は夕刻には織田殿をよく知るロレンソ兄と共に、都の入り口、川よりも東の粟田口という所まで蓑を着て傘をつけ、雨の中を馬で出かけていった。
粟田口は三条通りをそのまま東へ行って、山に突き当たったあたりである。それまではずっとまっすぐだった道がここから右へと曲がって山へと登っていく上り坂となる。そのまま逢坂山を通って大津まで続く道である。
その曲がり角あたりは、どこで情報を聞きつけたのかまたもや多数の見物人であふれていた。この雨の中をわざわざ都の外れまで出かけてくるのだからよほど物好きな人々である。
中には牛が引く車に乗った、日本語では公家と呼ばれている貴族たちの姿も見られた。彼らは見物というよりも、信長殿を出迎えに来ているらしい。
私とロレンソ兄も見物の人々に混ざって待つこと二時間余り、午後四時過ぎも回ってようやく先触れが姿を見せ、続いて三十人ほどの徒歩の小姓に囲まれて馬で信長殿が姿を現した。
信長殿も蓑と笠をつけている。その様子に誰もがあぜんとした。
その服装ではない。信長殿とともに来たのが今述べた三十人ほどの小姓だけで、すなわち武装した武将の供は誰もいなかったからだ。
勘九郎殿も大軍を率いて室町通りを行進していた。その軍勢に比べたら全く軍勢もなしに信長殿は安土からやって来たのである。
前に徳川殿は安土に来た時その軍勢の少なさに人々は落胆したが、今はその時の比ではない。
私は目が不自由なロレンソ兄に状況を説明した。
「信長殿はなぜ今回、あのように警護の武士もなく身軽なのですか」
そしてそう聞いてみた。ロレンソ兄はうすら笑いを浮かべた。
「いえいえ、これまでも安土と都の間を往復するときは、これくらいの供廻りしか連れていなかったと聞いております」
つまり、いつものことなのだそうだ。だが、そうは言うもののやはり私には気になるところであった。
徳川殿の場合は同盟国とはいえ他国に滞在するのであるから、相手への信頼を表すためにわざと軍勢を抑えたということも考えられる。しかし、織田殿にとって都は、そんな気遣いをする必要のない土地である。
それなのにこの少人数ということは、やはり何かあるのではないかということを考えてしまう。
誰かを安心させるため、ひいてはわざと油断させるため……そこまでは考え過ぎかと、私はすぐに自分の思考を打ち切った。いや、打ち切ったつもりだった。
その織田殿が近づいてくると貴族たちは牛の車から降り、傘をさして歩いて道の脇で信長殿を待った。その姿を見るや、信長殿はすぐに馬を止めた。
「乱丸より聞いておりませぬか。出迎えは御無用と申したはず」
例の甲高いよく通る声で、しかもこの時は迫力さえあった。言葉付きこそ丁寧だが、それはまるで恫喝に近かった。
いつも我われには笑顔しか見せない織田殿だったから、その差異に私は戸惑った。威厳に満ちた恐ろしささえ感じさせる織田殿の姿は去年のあの馬揃えの時にも見せたあの姿だったが、もしかしたらこちらが本当の織田殿かもしれない。
貴族たちを追うようにそれぞれの車に戻らせた織田殿は、そのまま馬を進めようとした。
その時、供の小姓の中の、よく目立つ一人が我われを見つけた。
「神父様!」
そう呼びかけてきたのは、ヤスフェであった。小姓は皆十代か二十代前半と思われる若者ばかりの中に、背が高くて体格がよく、しかも真っ黒い顔のヤスフェがいたら嫌でも気づくものである。
だが、その声に反応したのは織田殿であった。彼は再び馬を止め我われを見ると、貴族たちに見せていた固い表情から一転して相好を崩した。
「おお、おお、このようなところで」
我われは日本式に立ったままではあるが深く頭を下げた。
「おお、そうだ、バテレン殿。おもしろい話がござる。明日、空を見られよ。明日の朝方に太陽が半分になり申す」
日食か……と、私は思った。
「わが日の本では半分しか欠けぬが、明国の奥地、天竺に近い方では完全に太陽がなくなるらしい」
私は舌を巻いた。エウローパならとっくの昔に日食は完全に予測できるようになっている。しかし日本でも日食を予測できるような天文観測技術があって、しかもそれを織田殿のような為政者も知っているというリベッロに達している。
さらには皆既食が起きる場所さえも特定しているのだ。
私が驚いている顔を見て、信長殿は声を挙げて笑った。
「ただし、予が推奨する新しい暦が正しければの話だ」
「新しい暦……ですか」
「この国ではそれぞれの地方によって暦がずれている。予は統一した新しい暦を制定することを推奨して多くの博士たちとも討議してきた。だがあの頭の固い公家衆が屁理屈を言ってなかなか実現しない。そこで、明日新しい暦による計算通り太陽が欠ければ、その暦が正しいことの証しとなる」
私はただただ感心して聞いていた。
「バテレン殿はそのあたり、どう思われる?」
「どうといわれましても、我われの暦とこの国の暦は大きく違いますので」
「そうであったな」
また、信長殿は笑った。
「お国では暦がずれることはないのか。すべての国が同じ暦を使っておるのか」
「暦は同じでございます。ただ、我われの国でも、暦を新しくする必要性を唱える者もおります。たしかに今の我われの暦は、実際の季節と十日ばかりずれが生じています。なにしろもう千五百年以上も使い続けてきた暦ですから」
「であるか。事情はいずこも同じであるな。では、また安土でお会いしよう。バテレン殿もなるべく早く安土に帰られよ」
そう言って信長殿は、再び馬を進めた。その最後にまた例の謎めいた言葉を繰り返して付け加えて、である。
小姓の列の中のヤスフェは我われの方を見て、なぜか真顔で軽く会釈しただけで列とともに信長殿に従って行ってしまった。
我われが教会に戻った頃は、もう薄暗くなっていた。晴れていれば日が落ちたことだろう。
「もう織田殿は、本能寺のお屋敷に入ったようですよ。信長殿にはお会いできたのですか」
カリオン師がそう言うので、私は笑って見せた。
「これも『天主』の御加護ですね。今回はこうした形でないと、織田殿には会えませんでしたからね。こちらがお聞きしたいことは聞けなかったけれど、代わりにおもしろい話を聞きましたよ」
私が織田殿から聞いた話をカリオン師に伝えると、カリオン師は少し小首をかしげていた。
「そうですか。この国では明日、太陽が半分に欠ける……」
そしてため息もついているようだ。
「どうしました?」
「いえ、なんでも」
すぐにカリオン師は、作ったような笑みを浮かべた。
カリオン師が何か予感めいたものを感じているようだったが深く追求はせず、私は教会の二階の廻り廊に出てみた。
ほとんどが平屋建ての建物ばかりの中にいきなりある三階建ての教会堂だから、その二階からといっても眺望は素晴らしかった。
都のあちこちの家で明かりが灯っている。西の方にいくつも見える本能寺の大屋根と並んで建つ信長殿の屋敷、本来は本能寺の境内であった北東部の一角を割譲させて建てられたその屋敷は、普段は留守番の家来が住んでいるだけだからひっそりとしている。
だが、今日ぞとばかりにそこからもこうこうと明かりがもれていた。屋敷の主、織田殿がそこに入った証拠だ。
2
その日の夜、夕食も終えて終課までの時間を思い思いに過ごしていい時間帯の頃、教会の門をたたく音が聞こえた。同宿が取り次ぎに出ると、すぐに巨大な黒い人影を連れて同宿は司祭館に戻ってきた。
文字通り黒いその人影は、ヤスフェだった。
「おお、よく来られたね」
「仲間の小姓の目を盗んできました」
少しだけヤスフェは笑った。
「いやあ、お姿を見たときは驚きました。どうしてコニージョ神父様が都にいらっしゃるのですか?」
「|オルガンティーノ神父様たちとともに聖体の祝日を都の教会で祝うために、神学校の学生たちもともに来ていたんだ。|オルガンティーノ神父様も学生たちも、もう安土に戻ったけどね。私はどうも気になることがあって、都に残った」
「気になること……ですか?」
「織田殿のことで少し」
それを聞いたスフェの顔が急に真顔になった。
「実は皆さんにお話があったので、それで来たのです」
ヤスフェはまだほんの先ほど都に着いたばかりのはずのなのに何事かと思ったが、とにかく彼を中に入れて部屋に座らせ、カリオン師と私が対座した。
だがヤスフェは何かを語ろうとしているが、どうもためらいがあるようだった。私は息をのんで身を乗り出した。
そしてこの、我われの仲間であって織田殿の家来でもある異国人の顔をした日本の武士をじっと見た。
私が知りたいことを、彼はこれから話すのかもしれないという期待もあった。
「実は」
もう一度彼は言った。
「今回の上様の上洛は……上洛は……」
だが、話はそこで止まってしまう。
「今回の上様の上洛は……」
「毛利との戦争へ自ら出陣するためと聞いてはいるが」
あまりにもヤスフェの歯切れが悪いので、私の方から切り出してみた。
「毛利と戦っている羽柴筑前殿から援軍を請われて、それで上様自ら出陣なさる……」
それから少しの間、沈黙が漂った。
「確かに……今週中には播磨に向けて上様は出陣なさる……。でも実は、それは表向きのことです。実際に播磨へは出陣されるおつもりですが一度安土にお戻りになって、そこからあらためて出陣されるでしょう」
たしかに甲斐での戦争の時は安土から大勢の軍隊を率いて華々しく出陣して行った。それが播磨への出陣は手勢もなく小姓たちだけを連れてこっそりと都に入って、そしてここから出陣というのもおかしな話だ。
それが安土に戻ってそこから再び華々しく出陣ということなら、一応は謎は解けたともいえる。
しかし、新たな謎が浮上する。では織田殿は何をしに都に来たのだろうか。しかも、安土で会った時も先ほども、織田殿はしきりに我われに早く安土に帰るよう促している。これからこの都で、何が起こるのか……。
「ヤスフェ。君なら知っているだろう? 君は今、織田殿にいちばん近いところにいる。織田殿が何をしに都に来られたのか」
「これから都で何が起こるのかね?」
カリオン師も不安な表情でヤスフェに訴えかけた。
「やはり、私の口から何もかもをはっきりということはできません。ただ、今日こうして来たのは、この教会はあまりにも上様のお屋敷から近い。あさってくらいには堺にいる徳川三河守殿も再び都に来ます。神父様方、できればその前に都を離れた方がいい」
「そんなことを言われtても」
カリオン師は苦笑した。
「都を離れるといっても、私はこの教会を任されているからねえ。|オルガンティーノ神父様の許しがなければ勝手に離れることはできないよ」
「では、あさって徳川殿が都に来たら、そして徳川殿が上様のお屋敷に入ったら、くれぐれもお屋敷には近づかないでください。できれば、この教会から一歩も外に出られない方がいい。そして門を閉ざして、何者をも入れないように」
「何が起こるのです?」
私の問いには、ヤスフェは首を横に振ったままで答えなかった。
「これ以上は言えません」
そしてヤスフェは、すくっと立ちあがった。
「他の小姓たちの目を盗んで抜けて来ていますので、早く帰らないとまずい。これで失礼します」
そして深々と一礼すると、ヤスフェは夜の闇に消えた。
ヤスフェの態度から、織田殿が今回都に来たのは徳川殿とどうも関係がありそうだった。
そしてその深夜、我われはおびただしい人の足音が都の道を通り過ぎるのを聞いた。
跳ね起きてすぐに窓から見てみると、足音は教会の東、室町通りを南から北へと向かっていた。本能寺にある信長殿の屋敷とは反対だ。寝室は三階なので、その窓からは遠くまでよく見える。大きな松明の光がいく本も、人の群れの流れを知らせているようであった。
私の背後から、カリオン師も起きてきてのぞいていた。
「あれは……徳川殿の軍隊……?」
それならば、こんな夜更けに、しかも室町通りを北へ向かうはずがない。
「いや、あれは城介勘九郎殿だな」
室町通りを北へ行くなら、そこには勘九郎殿の常宿の妙覚寺がある。
「しかし、なぜ……」
勘九郎殿は徳川殿とともに、今は堺にいるはずだ。
しかも、今朝堺に向けて出発していったばかりだ。それが今頃都に戻るとは、堺に着いたらとんぼ返りで戻ってくるか、あるいは途中で引き返して来たとしか思えない。
そうなると、徳川殿も……?
しかし、ヤスフェは、徳川殿が都に戻ってくるのはあさってといった。ヤスフェの言うことだから適当な予想ではなく、しっかりとした裏付けがあってのことだろう。
そのまま気になってなかなか眠れないままに朝を迎えた。
早速同宿の少年を本国寺に走らせてみた。だが、そこに徳川殿が戻って来たような様子は全くなかったという。
朝のミサが終わり、ふと私はもう一つ、あることに気がついた。
それは昨日織田殿が馬上から、今日太陽が半分かけるということを言っていた。だが、空を見上げても無駄だということは、朝から分かっていた。
朝は雨が降っていた。たとえ本当に太陽が半分かけていたとしても、この雨空では見えるはずもない。だから、織田殿の言っていた通りに太陽が欠けたのかどうかは観測できなかった。
皆既ならたとえ雨天でも、皆既の時間帯は周りが急激に夜のように暗くなるという話を聞いたことがある。しかし、半分欠けただけなら明るさは全く変わらないだろう。
どうしても晴れて、その目で確かめないことには分からないことだった。ここの日食が起こるかどうかによって信長殿の暦改編の意見の根拠になるはずだったのだから、織田殿にとっては分が悪いことになったはずだ。
雨だったことを悔やんだとしても、こればかりは『天主』の思し召しである。
そうなると私は再び織田殿の動向が気になりだした。教会の二階に上がって外廻縁から本能寺の屋敷の方を見ても、その東側の西洞院通りを織田殿の屋敷に向かう公家の牛が引く車が何台も通るのが見える。
この国の貴族たる公家たちが、次々と織田殿にあいさつに訪れているのであろう。
今や信長殿は右大臣を辞めて以来何の官職もなく、家督すら勘九郎殿に譲って隠居の身であるにもかかわらず、依然として信長殿が天下人であることをその公家たちの来訪は物語っていた。
そこで私は、とうとう会いそびれたと思っていた勘九郎殿に会いたくて、同宿をアップンタメントをとるために走らせた。すると戻って来た同宿が言うには、勘九郎殿もあいさつのために本能寺の屋敷に織田殿を訪ねているという。
昨夜は夜更けに都に戻って来たのだから、今日になってその父にあいさつに出向くのは当然である。
そして夕方近くになってようやく妙覚寺に戻って来たようなので、私はまたロレンソ兄とともに出かけた。
もうこの頃は雨も上がり、晴れ間さえ出ていた。悪魔崇拝の場とされる寺の門をくぐることになるが、別に勘九郎殿は本堂にいるわけではなく寺の関係者の屋敷に方にいるはずだから構わないと、私はこだわらないことにした。
「父上の屋敷で茶会があって、公家たちとずっと茶の相手をしていて不在で申し訳なかった」
勘九郎殿は上機嫌だった。思えば昨年、ヴァリニャーノ師とともに面会した時以来である。
「バテレン殿、聞いてくだされ。わしは征夷大将軍になることになった」
「お」
それで彼は上機嫌なのだ。
「つまり、公方様になられるということですね」
「さよう。本来は父が朝廷より具申されていたが、それを私に譲ってくれることになった」
そういえばヤスフェから、織田殿に高い地位を帝は与えようという連絡があったことを聞いていた。織田殿の返事は保留ということであったが、そういう決断を彼はしたのだ。
「それで急遽、堺から戻られたのですね」
「父から急に呼びもどされた。なんだろうと思っていたら、このことだった。しかし、父に都を追われて今は毛利領にいる足利公方が今でも征夷大将軍のままだから、その任を解いてからということになるので少し時間はかかるそうだが」
「いすれにせよ、おめでとうございます」
勘九郎殿は、満足そうにうなずいていた。
ここだ、と私は思った。だが、露骨に切りだしたりはしない。
「では、お父上が今回都に来られたのも、その件のためでしょうね」
私が探りを入れるような言い方をしたが、さすがに勘九郎殿は怜悧である。一瞬だけ真顔になったが、すぐに元の上機嫌に戻った。
「さよう、さようでござる」
これは嘘だなというのが、私の勘だった。勘九郎殿の征夷大将軍任命の件で勘九郎殿が堺から呼び戻されたというのは本当だろう。しかし、その同じ件で信長殿が安土から都に来たのだというのはどうも怪しい。
勘九郎殿の一瞬の顔の曇りを、私は見過ごさなかった。やはり、勘九郎殿も何かを隠している。だが、ここで追求したら場がしらけるし、あまり首を突っ込みすぎるなというオルガンティーノ師の言いつけにも背くことになる。とりあえずはそういうことにしておこうと思った。
そうしたら、勘九郎殿はまた少しだけ真顔になった。
「バテレン殿はいつまで都におられるのか」
「いつまでとは決めてはおりませんが」
「早々に安土に戻られた方がよい。明日、徳川三河守も堺から都へ来る。その到着前には都を離れられよ」
ここまで判を押したように織田殿からと同じことを言われると、これはもう確信となる。
帰り道、私はロレンソ兄に言った。
「徳川殿が都に来たら、何かかなり大きな出来事が起こるようですね」
「また、血が流れますな」
ロレンソ兄も、十分私と同じことを感じていたようだ。だから、私も意を決した。血を見るのはごめんである。
「明日、ミサが終わったらすぐに都を離れて、安土に帰りましょう」
「私も、それがよいと思います」
ロレンソ兄も賛成のようだった。
明日、都で何が起こるか分からないが、いや、起こるであろうことはもうこの時点でだいたい察しがついていたが、そのことによって織田殿の地位は安定し、速やかに権力を征夷大将軍となった長男に移行させることによって織田家の将来も安定したものになるはずだ。
それならば安土で、織田殿の帰りを待とうと私は思った。
3
翌朝早朝、1582年6月21日・木曜日、雨は降ってはいなかったが、空は曇っていた。
我われは朝のミサの支度をしていた。同時に、私は旅支度だ。なるべく早く安土に着きたいので、ミサが終わり次第、ロレンソ兄とともに出発する。
雨が降っていないとはいえいつ降り出してもいいような空模様だったので、降らないうちにということもあった。平日のミサは聖歌も歌わないし会衆もいない分、主日よりも早く済む。
私は祭壇の上に布をかぶった聖杯を準備し、朗読のための聖書を朗読台に据えた。そしてろうそくに灯をともす。
今日の司式はカリオン師だ。
カリオン師は香部屋で、祭服に着替えている。私や修道士たちは祭壇の前の畳に座って、ミサが始まるのを待った。
夏だから外は十分に明るいが、もし冬だったらまだ真っ暗で、星も出ているような時刻だ。
思えば先週の今日、ここで安土の神学生たちも交えオルガンティーノ師の司式で、去年の高槻に比べたら盛大とはいえないまでも厳かに聖体の祝日のミサが捧げられた。あれからちょうど一週間、早いものである。
オルガンティーノ師に私が都に残ることを申し出たときに、一週間という期限を切っていたので今日安土に帰るのはオルガンティーノ師との約束でもある。また私自身、あの学生たちと接していないと心が落ち着かない。早く戻って彼らに会いたかった。
その時である。外のわりと遠い所と思われるあたりから、大勢の人の足音が響いてきた。
行軍とか言うものではなく、明らかに大勢の人が一斉にかけ足をしていると思われるような音だ。それがばらばらではなく、走っているとはいえ統率がとれたような音だった。
でも、明らかに走っている。
そのうち勇ましい鬨の声が聞こえた。
「どこかでけんかですかね」
そう言いながらも一度祭壇に出てきたカリオン師は、もう祭服を着ていた。
そこにちょうど外から入ってきて顔を出したのは、平日のミサでも毎日必ず顔を出す近所の熱心な信徒の若い職人だった。
「なんかえらい騒ぎが起こってるようですさけ、御ミサは少し待った方がよろしいのとちがまっしゃろか」
「けんかですか?」
カリオン師は聞いた。
「どないどすやろ。ただ騒ぎが織田様のお屋敷の方ですさけ、そのような場所での騒ぎとなるとこれはただの騒ぎと違って、どえらいことと違いますやろか」
「ちょっと見てきます」
私は階段を駆け上って、教会堂の二階の外の周りにある外廻縁から、足音のした方を眺めた。やはり西の方角だ。視界を遮るのは本能寺の大屋根とその周りのこんもりとした森だが、その北側にある信長殿の屋敷の方が一段と騒がしかった。次から次へと大勢の人々の足音が、そちらへと向かっている。
私はさらによく見えるようにと、三階に上がった。西向きの部屋はカリオン師の寝室だったがそちらに失礼し、その窓から外を眺めた。
三階に上がってもさすがに足音を立てて走っている人々の群れの姿までは見えなかったが、何本もの旗が民家の屋根の向こうを織田殿の屋敷に向かって流れていくのは見えた。
水色の旗だ。そこにカンパニュラのような花がディセニャーティされている。日本の武士でも大将クラッセの人々は独自の色とディゼーニョの旗を持っている。
信長殿は黄色に貨幣だ。だが、あの水色にカンパニュラの旗は見たことがなかった。
ついに来たか、と私は思った。来る時が来てしまったようだ。私が予想していた通りのことが、今起きようとしているのかもしれない。
だが、おかしい。
ヤスフェが織田殿の屋敷には近づくなと言っていた。だがそれは、今日徳川殿が堺から都に来ることになって、その徳川殿が都に入った後ではという話だった。
だからこそ、私はかなりの自信を持ってある仮説を立てたのだ。これから都で起こるはずのことについてヤスフェは口が堅く漏らしてはくれなかったが、私はかなりの確率で予想できたつもりでいた。
なぜなら織田殿は前に安土で、一度は徳川殿を毒殺しようと試みたと私は推測していたからだ。
しかし、今日徳川殿が都に来ることになっているとはいえまだ早朝だ。徳川殿がもう都に着いているなどということはあり得ない。まさか昨夜のうちに堺を出て、夜通し歩いて朝に都に着いたなどそのようなことも考えにくい。しかも、その必要もないだろう。
そのうち、織田殿の屋敷の方での騒ぎは一段と大きくなった。兵士たちの鬨の声と剣戟の金属音も聞こえる。そしてそのうち、何発もの銃声がまだ明けきらぬ都の盆地の底に響いたのである。
こうなると、騒ぎの声は兵士たちのみならず、民家から一斉に外に飛び出した住人たちの戸惑いどよめき合う声が響きだした。口々に騒ぎながら本能寺近くの民家の人々は悲鳴と叫び声とともに一斉に逃げてくるし、銃声に驚いた人々は何事かと見に行こうと一斉に走って本能寺の方へ向かう。
その逃げてきた人々と見に行こうとしている人々がちょうど教会の門の前あたりでぶつかる形となり、騒ぎは一層拡大する。
銃声は一発や二発ではなく、ひっきりなしに続いている。静かな朝を迎えているはずの都の真ん中で、何かとてつもないことが起こっているのだ。
しかしそれは、徳川殿がまだ都には来ていない以上、私が予想したこととはまるで違う何か大きな、私の想定外の事態だ。
とにかく私は階下に降りて、御聖堂のカリオン師に状況を説明した。もうここにも外の人々の絶叫と悲鳴と足音が響いてくる。
「門をしっかり閉めなさい」
カリオン師は日本語で同宿に命じていた。
「ロレンソ兄!」
私は畳に座ってミサが始まるのを待っていたロレンソ兄に聞いた。
「信長殿の家来で、水色の旗を使う人は?」
ロレンソ兄は、ゆっくりと顔を挙げた。
「明智日向守様でございますな。水色に桔梗の花の御紋が入っていたはず」
「桔梗とはどのような花ですか?」
「紫色の、花びらが五つある花です」
まさしくカンパニュラだ。そうなると間違いない。明智日向守……その名前を聞いても、私は驚かなかった。むしろ、やはり……と思った。明智殿が軍隊を連れて今日都に来るであろうことは、私は十分に予想していたのだ。
だが、早すぎる。こんなに早朝に来るはずがない。
徳川殿がまだ都に来る前に明智殿が来るはずがない。はずがないことが今起こっている。
いったい今何が起こっているのか……私はもうわけが分からなくなっていた。
そのまま、戦闘は一時間ほど続いていた。銃声も絶え間なく聞こえてくる。
ほぼミサの支度を終えようとしているところだったが、とにかく今は準備も中断して待機だ。そのうち焦げ臭い風が、開け放った窓から漂ってきた。私はもう一度、二階に上った。
目を疑った。
信長殿の屋敷は立ち上る炎と黒煙に包まれていた。黒煙は火の粉を飛ばしながら中天近くにまで登っていた。火薬の臭いと木材が燃える臭いが重なって、ものすごい臭いが屋敷の方からぶつかってくる。
あの中で、信長殿は一体どうなってしまったのか……信長殿の屋敷には、今は軍隊は全くいないはず……それを思った時、ふと頭の中で何かがはじけた。
この事態とは、まさか……。
この国の今の状況ならあり得ないことではない。とにかく私は御聖堂に戻った。そして信長殿の屋敷が炎上していることカリオン師に告げた。
「今日の風の向きは?」
カリオン師はすぐに、同宿の少年に聞いた。
「南からの風がごくわずか」
少年は答えた。私も胸をなでおろした。それならばこちらの方へ延焼が広がる心配はない。いや、『天主』に絶対的信頼を置いている我われは、最初から心配などしていない。
しかし、とにかく日本の家屋は木と紙でできているといっても過言ではない。一度火が付いたらあっという間に延焼して、一面が焼け野原となってしまうことなど珍しくはないと聞いている。
だが、今日は風もほとんどないようなのでその懸念はなさそうだった。総てが『天主』のお仕組みである。
その時である。耳をつんざくような爆音が響き、御聖堂の柱も畳も軋んで音を立てた。さすがに我われも「うわあぁ」と叫び声をあげてしまった。だが、爆音は一回きりだった。
明智軍は大砲を撃ち込んだのかとも思った。だが、大砲の破裂音ではないようだ。何か火薬が一斉に爆発したという感じの音だった。
皆で二階に駆け上がった。カリオン師は祭服のままだ。そして音のした方を見てあっと叫んだ。先ほどは猛火に包まれ勢いよく炎を吹き上げていた信長殿の屋敷の屋根がきれいに消えていた。先ほどの爆音で吹き飛んだらしい。もうあの中にいたら、誰も助からないであろうと思われるほどだった。
騒ぎが収まるのはわりと早かった。
午前七時ごろには、外はもう平静の静けさを取り戻していた。大騒ぎしていた町の人々も、三々五々と自分の家に戻っていったようだ。町にはまだ軍隊がたむろしている。こういう時は外を出歩かずに、自分の家にこもっていることの方が安全だと彼らは知っているのだ。
火事の延焼は全くないようであった。ただ、こういったときは勝った軍隊は周りの民家を放火したり、残党狩りと称して民家を調べ、また略奪したりするのも常であったから家の中にいても人々の恐怖は並大抵ではなかったはずだ。
そしてそのことは、我らが教会とて同じことだ。いつ明智の軍が我われの教会をも詮索に来ないとも限らない。
それに、この教会の近くは静けさを取り戻していたとはいえ、まだ遠くから銃声は聞こえ続けている。戦いの場がよそに移っただけで、まだ事態は収拾してはいないようだ。
その銃声は教会や本能寺の屋敷よりもずっと北の方で聞こえていた。
「祈りましょう」
カリオン師は御聖堂に戻ってきて、そこにいた修道士や同宿に告げた。例の信徒の職人は目を丸くした。
「え? こないな時にも御ミサをやらはるんどすか?」
だが、カリオン師は静かに言った。
「このような時だからこそ、祈るのです。我われが無事であったことの感謝と、多くの人々が血を流したことでしょう。彼らは異教徒ですが、皆等しく『天主』の子であります。彼らの霊魂のためにも心静かに祈るのです」
こうして、時間が引き延ばされていたミサがようやく始まった。
ミサの間中も、遠くの銃声は聞こえ続けていた。
4
そのミサがちょうど終わった頃である。
門を激しく叩く音がした。時刻は朝の九時を回っていた。
同宿が、門を開けたものかどうかカリオン師に尋ねてきた。カリオン師と私は顔を見合わせた。もしかしたら敵がここに逃げてきていないか、明智の軍の兵士が詮索に来たのか……。
しかし、開けなかったら彼らは何をするか分からない。普段は沈着な人であったとしても今は兵として戦争に参加して戦ってきたばかりだから、神経も高ぶっていることも考えられる。
そこで私が門まで行ってそっと門を開けた。
だが、そこに立っていたのは体中を縛られ、二人の兵に護送されてきた巨大な黒い武士……。
「ヤスフェ!」
その着衣は破れ、ところどころ血なのか泥なのかで汚れていた。髪もほどけ、顔もぐしゃぐしゃだ。体中をけがしているようだった。
「ヤスフェ、無事だったか!」
あとから出てきたカリオン師も叫ぶと、すぐにヤスフェを中へと連れて行った。
「では、しかとお届け申した」
丁寧にお辞儀をして去っていこうとする兵士を、私は呼びとめた。
「ちょっと待ってください。何が起こったのですか? あなた方は明智殿の家来ですね?」
「いかにも」
呼びとめられて、兵士は振り向いて立った。
「あなた方は何をしたのですか。何が起こったのですか?」
「拙者どももよく分からなぬのだ」
こちらが外国人だからか、わりと気軽に兵は話してくれた。
「拙者どもはただ主の命じるままに都に着て、命令通りにあの屋敷を包囲し、銃を撃ち込み、屋敷を焼きました。何が起こっているのかは拙者も分からぬのでござる」
「我われは備中に行くための出陣だとばかり思っていたら、急に都に行くと告げられた。そこで我われは皆、主の明智日向様は都でついにあの三河の家康を討つのだとそう思ってまだ暗いうちに都に着いた」
やはり……と私は思った。明智殿は徳川殿を襲撃して殺すよう織田殿から命じられていたのだ。私の思ったとおりだった、そこまでは……。
だがそのあとの出来事はわけのわからない奇妙な事件としか言いようがなかった。徳川殿はまだ都にはいないのである。そして襲われたのは織田殿の屋敷……果たして織田殿は無事なのか……。
だが、あの跡形もなく屋敷を吹き飛ばした大爆発があったのだ。おそらくは……。
「もうよろしゅうござるか。戦に戻らねばならぬ」
「戦争はもう終わったのではありませんか」
「まだ、我われがいた妙覚寺の方は戦っておる」
妙覚寺といえば、城介勘九郎殿が泊まっている寺だ。
私が彼らを帰して戻ると、ヤスフェは別棟の集会所のような平屋の建物の床の上に足を投げ出して座り、茫然とした様子でいた。それをカリオン師や修道士たちで取り巻いている、
「どうした、ヤスフェ。何があったのだ?」
カリオン師がそう尋ねても、ヤスフェはただうなだれていた。しばらくそうしてから、やっと顔を挙げたヤスフェの目には涙がたまっていた。
「上様が、上様がお亡くなりになった」
そしてしばらく号泣していた。
それも落ち着いたころ、とにかく我われはヤスフェから詳しいきさつを聞くことにした。
いったん泣きやんだヤスフェは、今度は魂が抜けたように茫然と座り込んでいた。視線が宙を這っていて、我われを見ていない。
「ヤスフェ」
私がゆっくりと声をかけた。ヤスフェはやっと私を見た。
「いったい何が起こったんだ? 我われも知りたい。話してはくれないか」
ヤスフェの視線がまた宙を漂った。
「分からない。私にも分からない」
それからヤスフェは、しばらく何かを口ごもっていた。それはポルトガル語でも日本語でもなかった。おそらくはヤスフェが生まれ育ったモサンビーキの言葉かもしれない。
それからまたヤスフェは、私とカリオン師を交互に見た。
「疲れた」
やっとポルトガル語で言ってため息をついた。
「おととい君は我われに、あまり信長殿の屋敷には近づくなと言っていたけれど、こうなることは分かっていたのかね?」
カリオン師が聞くと、ヤスフェは首を横に振った。
「あり得ない。信じられない」
そしてしばらく間をおいてからまた口を開いた。
「本当は、今だからこそ言いますが、上様が都に来られたのは家康を討つためです」
家康とは徳川三河守殿のことだ。そしてそれは私が予測した通りのことだった。
織田殿はわざと少人数の手勢のみで都に来る。これで徳川殿を安心、油断させ、本当なら今日の夕方頃に徳川殿は堺から都に到着し、それに合わせて都になだれ込んだ明智殿と筒井順慶殿という殿の軍勢が徳川殿を襲うという手はずだったとヤスフェは語った。
だが、あまりにも早く明智軍は都に到着した。それは時間を間違えたとか早く着き過ぎてしまったとかいうたぐいではなく、あきらかに意図的、計画的なことだった。
「安土でも上様は明智様に命じて家康を毒殺しようとしました。毒は鯛の料理に入れたのですが、家康は食べる直前にその鯛が腐っていると騒いでとうとう口にしませんでした。毒殺は失敗だったのです。その頃から、私も何かおかしいと思ったのです。家康の接待役は明智様、そして家康が安土に来る前の日に明智様は番場という所まで家康を迎えに行き、そこでちょうど一晩ともに時間を過ごしていました。果たして、明智様は家康の毒殺をしくじった。いや、しくじったのではない。おそらくわざとだ」
いつになく、ヤスフェの声が聖歌隊のアルトのように低く響く。
つまりは、明智殿は毒殺計画を事前に家康に漏らしたのだ。しかも故意に。
数ある料理の中でも、毒を仕掛けたのは鯛だということまで……。
「そして今日の昼か夕方、明智様の軍勢が都に入る前に何とか家康を堺から都におびき寄せておかなければならないと、上様はそれは苦心しておられた。これは小姓の中でも乱丸と私しか知りません」
ヤスフェはよほど信長殿に信頼されていたらしい。
「だが、明智様は早すぎた。こんなに早く都に来るなんて手違いか…いや、これもわざとだ」
ヤスフェは肩を落とした。
「信長殿はまだお休みだったのかね?」
ヤスフェは首を横に振った。
「もう起きておられて、顔を洗って、日本式のトアラ《(タオル)》で顔をふいておられるところでした。何やら外が騒がしいけれど、門前で誰かけんかしているのかとお尋ねでした。ところが次の瞬間、明智の軍勢はもう屋敷の庭に入り込んでいました。門番も上様の御家来衆である明智様の軍勢だから、何も考えずに門を開けたのでしょう。でも最初に殺されたのはその門番です。明智軍がこんなに早く到着したというだけでなく、明智軍は明らかに上様殺害が目的でやって来たようで、たちまち上様に銃を撃ちかけ、我われ小姓や屋敷にいたわずかな武士たちで明智軍と戦いましたけれど、向こうは千人、いや三千人以上はいるかと思われる大軍勢、こっちは数十人、勝てるはずがありません。明智の軍勢が自分を裏切って攻めてきたのだと知った時、上様は『自分の策のせいで自分が命落とすことになるとは』と苦笑して、それから槍をもって明智の兵士たちと戦いました。でも、明智はどんどん屋敷に矢を射かけ、また銃を放ちます。狭い庭は上様のお屋敷にいた武士たちの死骸があちこちに転がっていました。そしてついに明智はお屋敷に火をつけたのです。あの屋敷に火をつけたら大変なことになります。明智の軍はそれを知らなかったらしい」
「どういうことかね?」
「あのお屋敷の地下には、戦争のために使われる鉄砲の弾薬が大量に貯蔵されていたのです」
それで先ほどの爆発音かと、私も納得した。どちらかの攻撃の音ではなく、貯蔵されていた大量の火薬に明智軍が放った火が引火したのだろう。
あれほどの爆発だ。おそらく屋敷内にいた織田殿の家来の人たちばかりでなく、敷地内に残っていた明智の軍もほとんど吹き飛ばされただろう。
「屋敷に火をつけられた時点で上様は御覚悟をなさったのか、奥の部屋に入って行こうとされました。その間際に私を呼ぶのです。そして事の次第を妙覚寺の城介様に伝えて、とにかく城介様は落ち延びて安土に戻り、織田家を立て直すよう伝えてくれと私に託しました。まだ、あの爆発よりも前です」
またヤスフェの目から涙がこぼれ始めた。
「私は馬を借りて、妙覚寺へと向かいました。でもそのあとは明智の軍勢の一部が追跡してくるのです。おそらく明智様は城介様が都にいることを知らなかったのでしょう。でも私が妙覚寺に馬を飛ばしたのだから結果として城介様の居所を明智に知らせることになってしまった」
またヤスフェは号泣だった。
「まだ妙覚寺に着く前に、あの大爆発の音がしたのです。後ろにはもうかなりの明智軍が私を追って走ってきていました」
すると、明智日向をはじめとする明智軍の主流は、あの爆発の時はすでにもう屋敷の外にいたことになる。
「でも、もう知らせは城介様のところには行っていたようで、城介様は妙覚寺を出て二条御所に行かれていました」
それは帝の皇太子である皇子のために、織田殿が造営して差し上げた非常に豪華な邸宅であるということは聞いていた。
「城介殿は妙覚寺がただの寺であって要塞ではないことと、皇子をお守りしないといけないといけないということで二条御所に行かれたのです。ですから私もそちらへ駆け込みました。次の瞬間には二条御所も明智の軍に包囲され、皇子は何とか脱出させましたけれどそれが合図に明智軍は総攻撃をかけてきました」
つまり、ミサの間中北の方から聞こえてきていた銃声は、この二条御所での戦争の音だったのだ。
「私は城介様に上様のお言葉を伝えましたが、父を見捨てて自分だけ生きながらえて逃げることはできないと言われて、なんとか本能寺の屋敷まで上様をお助けに行こうとよく戦いました。妙覚寺にいた城介様の軍も戦いましたけれど、突然の奇襲に皆戦争の準備をしておらず、甲冑もつけず、銃の準備もできませんでした。ただ刀と槍と弓だけで戦っているところに銃撃を食らってはひとたまりもありません。皆次々に殺され、あるいは生け捕りにされました。こうして私もとらえられて、刀を渡せというので仕方なく刀を渡したら、縄で縛られました。そして首をはねると言われたのですが、明智日向が直々に私のことを、こいつは日本人ではないし、この黒い体は人間とは思えぬから殺さなくてもよいと言ったそうで、それで胸の十字架を見て教会に連れて行って引き渡せということになってここに連れてこられたのです」
その話を聞いて、私もカリオン師も胸をなでおろした。『天主』は決して信者をお見捨てにならない、御守護を下さる、その験を見たような気がした。
『天主』の御実在とその臨在性を強く勘じたのである。そして手を組んで短く祈りを捧げた。『天主』に、主キリストに、聖母マリア、そしてすべての天使と聖人に感謝の祈りを捧げた。
そしてヤスフェの「上様が亡くなった」という言葉の重みが、この時になってようやく我われの頭上にのしかかってきた。
言葉でそう言われても何かまだ実感がわかず、時が止まってしまったような感覚さえあった。
だが、この国にとって、そして我われイエズス会にとってもこれは重大な非常事態であることはじわじわと実感し始めていた。
まるで強く引っ張られた縄が元に戻ろうとするように、緊急事態であることは分かってはいても逆に本能的に冷静になろうという反作用が心の中で起き、それが葛藤を始めていた。
しかし、事態は急を要することは動かせない事実だ。
「安土に知らせねば。安土のオルガンティーノ神父に一刻も早く知らせねば」
カリオン師がそう言う。もともとミサのあとに安土に帰る予定だった私だ。
「今から出発します」
「申し訳ないがロレンソ兄は残ってください」
こんなときに盲目の老人を連れてのんびりと旅はしていられない。
「私が護衛します」
ヤスフェがふらふらと立ちあがろうとしたが、私はそれを制した。
「君はここに残って、この教会を守ってくれ」
ヤスフェにそう言ってから、私はカリオン師に言って教会で所有していた馬を借りた。一刻も早く馬を飛ばして安土に帰る予定だ。
かつてヴァリニャーノ師が決めた規則では、司祭は外出するときは必ず司祭同士かもしくは修道士を連れてでないと出かけてはいけないことになっている。しかし今は緊急事態だ。私は一人で馬を走らせることにした。
「では、お願いします。追ってこの事件は詳しく文章でお知らせしますとオルガンティーノ神父にはお伝えください」
私は馬上からカリオン師のその言葉に答え、ヤスフェにあとのことを託して門の外へ出た。
そして四条通りに出ると東に向かって一気に馬を駆けさせた。




