Episodio 1 Indipendente(独り立ち)
1
到着した夜は有馬の神学校の司祭館で、巡察師ヴァリニャーノ師を中心とした我われ一行の帰還を祝する夕食会が行われた。
日本に来てからこの有馬に住んでいたのはわずか数カ月、そしてここを離れていたのは一年と二カ月近くになる。それでもなぜか懐かしさを感じてしまうのはなぜだろうかと思う。
当然のことながら、一年ちょっとでそんな大きな変化があるわけもなく、我われがいた頃とこの有馬は、神学校も町の様子も何ら変わりはなかった。
その神学校からは学生たちの元気な声が今も変わらず聞こえてきていたし、我われの船が港に着いた時は信徒ばかりでなく神学校の学生たちも皆、総出で出迎えに来てくれた。彼らの顔つきに、ほんの少しではあるが成長の様子がうかがわれた。
ヴァリニャーノ師は夕食会の前に早速連れて来た泊のゴンサーロ・ヴァスの息子、ペトロ鹿島を学院長に預けた。学院長は私と同世代のイスパニア人で、かつて初めて私が日本に来た時に長崎で会ったことのあるメルヒオール・デ・モーラ師という司祭だった。今では長崎からこの有馬に来て、神学校の学院長となっている。
この日は口之津からバルタザール・ロペス師も駆けつけてきてくれていた。ほかにクリストヴァン・モレイラ兄など修道士も数名いて、それらの人々が我われの歓迎宴を開いてくれたのである。モレイラ兄は、以前臼杵にいたのを覚えている。若い、まだ二十代の修道士だった。
夕食会ではヴァリニャーノ師の独演場で、豊後のことから都、安土、特に織田殿との会見の模様などが事細かに語られていた。それを時々フロイス師が補足するという形だった。
そしてこの席で、安土から持ってきた織田殿よりもらったあの安土城が描かれた屏風が披露され、人びとは息をのんだ。
「この屏風は、長崎に持っていってしまうのですか? できればこの有馬に」
モーラ師の言葉に、ヴァリニャーノ師は笑って首を横に振った。
「これは私がローマまで持ち帰り、教皇様に献上致します。織田殿はイエズス会にこれを下さったのではなく、広くエウローパの人びとに日本を知らしめるためにということでくださいましたから、日本に置いておいては意味がありません。日本のことをいくら言葉で説明しても彼らは理解しないであろうから、いっそのこと絵で見せてしまえという感じですね」
そのヴァリニャーノ師の説明には、皆納得していた。
「我われの修道会は日本にキリストの教えを伝えるという目的でここまで来ています。しかし、私はこれからローマに帰らねばなりません。そうなると私にはもう一つの使命が加わります。つまり、逆に日本のことをエウローパに知らしめるということです。できれば、日本の信徒を何人か連れて行きたいくらいなのですが」
またそのことを言われると、私にとってはヴァリニャーノ師との別れが近づいていることをいやでも痛感させられてしまう。
そんなやり取りの中で一同を見まわし、この中にある人物がいないことを私は確認していた。
臼杵まで戻ってきた時はカブラル師と会うのが少し緊張だったが、ここではコエリョ師と顔を合わせるのが気が重いなと思っていたのだ。
どうも私の中では、カブラル師とコエリョ師はひと括りの中に入るような印象を持っている。
ポルトガル人だからということではない。それならほかにもポルトガル人はたくさんいる。いや、この国におけるイエズス会では、ポルトガル人がいちばん多い。
だからそういうことよりも、やはりヴァリニャーノ師とカブラル師が衝突したことで、カブラル師とコエリョ師に対する印象を持ってしまっているらしい。
しかもその場所が、今日帰って来たばかりのこの場所、有馬だったからだ。
コエリョ師は表立ってヴァリニャーノ師とぶつかったわけではないが、どうもカブラル師の背後に常にコエリョ師が控えていたような印象なのである。
二人は何か通じあっていると、私はあの時から実感していた。
だが幸いなことに…と言ってしまうとコエリョ師に怒られてしまうだろうが、コエリョ師は有馬にはいなかった。気になったのでそっとモーラ師に聞いてみると、彼は今は長崎だという。
また怒られるかもしれないが、私は少し安心したのも事実である。しかし、間もなくヴァリニャーノ師は日本を離れ、その出航は長崎からであるから、我われも間もなく長崎へ行かねばならないことになるのは分かっている。
そんなことを考えながら、私は食事をしながらほとんど口をはさむことなくヴァリニャーノ師の話を聞いていた。
ここに帰りついてからあらためて都、安土の巡回の話をまとめて聞くと、すべての出来事が夢の中で過ぎ去ったことであるかのようにも感じる。
そして自分の中でも、この一年余りのことを反芻してみた。何かため息とともに、脱力感さえ感じる。
その脱力感を抱えたまま、夕食後、就寝までの間に私は司祭館の庭に出てみた。まだ寒いというほどではないが、それでも夜はかなり冷えるようになってきていた。
月はない。だから、それだけに降るような満天の星を見ることができた。そんな星空の下の庭に座り込んで、私は漆黒の闇を見つめていた。
ヤスフェと初めて会ったのも、こんな闇夜だった。そのヤスフェとも、今は安土と有馬で離ればなれである。
私はもう一度、都や安土でのことを振り返ってみた。
福音宣教という観点からすると、私が日本に来るまでにイマージネしていたのとはだいぶ勝手が違った。まるで草を分けるようにキリストの教えをまだ知らない人びとの家を訪ね歩き、イエズス様が弟子たちを二人ずつ派遣したように家から家へと渡り歩いて教えを述べるような自分の姿を想像していた。
だが実際はどこへ行ってもすでにおびただしい数の信徒に迎えられ、歓迎され、本当にあの高槻での復活祭はローマさながらだった。
福音宣教といえでも、すでにほとんどお膳立てはできていて、まだキリストを知らない人によき知らせを伝えるといっても、どんどん向こうから求めて近づいてくるのだ。楽な福音宣教だったことをも思い出して、やはりため息がついた。
しかし、かつてこの国でも私が想像していたような文字通りの福音宣教をして、道を開いてくださった諸先輩がいたからこそ、今の状況があるのだなとも感じていた。
とりわけ、たった一人からこの国に灯を点じたザビエル師の足跡をたどることもできた今回の旅で、その苦労を垣間見ることはできたような気もする。
そういった先人たちの苦労と苦難があってこそ、今では信徒数十万という基盤がこの国にはできている。自分はそれよりずっと遅れてやって来て、すでに基盤が確立している中での福音宣教だ。
教会もある。ミサの道具も揃っている。司祭もかなりの数がいる。そして何よりおびただしい数の現地日本の信徒たちの社会が存在する。
もちろん少しは私にも苦労はあって、それは臼杵でのジェザベル、高槻で石を投げられたこと、都の柳原殿の屋敷での門前払い、室津の洗礼志願者との齟齬などだが、そのようなものは先人の苦労に比べたら物の数ではない。
たった一粒のシナピスの種となってこの国でたくさんの実を結ばせたザビエル師、さらに世界規模で究極的にはたったお一人で人びとの救いに立ち上がられたイエズス様……それを思うと、私は自分が恥ずかしくなった。
ましてやこれまでは、私は昔の教官というよしみで総長代行の巡察師であるヴァリニャーノ師に腰巾着のようにくっついていただけだ。
そして残酷な現実が、すぐに私の頭をよぎる。間もなくヴァリニャーノ師は日本を離れる。私は残る。これから先はヴァリニャーノ師なしで、本当に自分の足で歩いてこの国で福音宣教をしなければならないのだ。
それを思うと、思わず全身が震えた。
2
翌日は、ヴァリニャーノ師らと共に有馬の城に上がって、殿のドン・プロタジオに帰還の挨拶に行くことになっていた。
一年数か月前に歩いた道を、また再び歩く。神学校の裏手の小山が城だが、その麓に沿って少し歩いてやがて城の門に辿り着く。
あの安土の城を見てしまってからは、他のどの城を見てもすべてが小ぢんまりと小さく見えてしまう。だが門を入って、屋敷のある高台の上まで登る幅の広い石段を見たとき、私は思わず納得したものがあった。それは私だけではなく、ヴァリニャーノ師やメシア師もそうであるようだった。
この石段は、安土に似ている。前に来た時はまだ安土城を見る前だったから当然そのようなことは考えもしなかったが、安土城を登った時にそういえば有馬城に似ているなと思ったことを今さらながら思い出した。
石段は安土城のそれよりも規模はかなり小さいが、形状は完全に模倣していた。
と、いっても、この城を設計した者があの遠い安土城を実際に見て模倣したとはとても考えられない。恐らくは図面か、あるいは伝聞によって、意識的に安土城を模したと考えるのが妥当であろう。私はそのことをヴァリニャーノ師に言った。
「私もそれを考えていたところだよ」
ヴァリニャーノ師も同調してくれた。
考えてみたら恐ろしいものだ。こんなに遠く離れた城の築城の技術にまで影響を与える安土城のすごさを、そして織田殿という男のすごさをあらためて感じていた。
前に会った時はまだ少年だったドン・プロタジオ有馬殿だったが、しばらく見ないうちに背も伸び、少しだけ大人の顔つきになっていた。
少年の成長は早いもので、一年数か月ぶりに会っても大人は全く変わってはいないが、少年は全然違う。
ドン・プロタジオは大人びた様子で、それでいて以前と同様に我われを上座に据えて、親しげに話してくれた。
やはりここでもドン・プロタジオが一番関心を持ったのは、織田殿の話だった。その時だけは目を輝かせ、食い入るような表情でヴァリニャーノ師の話、そしてそれを通訳するフロイス師の言葉に全意識を集中させていた。
その日の午後は司祭館の一室で、今後のことについて私とヴァリニャーノ師で軽い話し合いがあった。そこでも、私はため息ばかりをついていた。今後はどうなるのか、先が分からないからである。
「ジョバンニ、いやコニージョ神父もこれまで私と行動をともにしてきたけれど、今後は自分で自分の身の振り方を考えねばならない。どこの教会に所属するかとか」
ヴァリニャーノ師にそう言われて、私はしばらく間をおいた。そして一度目を伏せてからヴァリニャーノ師を見た
「神父様、今までずっと私をそばに置いてご指導くださいましたけれど、神父様が日本を離れてからがいよいよ私の日本での福音宣教の正念場だと思っています」
それを聞いたヴァリニャーノ師はにこやかな笑顔でうなずいた。
「そうだよ。しっかりとした心構えができているのだね。それを聞いて思ったのだが、今年中に私の日本滞在の最後の仕事となる長崎での協議会を開かねばならない。そこで君には私より一足先に長崎に行って、いろいろとお膳立てをしておいてほしいんだ」
「え? 私が一人で行くのですか?」
「もちろん、規定通り道中には修道士をつける。司祭の単独行動はしないようにという規定の中にも盛り込んでしまったからね」
「いえ、そういう意味ではなくて、神父様といっしょにではなくて私が一人でという意味ですか?」
「そうだよ、今言った君のその心意気があるのなら大丈夫だ」
「しまった、言わなきゃよかった」
私がおどけて言うと、もちろんそれがスケールツォであることはヴァリニャーノ師も分かっているはずで、二人で声をあげて笑った。
「次の日曜日のミサはここで盛大にやるから、それが終わったら出発してくれ」
今日は火曜日だから出発まではあと数日ある。だが、その来週の日曜日を過ぎればすぐに十一月になる。今度は有馬に少し長めに逗留できると思っていたが、どうもそれも許されないようだ。
そしてヴァリニャーノ師との会見が終わって部屋の外に一歩出たとたんに、私はあることを思い出した。長崎に行くとすれば、そこでいよいよついにコエリョ師と顔を合わせることになる。それだけがなんとなく気が重く感じられた。
それから日曜日まで、少しはのんびりとすることができた。
時には神学校の授業を見学などしていた。
「安土でもそうだったけれど、これまでの航海のすべての苦労も、この少年たちの瞳の輝きを見ればすべて『天主』によって分け隔てなく報われてしまうよ」
彼らが我われの到着を出迎えた時、そのはつらつとした笑顔と瞳の輝きを見てヴァリニャーノ師はそんなことを言っていた。
彼らはすでにラテン語での読み書きも、ラテン語による聖歌も歌えた。その点では、安土の神学校の生徒たちもそうであったけれど、やはりこちらの生徒たちの方が断然上をいっていた。
日曜日のミサはヴァリニャーノ師の司式で、城から領主のドン・プロタジオも降りてきて庶民の信徒に混ざって参列していた。
ここでも神学校の学生による聖歌隊が、ミサの荘厳さをさらに引き立たせた。
ミサの中の説教の時のヴァリニャーノ師の話は、都や安土の日本人の信徒たちが実に模範的な様子であったかということであった。
話はフロイス師によって逐語的に日本語に訳されていたし、それは日本人の信徒に向けての話であると同時に、主にヴァリニャーノ師の意識としては領主ドン・プロタジオに向けての話というような感覚だった。
そしていよいよ出発の日、私はジョルゲ兄という日本人修道士とともにドン・プロタジオが手配してくれた船で有馬の港を後にした。
朝出れば夕方までには長崎に着くという。かつて長崎から口之津まではナウ船で送ってもらったが、ナウ船だと確か数時間しかかからなかったのを覚えている。
船はしばらく陸地に沿って西に行き、口之津の港を船上から眺めながら岬を回ると、そのあとは大きな湾を一気に横断した。そしていくつかの岩が海中から出ている間を抜けて長崎港のある入り江を、左に稲佐山を見ながら船は進んだ。そしてたしかにに夕刻になる前には長崎に着いた。




