Episodio 8 La croce svolazzante e il Vesuvio(はためく十字架とヴェズーヴィオ)
1
翌早朝、快晴のもと、私とトスカネロ兄は馬に乗って、やはり馬上のゴンサーロ・ヴァスの先導で鹿児島へと出発した。
もう一頭の馬は荷駄を運ぶ駄馬で、その轡取りにドン・ビンセンチオが小者といわれる日本人の少年を三人ばかりつけてくれた。使い走りのような身分の低い使用人である。
荷物は島津殿への贈り物である。ゴンサーロ・ヴァスの息子のペトロは、ヴァリニャーノ師らとともに留守番だった。
時刻はまだ九時前で、この時間に出れば夕方の明るいうちに鹿児島には着けるという。まだ真冬ほどではないが、少しずつ日は短くなってきている。気候もだいぶ過ごしやすい涼しさになっていた。
市来鶴丸城の門は南向きなので、西の港から来た時は門の向かって左の方の道から到着した。出発した我われは門の正面の道を、まずは南下した。道は真っ直ぐではなく時には東向きになったり南向きになったりとクルヴァしながら、全体的には南東の方角に進んでいた。
しばらくは開けた土地を進んでいたが、当然周りは丘陵に囲まれている。それほど高い山は見えず、どの方角も小高い丘の連続だ。やがて森の中を道は進むこともあった。
土地は多少起伏があって時々小さな峠道になることもあったが、おおむね平らな道だった。馬二頭が並ぶとそれでいっぱいの幅なので、二頭ずつ前後になって我われは進んだ。
わずかな平らな土地があるとそこは耕地で、このあたりでは水田ではなくほとんどが畑だった。時にはパッと視界が開けて、集落の中を道は通ることもある。
我われが通過したいくつかの村はすべて伊集院郷に含まれ、その集落の一つのはずれにある小高い丘が島津殿の外城である一宇治城だった。
外城とは島津殿の城ではあり、昨夜泊まった市来鶴丸城もそうである。だからここも今は留守を預かる守将がいると思われるが、我われは先を急ぐので通り過ぎることにした。
ただ、この城は今でこそ外城だが、島津家の先代大中公殿の時はここが島津の城であり、ザビエル師が大中公殿と会見して布教の許可をもらったのもこの城でのことであるとゴンサーロ・ヴァスから聞いた時は、余計素通りするのが後ろ髪引かれる思いだった。
集落を通り過ぎると道はまた起伏と木々の間を縫って進む田舎の街道となった。確かにまだ午後の遅い時間といえる頃に集落が増えてきた。
その集落の向こうに、ひときわ高い山が姿を見せるようになった。道はその山に向かって進む形だ。
この国の山はだいたいが緑で覆われているが、例外的に高い山は草木がない。これまで見た山では雲仙、阿蘇などがそうであった。この山も同じように麓以外には草木は見えないので相当高い山だ。
「あや桜島ですよ」
ゴンサーロ・ヴァスは言った。
「火山です。時々《とっどっ》火を噴っ山です」
そう言われて思い出しのは、雲仙、阿蘇もそうであったことだ。どうもこの国の高い山は火山であることが多いようだ。まさしく火の国である。
「なぜ山なのに島というのですか?」
と、私は素朴な疑問をゴンサーロ・ヴァスにぶつけた。
「手前の海を挟んで見っと、島のごと見ゆっとですよ。実際は地続きじゃっどんね」
「手前に海があるのですか?」
このあたりからはまだ遠く、集落の向こうの遠くにほんの少し頭を出している程度なので、海があるということは分からない。
「本当ちゃ、あん山を鹿児島といっちょったのじゃっどん、海のこちら側にある鹿児島神宮の方が有名になって、今じゃ海のこちら側の殿様の内城のある町が鹿児島と呼ばれるようになったとです」
やはり海と言われても実感がわかないので、とにかく早くその海を自分の目で見たいものだと私は思った。
そうこうしているうちに、すぐに鹿児島の市街地に入った。フロイス師は「カゴシマ」と発音していたが、土地の人は「カゴッマ」というらしい。
市街地といっても都の規模にはかなうはずもなく、豊後の府内よりも活気はないように思われた。人も少ない。
これが豊後や有馬でも「薩摩」と言って怖れている一大勢力のその中心地かと思うと何か拍子抜けしてしまう。
やがて、町の真ん中にいくつかの大屋根が見えてきた。
「あれが内城です」
ゴンサーロ・ヴァスが言うので驚いた。それは城でも何でもなかった。ただ申し訳程度の堀に囲まれた屋敷である。堀というよりも溝といった方がいいかもしれない。石垣もなければ櫓もない。当然、天守閣などない。
形態として豊後の府内の大友館と似ている。だが、規模は少し小ぶりだった。
さすがに都の本能寺の一角に信長殿が造らせたあの仮の屋敷に比べればましだが実質上は似たようなもので、防御という観点は全くなさそうだった。
だからこそ薩摩には他に外城がたくさんあって、すべて殿である島津殿が管理しているようだ。
我われが馬で近づくと、塀の上に何本も白い旗が立っているのが見えた。
「あの旗は?」
私はゴンサーロ・ヴァスに聞いてみた。
「島津様の旗印じゃんそ。合戦の時以外はあんごとお屋敷に旗を建つっこちゃせんのじゃっどん、かったバテレン様方が今日到着と聞ちょっので歓迎のために立てておられるのでは」
ゴンサーロ・ヴァスが言う言葉は訛りがきつくてほとんどわからなかったがいいにして近づくにつれ、なるほど我われを歓迎する意味かと確信した。
「おお!」
思わず私は感嘆の声をあげてしまったほどだ。
旗にはすべて十字架が書かれている。
島津殿は信徒ではないのに、ここまでして歓迎してくれるのかと感動した。まるで高槻のジュストと同様ではないかとさえ思う。
しかし、やはり信徒ではないだけにきれいな十字架ではなく筆、すなわち毛筆で書いた文字のような十字架だった。
「十字架ですね」
トスカネロ兄も慨嘆の声を挙げていた。私もゴンサーロ・ヴァスの方を見た。
「あれは、十字架?」
ところがゴンサーロ・ヴァスは、笑いながら首を横に振る。
「いやいやいや」
「え?」
「あや島津家の家紋でござんど。漢字で十の字ですど。キリシタンが伝わうずっと前から島津家ではあれを家紋にしておいもす」
そう聞くと、少し落胆もあった。つまり我われの用いるエンブレマのような家族の象徴なのだという。
確かに本来チーナの文字である漢字では、数字の10(十)は十字架に似ている。
「しかし、世の中は一切が必然であって、偶然ということはありません。これはもしかしたら島津家がいずれ信徒になるということを暗示するために『天主様』があの家紋を使わせたのかもしれません」
そう解釈すると、前途に明るいものが見えたような気がした。
2
島津殿の家紋を表したという十字架の旗が我われの歓迎のためであることだけは確かなようで、我われが門の前について馬から降りるとすぐに案内を請う前に門番の武士は我われの顔を見て言う。
「お待ちしておりもした」
そして門を開けて、すんなりと通してくれた。
驚いたことに、門の中にはすでに案内役であろう武士がすでに待機していた。
「ご案内を仰せつかいました野村民部と申す。さ、どうぞ、こちらへ」
我われは丁重に屋敷の中へと案内され、広間でほんの少し待っていると、すぐに殿が姿を見せた。我われは日本式に床に手をついて頭を下げた。上座に座った殿は、優しい声で言った。
「どうぞ、お顔を上げてたもんせ」
そしてすぐに言葉をかけてくれた。
「島津三郎左衛門尉義久でごわす。それがしの文に懇切なるお返事を頂き、今日はこうしてわざわざご足労呉い遣ったこと、真に傷ん入ります」
思ったより小柄な人だった。年の頃は織田殿と同じくらいかと思われて決して若いとはいえないが、まだ五十代には至っていないだろうという感じだ。
まずは我われが手土産に持参したエウローパの文物、時計に衣服などを進呈した。
「おお、大友などはこんいったもんを有り余っほど手に入れちょっとじゃな」
皮肉というよりも素直に喜んでいる感じだったが、今目の前にいるこの殿はかつてはドン・フランシスコと雌雄を決する大戦争をやった敵の大将であることをあらためて実感せざるを得なかった。
今でこそ織田殿の斡旋で和睦しているが、やはり互いに争ったという過去の記憶はなかなか消えないだろう。
だが私は、その考えをすぐに故意に打ち消した。なぜならそれはあくまでこの国の内政に関することだ。我われの目的はただ一つ、この国の福音化と魂の救済である。内政に干渉することはヴァリニャーノ師からも厳に戒められている。だから、誰と誰が敵で味方かなどは関係ないのだ。
例えば毛利や長宗我部のように今も戦争状態にあるというのなら我われの身に危険も迫りかねないので意識しないわけにはいかないが、大友と島津の戦争はそれがどんなに過酷で悲惨なものであったにせようもう過去のもので、すでに終わっているのである。
「ところで」
島津殿は我われの手土産から一時目を離して、我われを見た。
「あのアルメイダ殿ちゅうイルマンは息災ですか」
ここでもまたアルメイダ師の話題が出た。アルメイダ師は薩摩では相当有名人らしい。
「はい。マカオ、つまり天川で私とともに彼もバテレンとなりました」
「アルメイダどんも今じゃバテレンでごわすか」
「はい。今は天草におります」
「三年ほど前でしたか、アルメイダ殿がこん鹿児島に来られたのは。あの時はそれがしも亡き父の後を継いで初めっアルメイダ殿の訪問を受けたので、そん前にアルメイダ殿が来られた時に我が父が接したようには厚つ遇するこっができなんだ。申し訳なく思ているとお伝えくやんせ」
「かしこまりました」
市来ではアルメイダ師が二十年前に来たことばかり強調して話していたが、実は三年前にも鹿児島には来ていたのだ。恐らくその時は市来には行かなかったのであろう。だから、市来の人びとの間では三年前のことは話題に出なかったのだろうと思う。
「なにしろ坊主がうるそうてなあ」
島津殿はここで苦笑した。
「やはり、一向宗が強いですか?」
私はそう尋ねてみた。
「いやいや、こん薩摩には一向宗はほとんどおいませぬ。それがしが一向宗門徒は好きではなかとで、一向宗門徒は領内には入れてはおりもはん。織田殿も一向宗になだいぶ手を焼いておられう様子だが」
私は内之浦で一向宗の門徒だったあの老婆と話をしたことを思い出した。
「内之浦ではだいぶ盛んでしたが」
「あすこは島津の分家の北郷家の所領じゃっでね。まあ、身内じゃっどん」
そして島津殿は、少し真顔になった。
「とこいで、文にもしたためた通い、ぜひこん鹿児島の港にも、南蛮船に寄港してもらいたか。もしそよ承諾いただけるのなら、領内でのキリシタン布教も大いに奨励しもんそ。坊主どももなんとか致す」
もちろん、私の一存で答えを出せることではない。
「その件に関しましては、我われで話し合った上であらためてお返事致します。私個人としては、大いに結構だとは思いますが」
島津殿は、その返事で十分満足したようだ。
「いずれこちらから、正式な使者を長崎に遣わしもんす。それまでに話し合っておいてくだされ」
島津殿の顔に笑顔が戻った。
かつてカブラル師が、この日本の国では殿を信徒にするにはまずは教えよりもエウローパの文化に関心を持たせて、そこから入っていくのが得策だと言っていた。ドン・フランシスコの時もそうだったのだという。
何かとカブラル師とは意見が対立していたヴァリニャーノ師も、その点に関しては異論はないようだった。
島津殿は今でもドン・フランシスコにはなにかと対抗意識を持っているようだ。それがいい方に作用する可能性もあると思い、私には先行きが明るいように感じられた。
何よりも、島津家の十字架の旗に勇気づけられた感じだ。
「ところで」
私はここへ来たもう一つの任務について尋ねた。
「バテレン・アルメイダが三年前ではなく二十年前にこちらに参った時に、先代の殿であるお父上が、キリシタンのための家を儲けてくださったと聞いております。それが今はどうなっているのかと」
「ああ」
島津殿は残念そうな顔をした。
「アルメイダ殿も三年前に来られた時にそいを気にして見にやっておられもしたが、もうすっぱい関係のなか人が住んでいると落胆しておりもした。なにしろ父の代の時の話じゃっで、それがしよく知らんのです」
「そうですか。アルメイダから直接聞けばよかったのですね。なにしろ私も一年近くアルメイダとは会っていませんので。では、なおさらバテレン・ザビエルのことは」
「ザビエル様もこん鹿児島の港に上陸されもした。あの頃は島津家も伊集院においもしたから、一度だけ伊集院まで挨拶に来られもした。何ぶんそれがしもあの頃は若僧でして、主に父が話をしておりもしたからそれがしは直接は語ったこつもなく、ちらりとお姿を拝しただけです」
ザビエル師は坊の泊に上陸した後、再び船でこの鹿児島に上陸されたようだ。
「あん頃にザビエル様が住んでおられたお寺なら、こん城のすぐそばにあいもすよ」
これは朗報だった。
「ただ、あの頃ザビエル様と昵懇にされちょったご住職はもう亡くなっておいもす。三年前にアルメイダ殿も訪ねて、亡くなっちょっことを知って落胆しておられた。アルメイダ殿もそん前に来られた時にあんご住職と仲良くされて、そん時は目を患っておられたのをアルメイダ殿が南蛮の医薬でたちまち治したちゅうこっがきっかけで意気投合しておられたっちゃっ」
その話は、今度アルメイダ師と会った時に聞いてみようと思った。ザビエル師が仏僧と昵懇だったということは、私にある示唆を与えてくれたような気がした。
少なくともザビエル師は、仏僧を悪魔崇拝の徒と蔑んではいなかったということになる。
「そのお寺とは、一向宗でないとすれば…」
「禅宗ですね」
禅は偶像崇拝の要素は少なく、人間の内面の完成に重きを置いているので、ヴァリニャーノ師も比較的好意を寄せている。ザビエル師が昵懇にしていた僧侶も禅ならば何となく理解ができる。
ただ、禅は後の世や魂の不滅などを否定しているという話も聞くので、やはり何としても真理の道を広めないといけない。
もしかしてその住職が永遠の命について考え、仏教、特に禅ではそのへんを教えていないのでキリストの教えに興味を持ったのかもしれない。ただ、禅寺の住職という立場上、洗礼を受けるわけにもいかずにもどかしい思いをしていたのではないだろうか。
つまりは、禅という教えよりもその住職個人の資質によるものかもしれない。だが、あくまでそれらは推察の域を出ない。
いずれにせよこの地での信徒に対して妨害しているのは、一向宗でないとすれば法華宗あたりかもしれない。
「ザビエル様に関してはそれくらいしかそれがしは知らなくて、申し訳なか。なにしろ父が伊集院を引きはらってこん内城を築き移ってきたそん直前に、ザビエル様はこん地を離れてしまわれた。ま、とりあえず今日は歓迎の宴を催しますで、そいずいごゆるりと休息なさいませ」
そこで私は目を挙げた。
「それでは、その宴までの明るいうちに、そのバテレン・ザビエルが住んでいた寺を一目見たいのですが。明日はまた早朝にはここを離れますので」
「分かりもした。近習の者に案内させもんそ」
島津殿は先ほど我われを案内してくれた野村民部という武士を呼んで、我われを寺まで案内するように言った。
3
野村民部殿は島津殿とほぼ同年代と思われ、愛想のいい人だった。
「お寺はすぐです。あん丘の麓です」
屋敷の裏手に確かにちょっとした丘がある。そちらに、野村殿に案内されてトスカネロ兄と共に徒歩で向かった。
途中、野村殿は気さくに話してくれた。聞くと、教会にとても親しみを感じているという。
「アルメイダ様が三年前に来られた時も、拙者がといなして殿にお会わせ致したのです」
そのようなことも言っていた。
果たして五分くらいで寺には着いた。大きな屋根がいくつもある結構大きな寺であった。寺の名は福昌寺というらしい。その寺の入り口である玄関で、野村殿が案内を請うた。
「玄関」という日本語は単に入り口という意味ばかりでなく、本来はこの禅の寺で俗世と聖域を分ける境界という意味なのだそうだ。
出てきたのは白い着物の少年の僧であった。我われの教会でいうなら、同宿に当たるような感じだ。
野村殿が来意を告げると、一度奥へ入った少年僧はすぐに出て来た。
「ほかならぬ野村様のご来訪じゃっどん、バテレンの方も一緒となっとご住職は難しか顔をされていまして、多用でんあっとで本日は失礼させっほしかとのことで、真に申し訳あいもはん」
言葉つきは丁寧だが、早い話が日本語でいう「モンゼンバライ」、つまり門の前で追い払われ中にも入れてもらえなかったのである。
我われはあきらめるしかなかっら。
その帰り道、野村殿は苦笑して言った。
「忍室様がいらっしゃったときは、こげんではなかったのじぁっどん」
忍室というのがザビエル師と昵懇だったというこの寺の先代住職らしい。
「寺のご住職でありながいキリシタンの教えは素晴てと先代のお殿様の大中公様の前で称賛して、そいで大中公はそん後にアルメイダ様に城下での布教をお許しなったでん聞いておいもす」
そういう人ならぜひ会ってみたいものだが、もうこの世におられないのなら残念である。
「もう亡くなってから、どれくらいたつのですかね?」
「ザビエル様がこん地を離れてから、たしか四年後じゃったか」
「ちょっと待ってください。バテレン・アルメイダが初めてこの地を訪れたのは、バテレン・ザビエルがここで布教をしておられた十年くらい後ですよ。忍室様という方がバテレン・ザビエルがおられた時の四年後に亡くなっているのなら、バテレン・アルメイダはその忍室様にはお会いしていないのではないですか。殿が言われていたように、目の病を治して差し上げることも不可能ですね」
「はあ、果たしてご住職様としか聞いていもはんでしたで、かった忍室様の次のご住職様かもしれもはんね。殿が勝手に忍室様だと勘違げしておられるのか。どうも記憶があいまいで申し訳なか。なにしろ昔のことですし、そん頃は殿も拙者も若うぐゎしたで」
またもや野村殿は苦笑していた。
あとでアルメイダ師に会えたら、本人に聞いてみるのがいちばん早い。
「ところで、暗くなる前に、海の近くで桜島を見たいのですが」
確かにもう、少し暗くなり始めている。
「桜島、よかですな。桜島は薩摩武士の誇りでごわす」
野村殿は二つ返事で承諾してくれた。
港は内城からだと福昌寺とは反対方向になるので、内城まで戻ってもその脇を素通りしてさらに十分くらい歩くと港に出た。
この港に、ザビエル師も上陸したのだ。
しかしその感慨よりも前に我われの目の前に立ちはだかる光景に息をのんだ。町のどこからでも見える山だったが、こうして海を挟んでその全容を見るのは初めてだった。
「ヴェズーヴィオ!」
トスカネロ兄が突然叫んだ。確か阿蘇山を見た時にヴァリニャーノ師がそう叫んでいた。だが、トスカネロ兄の目は遠くを見つめたままさらに真剣だった。
「ヴァリニャーノ神父は阿蘇の山をヴェズーヴィオと言われましたが、いやいやいやいや、この山こそが日本のヴェズーヴィオです。ここはナポリです」
トスカネロ兄もヴァリニャーノ師と同じナポリ王国の出身だ。だからヴェズーヴィオ火山を見慣れておるのだろう。そういう人が言うのだから、本物のヴェズーヴィオ火山を見たことがない私でさえたぶんこの桜島はヴェズーヴィオに似ているのだと思う。
「阿蘇を見た時は高い山で火山であることからそう思いましたけれど、阿蘇は峰がいくつもある山でしたね。この山は峰がいくつもあるわけではない単独の山ですから、こちらの方がはるかにヴェズーヴィオに近い。そもそもヴェズーヴィオはナポリの市外から見ると、その間にナポリ湾が大きく湾曲して入りこんでいるので、まるで海の向こうにそびえているように見えるのです。そしてここもまさしく海の向こうです」
トスカネロ兄は嬉しそうに説明する。
海といっても実に狭い海峡である。それだけに山は目の前にどっしりと腰を据えているように見える。
木々があるのは麓周辺のみで、山の上の方のほとんどが樹木はないようだ。開聞岳もその大きさに圧倒されたが、それでも頂上まで緑に覆われていたことを考えると、この山の大きさは開聞岳の比にはならない。
高さ的には開聞岳よりもちょっと高いくらいかもしれないが、開聞岳がきれいな円錐であったのに対し、この山は複雑な形で横幅広く居座っている。だからこそスカーラが大きく感じられる。
海は、その開聞岳のところから内陸に入りこんでいたその湾の奥だという。左手は遠くに湾のいちばん奥あたりがうっすらと陸地として見えるが、右手は水平線である。
正面の桜島はここから反対側のところで地続きなのだというが、確かにここから見れば島に見える。
ザビエル師はどんな気分で、この山を見つめたのだろうかとふと思う。
野村殿は先ほどから私たちがイタリア語で会話していたので、何を話しているのか分からずきょとんとしていた。そこで、トスカネロ兄の感動を、私が野村殿にも話してあげてからふと見ると、トスカネロ兄は涙を流していた。
望郷の念は誰でも同じである。トスカネロ兄はここをナポリと言い、堺ではそこが日本のヴェネツィアだと言っていた。
そういった思い出す故郷がある人はうらやましい。私などローマ生まれのローマ育ちだから、故郷の風景は波のように重なる家々の雑然とした風景くらいだ。
ここが日本のローマだと思えるようま場所は、今のところない。
高槻がローマのようだとヴァリニャーノ師は言ったが、それは景色ではなく信徒が多いということにすぎない。強いていえば都で織田殿が馬揃えをした広場で、ローマのチルコ・マッシモを思ったくらいだ。
そんなことを考えているうち、宵闇が当たりを包み始めた。暗くなる前にと我われは内城に戻ることにした。
宴では、参列している家臣たちが皆、やはりエウローパの話を聞きたがった。島津殿はアルメイダ師からある程度聞いているようであまり語らなかった。だが、多くの人は瑣末なことまで尋ねてきた。
これもいずれ布教につながるかもしれないという思いで、私はなるべく丁寧に質問には答えていった。
島津殿と語ったのは、主に桜島についてだった。
今でも噴煙を上げる火山であるとのことだったが、大きな噴火はなかったのかと私は尋ねてみた。
「あいもしたとも。いや、今でも時々《とっどっ》炎を吹き上げ、もうそや日常茶飯事ですよ。さして驚きもはん」
そう言って、島津殿は笑った。火山の麓に住んだことがない私にとってはその感覚は理解できなかったが、やはり慣れというものだろうかと思った。
「私の生まれた国の近くにもヴェズーヴィオという大きな、ちょうど桜島とそっくりな火山があります、こちらのイルマン・トスカネロの生まれた国です」
私は島津殿にそう言ってから、トスカネロ兄へ同じ内容を小声のイタリア語で伝えた。トスカネロ兄は目をあげた。
「はい。ヴェズーヴィオは形といい、私の生まれたナポリからだと海の向こうに見える点といい、全く桜島と同じです。ヴェズーヴィオスは今は火山活動も少しは収まっていますが、過去に最大なのは今から約千五百年前の大噴火で、麓にあった都市が一瞬にして火山灰に埋まって一万人以上の人が死んだと記録されています」
そう言うので私がその言葉を通訳すると、島津殿は少し笑った。
「そげな千五百年前など、古すぎてそん頃はこん国がどうであったかは拙者にや分かりもはん。『日本紀』ちゅう歴史の本を見れば分かっかもしれもはんが、日本武尊ちゅう英雄が活躍しちょった頃かな? 漢籍でいえば漢の時代くらいですか」
ヤマトタケルという英雄の名前は、私は初めて聞いた。漢籍とはチーナの本という意味で、この国の人びとは知識人であっても、自分の国よりもチーナの歴史の方を詳しく知っているという不思議な現象があることは、私はこれまでもうすうす感じていたことだった。
「我われが信仰するキリスト・イエズスがこの世で人となられて教えを説いておられたのが、そのヴェズーヴィオ大噴火の五十年ほど前でした」
「耶蘇とはそれくらいの人でござっか。釈尊の方がはるかに古りのですな」
また義久殿は少し笑った。この笑いはほんの少し不快だったが私はそれを呑みこんだ。
「桜島は、その時のヴェズーヴィオのような大きな噴火はありましたか?」
そして話を元に戻した。
「こちらは今からちょうど百年ほど前でしたかな。と、言ても当然拙者はまだ生まれっおりもはんのでよく知いまへんどん、文明年間に三回ほど大とか噴火があったそうでごわす。溶岩が流出して、噴石や降灰で多おの家が埋まり、多数の死者が出たちゅうこっですね。でも今から七十年ほど前に福昌寺の天祐ちゅう僧が山ん頂上に鎮火を祈願する真鍮の鉾を立ててくれて、それ以来は小んけ噴火は日常的にあったどん大とか噴火は今のとこいあいもはん」
ここで、そんな真鍮の鉾など迷信だと騒いでも始まらないで、それは聞き流した。
そんな感じで宴は続いていたが、私はやはりこれは聞いておかねばと思うことを切りだした。
「この家の家紋は私たちの十字架と同じ形ですが、何を表していますか」
私は自分の胸に駆けている十字架を、手に持って島津殿に示した。
「あれでごわすか。実ちゃそれがしもよく知らんのでごわす」
「え?」
この答えは意外だった。
「もう三百年も前から使こているとのことでごわす。家中の長老に聞いてん、二匹の龍が十字に組み合わさっているとか、二本の箸だとか、厄除けの護符から来ちっとかいろいろなことを言ものがおりもす」
やはりこの国にキリストの教えが入るはるか前から使っていたわけだが、この旗のことはどうしても気になってしまうのであった。
4
翌朝、早い時間に我われは鹿児島を後にした。町自体は田舎くさくてあまり活気が感じられなかったが、景色だけは素晴らしかった。
将来、ここにポルトガル船が来航するようになったら、町ももっと活気が出るに違いないし、福音宣教はさらに進むものと思われた。
夕方には市来鶴丸城に着き、待っていたヴァリニャーノ師らに事の次第を報告した。島津家の十字架の印の旗については、誰もが感嘆の声を挙げていた。
その翌日、我われは船が待つ市来湊へと向かった。
ここでゴンサーロ・ヴァスともお別れである。
それは同時に、ゴンサーロ・ヴァスとその子のペトロの別れの時であった。私の国ならこういう状況の時、子供は泣きくれて大変なことになる。だが、ペトロは気丈にも泣かなかった。
「お父上とお別れだよ」
私がお節介にもペトロを慰めようという気で声をかけた。だが、ペトロは言った。
「バテレン様方もご家族と別れてこげな遠え国まで来られている。私だけがめそめそがんしてはおられもはん。イエズス様も、『あたいよっか父や母を大事にする者はあたいにはふさわしくない』とおっしゃいもしたな」
訛りに苦労しながらも私がその言葉を伝えると、ヴァリニャーノ師も驚きの表情を隠さずにいた。
確かに我われは皆故国を捨て、親兄弟と離れてこの国に来ている。父や母と別れる時の覚悟は、今ペトロが引用したキリストの言葉そのものだ。
だが、大事なことを忘れていたのを、ペトロよりもその父親の姿に思い知った。
父親のゴンサーロ・ヴァスの方が目にうっすらと涙をためているのを我われは見たのだ。
我われは気丈夫に、『天主』の御ためとむしろ意気揚々と故国を跡にしてきた。だが、その時の父母の心というものを全く考えていなかった。
おそらく私の両親も、私との別れが断腸の思いだったのだろう。
そんなことを今まで考えたこともなかった自分の傲慢さに、私はただ恥ずかしくなった。
いずれにせよ、ふと故郷のことを思い出した一瞬だった。
馬はゴンサーロが乗って帰る一頭以外は、すべて我われに寄贈してくれた。そこで私とトスカネロ兄が鹿児島まで乗っていった馬にはヴァリニャーノ師とフロイス師、もう一頭はメシア師に乗ってもらった。
鹿児島までの道とは景色がうって変わって、広々とした平らな土地を道はほぼ真っすぐに続いていた。開放的で、それでいてのどかである。山は遠くの方に低い丘が見えるだけだった。
しばらく行くと道は下り坂になり、目の前に海が広がって見えた。港まではさらに海沿いの道を北へと進む。
こうして市来湊までわずか一時間半の旅だった。
我われの船はすぐに分かった。乗り込むと早速出港である。ここでは見送りの人は誰もいない静かな出港だった。風もいい風で、船は順調に進んだ。
振り返ると長い砂浜が続く海岸線が大きく湾曲して、その先端はるか遠くが坊の泊の港と思われた。だが前方に目を向けると、砂浜の海岸は出港した市来湊までのようで、大きく突き出た岬が視界を遮っていた。
その岬の先を回るともう砂浜が続く海岸ではなく、丘陵地帯が間際に迫るこの国独自の海岸となり、いくつもの岬を回ることになった。岬の先端から次の岬の先端までまっすぐに進むと、陸地はかなり遠のいてしまった。
そのような風景を見ながらその日一日は穏やかに航行し、夕暮れに船頭が予定していた港へと船は入っていった。このあたりは少しは平らな土地が広がり、遠くに平野を取り囲んでいる丘陵もさほど高い山ではなかった。
船はゆっくりと港につき、錨を投げたり帆を下ろしたりで、停泊の準備に入ったので、我われも下船する支度をしていた。その時、港の方から我われを呼ぶ声がした。
「バテレン様方あ!」
すぐにフロイス師が船べりからのぞくので、私もその背後から声の主を見てみた。さほど身分は高そうにもない初老の痩せた男が、こっちに手を振っている。
そこでヴァリニャーノ師が顔を出した。
「主の平和」
ヴァリニャーノ師はそれだけを日本語で言った。男は両手を合わせてヴァリニャーノ師を仰ぐしぐさをした。この地の信徒のようだ。
だが、来ているのは一人だった。これまでも、どの港でも我われが到着したことはすぐ知れわたっていた。
実際そのような情報はすぐに伝わるような小さな港にしか我われは寄港していなかったが、夕方か夜になると何人かの信徒が船宿まで訪ねてくるのが常だった。
だが、我われが港に着いてまだ錨を下ろしか下ろしていないかの時にもう港まで信徒が出迎えてくれたのは初めてだった。よほど情報が伝わるのが早いらしい。
とりあえず我われが降りると、その男は早速小走りに我われの方に近づいてきた。
「ヴィジタドールのバテレン様は?」
そう聞くので、ヴァリニャーノ師が一歩前へ出て、そのものに笑顔を見せた。
「わざわざ港まで、かたじけのうござる」
ヴァリニャーノ師はそれだけ日本語でいうとあとはポルトガル語で、例によってフロイス師に通訳してもらっていた。
「よく今日我われがこの時刻に到着すると分かりましたね」
「長崎より知らせが来ておりもしたので、今日の夕刻にはバテレン様方の船はこん阿久根に到着するはずだと」
今朝出港してきた市来湊ではなく、長崎からというのが驚きだった。
「あたやお仕えする店の奥方の使けとしてまいりもした。実ちゃ店の主はこん港で商売をする交易船相手の商人じゃっどん、今は商売の用で長崎に行たっおりもす。主はもう古りキリシタンなのじゃっどん、奥方はまだ洗礼を受ける機会に恵まれておりもはん。こん地には南蛮寺もなくバテレン様もイルマン様もおられないからです。奥方様は強よ洗礼を望んでおりますで、我らが主人のいる長崎へはといていご老体ゆえにかなわず、天草にさえよう行きもはん。そげんしっ徒に日々を過ごしちょった。じゃっどん、二、三日前に長崎にいる主、丹波屋茂左衛門、キリシタンの名前をロレンソといいますが、そん主から文がまいりまして、バテレン様がこん港に来がなっはずじゃっで、来られたらどんっさあかバテレン様に屋敷に来て頂いて、どんっさあからでもいいからお願いして洗礼を受くっようにそう言て来られたそうです。そこで、奥方はあたいに港まで行ってバテレン様をお迎めして来いとのことじゃっどん」
「長崎の商人のロレンソ?」
フロイス師が少し首をかしげた。ヴァリニャーノ師が、フロイス師を見た。
「知っていますか?」
「名前は聞いたことがあるような気がします。安土にいるロレンソ兄と同じ名前ですから、なんとなく印象に残っていました。だいぶお年ですが元気な、そして熱心な信徒だそうです」
それを聞いてヴァリニャーノ師は、使いの男を見てほほ笑んだ。
「分かりました。明日、早速お伺いしましょう。早奥方様にお伝えください」
「ヴァリニャーノ神父」
それを通訳する前に、慌ててフロイス師は口をはさんだ。
「明日もこの港にいるのかどうか、船頭と相談してからでないと分からないではないですか」
ヴァリニャーノ師は、フロイス師にも笑顔を向けた。そして言った。
「大丈夫。『天主』にお任せしましょう。み意にかなっていれば、必ずお仕組みを戴けます」




