Episodio 7 Luoghi legati a Padre Saverio(ザビエル師の旧跡)
1
船が港に着き、我われは誰もが三十二年前の一つの一歩を思いながら一人ずつ陸地に足をつけた。
その一つの一歩から、この国でのすべてが始まった。
ちょうど私が生まれた頃である。
私は前に自分がジアンに話したイエズス様のたとえ話、シナピスの種のことを思い出していた。
かつてこの地でまかれたたった一粒の小さな小さなシナピスの種が、三十二年の時を経て今やこの国で二十五万もの実をつけるほどになった。
すべてが『天主』のみ摂理であることは自明だが、このことからも主イエズスが言わんとされたことが証明されるのである。
この港町も山川に負けずににぎやかな港だったが、にぎやかの種類が若干違うような気がした。なんと港には見たこともないような巨大な船が止まっている。
日本の船ではなさそうだ。だからといって、ポルトガルのナウ船でもない。だが、ナウ船と同じくらいの規模があり、明らかに外洋用の船だった。
「あれはチーナの船だ」
ぽつんとヴァリニャーノ師がつぶやいた。私は船頭に聞いてみた。
「あの船は、明の国の船ですね」
「そうやあ。山川港はどちらかちうと国内で船による商売をしちょん輩でにぎわっちおったけんど、ここは島津殿と明との貿易拠点かぇら。今、ちょうど明船が入港しちょん時期じゃな」
西から来るのだから、風の関係でポルトガル船の滞在期間と明の船の滞在期間を一致するはずだ。たしかに、町全体が少しマカオに似ているような雰囲気もある。
このような町だから、我われが上陸しても、それほど好奇な目で見られるようなことはなかった。それもそのはずだ。
「かつてはここにポルトガル船が来たこともあるのですよ」
さらりとフロイス師が言った。
我われが宿に入ってくつろいでいると、ザビエル師ゆかりの地だけにここでも早速信徒たちが数名、早速訪ねて来た。だが、ここの信徒は商人か小領主クラッセの人びとだった。
皆涙を流さんばかりに感激して、ヴァリニャーノ師の前で礼を尽くして挨拶をしていた。
「ゆうとぞまあ、おいでくださいもした」
信徒たちを代表して涙ながらにそう言ったのは、痩せ身でかなりの高齢と思われる老人だった。その後も何か言おうとしているようだが、感激で言葉が出ないようだ。
「皆さんもこのような離れた地で、教会もない中、よくぞ信仰を守ってくださった」
ヴァリニャーノ師もそのような言葉をかけて、フロイス師に通訳してもらっていた。
「あたや鹿島嘉兵衛、霊名はゴンサーロ・ヴァスと申しもす」
老人は、そう名乗っていた。その後ひとしきり問答が続いた後、私が口を挟んで聞いた。
「この町にはバテレン・ザビエル様の足跡がどこかに残っていませんか?」
この質問は誰でもしたかったようで、私が代表して聞いた形だ。ヴァリニャーノ師もうなずいていたので、そうと分かる。
「いえ、もう何もあいもはん。あの頃にザビエル様から洗礼を受けた人でもう天国へと招かれたものも多え。今もいるのはあの頃まだ若者じゃったこけいる数名のみです」
たしかにここで我われを訪ねてきた信徒は、ほとんどが中年か老人ばかりだ。もう受洗から三十年近くたっているはずである。しかし、ザビエル師を直接知っている貴重な存在なのだ。
「ゴンサーロ殿も、やはりバテレン・ザビエル様から?」
私が聞いた。
「うんにゃ、あたや商人として、明との交易で若け頃は船でいっぺこっぺを駆け回っておいもした。本来は頴娃殿にお仕えすうサムライでした」
「ではあなたも」
ヴァリニャーノ師が目を光らせて聞いた。
「うんにゃ。あたや今先も申しもした通い、若け頃は明との交易に携わっていもしたから何度も明国に渡っておりもす。そがんして一度天川の地に行たこっがあいもして、そこでバテレンの皆さんと接すっこっもあり、南蛮寺へも足を運んで、そいで天川で洗礼を授かりもした。もう二十年も前のことです」
彼の話の中には天川という聞きなれない言葉が出たが、フロイス師がヴァリニャーノ師のために通訳した時はマカオと言っていた。日本人はマカオのことをそう呼んでいるらしい。
それにしても、二十年も前となるとザビエル師から直接洗礼を受けた人びとほどではないが、そうとう古い信徒ということになる。
「そこでお願いがあいもす」
ゴンサーロ・ヴァス老人は、あらためて恭しくヴァリニャーノ師に頭を下げた。
「実ちゃあたいの妻と息子は、まだ洗礼を受けっいもはん。でん本衆はすでにそん意志はあいもす。また、あたいの店で働く人びともすでにすっぱい公教要理は伝えていて、心はすでにキリシタンですけれど、まだ洗礼を受けられずにいうのでござんど。どうか、バテレン様の御滞在中に皆に洗礼を授けちょっただけもはんか」
「いや、洗礼というものは」
ゴンサーロ・ヴァス老人の言葉をヴァリニャーノ師に通訳する前に、フロイス師は老人に言いかけたがすぐにヴァリニャーノ師が手で止めた。
「一応、この方が言ったことを全部私に伝えてください」
その通訳をうなずきながら聞いていたヴァリニャーノ師は、微笑んで老人を見た。
「たしかに洗礼というものは、それ相応の準備が必要です。ただ、あなたが、皆もうほとんど公教要理を理解しているというのなら、明日、こちらにいるバテレン・フロイスにいくつか問答をしてもらいましょう。それによっては、明日中には洗礼を授けてあげられるかもしれません。我われは、あさってにはここを発ちますから」
そしてその言葉を通訳して伝え終わったフロイス師に、ヴァリニャーノ師は小声で言った。
「判断はあなたにお任せします」
あさって出発というのは、この場でヴァリニャーノ師が独断で決めたようだ。船頭とはまだ何もそのような予定の話はしていないはずだ。明日風がなければ当然出航は延期になるだろうが、風がよければ明日にでもすぐに発つと船頭は言うだろう。
そのことを私が何気なく言った。しかし、ヴァリニャーノ師は笑っていた。
「大丈夫、説得してみせるよ」
そしてそう言った。
2
その夜、我われは聖務日課のために集まっていると、ヴァリニャーノ師は少し深刻な顔をしていた。
「このまま行くと、島津殿の住む鹿児島の城からどんどん遠くなって行ってしまう。船頭の手前直接鹿児島の港に船をつけることはできないが、先方が我われの来訪を希望する密書を遣わしてきた以上、行かないわけにはいかない。わざわざ薩摩周りの回路をとったのもそのためだ。どこか近くの港に停泊中に行って来るしかないが、私が直接行くのも問題があろう。そこで」
ヴァリニャーノ師は一同をさっと見まわして、私と目が合った。
「コニージョ神父、トスカネロ修道士、ご苦労だがまたお願いできるかな」
もちろん拒否などはできない。だが今度は、宿から歩いて十五分程度のあのジアンの家に行ったのとわけが違う。
私は重いうなずきをした。
「島津殿はどのようなお方なのです?」
そして、聞いてみた。もちろんヴァリニャーノ師は会ったこともないはずだから、代わりにフロイス師が私を見た。
「かのアルメイダ神父が二度ほど鹿児島を訪問しています。最初は島津の先代の殿の大中公殿の時で、その時は多くの人々に洗礼を授けたそうです。大中公殿という殿はかつてザビエル神父の薩摩での布教を擁護してくれた殿だそうす。その時は私はまだ日本に来る前でしたけれど、最初はなかなかザビエル神父の話に耳を傾けようとしはいてくれなかったそうですが、大中公殿がキリストの教えに心を開いてくれたきっかけは、ザビエル神父が大中公殿に見せた一枚のマリア様の御絵だったそうです。それを見ただけで、大中公殿はすっかり感化されてしまったということです」
私は感心した。やはりイエズス会はマリア様の御加護があっての宣教なのだと実感した。聖母マリアはイエズス会の元后なのだ。
「日本の仏教には観音という仏の像がありますけれど、何となく聖母像に似ているところもあって、それでマリア様は日本人には親しみやすいかもしれません。ですから、日本人への宣教は聖母崇敬を前面に出した方がいいかもしれないと、その時思ったりもしましたね」
「でも、大中公殿は洗礼を受けなかったのですね」
「なにしろ仏教徒の力が強くて、それはかないませんでした。それでザビエル神父も、やむを得ず薩摩を離れることになったのです。そしてアルメイダ神父がマカオへ行く一年ほど前の修道士時代に再び鹿児島を訪れました」
先ほどよりアルメイダ師という懐かしい名前が何回か出ていたので、私は驚いた。そのマカオで私とアルメイダ師は出会い、ともに叙階し、アルメイダ師が日本に戻る船でともに私は日本に来たのだ。
だが、私がそんなことを思い出していることなど関係ないように、フロイス師は淡々と話を続けた。
「二度目の時はすでに殿は今の島津三郎左衛門尉殿に替わっていました。しかし依然として仏教徒の力は強く、今の殿も先代ほど我われに好意を示していないようだということでした。そのことは心得て行かれた方がよいでしょう」
「でも、密書を下さった島津殿というのは、その今の殿なのですよね?」
「そうだよ」
ヴァリニャーノ師が話に入った。
「状況が変わったのかもしれない。ま、先方はポルトガルとの貿易で利益を上げたいというのが本音だろうが、そこはそれこそ前にも言った方便。それで人びとの魂が救われるのなら、いいきっかけではありますな」
ヴァリニャーノ師は笑っていた。
「ただ、どこの港からどのように鹿児島まで行くかは皆目見当がつきません。そこで、明日あのゴンサーロ・ヴァス老人に相談してみようと思います」
「それから」
フロイス師が口をはさんだ。
「最初にアルメイダ神父が先代|大中公殿と会見した際に、大中公殿から鹿児島の町に一件の家を賜って、そこが住院となっていたはずです。もちろん司祭も修道士もいませんが、最初は看坊がいたはずです。しかしなにしろもう二十年も前のことですから、今は果たしてどうなっているか。そのへんも見てきてください」
これはあくまでお願いであって指示ではないはずだ。私はフロイス師の指揮下にはない。そこでヴァリニャーノ師を見ると、ヴァリニャーノ師もうなずいたので、そのまま自動的にヴァリニャーノ師の指示ということになった。
看坊という日本語は本来は仏教徒の用語だが、司祭不在の教会や住院などをいわば留守役として管理する日本人信徒をいう。
そしていつ、どこから鹿児島に行くかは、とりあえず明日ゴンサーロ・ヴァスに相談してからということで、この日はその話はそこまでとなった。
その後、ヴァリニャーノ師は鹿児島の今の殿である島津三郎左衛門尉殿に手紙を書いていた。
まずはポルトガル語で書き、それをフロイス師に翻訳してもらう。内容は、前の密書の礼と、間もなく訪問するという旨を伝えるものだった。だが、それをそのまま届けるわけにはいかない。この国の手紙の文章というのはとても複雑で、これも明日ゴンサーロ・ヴァスの力を借りなければならなさそうだった。
翌朝、またしても『天主』のご実在を深く感じずにはいられなかった。
全く無風だったのである。
これでは到底船は出せない。ヴァリニャーノ師が船頭を説得する必要は全くなくなった。
朝食を終えた早々から、ゴンサーロ・ヴァスはその妻と子、店の働き手を十四人ばかり連れて現れた。さっそくフロイス師が彼らに公教要理の問答を行い、彼らがどれほど理解しているかを試した。その間、フロイス師以外は別室で、ゴンサーロ・ヴァスと対座していた。
私の通訳で、ヴァリニャーノ師は鹿児島に行かねばならないことなど、昨夜話していたことのあらましを他言無用ということでゴンサーロ・ヴァスに告げた。
「こっかあですと、馬で行っも片道まる二日かかりますな。ここよっかまちっと北の港からなら、もちっと早よ鹿児島に着けもす」
そうゴンサーロ・ヴァスからは言われたが、ではどこの港まで行けばいちばん近いのか皆目分からない。船頭には事の次第をあからさまに告げるわけにもいかない。
「では、あたいが一緒き行っもそ。船に乗せて頂ければ頃合いのよか港で船頭さあに頼みもすからそこで船を泊めてもろて、そんまま鹿児島まで道案内しもんで」
これは願ってもない申し出だった。我われは深く感謝した。
そしてさらにもう一つ、ある情報をゴンサーロ・ヴァスは我われに告げた。
「そうだ。どうせならちょうど通い道にもないもすから、市来鶴丸城へ寄られうとよか。そこん城主はキリシタンです」
「え?」
驚いた表情を見せたのは我われ全員同時だった。正確には日本語の分かる私が先で、あとは私の通訳を聞いてからだったが同じことだ。
「そこの殿が?」
ヴァリニャーノ師も驚きのあまり、直接ゴンサーロ・ヴァスにポルトガル語で話しかけてしまってから、すぐに私がそれを通訳した。
ゴンサーロ・ヴァスはこう答えた。
「城自体は鹿児島の島津の殿様の城ですけれど、そこん留守を預かっおいもす守将の新納伊勢守様がキリシタンでござんど。そいで、バテレン様方はザビエル様のご足跡をお尋ねでしたけれど、思い出しもした。こん泊の港には今はまっこてそげなものはなかとじゃっどん、そん市来鶴丸城くさがザビエル様のゆかりの場所です」
もう誰もが驚きのあまり、「え?」という声も発せずに目を見開いていた。
「ザビエル様は市来鶴丸城にずっと滞在なさって、新納様のご家族がキリシタンになられたのもそん時でござんど。それが約三十年ほど前。そしてそいから十年後、つまい二十年前になイルマン・アルメイダ様もそんお城にご逗留なさっておいもす」
ヴァリニャーノ師はゆっくりとうなずいていた。
「イルマン・アルメイダは、今ではもうバテレンになっていますよ」
そしてゴンサーロ・ヴァスにそう告げて、にっこりと笑った。
これで、行き先はその城と決まった。
そして、昨夜ヴァリニャーノ師が書き、フロイス師が訳した手紙をゴンサーロ・ヴァスに墨と筆で清書してもらった。フロイス師もこの国の手紙はなんとか読めても、書けるようにはまだならないという。
なにしろ手紙に用いる言語が普通にしゃべっている日本語と全然違うのだ。なぜか日本語の古語で手紙を書く風習があるようだ。
清書した手紙をゴンサーロ・ヴァスは自分の他の店のものにことづけて、今すぐに鹿児島に届けさせると言ってくれたので、これもその申し出に甘えることにした。
さらには、市来鶴丸城の方に来訪を告げる手紙をヴァリニャーノ師の名前で書いてもらい、それも届けてもらうことにした。
その頃、別室ではゴンサーロ・ヴァスの身内のものに対するフロイス師の問答が続いており、それは午前中いっぱいかかった。
昼過ぎに彼がヴァリニャーノ師に報告したところによると、全員公教要理をほとんど把握し、理解しているのでそのまま洗礼を授けても大丈夫だとのことだった。
とりわけゴンサーロ・ヴァスの一人息子の小太郎はまだ十三歳だがいちばん呑み込みが早いという。ゴンサーロ・ヴァス老人の子としては小さいような気がするが、かなり遅くなってからできた子らしい。
午後には宿の一室を借りて十六人の入門者の洗礼式が執り行われた。それもつつがなく執り行われ、祝賀の夕食会の時である。今度は新しく信徒になったばかりで、マリアという霊名をもらったゴンサーロ・ヴァスの妻がヴァリニャーノ師の前へ出た。
「お願いがあいもす」
まだ何かあるのだろうかと思っていたら、隣に座らせていたペトロという霊名をもらった十三歳の息子を示した。
「いつの日か我われがキリシタンになれたそん偶にゃと、ずっと願っちょったこっがあっとです」
聡明なペトロは、背筋をシャキッと伸ばして座っている。
「どうかバテレン様と一緒きお連れくださって、有馬にあるちゅう神学校に入れて頂けもはんか」
この申し出には、ヴァリニャーノ師はじめ我われ皆驚いた。なにしろ昨日の今日の話である。
ヴァリニャーノ師がそのことに触れた。だが、母親はすがるように言う。
「じゃっで、前々からずっと考げて、いや、そう決めちょったことなのおござんど。今回行かにゃあ、今度はいつ行かれうか。そうこうしちょっうちに、こん子ももう神学校に入るっ年ではなくけなっ」
ヴァリニャーノ師はペトロ本人を見た。そして尋ねた
「あなたは、セミナリヨに行きたいですか」
フロイス師がそれを日本語で伝える。
「はい。以前から希望しておいもした」
実にはっきり意図した言葉が帰ってきた。ヴァリニャーノ師の顔がほころんだ。
「明日出発ですよ。準備はできていますか」
「仕度はあんまい要りもはん。身一つで行けばよいのじゃっで」
これもまた、ペトロ本人からの力強い返事だった。
「分かりました。許可しましょう」
フロイス師の通訳を聞いて、ペトロの顔がぱっと輝いた。母親のマリアは着物の袖で涙を拭いていた。ゴンサーロ・ヴァスは何度もヴァリニャーノ師に頭を下げていた。
3
翌日は程よい風だった。船頭は今日出港すると言った。
我われの一行にゴンサーロ・ヴァスとその子ペトロが加わり、さらにゴンサーロ・ヴァスは鹿児島まで行くための馬を四頭、一緒に船に乗せた。
ゴンサーロ・ヴァスの妻や店の人びとに見送られて、船は静かに港を離れた。
湾の奥にある港の右も左も、小高い山が乗った岬だ。その湾の外へ船は出て行こうとするが、振り返るとゴンサーロ・ヴァスの妻マリアは港で大きく泣き崩れていた。
順風を受けて船は北へと進んだ。やはりこれまでと同じような複雑怪奇な変化に富む海岸線を右に見て岬をいくつも越え、最後の岬の向こうは、遠くに島影が見えるが右手にはもう陸がなく、それで東へ向かう形で岬を回りこんだ。
すると景色が一変し、日向の東側を南下していた時と同じようなまっすぐの砂浜が続くようになった。砂浜の向こうはようやく平らな土地が広々と広がるようになったが、日向の時ほど広くはない。
平野の向こうには山々が横たわっているが、かなり高そうな山もいくつも見えた。また、砂浜もまっすぐではあるが全体的に左手の方へと湾曲している。船は砂浜に沿って進むよりも、その湾曲した先へと直線距離で向かっていた。
そんな景色が半日ほど続き、夕方近くにある小さな漁港へと船は入った。ゴンサーロ・ヴァスが船頭と話し合った結果、そこに船はとりあえず泊まることになったらしい。
そこの漁港が市来鶴丸城へはいちばん近いそうだが、なにしろ漁港なので船宿がない。
そこで、その漁港で我われを下ろした後、船は船頭と漕ぎ手などのみでもう少し北の市来湊まで回送して、そこで我われを待つという段取りになったそうだ。
市来湊なら交易港なので船宿もあるらしい。
河口にできた漁港で我われは、馬とともに降りた。
「お城まではちっと歩きもすが、一里もあいもはん」
と、ゴンサーロ・ヴァスは言った。そして四頭の馬には、一頭は元々荷物用なので荷物をかけ、トスカネロ兄がその轡を引いた。あとの三頭はゴンサーロ・ヴァス、ヴァリニャーノ師、フロイス師に乗ってもらい、私とメシア師、ペトロは徒歩だった。
少し川沿いの道を歩いた後、小高い丘と水田との間の道や、平らな土地に続く道を進み、四十分くらいで山の麓に屋敷の屋根が見えてきた。
それが市来鶴丸城のようだ。
だが、それはあくまで居館であって、実際の城はその背後にある小高い丘の頂上が本丸だという。新納殿の居館はその丘の麓にあるため、丘を登る必要はなかった。
我われの姿を遠くから認めていたようで、我われが着くとかなりお年を召した新納殿、つまりこの城の守将の老人が門まで我われを出迎えに出ていた。
そしてしわくちゃの顔を余計しわだらけにし、涙で濡らしながら我われの到着を歓迎してくれた。
「お待ちしておいもした。あたいが新納伊勢守康久、霊名をビンセンチオといいもす。さ、どうぞ、どうぞ」
我われはそんな言葉で屋敷の中へと招き入れられた。城の屋敷といってもそれほど大きくはなく、普通の民家をちょっと大規模にした程度のものだった。
しばらくくつろぎの時間をもらった後、すぐに我われの歓迎宴ということであった。
この屋敷の主であるドン・ビンセンチオとその妻ヴェロニカ、そして三人の息子が並んでいた。その長男と思われる人は、ほぼ私と同世代のようであった。
そしてもう一人、家族ではないようだが六十歳くらいの初老の男もいて、結構皆からは大切にされているようだった。
「こちらは平岩源之進殿、霊名をミゲルといいまして、三十年前にバテレン・ザビエル様から直接洗礼を受けたこん城のキリシタンの草分けですわい」
ドン・ビンセンチオからの紹介を受けて、ミゲルは微かに笑った。
「そげな大それたものではあいもはん。ただ、古りちゅうだけで。今はもう家督は息子に譲りまして、隠居しておいもす。息子は鹿児島におりますが、あたいと同しミゲルちゅう名を戴いておいもす」
つまりは小ミゲルということだ。父子で同じ名というのは我われの国では珍しいことではないが、日本では基本的にそういう状況はないらしい。
ここにいる老ミゲルはかつては新納家の家老、すなわち執事長のような役職にあったという。
それからというもの、食事をしつつ話はミゲルによるザビエル師の思い出話に終始した。ザビエル師がこの城の滞在していた時に、ザビエル師から直接洗礼を受けたのはミゲルとヴェロニカ、そしてドン・ビンセンチオの長男のシメオンだけだという。
「三人だけですか?」
ヴァリニャーノ師の問いに、
「いや、もちっといたがな、今こけはおらぬものやすでに帰天したものも含むうと、十七人ほどじゃったか」
ドン・ビンセンチオが話に割って入った。
「こけいるものでは三人です。こんシメオンの上にもう一人息子がおって、そいも洗礼を受けもしたが、先の戦で戦死しもしたから」
そうなると、実はシメオンは長男ではなく次男だったのだ。
「殿もやはりバテレン・ザビエルから洗礼を?」
フロイス師が聞いた。
「いや、あたやそん時は何かと屁理屈を言て洗礼は見送ったとですよ。じゃっであとからイルマン・アルメイダ様から洗礼を受けた時に、それまでは異教徒、すなわちゼンチョじゃったけん、ゼンチョにあやかって霊名をビンセンチオにしもした」
そう言ってドン・ビンセンチオは大笑いをした。たしかに異教徒とビンセンチオは発音が似ているが、尊敬すべき聖ビンセンチオ・デ・パウロ師のことを考えるとそれはちょっと我われには笑えない冗談だった。ただ、彼は悪意も何もなく言ったことなので、その場ではその話は聞き流した。
それにしてもアルメイダ師は、まだ修道士の時にもう洗礼を授けていたようだ。洗礼は基本的には司教や司祭、助祭が授けるものだが、必要緊急の時などは聖職者でない信徒、あるいは異教徒であっても教会の洗礼通りに行い、教会の定める定句を唱えるのなら誰でも授けることが許されている。
後で必ず司祭にその旨を報告する義務はあるが、異教徒の地で司祭もいない場所に洗礼希望者が多数いる場合は、必要緊急の時といえるだろう。
「イルマン・アルメイダ様はバテレンになられたそうですよ」
同席していたゴンサーロ・ヴァスが口をはさんだ。ゴンサーロ・ヴァスはドン・ビンセンチオとはすでに顔見知りのようだった。
「じゃっどかい。今はどけおられるのじゃっとな?」
「今は、天草におります」
ヴァリニャーノ師がフロイス師の通訳を通じてそう言ったのを聞いて、私も驚いた。私も初耳だった。アルメイダ師は今でも口之津におられるものとばかり思っていた。
「そやそや、よろしくお伝えたもし。アルメイダ様がこけ来られてからも、もうかれこれ十年たちますな。あの時はアルメイダ様に説得されて、頑固なあたいも洗礼を受けざうを得なかった。下の息子二人もそん時に洗礼を受けもした。ザビエル様の時はシメオンが四歳、二人はまだ生まれっいもはんでしたから」
その、生まれていなかった息子たちというのが、今は立派な若者になってともに酒を飲んでいる。やはり時間の流れを感じてしまう。
さらにドン・ビンセンチオとミゲルによって、ザビエル師の話は続いた。
その時、私はふと不思議な感覚に襲われた。
「日本人のキリシタンの皆さんからバテレン・ザビエルの話を私たちが聞いていますけれど、私たちの方は、バテレン・フロイス以外はバテレン・ザビエルに直接会ったことはないのです」
私が口をはさむと、ドン・ビンセンチオをはじめ同席していた日本人の方は皆意外な顔つきをしていた。
確かに、ザビエル師が日本に上陸した頃に生まれた私やトスカネロ兄は当然のこととして、メシア師も、そしてヴァリニャーノ師でさえザビエル師とは直接に会ったことは一度もないはずだ。
ヴァリニャーノ師がイエズス会に入ったのはすでにザビエル師の帰天後であったと聞いている。
「私だけですね」
フロイス師が例によって表情も変えずに通訳ではなく自分の話題で話に入ってきた。だが、口調は通訳をしていた時とほとんど変わらなかった。
「私は十六歳でイエズス会に入会してすぐにゴアに来て、そこでバテレン・ザビエルと出会いましたけれど、その後バテレン・ザビエルはすぐに日本に来てしまって、ほとんど一緒には過ごしていないですね。でも、あの時、バテレン・ザビエルから受けた感化は大きかった。ぜひ私もあとに続いて日本で福音宣教に当たろうと思った。そしてその二年後に日本より戻られたバテレン・ザビエルとまたゴアでお会いしましたけれど、またもやすぐにバテレン・ザビエルは中国に向かい、そのまま帰天されてしまった」
通訳が一人でしゃべりだしてしまったので仕方なく私がそのフロイス師の言葉を、逆にポルトガル語の小声でヴァリニャーノ師やメシア師、トスカネロ兄に伝えていた。
それからまたしばらく、ザビエル師の話で花が咲いた。