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とある司祭(パードレ)の憂鬱(メランコリア) ~聖なる侵略者~  作者: John B.Rabitan
Capitolo 4 Crociera per la Missione(宣教の船旅)
33/96

Episodio 4 Il Libro di Giobbe(ヨブ記)

                  1


 快晴だった。風も良好だ。追い風が心地よいくらいに吹いている。

 船は大友殿ドン・フランシスコが用立ててくれた。あの堺へ行く時に乗っていた船と同じような形ではあるが、違う船である。今度の船長も気さくで親切そうな人だった。


「さあ、これからの旅で『天主デウス様』はどんな出会いを我われのためにご用意くださっているか」


 ヴァリニャーノ師が明るくそう言いながら、我われは船に乗り込んだ。

 大勢の人びとに見送られながら船は港を離れ、陸地を右手に見ながら帆いっぱいに風を受けて南下していった。

 まずは臼杵の城から沖合にまるい玉を浮かべたように見えていた島の脇を通過した。小さな島だと臼杵で見ていた時は思っていたが、そばに来るとちょっとした海の中の山である。

 そして岬の先を右手へと旋回した。


 それから先も右手の陸地の上は小高い緑の丘が丘陵となって続き、その麓がすなわち海岸線だ。平らな部分は時々わずかにあるくらいだった。

 ただ、なだらかな丘なので、海沿いは断崖というわけではなかった。海岸線は決して真っ直ぐではなく複雑に入り組み、もし空から見たらかなりのぎざぎざに見えるのではないかという気がした。


 もうすっかり秋も深くなっており、船べりから景色を眺めたりしていると、風を受けて寒いくらいだ。左手の方もかすかに陸地が続いており、それがかつて通ってきた伊予であり土佐であろう。

 昼過ぎまでに船はいくつかの岬の先端を回った。岬といっても鋭く海に突き出しているわけではなく、海岸線が大きく湾曲しているなと感じるくらいだ。岬の先端に島がある場合もあった。

 その頃になると左手遠方に見えていた土佐の陸地はかなり薄らいできていた。前方には大洋が限りなく広がっていた。

 そして夕方近く、大きな湾となっている所に着いた。そこはほんの少し他よりも広い平らな土地があって、山は遠のいている。

 その湾の入り口の、湾の奥に向かって左の岬の付け根に船は進んで行った。そこにもまたかなり奥深く陸地に細長く入り込んでいる入り江があって、その入江にほんの少し入った左手に集落がある。そこが港のようだ。

 漁船ばかりではなく、今我われが乗っているのと同じような国内交易船もいくつか見られた。


細島ホソジマに着きました。今日の泊まりはここですっちゃ」


 人のよさそうな船頭が説明してくれた。ここはまだ薩摩ではなく、日向ヒューガという土地なのだそうだ。平らな土地があって集落があるといっても、その背後はすぐに山だ。入江の奥の方はかなり平らな土地が開けているらしい。


 日向と聞いて思い出したのは、ドン・フランシスコはかつてここにもキリシタン王国を築こうとしていたけれど、例の薩摩との戦争に負けてからはこの日向をあきらめるしかなかったとのことだ。

 我われは上陸し、港から歩いてすぐの船宿にと案内された。宿の主人も親切だった。


 その夜、その宿にひと組の老いた夫婦が我われを訪ねて来た。その来訪を宿主が告げに来てから、ヴァリニャーノ師とフロイス師、そして私はすぐに玄関まで出た。


「突然、申し訳ありません。わいどんはこん港に住む漁師の吉兵衛きちべえと申します。こちらは家内やっちゃが」


 最初は漁民の唐突な訪問に驚いているヴァリニャーノ師であった。


「わいの霊名はルカスと申します」


 だが、老人が言ったその言葉ををフロイス師の通訳で聞いてから、ヴァリニャーノ師の顔がぱっと輝いた。


「あなたもキリシタンなのですね」


「はい、もう洗礼を受けてから十八年になっとです。こん港にまたバテレン様が来なって、こん年になってまたお会いできるなんて思いませんやった」


 最後の方は、ルカス老人の声は涙声になっていた。


「まあ、どうぞ中へ」


 ヴァリニャーノ師はルカスとその妻を、自分たちの泊まっている部屋まで通した。老夫婦はあらためて我われと対座すると、驚いたことに突然我われ、とりわけ中央のヴァリニャーノ師を仏教徒が寺で仏像を拝むのと同じようなしぐさで礼拝し始めたのである。

 これまでも我われとの対座の時に信徒クリスティアーノならば我われを上座に据えて、自分の主君に対するような礼で迎えてくれた人たちは多かった。しかし、このように「礼拝」されたのは初めてだ。我われは皆一瞬あっけにとられていたがすぐに冷静になり、ヴァリニャーノ師が私にイタリア語で言った。


「やめさせなさい」


 言われるまでもなく私はすぐに止める姿勢になっていたので、まずは座ったままルカスのそばに寄ってその体を起こした。


「あなたは洗礼を受けてからもう十八年と言いましたよね」


 私よりも先に日本語で声をかけたのはフロイス師だった。


「そんなに長く信仰生活をされているのに、どうして巡察師ヴィジタドールを拝んだりするのですか?」


「申し訳ありません。ただ、わいにとってはバテレン様がてげありがたく、神々《こうごう》しく、まるでイエズス様が直接来なったげな気になっちょったじ」


「それにしても、悪魔崇拝と同じような作法で拝むのでは、巡察師ヴィジタドールを悪魔のように扱っていることになりますよ」


 ルカスは顔をひきつらせ、一瞬固まった後、


「申し訳ありませんやった」


 何度も、しかし今度は普通に頭を下げた。

 私はルカスの隣で、まだその肩に手を置いたままだった。


「そんなに気に病むことはありません。しかし、我われバテレンは人間です。人間を拝んではいけません。人間を信仰してはいけません。イエズス様でさえ『我にむかいて主よ主よと言う者、ことごとくは天国ハライソらず、ただ天にいます我が父のみこころを行うもののみ、これに入るべし』と仰せになっています。我われが信仰するのは『天主デウス様』だけです。人物を信仰してはいけません」


 ルカスは理解できたようで、ようやく落ち着いた。


「洗礼を受けてから十八年ということは、洗礼はバテレン・トーレスからですね」


 そこでヴァリニャーノ師は、フロイス師を通訳にいろいろと語り始めた。その言葉を伝えてからフロイス師は付け加えて言った。


「私がちょうど日本に来た年です。大村のドン・バルトロメウが日本の殿としては最初に洗礼を受けたあの頃ですよね」


「はい。洗礼はトーレス様からやったっちゃが。わいは今は漁師をしちょりますけんど、あん頃は若くて、あちこち船で商いする商人あきんどやったっちゃ。てげ裕福な暮らしばしちょったが。でん、洗礼を受けてかい急に商いもうまくいかんくなり、財産たくわえもなくしていきましたじ」


 こうしてルカスは自分の身の上を、滔々と語り始めた。

 それによると、確かに受洗前は蔵がいくつも建つような豪商だったらしい。だが商売もそれまで均衡を保っていた大友殿、この日向の伊東殿、そして薩摩の島津殿が互いに戦争を始めたことによって海路が遮断され、どんどん衰退していったという。

 特にここ数年、あの大友殿と島津殿との耳川での戦争以来、とうとう商売をあきらめざるを得なくなって蔵も財産も手放し、漁民になってしまったということだった。

 そしてその戦争によって財産を失ったばかりでなく、ルカス自身の言葉によればもっと切実な問題は大友殿と島津殿は互いに敵対関係になりさらにこの日向を島津殿が支配するようになったため、豊後の教会と交通が断たれてしまったということである。


「わいがこげん落ちぶれたんは、わいがキリシタンなどになったかい神仏の怒りにふれたと、こん港の者どんは皆申しちょりますけ、もちろんそげんこつはわいは考えておりませんじ。むしろ『富める者の天国ハライソに入るよりは、駱駝らくだの針の穴を通るは反って易し』と教わっていますじ。だから、財産などなくしてすっきりしちょるが」


「すばらしい」


 ヴァリニャーノ師は感嘆の声を挙げた。


「このような逆境にあっても主を慕い求め続ける、これこそが本当の信仰です。清貧は我われも生活の基本とするところです。あなた方は苦しくても、よく信仰を捨てずにいました」


 フロイス師の通訳を聞いてから、ルカスは静かに首を横に振った。


「いいえ、やはり財産も商人あきんどとしての店ものうなったいうこつは、わいにそれなりの不徳があったはずじゃき。私はふてえ罪を犯し、その罪に対する罰としての今の境遇やろかとも思うんですじ」


「どうしてそう考えるのですか?」


「幼い頃かい、親からはそげん教えられてきよりましたかい。罪を受ければ罰が下ると」


「仏教では、そう教えているようですね」


 その言葉をルカスに通訳して伝えてから、フロイス師がさらに付け加えて口を挟もうとしたので、ヴァリニャーノ師はそれを制した。


「たしかに我われは皆『天主デウス様』の前では罪びとです。しかし、『天主デウス様』は罪に対して怒りの罰を下されたりはしません。たしかに罪にはあがないが必要です。それは洗濯と同じですよ。汚れた衣服は叩いて揉んで、水にさらして洗いますね。何のためですか?」


「汚れを取るためですじ」


「そうですね。汚れた衣服を一件懲らしめているようにう見えても、実はその衣服を大事にしたいからきれいにするために洗っているのですね。『天主デウス様』はあなたが御大切だから、あなたの罪を洗い、浄めて下さったのです。そのためには財産を失わなければならなかった。つらい思いをしなければならなかった。しかし、それもすべて『天主デウス様』の御大切の心から出たことですから、もうことごとく感謝しかありません。そしてイエズス様は我われの罪の贖いを肩代わりしてくださった。こうして我われはイエズス様を受け入れれば罪は洗い浄められ、罪から解放されるのです」


 ルカスの目には、また涙が浮かべられているようだった。


「『天主デウス様』は我われ人類がかわいくて仕方がない。それは親が子を思う気持ちと同じです。だから、救いたくてしょうがないのです。特に、『天主デウス様』から選ばれたものは、早く罪を洗い流し、そして鍛える。罪の洗濯とお鍛え、これが激しい人ほど『天主デウス様』からは御大切に思われ、また大きな使命を与えられていることになりますから、もうさらに感謝です」


 ルカスは嗚咽を始めた。そんな姿とヴァリニャーノ師の言葉から、あの伊予で会った一条殿ドン・パウロの時もそうだったが、ここでも私はふと『旧約聖書ヴェトゥス・テスタメントゥム』の「ヨブ記(リーベル・ヨブ)」のことを思い出していた。

 するとその時ヴァリニャーノ師がルカスに尋ねた。


「あなたは聖書ビーブリアに『ヨブ記』という話があるのをご存じですか?」


 私は驚いた。私が「ヨブ記」を思い出していたのと同時に、ヴァリニャーノ師も同じそれを思っていたことになったからだ。

 ルカスが首を横に振ったので、ヴァリニャーノ師は私を見た。


「私が『ヨブ記』の話をしていちいち通訳してもらうのも大変だから、あなたが日本語でルカスに『ヨブ記』の解説をしてあげなさい」


 そして私にイタリア語でそう命じた。通訳をしているフロイス師にではなく、私にだ。私が今「ヨブ記」のことを思い出していたのを、ヴァリニャーノ師は機敏に察したのだろうか?

 急に振られて戸惑ったが、私はそこで座ったまま位置を変え、ルカスの方を向いた。



                  2


 私はルカスに話し始めた。


「聖書には次のような話があります」


 私はトスカネロけいに頼んで、私の荷物の中から聖書ビッビアを取り出してもらった。


「昔、ヨブという男がいました。その人は完全であり正しくて、『天主デウス』を畏れ、常に悪を遠ざけていました。かなりの財産を持っていました。遊牧民ですから、財産というのはおびただしい数の家畜です。ところが」


 私は時々聖書(ビッビア)に目を落としながら、基本的にはルカスの目を見て話していた。ルカス夫妻も息を呑んで、黙って私の話を聞いていた。


「ある日突然に盗賊に襲われたり、雷が落ちたりで、その家畜をすべて失ってしまいました。そして合わせて十人いた息子と娘も、ひと所で食事をしている時に大風が吹いて家が倒れて全員が亡くなってしまったのです。財産も失い、家族も失ったヨブはどう言ったと思いますか?」


「やはり『天主デウス様』には感謝申し上げたんやろか」


「その通りです。自分は裸で生まれ、裸で死んでいく。すべては『天主デウス様』がお与えくださったのだから、『天主デウス様』がお取りになるのだ。『天主デウス』の御名は讚えられるべきだと」


 ルカスは大きくうなずいて、しかし黙って聞いていた。


「でもその後で今度はヨブの全身に腫れものができて、痒くて夜も眠れず、かきむしるので全身が血まみれになってしまったのですよ」


 ルカスはさすがに顔をしかめた。


「ヨブの妻も『天主デウス様』を呪うようなことを言いましたけれどね、ヨブはそれをもたしなめていました。でもあまりに痒くて、割れた陶器のかけらで全身をかきむしって、もう何もすることもできずに一日中座りこんだままという状態になりました。そんな時にその状態を聞いてヨブの三人の友人が駆けつけてきました。そうしたらさすがのヨブも弱音を吐くのです。自分は生まれてこなければよかった。今すぐにでも死にたいのに死ねずにいると。そこで友人は言ったのです」


 その時私は、その場に居合わせたフロイス師が何か言いたそうな顔をしているのを察した。恐らく私が、「ヨブ記」の冒頭部分をかなり省略したことを訝しく思っているのだろう。

 そのフロイス師の様子にははヴァリニャーノ師も気づいたようで、ヴァリニャーノ師はフロイス師を軽く手で制していたので、私は構わず聖書に目を落とし、ヨブをたしなめた友人の言葉である次の箇所を、そのまま日本語にして読んだ。


「――請う。想いみよ。誰か罪なくして亡びし者あらん。義者の絶たれし事、いづくに在りや。我の観る所によれば、不義を耕し悪を播く者は、その刈る所もまたかくのごとし。災禍は塵より起らず、艱難は土よりでず。もし我ならんには、我は必らず神に告求め、我事を神に任せん――」


「つまり、不幸な出来事には必ずそんげなる原因があんというこつじゃろかい? わいが子どんの時から聞いてきた、罪を犯せば罰が下るという因果応報の教えと同じですじゃろかい?」


「そうなのです。ヨブの友はそう言ってヨブを励まそうとしたのです。『天主デウス様』に戒めてもらえる人は幸福だ。だからあなたは、全能者の戒めを軽んじてはならないって。でも、ヨブはこう答えたのです」


 私は再び、聖書にあるヨブの言葉をそのまま訳して読み伝えた。


「――我を教えよ。然らば我黙せん。請う、我の過てる所を知らせよ。正しき言は如何いかに力あるものぞ。然しながら汝らの諌むる所は何の諌めとならんや。汝らは言を正さんと想うや。望みの絶えたる者の語る所は風のごときなり。汝らは孤子のために籤を引き、 汝らの友をも商貨にするならん」


 私があまりにも聖書のラテン語の語句一つ一つをそのまま日本語に置き換えたので、ルカスはどうもよく分からないという表情をした。


「つまり、あなたの言葉は正しいかもしれないが、ただ私を責めているだけで何の慰めにもなっていない。口先だけで私を責めて、この苦しみのどん底にある私のこの悲痛な叫ぶも聞き流していると言っているのです。この友人の言わんとすることはもう十分に分かっている。分かっているけれど、とにかく今の自分は苦しくて仕方ない。それを分かってほしいということですね」


 理解したというように、ルカスは大きくうなずいた。


「そしてもう一人の友達はこう言います。あなたの子供が罪を犯したのかもしれません。だからあなたが子らのために祈り、『天主デウス様』に許しを請えば、あなたの家はもとのように繁栄するでしょうと」


「でも、死んだ子は生き返らんやろ?」


「そうなんですよ。ヨブも言います。『天主デウス様』が一度怒れば、どんなに祈ってもその怒りを解くことはできない。ましてや自分は、そのような罰を受けるべき罪は何一つ犯していない。身は潔白であると。そしてとうとう『天主デウス様』に向かってこう言うのです」


 私はまた聖書に目を落として、その箇所を日本語に直して読んだ。


「――われ、神に申さん。我を罪ありしとしたまうなかれ。何故に我とあらそふかを我に示したまえ。汝、虐遇をなし、汝の手の作を打ち棄て、悪しき者の謀計を照すことを善しとしたまうや。汝は肉眼を有したまうや。汝の観たまう所は人の観るがごとくなるや。汝の日は人間の日のごとく、汝の年は人の年のごとくなるや。何とて汝わがあやまちを尋ね、わが罪を調べたまうや。されども汝はすでに我の罪なきを知りたまう。また汝の手より救い出だし得る者なし。汝の手、われをいとなみ、我をことごとく作れり。然るに汝、今われを滅ぼしたまふなり――」


「そげんな昔は直接『天主デウス様』にお話しができたとですかね?」


 初めてルカスは口を開いた。


「ま、あとで直接『天主デウス様』は出てこられますけど、この時はまだ一方的に話しているだけですね。話すだけならいいのですが、恐ろしいことに、『天主デウス様』に直接文句をヨブは言っているのです。自分は罪もないのにこのような目に遭わされていると。ところがもう一人の友人は、自分が正しいというのならば、あなたは自然と『天主デウス様』に祈っているはずだと言います。でも、悪があるのならば、すぐにその悪を捨てなさいと。その友人としては慰めの言葉を言ったつもりなんでしょうね。でもヨブは、その友人たちが今は普通に生活しているからそのようなことが言えるのであって、今の自分と同じ立場に立ってみよと、まあ、そうはっきりとした言葉ではありませんが、そのような感じのことを言うのです」


「たしかに苦しみは、そん当事者でんと分からんじゃきね。そうじゃない人があれこれ言うても絵空事のごつ聞こえます」


 ルカスは、ため息まじりになってきた。


「しかし、最後まで聞いてくださいね。『ヨブ記』はまだ終わりません。ヨブと友人の問答、いやもはやこれ以降は論争になっていきますが、まだ続きます。友人はヨブに、ヨブが信仰を棄て、祈ることをやめたと決めつけます。それこそがヨブに罪がある証拠で、ヨブが言った言葉がそれを証明していると。あなたは最初に世に生れたる人なのか、山よりも前に存在したとでもいうのかと言いますからヨブも、友人たちが自分を責めに来たと毒づきます」


「そりゃあ、そのヨブという人の気持ちも分かりますが」


「そうですよね。友人たちに、どうしてあなた方はまるで自分が『天主デウス』になったように自分を裁くのか、責めるのかとなじります。自分がつぶやいているのは、人間に対してではないと。すると友人の一人は、人が『天主デウス』の役に立つことはできないと言いだします。自分が正しくても、それは自分のためにしかならない。人が正しい人であっても全能の『天主デウス』には何の歓喜でもない。だからあなたが『天主デウス』を恐れるから災難を下したのではなく、ただただあなたの罪によるものに他ならないと。ヨブの考え方は傲慢だと、たしかに責めていますね。そうしたらヨブも開き直って、今さら祈る気にはなれないし、それよりも『天主デウス』と直接談判がしたいとまで言いだします。それなのに『天主デウス』はひたすら沈黙を守るのみで、談判に応じてくれようともしない」


 そこまで話してから私は、自分自身で言ったこの「沈黙」という言葉が自分の胸に響いた。

 ちょっと待てよ、という感じだ。

 この感覚は私も他人事ではない。かつて、いつだったか、そう、マカオにいた時だったか日本に来てからだったか、同じような気持ちになったことがある。

 いくら語りかけても『天主デウス』は沈黙を守るのみで、何もお答えになってはくださらないと。


「バテレン様」


 私がしばらくだまってしまったので、ルカスが心配して声をかけてくれた。そこで我に返った。


「申し訳ない。それで、その友人はいったい誰が『天主デウス』の御前で正しいなどと言えるのか、人間から生まれた人間がどうして清いはずがあろうかと言います。もはや人間なんて、蛆虫のようだと言うのですよ」


「まあ、そいもちっともぞなぎいこつやっちゃが」


「まあ、ヨブとてめちゃくちゃなことばかり言っていたわけではなくて、彼の心の奥には『天主デウス』の絶対性といいますか、『天主デウス』が天地万物の創造主であり、死者の霊でさえその支配下にあることを讃えます。しかし、かつての自分の栄華と今の惨状を繰り返して述べ、もはや『天主デウス』は呼びかけにも沈黙し、その御手で自分を苦しめ、責め、そして今や命をも奪おうとしていると嘆き、その嘆きの声はやがて呪いにとも変わっていきます、もはやヨブの友人たちは返す言葉もなくなって黙ってしまいました」


 またもやルカスは、顔をしかめていた。


「ところがです」


 私はルカスの暗い顔を慮って、わざと明るく切り出した。


「その場に居合わせた他の人びとが口を開いたのです。彼らは、まずヨブが傲慢にも自分の方が『天主デウス様』よりも上になっていること、またヨブの友人たちもヨブが罪を犯していると言いながらも口をつぐんでしまったことに怒っていました。そしてその中の代表的な人が語り始めます。実は彼は聖霊に満たされていたのです。ヨブが『天主デウス』は沈黙しておられると言ったことに対しては、こう言います。『天主デウス』は沈黙しておられるわけではない。いろいろな方法で『天主デウス』は常に語りかけてくださっているのだけれど、人間の方がそれに気づかないだけだ。人が寝ている時の夢という形、幻想という形で語りかけ、警告し、人を悪から離れさせ、傲慢さを取り除き、魂を守り、滅びることがないようにしてくださる、と」


 再び私の方が沈黙してしまった。ものすごい衝撃が、聖書を読んでいる方の私が受けたのである。もちろん初めて読むわけでもないし、何度も読んだことのある「ヨブ記」だ。ところが今はその「ヨブ記」のこの部分が、これまでになく私の腹中に、つまり霊魂に響いていた。

 『天主デウス』は常に語りかけておられる。沈黙などしていない。時には自分で考えたと思えるいわゆる一瞬の「ひらめき」が、実は『天主デウス』のみ声であったりするのか…。何か全身が熱くなり、力が湧いて来たようにも感じられた。



                  3


 もう外はすっかり暗くなっており、室内もわずかなろうそくの火でともさているだけの闇に近い部屋である。それなのに、私は部屋の中が急に明るく輝いて見えるようになった気がした。


「バテレン様」


コニージョ神父(パードレ・コニージョ)!」


 ルカスとヴァリニャーノ師が私を呼ぶ声が、同時に重なって聞こえた。


「あ、大丈夫です。続けます。その彼はさらにこう言います。心ある人々は聞きなさい、と。『天主デウス』は悪を行うことは決してなく、全能者は不義を行うことも決してない。人のそれぞれの行いに応じて、それ相応のものをお与えになる。絶対に『天主デウス』は悪いことをされたりはせず、全能者は審判を曲げたりはなさらない。この地を『天主デウス』に委ねた者がいるだろうか。全世界を定めた者がいるだろうか。『天主デウス』がもしそのお心をご自身のためにだけ用い、その霊と気吹とをお納めになられたら、すべての生き物は死に絶えて塵となってしまう。こういう意味のことを、彼は言ったのです。つまり『天主デウス』は善一途のお方であり、また『天主デウス』の前では人間は絶対平等なのです。その裁きは公明正大です。『天主デウス』にお味方し、『天主デウス』のみ役に立とうとする者には無限の恵みをお与えになり、毎日が幸福になる。しかし『天主デウス』に反逆し、背くものを裁かれ、滅ぼされる。すべて相応です。だから絶対平等なのです。それは『天主デウス』こそが創り主であらせられ、人間は被造物にすぎないからです。そう考えたら、当たり前のことですよね」


 ルカスがうなずいたのを確かめてから、私は話を進めた。


「その時にヨブに話した人の言葉を借りれば、人がどんな良いことをしたからとて、それで人が『天主デウス』に何かを与えることはできない。人に恵みをお与えくださるのは『天主デウス様』だけなのです。『天主デウス』のみ声など聞こえないという人は、悪に染まり、または傲慢になっているからなんですね。私も実は耳が痛い。今回ルカスのお蔭で、私ももう一度この聖書の言葉をかみしめることができました。『天主デウス』にとって、すべての人間は御大切なのです。そして『天主デウス』は目的を持って人類をおつくりになった。しっかりとした御計画をお持ちです。朝には太陽が昇り、夜は満天の星が空をめぐり、海は波を打ち、風が吹き、空には雲が浮かぶ、山には木々が茂り花が咲く、すべてが『天主デウス様』がなさっていることなのです。そこには寸分の狂いもない。我われ人間の知恵では到底及ぶこともできない大いなる智恵がそこにはあります」


 私が感じたのと同じような魂の躍動を、ルカスも覚えているのかもしれないと、その無言だが真剣な表情を見て私は確信していた。


「そしてとうとう、『天主デウス様』が直接、ヨブに語りかけられます。啓示が下るのです。その部分は私が言葉をはさむよりも、聖書の言葉をそのまま日本語にして言いますから、分かりにくいかもしれませんし、少し長くなりますが聞いてください」


 ルカスはうなずいた。


「――ここに『天主デウス』、大風の中よりヨブに答えて宣まわく。無智の言葉をもて道を暗からしむるこの者は誰ぞや。汝、腰ひきからげて丈夫のごとくせよ。我、汝に問わん。汝、吾に答えよ。地の基を我が置たりし時、汝は何処いずこにありしや。汝、もし悟ることあらば言え。汝、もし知らんには、誰が度量を定めたりしや。誰が準繩を地の上に張りたりしや。その基は何の上に定められたりしや。その隅石は誰が置きたりしや。かの時には晨星相ともに歌い、神の子等みな歓びて呼ばりぬ。海の水流れ出で、胎内より涌いでし時、誰が戸をもてこれを閉こめたりしや。かの時、我が雲をもてこれが衣服となし、黒暗をもて之が襁褓むつきとなし、これに我が法度を定め、関および門を設けて曰く“ここまでは来るべし。ここを越ゆべからず。汝の高浪ここに止まるべし”と。汝、生まれし日より以来、朝に向ひて命を下せしことありや。また黎明にその所を知らしめ、これをして地の縁を取らえて、悪き者をその上より振り落とさしめたりしや。地は変りて土に印したるごとくに成り、諸の物は美わしき衣服のごとくに顕る。また悪人はその光明を奪われ、高く挙げたる手は折らる。汝、海の泉源に至りしことありや。淵の底を歩みしことありや。死の門、汝のために開けたりしや。汝、死蔭の門を見たりしや。汝、地の広さを看きわめしや。もしこれをことごとく知らば言え。光明の在る所に往く路はなんぞや。黒暗の在る所は何処ぞや。汝、これをその境に導びき得るや。その家の路を知りをるや。汝、これを知るならん。汝はかの時すでに生れをり、また汝の経たる日の数も多ければなり――」


 一気に読んだ後で顔を挙げ、私は息を継いだ。そうして言った。


「誰も『天主デウス様』の天地創造に立ち会った人間は一人もいないのです。『天主デウス様』のみ言葉はまだまだ続くのですが今日は省略しまして、そして最後にヨブにこう言われます」


 私はまた、聖書に目を落とした。


「――非難する者、『天主デウス』と争わんとするや。神と論ずる者、これに答うべし」


 そしてまた目をあげると、ルカスの目に光るものを見た。


「それを聞いてヨブはこう言います。『天主デウス様』は何でもおできになり、ご計画を推し進められます。私は実はよく理解していないくせに、浅はかな知恵で『天主デウス様』のこと、そしてその奇跡の業を語りました。そして自分の罪について深くお詫びをしたのです。その後、ヨブの体は元通りとなり、また多くの財産を手に入れて、裕福な毎日を暮らしましたと、ここでこの『ヨブ記』は終わっています」


 ルカスはうなだれて聞いていた。


「さて、バテレン・ヴァリニャーノ様がなぜこの『ヨブ記』のことをここで言いだされたか分かりますか?」


「はい、まっこつの意味でわいを慰め、勇気づけてくださるためやっちゃが」


「それもあるでしょう。しかし、あなたが通って来られた道、今の境遇について、単に罪を犯した罰ではなくて、もっと深い意味があるということですね。たしかにこうすればこうなるという一定の法則、あなた方の言葉でいう因果応報インガオーホーということもあります。しかし、『天主デウス様』が望んでおられるのは全人類が一人残らず幸せいっぱいになる、そんな世の中が顕現することです。ですから救いの業として罪の許しがあり、罪から解放された人類は本当の意味での幸福になるのです。いや、ならねばならない。因果応報を越えて行われる奇しき救い仕組みのみ業を告げ知らせるのが、我われバテレンの役目です。そして実は」


 私は一度息を継いだ。


「先ほどはあえて言わなかったのですが。実はこの『ヨブ記』の冒頭に大事なところがあるのです。それは、なぜ『天主デウス様』はヨブに災いを下すことになったのか、そのいきさつが冒頭部分には述べられています。それは『天主デウス様』と悪魔のやり取りです」


 フロイス師もここで、なるほどという顔をしていた。


「実はヨブは先ほども言いましたように、最初に完全であり正くて、『天主デウス』を畏れ、常に悪を遠ざけていたという紹介でこの物語は始まります。つまり何ら罪は犯していないし、悪人でもないのです。ところが悪魔が『天主デウス様』に、ヨブを試してみようと提案するのです。悪魔はヨブの信仰心を疑っていました。そこで『天主デウス様』はまずはヨブの財産を奪うことを悪魔に許しましたが、身体的危害を加えることは許しませんでした。それでもヨブが信仰を捨てないので、悪魔はさらに『天主デウス様』に申し出て、病気になることを許されましたが、その時も『天主デウス様』はヨブの命を奪うことはお許しになりませんでした。ヨブの不幸現象にはこういういきさつがあったのです。どんな悪魔の業による不幸現象も、『天主デウス様』のお許しがなければできないのです。なぜ『天主デウス様』はそれを許されたのか。なぜだと思いますか?」


 しばらく考えてからルカスは小声で言った。


「『天主デウス様』から信用されちょったかいやろうけ」


 それは私が予想していた答えとは違ったが、私の中のひらめきが勝手に話を合わせて続けていた。


「そうですね。信仰とは『天主デウス様』を信じるという次元を越えて、『天主デウス様』に信用して頂ける人とならせて戴くこと、そこまでいけたら最高です。そしてもう一つは、『天主デウス様』が大きくお使いになろうという魂の人物は、まず試され、それから徹底的に鍛えられ、そしてふるいにかけられます。それはその人の罪によるいわば因果応報ではなく、罪の贖いでもなく、ひたすら『天主デウス様』からの試練、お鍛えなのです。アブラハムとその息子のイサクの話は、有名ですからあなたも聞きましたね?」


「はい。てげ昔やっちゃがけんどん、バテレン・トーレス様から聞いたげな気もしますじ」


「『天主デウス様』はアブラハムに、その最愛の子のイサクをいけにえとして捧げるように命じます。アブラハムは素直にそれに従おうとするのです。これが言わば『天主デウス様』による試しですね。そして、使徒聖パウロは言いました。『天主デウス様』はその人が耐えられないような試練は決してお与えにならないと。どんな試練も不平不満を言っていたらただの苦しい不幸現象ですけれど、感謝で乗り越えればそれは鍛えられて『天主デウス様』の手足としてお使い戴ける浄き高き魂となるのです。すべて『天主デウス様』のなせるわざ。繰り返しますが、例え悪魔の業だったとしても『天主デウス様』がお許しにならないとそれはできない。現に悪魔はヨブを病気にはしましたけれど、ヨブの命を奪うことは『天主デウス様』からお許しいただけなかったからできなかったのです。そして、罪を許し、そういうどん底の状態から救いあげてくださるのも『天主デウス様』です。もう、これ以上、私が話すことはありません。あとはあなたが今の話をよく思い出して覚ってください」


 こうして私の話は終わった。終わってしまったら自分が何を言ったのかさえよく覚えていない。ただ覚えているのは自分で話しておいて自分の胸に刺さった『天主デウス様』は沈黙しておられず、様々な形で啓示を下さっているというあの部分だけだった。

 ルカスもその妻も号泣していた。


「ありがたい。ありがたい」


 ルカスは何度も言ってから、懐から十字架をとりだした。


「実は、おりが大商人おおあきんどから漁師になったちいうだけでなく、実は極めつけの出来事としてほんの数日前に家が火事でぜえんぶ焼けてしもたっちゃよ。今は住む家もなく、昔はわれらの下で働いてた人の家に厄介になっちょっとです。今日は、そんげな状況も訴えたくてほんなごつはここを訪ねたちゅうわけじゃが、それもありがたい試練なのだと分かります。そん証拠がこれじゃが」


 ルカスは十字架を、我われに押し戴くように示した。


「財産はとうになくしたけんどん、ちっとばかり残されちょった家財道具も全部灰になりましたじ。でんたった一つ、たった一つ持ち出せたんがこん十字架と苦行のための鞭だけじゃったが」


「そうなると、もう間違いなく『天主デウス様』ですね」


 ヴァリニャーノ師も感動しながら言った。


「そっでもやはり、いろいろと罪は犯してたと思います。どうか告解をたのんます。そんために来ちゅうわけじゃから」


 ルカスが言うので、ヴァリニャーノ師は今度はフロイス師に告解を聞くように言った。フロイス師はまずはルカスを連れて別室へと言った。次に妻となる。


 その間ヴァリニャーノ師は私に言ってくれた。


「いや、よく勉強したね」


「いえ、違うのです。私は何も考えていないのです。あれは私ではない。私が言うべきことは頭では何も考えなくても口が勝手に動いて、勝手にしゃべってくれました。本当に不思議な気分でした」


「あなたも、聖霊に満たされていたのかな?」


 そう言ってヴァリニャーノ師は笑った。私も一緒に笑った。


 まさか本当にそうだとは毛頭思っていないし、畏れ多くもおこがましい、そんな大それたことがあるわけもない。だが、先ほど私がヴァリニャーノ師に言ったことは本当だった。


「しかしやはり、福音書イヴァンジリウムを含めて聖書ビッビアを一日も早く日本語に翻訳し、印刷してこの国の信徒に配布することが急がれるな」


 そういうヴァリニャーノ師は、いつしか真顔に戻っていた。

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