Episodio 1 Tempesta e Curoscivo(嵐と黒潮)
1
風は順調だった。船頭も信徒ということで、来た時の異教徒、しかも一向宗の門徒という船頭よりもかなり気が楽だった。小柄ながらも体格のいい若い男だった。
まだ残暑きびしく、船頭は暑さに耐えきれずに上半身裸になっていたが、腕も胸も見事な筋肉だった。
ただ、日本人は男でもほとんど胸毛が生えていない。それはこの国に来てから、教会でもろ肌脱いで鞭打ちの苦行をする信徒たちを見て、すでに気づいていたことだった。やはり人種が違うと体質も違うのだろう。
やがて行く手に大きな島が横たわった。それが淡路島である。あまりに大きいので、それが島だとあらかじめ聞いていなかったら海峡の対岸の陸地だと思ってしまうだろう。
堺と陸続きの紀伊とその淡路島との間は狭い海峡だった。見送りの船団はここまで来ればもう海賊の心配はいらないと、船越しに挨拶の言葉を大声で述べてから舵を切り、我われの船から離れて行った。一旦は紀伊の港に寄ってから堺へ帰るのだろう。我われは皆、帽子をとってそれを振った。
淡路島の南端を大きく回ると、その向こうにはいよいよ別の陸地が横たわっているのが見えて来た。堺や都とは別の四国という日本を形成する三つの大きな島のうちの一つで、瀬戸内海では対岸に見えていた陸地だ。
かつて豊後から海の対岸に見えていた伊予も、この四国にあるという。そこの阿波の港で今宵は停泊するということだ。
「えろう申し訳ないことですけど、今回は日にちがかかりまっせ」
本当に申し訳なさそうに船頭は言う。来る時は豊後から堺まで十日ほどだったが、それは奇跡的に順調な船旅だったことを今さらながらに実感した。
なにしろ船は順風でないと航行できない。逆風の場合は風向きが変わるまで何日も港に停泊して待たねばならないのだ。しかもこの季節は、西風の日が多いとのことで、それでは逆風になってしまう。
ちょうど今頃、一年に一度、マカオからの定期便が長崎に着くのもその西風に乗るためにこの時期なのであることを考えたら、この時期に船で西に行くのは日数をある程度覚悟しておかねばならないというのも道理だ。
来る時は風がなければ櫓を漕いで航行したが、あの時は漕ぎ手が三十人も乗っていたからで、今回は数人しかいない。
まして今度は、来る時とは航路が違う。来る時と同じ瀬戸内海航路だとまた毛利領の近くを通らねばならず危険なので、今度は四国の南側、土佐という土地の沖を通る南海航路を行くのだという。土佐は長宗我部という殿の領地で、この殿と織田殿は一応同盟関係にあり、まさしく交戦中の毛利よりもまだ安全といえた。
しかし、阿波の港では上陸して船旅のための宿に泊まったが、今後は夜は停泊している船の中で寝ることになるという。これから後船は土佐にさしかかることになるのだが、本来同盟関係であった織田殿と長宗我部殿との関係が急にぎくしゃくし始めたので大事を取ってとのことであった。
その件に関しては阿波の三好殿という殿との関係が影響しているとのことでその辺のいきさつを船頭が細かく説明してくれたが、なにしろそういった政治的動向に関してはしょせん我われは外国人であって、聞いてもよく分からにというのが正直なところであった。
翌日は陸地に沿って南下し、一つの大きな岬を回って、船は土佐の領域に入った。岬の先端近くには、小さな島が二つほどあった。陸地の上には小高い緑の丘陵がずっと続き、その足元を白い波が洗っているのが見える。海と丘陵の間に平らな土地は全くなかった。やがて珍しくほんの少し平らな土地が見えて来たなと思ったら、それが甲浦の港、この日の寄港予定の港だった。ここでは我われは、全員が停泊する船の中で寝た。
翌日の景色は圧巻だった。
「ブラーヴォ!」
ヴァリニャーノ師も船から身を乗り出していた。昨日も海に細長く突き出た一つ岬を回ったが、ここまで雄大ではなかった。ずっと海にそって続いていた丘陵の先端がそのまま海に突き出ており結構な高さである。海沿いの道すらなく、波は海の中から直接そそり立つ崖にぶつかって砕けている。そのすぐ上から丘陵のてっぺんまで、すべてが緑に覆われている。
船が進むにつれて、岬はその先端を船に向けて来た。本当に鋭利な槍の先のような岬の先端で、船はゆっくりとそれを旋回する。
「バテレン様、あまり身ぃ乗り出すと危のうおまっせ」
船頭が笑いながら、ヴァリニャーノ師に言った。フロイス師が薄ら笑いを浮かべた。
「危ないって言ってますよ」
そして、ポルトガル語で補足した。船頭はまた言った。
「ここから先は外海ですさけ、船もよけい揺れますさかいな」
それでもヴァリニャーノ師は船から身を乗り出し、感嘆の声をあげていた。
「この国の自然は繊細で、本当に神々《こうごう》しい。まるで『天主』様が特別に地球上にこのような美しい国を造ってくださったとしか思えない」
そのヴァリニャーノ師の言葉に、本当に『天主』が最高の芸術品のようにこの国を創ってくださったのだとしたら、そこに住む人びとは当然霊性が高いはずだと私はふと考えていた。
岬を回りきると、船は進路を北にとった。つまり今までずっと丘陵のある大地に沿って南下してきたが、今度はその丘陵の反対側を北上するのだ。これまでは海の向こうにうっすらと対岸の紀伊の大地が横たわっているのが見えていたが、いよいよ陸地の反対側は一面の大海原が水平線まで続いていた。
この国に来てからも何度か船旅をしたが、久しぶりに見るずっと続く水平線といった感じだった。これまでは陸地の反対側を見ても遠くに対岸の陸地や島などが必ず見えて、水平線は景色のごく一部ということの方が多かった。
岬を回ると急に風が強くなり、船のベロチタも上がり、船頭の言ったようにかなり揺れだした。来る時の瀬戸内海航路がいかに波静かな内海の航路であったかを思い知らされた。
岬を回るまではさほど大きな追い風だったわけではないが、ここからは南風である順風を帆いっぱいに受けて船はすごい速度で海原を滑り出した。
やがて丘陵の下にちょっと平らな土地があって集落が見えた。そこがこの日の寄港地で、名を室津と聞いた時に私は驚いた。
それはかつて播磨で一週間も滞在したあの町の名だ。だが、ここの景色はあの室津ではあり得なかった。瀬戸内の海に面し、海の沖には陸地が見えたあの室津ではなく、ここは大海原の大洋に面している。
船頭に聞けば、室津というのはありふれた地名で、あちこちにその名の港はあるという。そもそも地名の最後に「ツ」がつけば港町であることが多い。「津」とは古い日本語で「港」という意味だったのだそうだ。
その室津に船は入って行った。その時までは、この港は単なる一晩の寄港地としか思っていなかった。
当然長宗我部領なので上陸はできず、船頭だけが何かの手続きのために上陸していったがすぐに戻ってきた。翌日はさらに北上するということで、停泊していてもかなり揺れる船内で我われは眠りに着いた。
翌朝は一変して穏やかな海だった。穏やかとはいっても瀬戸内の海のように波もなく鏡のような水面というわけにはいかない。白波は船をも含めた港全体に向かって、防波堤にぶつかっては白いしぶきを上げながら何度も押し寄せていた。
だが、風がない。ほとんど無風状態で、海を見ながら船頭は心配そうな声を挙げた。
「こりゃあきまへんわ」
単に船を動かすのだけが船頭ではなく、風の向きや海の荒れ具合などを判断し、その日の航程を判断するのも船頭の仕事だ。その点では、ポルトガル船のカピタンと同じである。
船頭が船は出せないとい言った以上、この港で順風を待つしかなかった。
こうして狭い船中に閉じ込められた日が六日ばかり続いた。航行していても船中に閉じ込められていることには変わりはないのだが、船が走っていれば変わりゆく景色などが目の楽しみにもなり、それなりに時間もつぶせて一日も割と早く終わる。だが止まっている船に閉じ込められるとなると話は別で、それがこんなにも退屈なものだとは思わなかった。
一日の時間の流れの中でのエポカといえば食事と聖務日課の祈りの時間だけだが、あまりにも退屈なので次の聖務日課の時間になるのが待ち遠しかったりさえした。
本来、聖務日課は聖職者だけが行えばよいのだが、退屈さは船頭やそのほかの数名の船員たちとて同じようで、彼らも全員祈りに参加していた。当然、全員が信徒である。
その六日間の間に日曜日があったので、船中で主日のミサを挙げることになった。ラテン語の祈りの言葉を全員で大声で唱えることも、聖歌を歌うこともはばかられるので、ひそひそ声でのミサという非常に奇妙な光景となった。
2
次の日、ようやく風を得て我われの船は海へと滑りだした。
もはや堺を出てからちょうど一週間、それなのに豊後までの全行程の四分の一も来ていないという。往路は豊後から堺までちょうど十日だったのを思い起こすと、この航海の難儀が身にしみる。
船は順調に北上する。だが、風はいい順風なのだがおまけがついていて、とにかく波が荒く、船は大揺れだった。これには閉口した。
最初にメシア師が体調を崩し、嘔吐を繰り返し寝込んでしまった。私とトスカネロ兄がいちばん若いのだが、私も少々まいっていた。
ヴァリニャーノ師もあまり思わしくないようだ。メシア師と共に年長のフロイス師は至って元気なようだった。
こうして船が揺れると、夜は停泊して昼だけ航行してまだ一週間というのに、あの何カ月も停泊なしで海を渡って来た時のことが思い出される。
やはりポルトガルのナウ船はこの日本式の船と比べると天国だったとつくづく思う。あの時は四方どちらを見ても陸地など見えない太洋の真ん中を何カ月も乗りっぱなしだったのだが、それに対して今は陸地のすぐそばを航行している。万が一何かで船が転覆したとしても、なんとか泳ぎ着くか船の残骸につかまって漂っていればすぐに流れつけるほどの陸地の近さである。
それでも、あの時はあの時でいろいろと困難があり苦しかったのだが、やはりナウ船は快適だったと思う。
「どないに追い風があっても、やはり西に向かういうんは難儀ですわ」
船頭は言う。海はただ水があるだけではなく、海の中にも川のような海水の流れがあるのだと船頭は説明してくれた。すなわち海流のことだと我われにはすぐに分かったが、このあたりは常に西から東へと向かう強い海流があるのだそうだ。それに逆らって航海しているので思うように速さが出ないのだと、船頭はさらに語ってくれた。
ただ、そのお蔭でこのあたりはいい漁場になっているようだ。
午後の遅い時間になった頃に、陸地は大きく左へ湾曲してわれわれの行く手を遮るがごとく横たわるようになった。かなり海沿いの平らな土地も見え、山は海岸から遠くに遠ざかって行っていた。
もはや岬ではない陸地が広がっているようだ。その海岸に沿って進むのだから、船も北上から西へと針路を変えた。
だが、順風といっていられるうちはよかったが、次第に風は強くなり、順風どころの騒ぎではなく激しい追い風となった。船の速度は上がっていいのだが、あまりにも追い風が強すぎるとそれはそれで危険であるという。
そんな追い風に背中を押されるように、夕方の暗くなる直前に船は予定していた浦戸の港へ入った。ここは長宗我部の殿が住む岡豊城にいちばん近い港だという。毛利領のようにここが織田家の敵地というわけではないが、それでも緊張が走った。
まるで川の河口のような感じで陸地に入り江が深く入り込んでおり、船はその細長い入り江に入ると入り江の入り口すぐの左側の方へと向かった。小高い丘が続く岬が外海と入り江を区切っていたが、その岬の内側にさらに小さな入り江があって、その奥が港のようであった。その港の隅に停泊した船の中で、我われは文字通り身を潜めていた。
入り江の入り口は狭いが、中は湖のように広く、さらに視界の向こうにまで入江は続いているようだった。
翌日は前日にもまして大風で、海は大しけだった。とても出港できる状態ではなく、また一日船の中で暮らすことを余儀なくされた。
室津の時は停泊しているだけに船はほとんど揺れなかったが、今日はたとえ停泊中とても波を受けて船はかなり揺れた。これでもここは入り江の中だけに外海よりはましだった。
食事は船頭が上陸して、船宿あたりから握り飯や少しの料理を調達して来てくれた。毎日二食ほぼ同じものを食べているのだが、ヴァリニャーノ師は言う。
「感謝して頂きましょう」
そして皆で食前感謝の祈りを唱えてからいつも頂くのであった。
ところが翌日は打って変わって海も穏やかにはなったが、今度は完全無風状態だった。またもや足止めである。空はよく晴れていたし、暑い日差しが容赦なく船の中まで照りつけていた。風がないといいうことはただ湿気だけがこもることになり、噴き出す汗にスータンもびしょびしょになるくらいだった。
その翌日は、ようやく風があった。
「先を急ぎまひょ」
そう言って船頭は、ようやく船を出した。
だが、まだ午前中のうちから雲行きがだんだん怪しくなってきた。西の方にどす黒い雲の塊が見えたかと思うと、どんどん近付いてくる。そのうち、雨も降りだした。かなり激しいスコールだった。
風がどんどん強くなり、波も高くなって、船は大揺れに揺れた。何かにつかまっていないと海に放り出されそうだ。その風がまた、向かい風になっていっている。
「こらあかん。これ以上は進めん」
船頭は叫ぶと、すぐに帆を下ろした。そして船員たちが櫓を漕ぎはじめ、船頭はうまく舵を操って船を陸地の方へと近づけていった。やはり陸地づたいの航行だと、こういう時に安心である。
我われはひとかたまりになり、祈りを捧げた。そしてヴァリニャーノ師が船員たちにも向かって叫んだ。
「主イエズス・キリストは言われた。『なにゆえ臆するか。信仰薄き者よ』と。信仰あれば風も海も従う」
同じ言葉をフロイス師が、日本語で彼らに伝えた。
「おお」
船員たちもずぶぬれになって、揺れに揺れる船の上で「主祷文」と「天使祝詞」を交互に、繰り返しラテン語で唱えながら櫓を漕いでいた。
このような状況だから外の景色を見る余裕などなかったが、浦戸の時と同じような入り江があって、その中へと船は進んでいるようだった。そしてこれも浦戸とほぼ同じような位置関係で、入江に入ってすぐの左側にさらなる入り江があって、ここでもそこが港のようだ。この小さな入り江は、浦戸よりは狭くて細長く、奥が深いようだ。
港に着くと、村人たちが日本式の雨具である蓑を着て大勢出てきてくれた。そして我われの船を引いて岸に乗り上げさせるのだ。大風と横殴りの雨の中での作業で、蓑を着ていても皆ずぶぬれだ。
我われは船の後部の、唯一屋根がある部分に入っていた。日本式の船は、いわゆる甲板がないのである。
やがて船は陸に上がったようで、全く揺れがなくなった。そこに船頭が顔を出した。
「ここは漁村で、本来寄るはずやった所とちゃいますんで、船宿もあらしまへん。ともかくこのでかい嵐が収まるのを待つしかないですな。バテレン様方には難儀かけますわな」
「かたじけない」
ヴァリニャーノ師が日本語で言った。
「なぜ船を陸に? 引いてくださった人たちには頼んでいたのですか」
私が尋ねると、船頭は手を顔の前で横に振った。
「いやいやいや、寄る予定もなかった所の人に、どうやって頼みますんかいな。実はこういう嵐で船が港に入ってきたら、ああして村人総出で船を陸に上げたるんが普通です。この嵐の日に船を港に浮かべとったら、綱も切れて明日の朝にはどこにおるのかって感じで、船はのうなってしまいますわ」
どこのどんな船かも分からなくても、こういった嵐の日などには村人はそれを救助するという美徳がやはりこの国には備わっているようだ。それが当たり前のこことして、皆が力を合わせて助け合っている。
やはりこの国の人びとは、たとえ異教徒であっても霊性が高いと私は再度実感した。
「この夏の終わりから秋にかけて、この国にはこういった大嵐がようけ来まんにゃわ。心配しとったけど、やはり来よったで。まあ。何日も続くいうことはあらしまへんさかい、少しの辛抱をお願いします」
船頭はそう言うものの、確かに船は陸地に上がって揺れなくはなったが、容赦なく風は船にまともにぶつかってくる。そのために船の木材がきしむ。
激しい轟音と共に雨が風とともにぶつかってきて、空にも風のうなり声がひっきりなしだ。その風で、船が揺れたりもした。大波による揺れとは全く違う小刻みな揺れ方だ。雨も滝のように降り、それが風で船べりに打ちつけられている。
その夜はとうとうほとんど眠れなかった。ただ、嵐が猛り狂っていた時間はそう長くはなく、明け方近くになるともうすっかり雨も収まっていたので、それから少しだけうとうととした。
翌日は驚くほど青空の快晴だった。ただ、風はまだ強く、海もしけており、船を出すのは無理なようだ。
昨夜はあのような状態だったからここの景色など分からなかったが、確かに港と入り江との位置関係は浦戸とほぼ同じだ。だが岬の上の山は浦戸よりも高く、高いとはいってもそれほど本格的な山ではないが、そんな山に抱かれた麓に港はあった。
港のある小入江は細長くて出口は見えない。
やがて村人が、食料を持ってきてくれた。
「おまんさ方はどこまでお行きになるがか」
「豊後です」
船頭が村人の相手をしていた。
「ほりゃあ遠い所まで難儀やき。この村でゆっくりしていっとおせ」
この土地はまた言葉が堺や都とはだいぶ違っていて、何を言っているのかわからない部分もあった。
我われは船の中に隠れ、なるべく顔が見られないようにした。もう長宗我部殿の岡豊城からはだいぶ離れたという。でも、用心に越したことはない。
しかし、何日も生活している以上、全く我われの存在が気づかれずに済むということは無理であった。時々わざわざ我われの姿をのぞき見しようとする村人が何人かいたことも、私は察していたが特に気にもとめていなかった。ここの村人たちは災難に遭うこの船を助けてくれた恩人であるという意識が強かったからだ。
3
こうして村人たちに世話になりながら五日ほど足止めとなり、それから我われの船は出航した。村人たちの話では、ここは井ノ尻という港だそうだ。その足止めの後、六日目にようやく風を得て船は出港した。九月も下旬に入っていた。
その日は今度は入江ではなくて大きな川の河口にある下田という港まで進んだ。あまりにも大きな河口なので、最初はまた入り江かと思った。どうしてこの土佐の港は皆入り江にあるのだろうと思っていたが、船頭が説明してくれた。
「これは入り江ちゃいまっせ。四万十川いう四国でいちばん大きな川だす」
それで、初めて川の河口だと分かったくらいだ。
その河口の上流に向かって右側のすぐのところに集落があって、そこが港のようだ。
このあたりは河口だけあって少しは平らな土地があり、その向こうに横たわる丘程度の高さの丘陵はだいぶ陸地から遠ざかっていた。従って開けた土地という開放感があって、よく晴れた日差しの中で明るく見えた。
着いたのは夕方だったので船頭だけが一度上陸し、我われは例によってそのまま停泊する船の中で寝ることになった。船頭もすぐに戻ってきた。
翌日、そのまま旅が続けられると思ったが、船頭は浮かない顔だった。
「えらい申し訳ない」
また船頭は言う。風は強い。しかし、いかんせん南風、すなわち向かい風なのだ。これからもう一つ岬を回るまでは、船は陸地に沿って南下することになるという。
ここでさらに風待ちとなった。
こうして各地で何日も足止めされるにつけ、往路との違いがあらためて痛感させられた
「ここは浦戸と同じで、長宗我部の殿の弟君の城が一里半ほどの目と鼻の先にありますさけ、浦戸以上によう気ぃつけはったがよろしゅおまんな」
一里半といえば歩いて一時間半だから、本当に近い。実際見つかったからどうなるかということは分からないのだが、我われは織田殿に歓待を受けた身だ。織田殿と長宗我部殿はまだ敵対しているというわけではないが、何かと関係がこじれているようなので用心するに越したことはない。
そんなことをヴァリニャーノ師たちとも話していた昼下がりに、船の外が騒がしかった。そっと船べりからのぞいてみると、数名の村人と船頭が何かもめている。しかも船頭も村人も互いに興奮しているのか声も大きく、よく聞こえてきた。
「そりゃ、あきまへんて。この船は商いの船だす。バテレン様など乗ってはったりはしてまへんがな」
「いやいやいやいや、井ノ尻のとぎが知らせてくれたっちゃ。大嵐で井ノ尻に何日か停まっちゅった船が西に向こうて、その船にバテレン様が乗りよったと」
「頼むき、乗せてくれんかね。どうしたちバテレン様にお願いしたいことがあるきに」
ヴァリニャーノ師がしきりに気にしていたが、フロイス師が説明した。
「どうも我われが乗っていることはすでに知っているようで、何か頼みたいことがあると言ってますね」
「たしかに、敵意があるようには見えません」
私もそう付け加えておいた。
「だったら、会ってみようではないですか」
ヴァリニャーノ師がそう言うので、私がその旨を船頭に告げた。
さっそく三名ほどの村人が乗りこんできた。服装は庶民の服だがその機敏な動きからただの村人ではなく、明らかに城に仕える武士であるということはすぐに分かった。
「ご無礼をお許しとおせ。わしらは」
そこで村人は、声を落とした。
「もともとのこの土佐の国守、一条殿にお仕えしよったものですっちゃ」
「今はこの村で漁民として、世を忍んでおりますっち」
その言葉を、フロイス師が逐次ヴァリニャーノ師に伝えていた。
「実はバテレン様方はこれから豊後に向かわれるっち聞きましたき、その途中でどうしたち会うてほしい人がおりますっちゃ」
村人たちの話をかいつまんで言うと、だいたい次のとおりである。
もともとこの土佐は百年以上も前から一条殿という殿が支配する土地であったという。一条殿とはもともとは都の貴族であったが、都での大きな戦争を避けてこの土地に来て、この近くの中村の城の殿となったということだ。
この国の貴族は地方に自分たちの収入源となる田地を持っていることが多い。それを荘園というらしいが、一条殿の荘園がこの土佐の中村にあったからだという。
「わしらが仕えちゅうたんは中村御所様、つまり一条兼定様じゃった。でも、もともとは一国人にすぎなかった長宗我部が勢力を伸ばしてこの土佐をばっさり支配するようなったっちゃ。その時一条家の中でも長宗我部と和解して長宗我部に付くべしとする人びとと、長宗我部とは徹底して戦うべきだと主張するものに分かれ、わしらはその後の方、つまり長宗我部とは徹底して抵抗する意見を持っちゅうたものでござる」
すると、長宗我部殿が土佐の大部分を支配する昨今においては、この者たちは身分を隠し、隠れてここに住んでいるのだろう。
「そして兼定殿は長宗我部との和解を主張する人びとにとって豊後に追放されたっちゃ。その後、その息子が一条家を継いだけど、長宗我部元親殿の娘婿だし長宗我部のお飾りじゃった。だが、その大津御所様も今年になってから謀反の嫌疑で長宗我部から追放されて、今は行方不明じゃ。もしかしたら、もう殺されているかもしれんぜよ」
その言葉をフロイス師が通訳して伝えると、ヴァリニャーノ師はいちいちうなずいて聞いていた。
「そうですか。それで、私に会ってほしいという人とは?」
「その兼定様やか。兼定様の居場所は分かっちゅうが。伊予の沖合の戸島という小さな離れ小島じゃきに」
「たしかに豊後に行く途中の通り道だけれど、なぜ私たちに?」
「兼定様をバテレン様が訪ねてくださったら、ほりゃあお喜びになるろう。それに、わしらが元気じゅうこともぜひ伝えてほしいがです」
「なぜ?」
ヴァリニャーノ師が疑問を発すると、フロイス師はそのままそれを一条兼定の旧臣と名乗る村人らに伝えずに、直接ヴァリニャーノ師に言った。
「彼らが言う一条兼定とは、ドン・パウロのことですね」
驚いた上で納得したような表情で、ヴァリニャーノ師はうなずいた。
「なるほど、信徒なのですね。それで私が行けば喜ぶと。フロイス神父はその人を知っているのですか?」
「直接会ったことはありませんが、何度か手紙をやり取りしたことはあります。それに、ただ信徒であるというだけでなく、実はその母親はあの臼杵の殿のドン・フランシスコの姉、つまりドン・フランシスコからすれば外甥に当たり、さらにその妻のジェスタはドン・フランシスコの娘なのです。従兄妹で夫婦になっているのです」
「ならばなぜ臼杵に住まずに島などに?」
「それは…」
なぜかフロイス師は言葉を濁していた。フロイス師は何か知っているようだが、どうも言いにくいことのようで、すぐに村人らの方を見た。
「あなた方と兼定殿は、なぜ離ればなれになってしまったのですか?」
わざと話題を変えるようなことを、フロイス師は質問していた。
「兼定様がなんらあ中村を取り戻そうと、叔父であり舅殿でもある大友宗麟様の後ろ盾で長宗我部相手にこの四万十川を挟んで戦さをしたけれど、ご武運がなかった。ほき長宗我部の手のものに寝込みを襲われて殺されかけたがです。その時かなりの深手を負われて、まっことあれで生き延びられたのは奇跡以外のなんちゅうものでもない状態じゃったぜよ。そして兼定様は戸島に隠れるようにして暮らしており、我われはここで暮らしちゅうです。お互い詳しい消息もわからず、文のやり取りもままならない状態なので、兼定様も我われのことをお気にかけてくださっちゅうがやきと思うのです」
そこから村人らは、声を落とした。
「兼定様は後ろ盾となってくれた大友様を憚って、顔向けができぬと臼杵にも帰らずに、でも臼杵が手に取るようによう見える島へと隠れ住んで再起を図っておられる。我われもここでその機を窺っちゅう。離ればなれになっても心は一つやきに」
フロイス師がそれを伝え終わると、ヴァリニャーノ師はフロイス師に聞いた。
「ドン・パウロが臼杵へ帰らない理由は、今この方たちが言われた通りなのですか?」
「は、はあ、まあ、そんなところでしょうね」
フロイス師はまだ何かを隠しているようだった。とりあえずヴァリニャーノ師はそれ以上追及はしなかった。
「分かりました。必ず兼定殿を訪ねましょう」
村人らの顔がぱっと輝いた。中には涙ぐんでいるものもいた。
4
この国の武士たちがその主君を思う心というのは、まるで尽きせぬ泉のように滾々と湧き出でて来るが、それはどこから湧いてくるのか。
我われの国の騎士以上の忠誠心に時にはあきれるほどでもあるが、同時に心打たれることもある。こんな主君への忠誠心が厚い国民は、地球上の他にはいないかもしれない。
そのあふれる忠誠心をもってこの国の信徒たちは、その心を『天主』に向けている。その姿に、聖職者である我われの方が恥ずかしくなる時がある。いや、我われというと語弊があるが、少なくとも私は、だ。彼らはまるで赤子のような忠誠心だ。
奇しくも主イエズス・キリストは言われた。「もし汝ら翻りて幼児のごとくならずば、天国に入るを得じ」と。そういったこの国の人びとの特殊性も、この国での福音宣教のあり方にも関係してくるのだろう。
そんなことを私は考えているうちに、ヴァリニャーノ師と村人たちの話は終わっていた。
とりあえずは、村人たちは帰って行った。
それを待っていたかのように、ヴァリニャーノ師は早速フロイス師に尋ねた。
「ドン・パウロが臼杵に帰りたがらない本当の理由があるのではないですか?」
やはりフロイス師は何か言いにくそうにしていた。そしてぼそっと言った。
「それは…まあ、戸島で彼と会うことができたら、その時彼に直接お聞きください」
そういったこともあって、早くにドン・パウロ一条兼定に会いに行きたかったが、翌日も風向きは変わらなかった。船頭の話だと、この時期に風向きが変わるのはほんの一時期で、その機を逃さずに船を出して、南下した先の岬を回ればまた順風になるという。
こうしてこの下田での停泊の日々が七日も続いた。ここは長宗我部の身内がいる中村城も近いので、できれば早く離れたかったが、そうもいかないようだ。その中村城こそが、かつてのドン・パウロの城だったのだ。
我われが滞在中、あのドン・パウロの旧臣だった村人たちが、毎日食料を届けてくれるなどの世話をしてくれた。堺に行く時に、異教徒の一向宗門徒でありながら我われを親身で守ってくれたあの船頭の時もそうだったが、ここでも村人たちは異教徒ながらかのサマリヤ人のように我われの隣人となってくれたのであった。
ヴァリニャーノ師は涙を流さんばかりに彼らに感謝をした。
「あなた方に『天主』のご加護がありますように」
そして、いつも祝福していた。
この言葉を何回か聞くにつけ、彼らはキリストの教えについてもその概略を話してほしいと願うようになってきた。
「わしらの主君が信じる教えじゃき、キリシタンの教えに間違いはないがぜよ」
そんなことも言っていた。
しかし、あらためてキリストの教えをひと言で説明しろといわれても、それは「ひと言」のくくりの中に入りきれる程度のものではない。私はヴァリニャーノ師がどう答えるか、聞き耳を立てていた。
「我われが信じる『天主』とは、この世のありとあらゆるものをお創りになった方です。あなた方のいう神や仏よりも上といっていいでしょう。そしてその『天主』様のみ意を告げ知らせるために、人となって来られたのがその御ひとり子のイエズス・キリストです。イエズス様は教えを説いた後、当時の王に十字架にかけて殺されましたが、三日後に復活して『天主』の栄光を表したのです」
その言葉は逐語的にフロイス師によって通訳されていった。
「ほう。ほきイエズス様という方は、自分を殺した王をやっつけたのやき?」
「とんでもない。イエズス様は彼らを許しました。イエズス様が十字架に架けられたのは、私たちすべての人類の罪の肩代わりだったのです。そしてイエズス様は罪に打ち勝った。そのすべては『天主』にとってもイエズス様にとっても、この世のすべての人類が『御大切』であったからです。ですから、キリシタンの教えをあえてひと言で言うならば、それは天地の創造主の『天主』様の『御大切』と罪の許しを説くものです」
「いやいやいやいや、こんな話は初めてだっっちゃ」
村人らはみな口々にそう言って、興味を示していた。
順風を待つまでの間、村人たちは毎日ヴァリニャーノ師の話を聞きに船に来たし、フロイス師も根気よくそれを通訳していた。そして、どうしたら信徒になれるのかという話までなったので、ヴァリニャーノ師が洗礼のことを告げると彼らは皆一様に受洗を希望したのである。
それは非常に喜ばしいことであったが、いかんせんここは織田殿や大友殿にとっても敵地である。ここで彼らに洗礼を授けても、彼らは最初から司祭もおらず教会もない所で孤立してしまう運命にある。
それはあまりにも不憫であるとヴァリニャーノ師は判断したようだ。
「洗礼を受けるにはもっと詳しい公教要理というのを学んでからでないと許されません」
ヴァリニャーノ師のその言葉を伝えてから、フロイス師はも付け加えて言った。
「もしあなた方がその心があるのなら、いつの日か必ず『天主』様は恵みを下さるでしょう。もしあなた方に縁があるのならば」
ここでフロイス師は、この国の人が好んで使う縁という概念を使った。縁とは関係とか運命などと似ているが、微妙に違う。『天主』の恵みによる偶然の出会いとも言えなくもないが、とにかく日本語で「縁」としか言いようがない。
そして日本人はその「縁」をとてつもなく大事にするということもフロイス師はすでに知っているからさすがだと思った。
「あなた方に『天主』様との『ご縁』があるならば」
この考え方は、仏教における『結縁(仏と関係を結ぶこと)』をうまく転用している。これもフロイス師だけあって、さすがとしか言いようがなかった。その証拠に、村人たちはそれで納得してしまっていたからだ。
この間の日曜日には、これまで通り船の中で静かにミサを挙げたが、村人たちも参列してもらった。
そして八日目になって、ようやく順風となった。
この機を逃したら、今度はいつ出港できるかわからない。
村人たちのことはすべて『天主』様に委ねることにした。『天主』様にもご都合もあろうし、時期というものもある。種まきさえしておけば、そこが耕されたいい土地ならば必ず芽が出ることを信じたい。




