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とある司祭(パードレ)の憂鬱(メランコリア) ~聖なる侵略者~  作者: John B.Rabitan
Capitolo 1 Un viaggio in Giappone(日本への航海)
3/96

Episodio 3 Giornate di studio(修学の日々)

                  1


 リスボンを出航してから約半年後の9月13日の日曜日、我われはゴアに上陸した。

 船が港に近づくにつれ、町の様子が次第に明らかになる。

 町全体は城壁で囲まれているが、その城壁越しに教会や宮殿と思われる建物の屋根が空にそびえているのが見える。そして船が接岸すると、船員や商人たちが荷物とともにぞろぞろと船を降りるので、かなり時間がかかった。

 早速出迎えの商人で港はごった返したが、そのほとんどが我われと同じ顔、すなわちポルトガル人と思われる人びとだった。異民族の顔もちらほら見えるが、数はそんなに多くはない。異民族といっても顔つきは我われとは違って少し黒がかってはいるが、あのモサンビーキのような真っ黒な人々ではない。

 だがそれとは別に、私は見てしまった。

 船員や商人たちとは別の口からどんどんとまたおびただしい数の人々が降りてくる。

 だが、それは互いに手と足を縛られた形で、鞭で打たれながらしぶしぶと、そして黙々と歩かされている黒い集団。そう、あの十日ほど前に亡くなって海に投げ込まれた遺体のあの顔と同じ、全身真っ黒の人たち。

 紛れもなくモサンビーキの人たちとしか考えられない。彼らが降りてきた船の出口は海面すれすれの所にあり、よほど船底近くの船室に乗っていたようだ。船員があの葬儀の時に言った「下層の人たち」とはこの人たちのことなのだろうか。それにしてもおびただしい数だ。

 そんな人たちを見ていると、私は他の司祭の方たちから、急ぐように促された。


 港のすぐそばの城壁の門を入った。

 なんとそこには、まぎれもないポルトガルの町があった。

 そんな中を、人混みをかき分けて歩くと、港とそのまま続いて町の中心の広場があり、そこで出迎えの司祭数人と落ち合った。

 こちらの司祭の方々と迎えの司祭の方々があいさつを交わしている間、私は街の様子を見てみた。

 ところどころに生える木々がヤシの木であるというほかは、見事なまでにリスボンの町と同じ雰囲気だった。

 あのモサンビーキで受けた衝撃からして、さらにリスボンから離れてきただけに、余計に未開の土地になっていくのではないかと覚悟をしていたのだ。

 それが、どこか途中で航路を間違えてポルトガルに戻ってしまったのかと思ったくらいである。しかも、リスボンよりも建物は皆真新しく、それだけにきれいな街に見える。白い壁とオレンジ色の屋根の家が立ち並ぶ中、目の前にでんと横たわっているのはまるで宮殿だ。

 それもそのはず、あとで聞くとそれがポルトガルのインディア総督の駐在する宮殿なのだそうだ。そして建物の屋根越しに、いくつもの教会の伽藍が見える。それもモサンビーキの礼拝堂のような貧相なものではなく、ローマやリスボンにあるのと何ら変わらない堂々とした大伽藍だ。


 私は驚きに口をポカンと開けたまま、案内に従って迎えの方々と共に歩きだした。町はかなり大きく、行きかう人もまたポルトガル人ばかりである。実に整然と建物は並んでいるが道はまっすぐではなく、不規則で複雑に入り組んでいた。

 我われは大司教座の大聖堂カテドラーレとは広場をはさんで建つイエズス会の修道院に通された。建物はリスボンにあるそれと全く同じバロック建築で、中に入ると自分が今どこにいるのかも分からなくなる。


 「懐かしい。帰ってきた」


 これが私の感想で、それを口にすると、隣を歩いていたマテオも、


 「私もだよ」


 と、言って笑っていた。

 部屋は私とマテオが同室で、ソファもベッドもポルトガルからそのまま取り寄せたもののようだった。

 小一時間くらい休んでから、我われはリスボンから共に来たルッジェーリ師のノックで呼び出された。


「出かけますよ」


 まずは大聖堂カテドラーレで到着の感謝の祈りをささげ、それから早速大司教にあいさつに行くという。その旨を彼はイタリア語で告げた。

 私とマテオ、それからルッジェーリ師やアクアヴィーヴァ師、パシオ師を含む五人は、もうゴアに長いというアルフォンソ・パチェコ師という私と同世代くらいの小柄なスパーニャ((スペイン))人の司祭の案内で大聖堂カテドラーレに向かった。

 大聖堂カテドラーレは白亜のトスカーナ風で、ジェズ教会と同じくらいの大きさはある。案内の司祭の説明によると、この地での教会の壁は皆、鉄分を含んだ赤い土で造られているので硬くて丈夫だが、外観がよくないので石膏で塗り固められているという。だから白亜なのだ。

 正面向かって左右に四角い鐘塔カンパニーレが二基あって、黄金の鐘が陽光に光っていた。

 この聖堂は着工から十六年以上たっているがまだ建築中で、完成はしていないとのことだった。中に入るとかなり広い空間で、正面の祭壇の向こうの壁は黄金のレリーフの囲いの中に十字架像やマリア像、諸聖人像が彫刻されている。どれも見事な装飾だった。

 我われの驚く姿を見て、パチェコ師は笑っていた。


「すべてローマやリスボンから呼び寄せた大工や職人の手によってますからね。本物ですよ」


 たしかに本場仕込みなのだ。

 そこで我われは祈りを捧げ、聖堂につながって奥に延びる大司教座へと赴いた。

 エンリケ・デ・タボラ大司教は老齢だが、気さくな人だった。

 ポルトガルの国王陛下と同じ名だが、ポルトガルではエンリケというのは実にありふれた名前なので、同名だからといってどうということはない。

 司祭方がソファで大司教と会見し、我われ神学生はその後ろに立っていた。ひとしきり話が終わった後、大司教はさっと我われに目を向けた。


「コニージョ神学生、それからリッチ神学生は、どなたですかな?」


 いきなり自分の名前を呼ばれて、しかも姓で呼ばれたので私は一瞬戸惑った。同行の司祭たちも私を呼ぶ時は、ノーメ・ディ((ファースト・)バッテジモ(ネーム))でジョバンニとしか呼ばないからだ。同時に姓を呼ばれたマテオも同じ表情だった。


「はい」


 私たち二人はおずおずと大司教の前に出て畏まると、大司教は相好を崩した。


「あなたがたがコニージョ神学生とリッチ神学生ですか。お噂は聞いておりますよ。聞いてますが、どっちがどっちかな?」


「私がジョバンニ・バプテスタ・コニージョです」


 私がそう先に名乗った。

 こんな天涯の地にいる、しかも大司教ともあろうお方が我われの名前を知っている…なぜなのか、噂とは誰から聞いたどんな噂なのか…私の頭の中でそれらのことがぐるぐる渦巻いたが、なにしろ相手は大司教。聞くに聞けずにただたじろいでいると、またひとしきり大司教は笑みを浮かべた。


「あなたがた二人は来年の春、ここで助祭への叙階を受けるのです」


「え?」


 私は全身が硬直した。司祭方の方を見てもみんな寝耳に水のようで、驚いて顔を見合わせている。マテオも同じようだった。


「福音の述べ伝えるのに、神学生のままでは箔がつかんでしょ。特にこれからさらに遠い果ての国に宣教に行くコニージョ君は」


「はあ」


 司祭方も微笑んでうなずいていた。もし叙階の話があるなら、やはり大司教様がおられるリスボンでという方が自然なのに、なぜわざわざこんな遠くへ来てから、しかもいきなりなのか。私はまだ、状況が呑みこめずにいた。

 大司教座を出てから広場を歩きながら、私はアクアヴィーヴァ師とルッジェーリ師、そしてパシオ師の三人の司祭にあえてイタリア語で早速疑問をぶつけた。だが、三人とも事情を知らないようだった。


「まあ、大司教様も思いつきで言われたのではないみたいだし、ここは素直にみ摂理に従うべきだね」


「実際の叙階は七カ月あとくらいになるから、その間にしっかりと霊的な準備をするといい」


 六ヶ月で出航と聞いていたのにと私が思っていると、すぐにその私の疑問を察してか、アクアヴィーヴァ師が笑みを浮かべた。


「半年後というのはぴったし半年じゃなくて、だいたい半年くらい後ということだよ。あなたがたの叙階が終わったら、すぐに出航するかもしれない」


 それだけを言うと、司祭方は総督府の方にあいさつに行くというので、私とマテオの二人の神学生は修道院へ帰ることになった。

 大聖堂に隣接するような形でもう一つ別の修道院があり、その聖堂もかなりの規模になりそうだが、まだ本当に足場の取れない建築中だ。そちらは、フランチェスコ会の修道院だということだった。今のゴアにはフランチェスコ会のほかに、ドミニコ会、アウグスティヌス会も修道院を設置しているということだった。



                  2


 こうしてゴアにおいて、叙階に向けての私の霊的準備が始まった。

 我とマテオは最初に入った修道院よりも少し森の中を歩いたところにあるサンパウロ学院コレジオで暮らし、勉学を続けることになった。そこには八百人以上の聖職者や神学生が生活していた。

 大部分がポルトガル人で、イタリア人やスパーニャ((スペイン))人も少しいた。

 頑丈な石造りのアーチ門を入ると、広大な敷地に多くのエウローパ((ヨーロッパ)風の建築物が群れをなして建てられている。それらすべてが学院コレジオの建物で、イエズス会のゴアにおける布教本部もこの中にある。

 さらにそこにはイエズス会の創始者メンブロ((メンバー))の一人であるフランシスコ・ザビエル師の遺体が安置されている。遺体は漆喰の棺に納められていて中を見ることはできなかったが、我われはその学院コレジオに移ったその日に棺の前で祈りを捧げた。

 アクアヴィーヴァ師は同じ学院コレジオで教壇に立っていた。

 学院コレジオの聖堂での祈りと黙想、勉学の日々が続いた。なんとこの町には、不自由しないくらいの書籍も十分にそろっていた。

 そこで勉学を進めるうち、私の助祭への叙階を決めたのは大司教様ではあるが、やはり何か見えない手に引っ張られている気がしてならなかった。

 私の霊的準備を指導してくれる方の一人に、ヌーノ・ロドリゲス師という司祭がいた。ヴァリニャーノ師とは旧知の仲ということで私も親近感を覚え、師も私に非常に親切にしてくれた。ある日、聖堂でそのロドリゲス師は、立ったまま私に言った。


「霊的準備とは、あなた自身を主に捧げ、あなた自身を主に明け渡すことです。そしてキリストとの出会い、キリストとの交わりを、さらに育んでいかねばなりません。日本の方々が、あなたを待っていますよ。待っているのはあなたの言葉ではなく、彼らがキリストと出会うその瞬間を待っているわけで、あなたはその手助けに行くのです」


 私がうなずいて聞いていると、師は豊かな笑みを漏らし、椅子に座った。


「かつてナジアンズの聖グレゴリオは、次のように言っていますね。『他人を浄めるにはまずは自分自身が浄くなければならないし、人に教えるためには自分がその教えをしっかりと身につけていなければならない。他人を照らすためにはまず自分が光となり、他人を『天主デウス』に近づけるためには自分が『天主デウス』に近づき、他人を聖なるものとするためには、自分自身が聖霊聖体化していないといけない』とね」


 たしかにその言葉は、私の記憶にもあった。


「まずは、あなたの霊性を高めることです。そうなると自ずから導く力も高まります。あなたが浄きものになって、導く力が増し来ることを『天主デウス』は待ち焦がれております。己を無にして、主のみ声に耳を傾けましょう」


 そのひと言ひと言が心に刻まれたが、最後の部分、主のみ声に耳を傾けるということだけが今一つつかめずにいた。

 『聖書』を読んで、そこに書かれたキリストのみ言葉を心に刻み込めということなのか、祈りの中で主のみ声を聞きとれということなのか…しかし、私ごときにそう啓示などが下るはずもない。そうなると『天主ディオ』はひたすら沈黙を守られるのである。



                  3


 私の毎日はほとんど学院コレジオの中で過ぎていった。

 マテオとアクアヴィーヴァ師、パシオ師はそもそもの目的がこのゴアの地とその周辺の海岸沿いの地域での福音宣教であったため、時々は同じ学院コレジオ内にあるイエズス会の宣教本部や、あるいは総督府まで出向いて布教会議などにも出席している。

 だから、ずっと学院コレジオの中にいる私を気遣ってか、ある日マテオは私を外に連れ出してくれた。別に勉学や祈りの合間に学院コレジオの外に出ることは自由なのだが一人ではなかなかそのような気が起こらなかったので、結果として私は学院コレジオに引きこもっているような生活になっていた。


 ゴアに来てから最初に行った大聖堂のあたりを歩きながら、どこまでも青い空を私は仰いだ。その青い空に大聖堂の二基の白亜の塔はよく映えていた。いくら教会が多く建てられているとはいえ、さすがにローマやリスボンのように一つの教会を出て道路一本挟んで別の教会というわけにはいかない。なにしろそれぞれの教会の敷地が広いから、その敷地内を歩くだけでもかなりの距離になるのである。

 マテオはこの町の中央部どころか、何度も城壁の外に行っているという。


「私には未知の世界だけれど、城壁の外って…?」


 歩きながら、思い切って尋ねてみた私に、マテオは笑顔を見せた。


「そう。未知の世界って君は言ったけれど、確かに、君が思っている以上に城壁の外は別世界だよ」


 私はその別世界に何度も行っているマテオがうらやましくもあった。


「城壁の中はまるでリスボンだけど、城壁を一歩出たらもうそこはリスボンではない。海岸は大部分がポルトガル領になっているとはいえ、そこに暮らしているのはまぎれもなくビヤープルに都を置くこの国の民だ」


「ビヤープルという都があるのか」


「ポルトガル語ではビジャープル」


 私は漠然と、この国はインディア、ポルトガル語ではインジャという国だとしか認識していなかったのだ。


「それで、そこでの福音宣教は?」


 マテオの顔が少し曇った。


「難しい。なにしろこの壁一枚隔てて、そこは異教徒のイズラムの世界なんだ。本来このインディアに根付いていたインドゥイズモ((ヒンズー))の教えも、今はほとんどイズラムと化している」


 我われローマで生まれ育ったものはそこには疎いが、スパーニャ((スペイン))ポルトガーロ((ポルトガル))の人びとにとっては、これまでも、そして今でもイズラムとの戦いに明け暮れた歴史といっていい。その相克が、このはるか天涯のこの地にまで持ちこされているようだ。


 また、そのようなことを抜きにしても、城壁の外は建物の建築様式から住んでいる人の人種、言葉、風俗習慣も全く違う異国が広がっているらしい。

 だが、実感がない。

 なにしろ、私はこの目ではまだそれを見ていない。もうまるでリスボンにいるのと変わらないこの城壁の中にいて、壁の外はどうなのかということについて話には聞き頭でも理解はしていたが、どうしても実感というのを持てずにいた。


「でも、いずれ主の栄光はこのインディア全体に及ぶだろうね。僕らがいる学院コレジオも、かつてはインドゥイズモの寺院があった場所だっていうからね」


 その時は、どういういきさつでインドゥイズモの寺院がなくなって自分たちの学院コレジオが建ったのか、そういった深いところまでは私は考えていなかった。

 そんな話をしながら大聖堂とは広場を挟んで隣接するフランチェスコ会の修道会と建築中の聖堂の近くまで来た時、その聖堂のすぐ近くにポルトガル風の大きな建物があるのを私は見た。それは教会の建物の一部でもあるようで、総督府のような政治的な雰囲気もする建物だった。

 正面には大きな扉が三つあった。


「あれは?」


 と、私はマテオに訪ねた。


「ああ、あれね。あれは聖なる家(サン・カーサ)と呼ばれている」


 家というにはかなり大きな建物だ。


「ま、実はあれが異端審問所インクイジチオーネだよ」


 さらりと、マテオは言った。

 あれがそうかと、私はその建物を仰ぎ見た。総督府と並び、このゴアにおけるポルトガルの権威となっている機関だ。たしかにその建物は、町全体に無言の威圧を与えているかのようにも見えた。

 異端審問所といえばローマにもあるが、それは教皇様直属の部署で、我われ一神学生がその内情を知るすべもなかった。ただ、実際に行われたという具体的な話は聞いたことはないが、その異端審問所の断罪によって街頭で公開の火あぶりの刑も行われたことも昔はあったという。

 我われはその異端審問所の建物に近づいた。もちろん中へは入れない。そこでその周りを一周すると、建物から聖ラザロ広場(カンポ・サン・ラザロ)に面したところに、円形状の特別な広場があるのが気になった。


「もしかして?」


 と、マテオに聞いてみると、


「そうだよ。ここが火刑場だ」


 やはりそういうことだった。

 私は無言で、その火刑場の前にたたずんだ。そう頻繁に火刑が行われているわけではないようだが、それでも確実にかつては使われていた。いや、今後も使われる可能性はないわけではないらしい。

 ここで、我われと同じ「人間」が火あぶりになり、その命を落としたのだ。


「ここの異端審問所はローマやスパーニャのものよりもずっと拷問は残酷で、火刑もしょっちゅうだって話だよ。でも、火刑が公開だってことのほかはすべて秘密裏にことは行われるみたいで、だから僕も詳しいことは聞かされていないんだ」


 私は万年夏の炎天下なのにうすら寒さを覚えた。

 だが、私が思い浮かべたのは、まだイエズス会ができるずっと前に行われていたと話には聞いたが、当然実際には見たこともないはずの昔の魔女狩りの火刑の場面だった。

 が、あえてその場はそのままにして学院コレジオに帰ることにした。


 学院コレジオで私は早速、司祭と話がしたいと思っていると、最初に出会ったのがパチェコ師だった。


パチェコ神父様(パードレ・パチェコ)、よろしいでしょうか」


 年はほとんど私と変わらないが、あくまで相手は司祭なので、神学生である私はへりくだって丁寧な口調で言った。


「なんでしょう?」


 私はパチェコ師と学院コレジオの教場の机を挟んで座った。


「こちらにも異端審問所があるようですけれど、やはり異端はこの地でもいるのですか」


 質問の内容が分かったようで、パチェコ師は笑みを崩さなかった。


「これだけの数の商人や軍人がポルトガル本国から来てここに住んでいますからね。中にはいろいろな人が混ざっていますよ。しかもこの町のポルトガル人たちは、どうも風紀が乱れています。それはあなたもご覧になって、感じませんでしたか?」


 そう言われても私はこれまでほとんど学院コレジオを出たこともなかったからはっきりとは答えられなかった。ただ、日々のミサはともかくとして、日曜日の主日のミサでもこの学院コレジオの聖堂でミサにあずかる人びとは聖職者のみであった。それは学院コレジオの中にある聖堂だから仕方がないと私は思っていたが、この時パチェコ師から聞いた話だと、街中の教会ですら日曜のミサに参列しているのは聖職者ばかりなのだという。


「ポルトガルの商人を装って、多くの新教やユダヤ主義者であるマラーノも入りこんでいます。それと、城壁の外には多くの異教徒がいる。だから、常に聖なる家(サンタ・カーサ)が目を光らせておかないとね。今は総督府よりも、人びとは聖なる家を恐れています。もっともここでは教皇庁に属するローマの審問所と違って、総督府の建物といってもいいでしょうね。もちろん審問員は聖職者で、修道会に属さない教区司祭とドミニコ会から出ることになっていますけれど。それに、ここの審問所の権威はこの町にとどまらずに、その範囲はモサンビーキからマラッカ、マカオにまで及んでるんですよ。このあたりの地域で審問所があるのはここだけですから、その地域での案件はすべてここに来ますからね」


「異教徒も取り調べるのですか? きりがないでしょう」


 パチェコ師は、これには声をあげて笑った。


「異教徒は審問所の対象外ですよ。でもね、一度受洗して信徒になったにも関わらす棄教して自分の元の教えに戻ったものや、我われの福音宣教を故意に妨害したり、信徒の足を引っ張ってつまずかせようとした者などは、異教徒でも容赦はしないということです」


「容赦しない…とは…、それは、火刑ということですか?」


 それに対する答までには、少し間が空いた。師の顔から少し笑みが消えていた。


「まあ、そうなるでしょうかな。ただ、私がここに来てからはまだ一度も行われてはいないようですけれど」


「あの、もう一つ質問してもよろしいですか?」


 私は身を乗り出した。


「今、『まだ』とおっしゃいましたけれど、これから行われる可能性はあるのでしょうか」


「なんとも言えませんが、状況によっては。……でも、なぜそのようなことを?」


「あのう、火刑といえば人の命を奪うことですよね。十戒には『殺すなかれ』とありますけれど…」


 一瞬だけパチェコ師の顔が曇った。しかしすぐに笑顔を取り戻してパチェコ師は言った。


「十戒とは『天主デウス』が誰のためにモーセに授けたものですか?」


「まずはイスラエルの民…ですね?」


「そう、『天主デウス』の民、イスラエルの人びとに対しての十戒です。そして、今やイスラエルの民というのはユダヤ教徒を指すのではなく、主キリストの教会に集う我われのことです。ですから、異教徒や棄教者には適応されないのですよ。事実、『天主デウス』に逆らうもの、悪魔を崇拝する者たちは永遠にこの地上から滅ぼしてしまおうというのが『天主デウス』のみ意で、そのための道具として『天主デウス』は我われをお使いになることもある。実際、『旧約聖書アンティゴ・テスタメント』を見れば『天主デウス』が万軍を率いて異教徒を滅ぼしている様子など、たくさんあるではありませんか」


「はあ」


 私は言葉が出なかった。


「それでも悔い改めずに悪魔崇拝をするなら、それは悪魔です。人間じゃあない。だから、そういった人たちを火刑にしても、人を殺したことにはならない。その人が悔い改めてキリストを受け入れ、『天主デウス』と和解すればよし。そうでなければ、聖なる火に焼かれる永遠の滅びがあるのみです。それが悪魔に陥った魂を救うことにもなるのです。我われはそういった悪魔崇拝の、すべてのキリストに反する神殿も寺院も破壊しなければならない。事実、この場所にあったインディズモの神殿もことごとく破壊し、その上にできたのがこの学院コレジオです」


 マテオが言っていた、この場所がかつてはインドゥイズモの寺院があった場所だということも、そういうことだったのかと話がつながった。そうなるとまた、背中にうすら寒いものが走った。


「それから、言っておきます」


 パチェコ師は急に厳しい表情になって言った。私は全身を凍らせた。


「あなたは神学生としていろいろと疑問が出るのも当然だし、そうなったらこれも当然のこととしてどんどん質問をぶつけてくるべきです。ただし、この手の質問は少し控えた方がいいですね。あなたもイエズス会という一つの組織、ひいては主キリストの教会という共同体の一員なのですから。組織のすることへの疑問はまずは控えて、絶対的従順が大切ですよ。死人のごとき従順、そう教わってきましたよね? ローマでも」


「はい」


 私の返事は小声だった。たしかに正論で何も言い返せない。まあ、組織に入るとはそのようなものなのかと、その時の私はなんとか自分を納得させた。パチェコ師の言葉は、まだ続いた。


「神学生の方はどうしてもまだまだテスト((テキスト))の読みが浅い。書かれていることは限られていますから、そこでどう恩寵を戴いて、『天主デウス』のみ意はどこにあるのかを読み取る、そういった霊性を磨いて、己を高めなければなりません。そのためには自らがキリストと一体となる。キリストのみが『天主デウス』の直接の祭司であって、我われ聖職者はそれに奉仕するものにすぎないのです。キリストと一致し、教皇様と一致し、全教会と一致し、己の長上に一致して、決してそこから離れてはならない。そこから離れて独り歩きをしたら、それは傲慢に他なりません」


 パチェコ師の顔は元の柔和な顔つきに戻っていたし、口調も穏やかになっていた。そして、その話の内容も一応は納得できる話ばかりだった。しかし、同時に私はどうしても腹に落ちない何かがあるのを感じていた。それが何であるのかは、いくら頭で考えても答えは出そうもなかった。


 夜、自室に戻ってから、私は『福音書』をひもといた。

 それはローマから持ってきたもので、もう手垢でほとんどぼろぼろになっているものだ。


「あなたは人を裁くな。裁かれないためだ。人を裁けばそれと同じように自分も裁かれる」


 そんな主キリストの「山上の垂訓」の一節が目にとまった。異端審問は「裁き」ではないのだろうか? いかに『天主デウス』の御名によっての正義の審問でも、やはり裁きではないのだろうか。そして裁けば裁かれる……。

 私は祈った。答えを知りたかった。だがこの時もキリストは、ただ沈黙しておられるだけだった。



                  4


 そのまま季節は秋へと移り変わっていく…はずだった。しかし、ここゴアではいつまでたっても夏だった。

 11月になり、12月の待降節アッヴェントになっても夏のままだった。

 そして故国を離れてから初めてのナターレ((クリスマス))だが、なんと夏の日差しがさんさんと降り注ぐ中でのナターレ((クリスマス))というどう考えても奇妙な、どうしても実感がわかない状況が生まれてはじめて私を襲おうとしていた。

 ただ、行事だけは前夜ミサから始まって夜半ミサ、早朝ミサ、日中ミサと故国と全く同じで、しかも普段の主日のミサが聖職者ばかりであるのに対し、ナターレ((クリスマス))ともなるとさすがにゴア中のポルトガル人住民が参列したのでそこそこに聖堂も満員になった。そして町はナターレ特有の市場も出てお祭り騒ぎも始まって、少しはナターレらしくなってはきた。それでもやはり、それが真夏の炎天下の中というのがどうにも違和感だった。


 そうこうして夏の真っ盛りなのに年が変わり、1579年となった。やはりまだ夏が続いているだけに、年が変わったという実感もあまりわかなかった。だが実際には確実に時間は流れており、そうこうしているうちにあっという間に四月となった。

 その十二日の日曜日、復活祭パスクアのミサの中で私とマテオの助祭への叙階式が行われることになっている。

 当日はいい天気だった。ミサは復活祭のミサだけにナターレ((クリスマス))同様に聖職者のみならずゴア中のポルトガル人の商人などの住民が一堂に会したという感じで、喜びの中で行われた。

 主の復活は、喜びと光である…それを祈念するのが復活祭のミサといえる。その喜びと勝利の栄光の中で助祭にと叙階される、その思いがけない天の賜物たまものと恵みに、私は生まれて以来これ以上はない至福のひと時を感じていた。

 司教座大聖堂カテドラーレにてエンリケ大司教のもと約十五人の司祭による共同司式は、まさに荘厳以外の何ものでもなかった。

 式は金箔の壁の主祭壇で行われた。何本もの巨大な白亜の丸い柱に支えられた高い天井の下の空間だ。復活祭だけあって、この巨大な空間も、座席は今日はほぼ満席になっていた。

 死に打ち勝った主キリストの復活を記念する感謝の典礼の喜びと光の中で、やがて私の叙階式の時間となった。

 大司教の説教に続き私が誓願の言葉を述べ、大司教の按手を受け、そして最後に大司教より特別の福音書を賜った。この福音書を賜るとうことは、これからこのよき知らせを多くの人びとに述べ伝えるという使命が与えられたことを意味し、その重責が肩にのしかかるようだった。

 特別な福音書といっても、内容そのものは私が持っているものと変わるわけではない。だが、ラテン語で記されたこの福音書を、これから私は日本という未知の国で述べ伝えていかなければならないのだ。


「あなたは、これから日本へと福音宣教のために派遣されるのでしょう」


 福音書を渡されながら聞いた大司教の言葉だ。


「ですから、本当ならば日本語で書かれた福音書をあなたに授けたい。しかし残念ながら、まだそのようなものは存在しておりません。それは今後あなたと、あなたよりも先に派遣され、またこれからあなたに続いて日本に派遣される多くの宣教師によって完成させなければならない」


 それは単に一書物の翻訳事業などというものではなく、もっと奥深い意味合いを込めた霊的使命であることも私は十分理解していた。私に福音宣教の使徒としての使命が加わった一瞬だった。

 

 この叙階からさらに二ヶ月後の6月、ようやくマカオまでの船が出航することになった。

 これまでローマの修練院ノビツィアード以来ずっと苦楽を共にしてきたマテオはもともとこのゴアでの宣教を志願して旅立ったのであるから、ここでお別れだ。

 またリスボンを出てからずっと一緒だったアクアヴィーヴァ師やパシオ師とも、同じくここで別れることになる。

 私はマカオまで行くルッジェーリ師とともに、さらにこの地から加わった新しいメンブロ((メンバー))でゴアをあとにすることになった。

 出港に先立って、我われは再度ザビエル師の棺の前でこうべを垂れて、偉大な先輩の御加護を願った。我われはその師の後に続く形となるのだ。


 マテオとは手を握り合って、そして泣いた。

 そのマテオからも、それから私の指導をしてくれたヌーノ・ロドリゲス師からも、くれぐれもヴァリニャーノ師によろしく伝えてほしい旨を繰り返し告げられた。

 さらには私に大きな木箱を託した。中はロドリゲス師からヴァリニャーノ師に宛てた書簡をはじめ、ゴアの状況を知らせるための報告書などの書類だという。それを間違いなくヴァリニャーノ師に渡してほしいとのことだった。

 そして6月24日、私の霊名でもある洗者ヨハネの祝日に船は帆を張って、八か月以上を過ごしたこのゴアの町に別れを告げて海原へと滑りだした。

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