Episodio 8 Processione del Corpus Domini(聖体祭の行進)
1
織田殿の許しも出たので、早速我われも旅支度を始めた。
織田殿と会ったのが月曜日で、その週の木曜日が聖体の祭日だ。だから、途中に都で一泊することも考えて、翌火曜日には出発しないと高槻での聖体の祝日に間に合わない。
なんとかばたばたと支度をして、ヴァリニャーノ師とメシア師、トスカネロ兄、そして私、さらにはヴァリニャーノ師の指名でロレンソ兄とその介護の同宿の若者の総勢六人で5月22日の早朝七時に、都に向かって馬で出発した。
ちょうどいい船便がなかったが、早朝に出れば夕方までには都に着くというので馬で行くことになった。しかも、最近はすっかり日も長くなっている。けっこう遅くまで明るいので、暗くなるまでには着けそうだ。
さらには織田殿が、安土から都への街道を整備してあるので、ぜひそれを我われに見てほしい旨のことも先日の会見の時に言っていたから、その意味もあって陸路にした。
ヴァリニャーノ師の腰を気遣ってヴァリニャーノ師だけ輿にしようという話も出たが、ヴァリニャーノ師が輿だと外の景色がよく見えないと言いだし、さらには担ぎ手にかなりの人数が必要になるので馬を希望した。もう馬に乗れるくらいには腰も回復していると本人も言っていた。
「腰が痛くても輿に乗らない。さすがです」
出発前に見送りに出たオルガンティーノ師が、しきりにそう言っていた。
「なぜです?」
ヴァリニャーノ師が聞くと、オルガンティーノ師はしたり顔だった。
「日本語では腰も輿もどっちも“コシ”ですからねえ。コシが痛くてもコシには乗りません」
そんなふうに持ち前のスケルツォを飛ばしてオルガンティーノ師は大笑いをし、皆もそれで盛り上がってなごやかな出発となった。
ロレンソ兄に関しては馬への乗り降りの時は介護の同宿が手を貸し、そのまま同宿が馬子を務めていた。
織田殿から聞いていた街道は確かに幅も広く、きれいに整備された道だった。ほぼ真っすぐで、どんな山道に入っても山自体がこの街道のために切り崩されていて坂になることはなく、どこまで行っても平らな道だった。
驚いたことに、道の両側には延々と一定間隔で柳や松の木が街路樹として植えられている。そしてそのどの木にも、掃除のための箒がつるされている。
道が汚れていたら、気がついたものがさっと掃除ができるようにということだそうだ。だから、塵一つ落ちていない清潔な街道だった。
その街路樹の下は小石が敷き詰められ、さながら貴人の屋敷の庭が街道に沿って延々と続いているようでもあった。
ただ、街道自体はローマの街道のような石畳による舗装はされていなかった。
そもそもローマの街道の石畳の道は馬車の通行のためだが、そういえば日本に来てから一度も馬車を見かけたことはなかった。今こうして馬には乗っているが、日本人にとってはその馬に車を引かせるという発想はないようだ。
我われは快適にその巨大な湖沿いに南下する街道を進み、所々での湖畔の景色などを楽しんだ。さらに街道には一定の間隔で休憩所となっている建物があり、食事や茶などを給してくれた。もちろん無料ではないが、きわめて安価であった。
街道はどこまでも清潔かつ安全であり、この街道沿いならたとえ夜になってもどこで野宿しても身に危険が及ぶことはないと、休憩所の老婆が笑いながら言っていた。
かつてはこういった街道には所々に関所があって高い通行税を徴収されたそうだが、それも織田殿によって今はすでに廃止されている。
そして、午後の三時頃には琵琶湖から流れ出る流れの速い結構大きな川にかかる大きく立派な瀬田の橋を渡った。
橋はまたすべて木材で造られていたが、真新しい感じで赤い欄干が美しかった。
川の中に小さな島があって、幅も広くかなり長い大橋はまずその島で終わり、さらにその島から向こう岸まではもう一つの小橋がかかっていた。
この橋自体は遥か太古からある橋らしいが、今我われが渡っている橋は織田殿がかけ直させたものであるという。
そんなことを、ロレンソ兄が馬上から説明してくれた。島にはやはり休憩所があるが、その島ではこの橋をかけた織田殿に敬意を表し、すべての通行人は乗り物から降りなければならないということで、我われも馬から降りた。
ここは交通の要所であるだけに、戦争のたびにこの橋は焼かれ落ちていたのだそうだ。橋の上から見る湖がまた絶景だった。こんな素晴らしい景色を見ることのできないロレンソ兄は気の毒だなどと思うのは、健常者の思い上がりだろうか。
兄は目が見えないまでも全身で気を感じ、景色を満喫しているに違いない。
橋を渡って今度は湖を右に見て北上すると、間もなく大津に着く。安土へ来た時に、船に乗った場所だ。
さすがにこの先は逢坂山を越えるので、道は平らというわけにはいかない。峠道を越え、それが下りになるといよいよ都だ。
だが、それでも昔に比べたらほとんど平らに近いような坂道になっているのだという。
これもロレンソ兄の話だが、かつてはこの山道はとても険しくて、馬で越えるのはかなりの困難があったのだという。それを信長殿が大工事を行って山を削り、峠道ではあるがなるべく平らになるようにしてくれたのだということだ。
都を出て初めてここを通った時はそのようなことは知らないから、初めから自然とこういった道なのだとばかり思っていた。ただ、道の両脇が人工的に切り取った崖であることは気になってはいたが、そのわけが今になってやっとわかった。
そして、こんなところにも織田殿の力と、そして民衆への思いやりがあふれているのを感じた。
「両脇に崖があるでしょう」
ロレンソ兄に言われて我われが見上げると、道の右も左もかなりの高さのところに崖の頂上があった。ここは、本来ならばあれくらいの高さのある山なのだ。
「その崖の上に、旧道があるはずです。昔の人はあの上を通っていたのですね」
ロレンソ兄も、見えない目で見上げていた。確かにこの崖の上と同じ高さの山を越える道は相当険しかったはずだ。馬に乗ったままというのは無理だっただろう。かつてはそうして苦労して越えたこの逢坂山を、今は信長殿のおかげで峠道ではあるけれども比較的楽に越えられるようになっている。
それにしても、これだけ高い山を切り開いて平らな道を作るなど、ちょっとやそっとの土木工事ではない。かなりの日数と労力が必要なはずだ。
だが、考えてみれば信長殿は今でこそ天下人――すなわち為政者ではあるが、本来は軍勢を動かす総大将だったのだ。戦争ともなると数万の軍勢をその指揮下で動かせる。
だからそれと同じくらいの数の人員を動員するなど容易なことで、人海戦術で行けばこのような土木工事はあっという間だったのかもしれない。それは、織田殿があの自然の山全体を石垣で固め、その上に巨大な天主閣が天に届けとばかりそびえる安土城を造り上げた人であることを考えたら十分に納得のいくことだった。
その峠道の下り坂を下って少し開けた盆地を通過し、再び山に分け入って小さな峠道を登ってまた下っていくと、いよいよ都へと東から入ることになる。下り坂が緩やかなクルバとなって左へ折れると左右の山が切れ、坂の上から見る視界一面に都の風景が展開された。西の山までよく見える状態だ。
やはり都は大きい。一つ一つは細かい木造の建造物が、それでもこんなに密集して縦と横の道の間に並んでいる。その姿が向こうの山の麓まで、盆地全体を覆い尽くしている。
日本で私が見た一番大きな町いや都会が都だろう。
その巨大な町に、優雅で気品ある町全体の雰囲気が漂っている。安土城のような巨大な建造物はないが、安土とてその城下の町に関しては、さらには豊後の府内とてこんなに大きくはなかった。
しかし織田殿はこの都ではなく、巨大な天主閣を持つ安土の地を本拠地としている。
本来は皇帝の大臣だったのだから、信長殿は常に都にいないといけなかったはずだ。だがすでに大臣を辞している信長殿は都にいなくてもいいことになり、都から程よい距離の安土にあんな巨大な城を建てて住んでいる。このことが日本の皇帝と大臣だった信長殿との微妙な関係が見て取れよう。
天下人として権力は当然、織田殿の掌中にあるのは疑いない。だから織田殿の大臣という地位も、帝の宮廷の中では特殊なものであるようだ。
つまり、織田殿は宮廷組織の中に入り込んでいなかったことになる。むしろ家の格式は織田殿より上とかいっていたあの柳原という大納言の方こそ、正式な宮廷の中の組織員であるらしい。
織田殿はいまや大臣も辞しているのだから、より自由に自分の権力を行使できるようになっている。それで、あれだけ巨大な城を作った人なのに、都では本能寺という寺の境内の一角に小ぢんまりとした屋敷しか建てていないのだ。
これでなんとなく、この国の権力者の実像のほんの一部だけ見えたような気がした。
ゆるやかな坂を下っていくとそこはもう平らな土地で、やがて大きな川を越えると、ようやくわれわれは再び都に足を踏み入れた。
ひと月ぶりに都の教会にたどり着いた時は、さすがに少し暗くなり始めていた。
とりあえずはしばらく休ませてもらってから、この教会にいたセスペデス師が我われの帰りを歓迎する食事をふるまってくれた。特にロレンソ兄はかつてはここに住んでいたというが、かなり久しぶりなのでセスペデス師も再会を大変喜んでいた様子だった。
だが、一晩寝ただけで、明日は高槻に向かって我われはすぐに出発する。
その夕食の席上でヴァリニャーノ師は、さらに今後の予定について我われに心の内を語った。
まずはセスペデス師と都の教会にいた日本人の天草パウロ説教士に、美濃の岐阜に行ってもらいたい旨を告げた。セスペデス師は快諾で、パウロ兄も異存があるはずはなかった。
そして私が気になっていた播磨だ。
「まずは高槻で聖体の祭日を終えた後に、ロレンソ兄に播磨に行ってもらいたいと思っていました。しかし何分お一人では、同宿の介添えをつけたとしても厳しいと思いますから」
そういうことだった。そして、ヴァリニャーノ師は私を見た。
「あなたもともに行ってください」
もちろん断る理由などない。
「播磨には今、織田殿の家来の中でも有力な羽柴筑前殿という殿がいます。まずはその殿と顔をつないでおくことが大事だと思います。そして室という港、その意味で室津といいますが、そこにはたくさんの信徒がいます。また、あの都のジョアキムの次男がその室の港を管理しているはずです。ただ、彼はまだ信徒ではなく、司祭も修道士も室津にはいません。多くの信徒が許しの秘跡と聖体拝領を望んでいるでしょう。また、すでに公教要理も学び終えて、洗礼を待つだけの人びとも相当いるようです」
播磨行きの趣旨は分かった。だがそれよりも私にとってはこの国に来てはじめてヴァリニャーノ師から離れての単独行動になるし、見ず知らずの土地に初めてヴァリニャーノ師とともにではなく訪れるのである。
私の中に少なからぬ緊張が走っていた。
「遅くても7月には安土に戻ってきてください。安土で協議会がありますので」
あの有馬で予備会議をし、臼杵で第一回目の協議会が行われたが、あの協議会の二回目の会議ということになる。
2
翌朝の週日のミサを終えてから、高槻への出発前に私は教会の二階のベランダに出てみた。
都の南以外の三方を囲む山のうち、北東にぽつんと高くなっている山、それが安土で何かと話題に出ていた比叡山だ。
織田殿があの山にある寺と戦争をした時は、あの山の上から煙が上がっているのをフロイス師は目撃したと言っていた。
前にここにいた時にはそのようなことは知らなかったからただの高い山だなあくらいにしか思っていなかったが、今あらためて見るとなるほどあそこがそうなのかと思う。
しかし、こうしてみる限りやはり緑に覆われたただの山であった。そして私は目を西に移した。西山の向こう、ほぼ西の方角に播磨はあるという。はたしてどのような土地なのだろうと空想を巡らせてもみた。
そしてその後、再びセスペデス師に見送られて我われはすぐに都の教会を後にした。
前にこの道を逆方向に歩いた時は春爛漫で、桜の花が咲き初めていた頃だったのを思い出した。
すでに五月下旬の今はもう初夏といえる陽気で、下手をすれば汗ばむことすらあった。
もうここは織田殿が整備した街道ではないが、道は大きな川沿いを南下していた。左右に山並みが追って来るが、道自体は平らな田園の中を延びていた。
ところどころに農民の家や、作業のための小屋がある。水田はまだ苗が植えられていない状態で、一面に水を張った池のようになっていた。
そんな小さな作業小屋の前を我われが通過しようとしたときである。
目の前をひゅっと何か飛来物が横切った。小さなそれはすごい速さで近くの田んぼの水面に音をたてて落ちた。一瞬何ごとが起こったかわからなかったが、続けざまに何かが飛んでくる。
やがてすぐにそれは石だと分かった。我われは馬を止めた。近くの農家の作業小屋から、その石つぶては我われめがけて飛んできていた。
石を投げているのはそう大人数ではないらしく、なんとかよけ切れていた。しかし、そのうちの一つがメシア師の額に当たり、メシア師はわずかだが血を流し始めた。
「やめなさい! 危ないでしょう!」
私は小屋の方へ、日本語で大声で叫んだ。
「なぜこういうことをしますか!」
そして小屋の方へ向かって馬を進めると、石が飛んでくるのはやみ、その小屋から転げるように飛び出した中年の男女が、みすぼらしい身なりのまま田んぼの間の道をかけて逃げて行った。
私が馬で追うと時々振り返っては、そのへんの石を拾って私に投げて、
「出て行け。バテレンどもは、この国から出て行け!」
彼らは狂乱して泣き叫び、そしてまた逃げていく。
はっきりと我われを司祭と認めた上で、投石という行為に出ていたのであった。つまり、司祭として我われは狙われたのだ。
実際に彼らが投げていたのは石とはいえ当たってもちょっと痛いくらいで済むものではあったが、私の心に受けた傷は大きかった。
この国に来てはじめて、言葉だけではなくこのような攻撃という形での悪意に遭遇したのだ。
もちろん、山賊に襲われたことはあった。だがそれは金品目当てで、司祭としての我われへの憎悪からではなかった。
私は馬を彼らより先回りさせ、彼らの逃げ道をふさいだ。すでにヴァリニャーノ師たちも馬を進めてきており、彼ら男女は挟まれる形になった。
そこで二人はへなへなと土の上に座り込み、大声で泣きながらも、すごい形相で我われを睨んだ。
彼らを日本語で問い詰められるのは私だけだから、馬に乗ったまま私は彼らを見下ろす形で聞いた。
「わけを、聞かせてください」
彼らはしばらくうなり続けていただけで、そのまま我われを睨み続けていた。
そこで私は、馬から降りて、彼らの前にしゃがんだ。
ようやく、その妻の方が重い口を開けた。
「わてらの息子を、返せぇぇ! 父祖の代からの高山家家臣の地位を返せぇぇぇぇ!」
そうなると、今は農民の服装だが、かつては武士だったことになる。そして仕えていたのが高山家というのが、耳に止まった。高山家といえば、高槻の領主のジュストのことではないのか。
そこで私は少し笑みを見せて、ゆっくりと言った。
「私は日本語が分かります。事情をお話ししてはくださいませんか」
するとたぶん夫と思われる男が横眼で我われをキッと睨んで、その妻らしき女に言った。
「バテレンどもなんかと口きくな! 口が腐るで」
「いや、言うてやらんと、気が収まらんわ」
妻はそう言ってから、また私を睨んだ。
「あんたらは人さらいやな」
「はい?」
「ひとの息子を騙して安土に連れて行きよってからに」
「安土に?」
「あの、顔の長いウルガンとかいうバテレンよ」
オルガンティーノ師のことだ。息子を安土にということでふと思ったのが、神学校のことだった。
「息子さんは神学生なのですか?」
「知らんわい。殿様が勧めるから我われも洗礼を受けてキリシタンにはなったが、去年、バテレンのウルガンが安土から来て、若者を八人ほど集めたかと思うと、安土の祭りの見物に行こうと誘って連れて行ってそれっきりじゃ」
去年のこととなると、オルガンティーノ師が言っていた神学校の最初の八人の学生のうちの一人が、この目の前に座り込んでいる中年夫婦の息子ということになる。
今は数も増えているが、最初の八人は全員がオルガンティーノ師から紹介されたから、私は息子に会っているはずだ。
でも、全員の名前を覚えていないので、名前を聞いたところで誰だかわからないだろう。
「あなた方も、キリシタンなのですね?」
「ああ、前はな。もうきっぱり辞めてやったわい」
洗礼を受けたという事実は一生消えないので霊的には基本的に信徒を辞めるということはできないのだが、現実問題としては信徒としては潜在化し、やがては異教徒と変わりない生活に戻る実質上の棄教ということも実際には起こっている。特に、この国ではそれが多い。
「全部あんたらが来たせいや。あんたらが来て全部壊した。我らは今の殿様の父君の図書様が澤のお城にいてはった時からに仕えておったが、あんたらバテレンのせいで図書様も今の殿様もキリシタンになってしまい、我われ家臣団もキリシタンにと半ば強制やで」
「あなた方は強制されて、キリシタンになったのですか?」
「一応は自由な意思に任せるということやったけんど、殿様の言わはることには逆らえんやろが。あんたらさえ来なければ、図書様も殿様もキリシタンなどにはならず、わてらの家は殿様とは遠い親せきやしな、息子もずっと殿さまに仕えて立派な大将、行く行くは一国一城に主なったかもしれん。そのすべてをぶち壊したんが、あんたらバテレンや!」
私は目を伏せた。一度はキリストと出会い『天主』の道を歩んだ人がこの状況であることが、私にはとてつもなく悲しかった。だから涙を浮かべながらヴァリニャーノ師にことのあらましを告げた。
「息子さんとは、そのあと会いましたか?」
ヴァリニャーノ師は尋ねたので、私がそれを伝えた。
あの八人のうちの誰がそうであったとしても、皆神学校では第一期生として他の学生たちの模範になるくらい立派に学んでいる。
「ああ、安土まで会いに行ったさ。その前に騙して連れて行かれた子の親たちは殿様に集められて殿様から説明を受けたけれど、殿様はただただ喜んでいてはって話にならん。それで安土まで行ったら、我が息子が坊主にさせられて変わり果てた姿で、牢獄のようなところに押し込まれて暮らしておった。わしらは息子を説得して高槻まで連れ帰ったんじゃ。そうしたら殿様が怒って、先代からの家臣で殿とは縁戚でもある我われの身分を取り上げた上で追放された。こないなあほな話、どこにあるかいな」
私がヴァリニャーノ師を見ると、師は早口のイタリア語で言った。
「高槻に連れて行こう」
私は夫婦の方を見た。
「いっしょに高槻に行きましょう。殿様には私たちから話をしてあげます。そうすれば大丈夫です」
「無駄や! 殿様は我われに会うてもくれん」
そう夫の方が言った。
「しかし、うまくいけば」
そこでしばらく押し問答が続いたので、ヴァリニャーノ師は静かに首を横に振った。
「気の毒だが、我われは先を急ぎましょう」
そこで私は夫婦の頭上で十字を切った。
「父と子と聖霊の祝福があなた方の上にありますように、アーメン」
そうラテン語で唱えた。するとまた妻の方が目をむいた。
「今、呪いをかけたな! 我われが何もできないようにと呪いをかけたな!」
それはもうほとんど悪魔の形相だった。だからこれ以上かかわらない方がいいと我われは急いで馬に乗り、その場を後にした。
背後からはいつまでもすすり泣きの声が聞こえていた。
それからというもの、誰もが馬上で無口だった。後味の悪い、それでいて悲しい出来事だった。
しばらくしてから、ぽつんとロレンソ兄が言った。
「高槻の殿の父君の図書様、すなわちダリオ殿がキリシタンになったきっかけはバテレン様ではなく私だったのですがね」
だが、その言葉を詳しく聞きたいという気には、このときはなれなかった。それよりも、我われはこの日のうちにジュストと会うことになる。
「やはりジュストには、この件は言うべきでしょうね」
馬を進めながら私は、ヴァリニャーノ師に尋ねた。メシア師の手前、ポルトガル語だ。
「あくまで高山の家の問題でもあるから、あまりに首を突っ込みすぎると内政への干渉になる。それは私が戒めてきたところだけれどね、でも…」
ヴァリニャーノ師は言葉を濁した。なぜ濁したのか、私にもすぐ分かった。だが私よりも先に、メシア師が口をはさんだ。
「オルガンティーノ神父のことは、どうも腑に落ちませんな」
それは皆、同感だった。あの底抜けに陽気なオルガンティーノ師が、いくら神学校の学生を集めたかったからとはいえ、あのような騙し討ちみたいなことをするだろうか。
「やはり、ジュストにも聞いてみないわけにはいくまい」
ヴァリニャーノ師は言った。
3
そうこうするうち、昼下がりには高槻に到着できた。
今度は教会に近い北の門から城内へ入った。その門を入ったところで、ジュストはフルラネッティ師とともに我われを出迎えてくれていた。我われはそこで馬から降りた。
「いやあ、バテレン様方。お待ちしていました。約束を違えずにおいで頂いたこと、光栄です」
前にもまして、ジュストはにこにこと笑っている。
こちらも一応愛想で笑みを浮かべてはいたが、あのようなことがあったばかりだからヴァリニャーノ師も心底笑ってはいないように私には感じられた。
教会の前にはすでに聖体行列の準備ができていた。教会の外壁もさまざまな文様やキリストのお姿が描かれたアラッツォがかけられ、入り口前にはすでに四本の棒で支えられる天蓋が置かれていた。天蓋の布は金色を基調にさまざまな色の糸で織りなされ、刺繍が施された美しい錦の彩だった。
教会の前の道にもきらびやかなじゅうたんが長く敷かれていた。
我われはそのまま司祭館の方でもてなしの用意ができていて、ジュストも同席するとのことだった。
一度荷物を下ろし、ほんの少しくつろいでから、我われは食堂へと向かった。上席にヴァリニャーノ師とジュストが並んで座り、フルラネッティ師も同じ席にいた。まずは葡萄酒で乾杯だった。
最初は我われが安土で見聞きしたこと、安土城の異様に驚いたことや、織田殿との会見のことなので話は弾んでいた。
そしてその話も一段落した頃、ヴァリニャーノ師は遠慮がちに今日の出来事をポルトガル語でジュストに告げた。ジュストの顔色はみるみる変わった。そして一度立ち上がってヴァリニャーノ師の前に出て、ヴァリニャーノ師の方に向かって座り直したジュストは、床に頭をつけた。
「真に、真に申し訳ない。我が家中だったものがバテレン様方に対してとんだ御無礼を。どうか、どうかお許しください」
この城の城主でもあり、この地域の領主でもある殿が我われの前で平身低頭しているのだから、我われの方もかえって恐縮してしまった。
「まあ、頭を上げてください。どうぞ、元の席へ」
ヴァリニャーノ師に促されてかろうじてジュストはその通りにしたが、もうさっきの笑みは消えていた。
「私たちはそんな謝罪ではなく、少し話を聞きたいと思っているだけなのですよ」
ヴァリニャーノ師の方が、かえってわざと笑みを浮かべていた。
「オルガンティーノ神父が安土の祭り見物を口実に、若者たちを安土に連れて行ったというのは本当ですか?」
ジュストはしばらく無言のままうつむいていたが、やがて顔を上げた。
「申し訳ございません。実はその口実を考えたのは私でして、オルガンティーノ神父は安土に着いてから初めて、若者たちがそのように言われて安土に来たのだということを知ったのです。私はそのことでオルガンティーノ神父から後で少し咎められましたが、若者たちは全員そのまま神学校入学を快諾したので、まあ結果としてはいい結果になったと私のしたことは不問に付してくださいました」
「親御さんへの説得は」
「はい。私がしました。親たちの気持ちも分からないでもなかったのです。なぜなら私自身、将来の高山家を負って立つであろう若者たちが、異教徒の言い方で言えば出家したようなものですから、ほんの少し残念な気もしたというのが正直なところです。しかしすべて『天主様』のみ意のまにまに、ましてやこの高山家の家中から将来日本人のバテレンが出たりしたらこれはもう高山家の誉れ、高槻の誉れと、その喜びをそのまま親たちに伝え、親たちも分かってくれたはずだったのです。しかし、甘かったのですね。結果として例の連れ戻し事件が起こってしまいました」
「それであなたは、その親御さんを追放したのですね」
「はい」
その返事までには、少し間があいた。
「その親が憎くてとか怒りにまかせてとかいうことではありません。キリシタンの教えがまだまだ入ったばかりの我が国にとって、今はその土台の礎を築く時、お国のような民すべてがキリシタンであるという国と違って、これからキリシタンを根付かせようという日本では少しの妥協も禁物なのです。ここでその親を許し、ましてや子の連れ戻しを容認したとなってはそれが前例となってしまいます。前例はどうしても作りたくなかったのです」
そこまでヴァリニャーノ師は黙って聞いていた。やがてヴァリニャーノ師は、その顔に笑みを取り戻した。
「状況はよく分かりました。やはりいろいろと難しい問題があるのですね」
この席でのこの話は、ヴァリニャーノ師のそのひと言で一応終わった。いくら一城の城主でこの地の領主とはいえども、ジュストはやはりまだ若いというのが率直な感想だった。
だがそうはいっても、まだ私の心の中にはもやもやとしたものが残っていた。あの我われを襲った夫婦の敵愾心に燃えた目は忘れられない。
この国に来て臼杵の殿のドン・フランシスコの元妻のジェザベル、田原シモンの実の父の柳原大納言に続き、私に憎悪に満ちた苦情を訴えてきた人はこれで三人目だ。その一人ひとりの言葉は、今でも私の脳裏に焼き付いている。
親子の情、家族の情というのは、どこの国に行っても変わらない。その情でキリスト教団に敵愾心を燃やすからといって、それをすべて悪魔の仕業だで片付けてしまうのも乱暴なような気がする。
やはり、まだまだ異教徒の国であるこの日本にキリストの教えを根付かせるのほど遠いと感じた。
翌日の木曜日が、聖体の祭日だ。早速この城内の教会でそのためのミサが執り行われ、この日ももう入りきれないほどの人びとが教会を訪れた。
まずは朝のミサが執り行われ、そのミサの中の説教で司式のヴァリニャーノ師からキリストの御血と御体である御聖体についての話があった。
「イエズス様がミサのたびに行われている御聖体を制定されたのは、十字架にかかる前の晩の最後の晩餐の時です。実はその時の言葉はミサのたびに再現されるのですが、ミサ自体はすべてラテン語ですし、このただのパンとぶどう酒がイエズス様の御体と御血に変わる儀式は声を出さずに頭の中で唱えますので、背後の皆さんから見ればただ黙っているうち突然白いパンを高く掲げているように見えるでしょう。今日は特別に、その時どういうふうに頭の中で唱えているのか教えましょう」
その話を、いつものフロイス師に代わって私がそれを会衆には日本語に通訳して伝えた。話はまだ続く。
「イエズス様は敵に渡される前の晩の食卓でパンをとり、弟子に与えて仰せになりました。『みんな、これをとって食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である』と。そして次にぶどう酒の入った杯を掲げて『みんな、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯。あなた方と多くの人のために流されて罪の許しとなる新しい永遠の契約の血である』と。そしてその後にこう言われたと、福音書にも書いてあります。『これを私の記念として行いなさい』。そのみ言葉の通り、我われはミサの中でその食卓を再現します。ここでいう『記念』とは単に昔起こった出来事を思い出すためということではなく、それは今この現在も行われている、そして未来永劫に行われるということを実感し、認識することに他なりません。そして一年に一度、それを再確認する祭日が今日の聖体の祭日です。そしていのちのパンと救いの杯を受け、イエズス様の死を告げ知らせ、復活を讃えます。イエズス様が五つのパンと二匹の魚で五千人の人を満足させたように、多くの人の救いの糧となります。それは、イエズス様が再び来られるまで続きます。御聖体は一致の秘跡です。今日ここで御聖体を戴くことによって、我われは皆一人ひとりがイエズス様とひとつにつながり、キリストから『天主』のいのちを受けるのです。それによって我われはキリスト者として生きることができます。そして一致するのです。我われは一致しなければなりません。分化対立ではなく、一致するのです。それをこの聖体の祭日にあらためて考えましょう」
それを通訳しながら私が困ったのは、「パン」というポルトガル語だった。日本にはパンはない。だが、通訳は考えている暇はない。仕方なくそのまま「パン」で通した。
引き続き、本来なら復活祭で行われるのが常だが、この年はこの日まで引き延ばされていた入門・改宗式が行われ、この日洗礼を受けた人の数は幼児洗礼を含めて千五百人に達した。
洗礼式だけで相当な時間を費やし、いよいよ昼近くになってから聖体行列が始まった。
まず先頭は大きな十字架である。それに続いて信徒の少年たちが白い侍者服で十名ほどが高らかに聖歌を歌いながら行進し、その次にいよいよ金の刺繍の天蓋の下、聖体顕示台を胸にしたヴァリニャーノ師だ。
聖体顕示台とは円いガラスの容器に聖変化後のホスチア、すなわち御聖体を入れる。丸ガラスの周辺は太陽の光条を思わせる装飾がついており、さらにそれを下から支える台があって、その台の部分をヴァリニャーノ師は持って、沿道の人びとによく見えるように少し掲げながら歩く。
その後ろを全員が祭服を着た我われ司祭団や修道士、そして一般信徒がそれに続く。聖体顕示台を持つヴァリニャーノ師の上を覆う天蓋の四本の棒を支えているのは、その地方の領主という慣例に従ってジュストが前の一本を持ち、あとの三本もジュストの重臣であって信徒である武士が肩衣と袴という日本での正装姿で支えていた。ただ、ジュストを始め皆、首には襞襟を着けていた。
復活祭の時の行進も空前絶後の大規模な人数だったが、今回もそれにはまさるとも劣らない規模であった。行列は花が敷き詰められた道をゆっくりと進む。行列自体もかなり長く、またその沿道で見物する人の数はおびただしものがあった。
その聖歌は、いつまでも高槻の空にこだまし、行列は高槻城下の町を三時間ほどかけて行進した。




