Episodio 1 Venezia d'Oriente(東洋のヴェネツィア)
1
堺の港は大騒ぎだった。
正直言ってこれほどまでにも大勢の人びとが我われを迎えてくれるとは思わなかった。何人かの貴人と思われる人はヴァリニャーノ師の前に出てそれぞれ名乗り、礼を尽くしていた。
そこで私が気づいたことは、あの塩飽のジュアンもそうだったが、人びとの話す日本語が下や豊後とでは大違いなのである。
臼杵の修練院で私が受けた日本語の特訓によって標準的な日本を身につけていた私には、慣れればすぐに理解できるようになった。
日本語の方言とはその程度で、違いはさほどきつくない。イタリア半島の言葉もナポリとローマ、ヴェネツィアとではそれぞれ違うが通じないこともないのと同じ程度だ。だが、ヴァリニャーノ師は彼らの言葉が全く分からないと小声で私に耳打ちし、苦笑していた。
人びとはざっと百人以上はいそうだった。あまりの大騒ぎにこの堺の一般住民から苦情が出ないかと心配したが、彼らはお構いなしだ。まさかこの人びとを黙らせても石が叫ぶなどということはないだろうが、奇しくも明日はキリストがエルサレム入城を果たしたことを記念する枝の主日だ。
つまり、我われは堺に到着したのは豊後の日出を出てからちょうど十日後の3月18日の土曜日だった。
実際には道に棗椰子の枝が敷かれているわけではないがまるでそのような感覚で、人びとの歓声も「ホザンナ」と聞こえたような気もしたが、それは空耳だった。
「いやあ、ようまいられた」
先ほど小舟で出迎えてくれた初老のディオゴが、家族と思われる人びとともに我われの方へとにこにこしながら歩み寄ってきた。身なりは彦左衛門と同じような商人のいでたちで、胸には十字架が輝いていた。
まずはフロイス師が、日本語で挨拶をした。
「お久うございます。日比屋ディオゴ様」
それから日本式に深くお辞儀をした。
「これは、バテレン・フロイス様、そないせんと、どうぞお顔をお上げください」
そう言ってかえって恐縮している初老の商人に、フロイス師は手早くヴァリニャーノ師をはじめ私を含むその他一行のことをすべて紹介した。
「こちらはこの堺の会合衆の一人、つまり町の有力者で日比屋というお店のディオゴという方です。堺で最初の信徒で、もう十五年ほど前に私とその頃日本にいたヴィレラ神父が都で迫害を受けてこの地に逃れてきた時も、我われをかくまってくれるなど大変お世話になった恩人です」
そのフロイス師の説明に、ヴァリニャーノ師は驚きと共に喜びの声を上げた。
「さ、さ、立ち話もなんですから、我が屋敷に、どうぞ、どうぞ」
気さくに日比屋のディオゴは我われを誘ってくれた。そして、
「皆さんもご一緒にどうぞ。今日はバテレン様方とご一緒の一席を設けておりますさけ」
ディオゴが群衆に向かって叫ぶと、また人びとから歓声が上がった。
我われをここまで送り届けてくれた彦左衛門も、すぐにディオゴと談笑しながら歩いていた。彦左衛門とも顔なじみのようだ。
私はてっきりこの港からディオゴの屋敷のある日比屋という店まで群衆と共に歩くのかと思っていた。だが、港に着いて最初に目にとまった建物、すなわち我われが立ち話ので挨拶をしていたその背後の三階建ての建物がディオゴの商店でありそして屋敷だった。
つまり、港に面して建っている巨大な家屋で、三階建てとは城以外ではこの国では珍しい。いや、むしろすでに城といってもいいくらいの巨大な建物だった。
「申し訳あらへんなあ。こちらは裏口やけ。表玄関は反対側になりますさけ、堪忍してください」
そう言ってディオゴは気さくに笑い声をあげていた。最初、この百人以上とともに食事の席を設けると聞いてそのような大きな建物があるのかと思ったが、この巨大な屋敷では優にそれくらいは入れた。
群衆は大広間にと集め、我われはディオゴのプリヴァートな部屋へと招き入れられた。そこで我われはあらためて、ディオゴに挨拶をした。いや、むしろディオゴの挨拶を受けたというような感じで、ディオゴは我われを日本では本来主人が座るべき席へと座らせ、自分は下座に着いたのである。
「長旅、ご苦労様でした」
そう言ってからディオゴは妻のイネス、息子のヴィセンテ、娘のサビーナ、そしてサビーナの夫であるルカスを次々に我われに紹介した。
「おお、ヴィセンテ。立派になりましたね」
フロイス師はそのディオゴの息子に目を細めていた。
「はい。もう二十七になりました。あの節はお世話になりました。こちらはその妻のアガタです」
隣にいたアガタは、笑みと共に黙礼した。
「そうですか、素敵な奥さんをもらって。あの頃はまだ少年だったのにすっかり」
そしてアガタも言う。
「あなたの夫にお世話になったのは、私たちの方なのですよ。」
そして、そのヴィセンテの姉、サビーナを見た。姉の上の膝の上には四歳くらいの女の子がちょこんと座っていたが、フロイス師はその膨らんだ腹部を見た。
「もしかして?」
「はい。八カ月目くらいです」
「それは、おめでとうござる」
隣でその夫のルカスも、はにかんだように笑っていた。四十歳になったかなっていないかくらいの年だった。
さらにその隣にいた少年をフロイス師は見た。
「もしかしてあなたは、亡くなったモニカの?」
「はい、あの時の子です」
ルカスが代わって答えた。話を聞いていた我われには分からない話だったが、何か立ち入った事情があるのだろうとそこは聞き流し、それよりも一族全員が信徒であることに、私は内心驚きの声を上げていた。
それからフロイス師が今度はディオゴの一家に、ヴァリニャーノ師のことをあらためてその地位などについて紹介していた。
これまで、初めて訪れた地ではそこの教会の司祭たちが我われを歓迎してもてなしてくれたことはあったが、こんなにも多くの日本人の信徒たちの歓迎を受けることは珍しかった。
そしてしばらく談笑、と、言ってもほとんどフロイス師とディオゴの間でしゃべっていたが、やがて夕食の支度ができたことを女中が告げに来た。
ここでもかつての大友の殿のドン・フランシスコの臼杵城での宴会の時と同様、一人分ずつの食膳が据えられていた。ヴァリニャーノ師とフロイス師を中心にして、我われ一行は部屋のいちばん上座に席があった。
ディオゴはじめ日比屋の家族の男たちは皆、ずっと下座の方にいた。こういう席に女性は同席しないのが日本の習慣だ。
ただ、日本の習慣としては奇異なことがあった。それは、同席している者たちの身分が全く問われていないということだ。日比屋のような商人もいれば、近郊の農村の農民のような者、また武士もかなりの数がいたが、それらが分け隔てなく同席しているのである。
普通の日本の宴会では、このような光景は絶対に見られないとフロイス師が説明してくれた。
本来なら宴が始まり酒肴が出るところだが、それぞれの膳の上は普段よりもむしろ質素な料理が並んでいるだけだった。
これはヴァリニャーノ師からあらかじめディオゴに申し入れていた通りで、今は四旬節の大斎期間であるから一切の宴会は慎まなければならない時期である。
信徒であるディオゴも当然理解して、このような一日一回の満足な食事ということで遇してくれた。
大斎は一切の肉類を口にしない小斎を伴っているが、ここ日本では仏教の影響で誰もが肉類を食べる習慣がないので、我われからいわせれば、日本では一年三百六十五日毎日が小斎であるともいえた。
同席している人びとの中には聞けばはるか遠くから馳せ参じた人びとも少なくなかった。皆教会のために財を投げうち、財なきものは労力を提供して尽くしてくれている人びとだという。中でも日本名を結城山城殿というドン・アントニオは九里、池田丹後殿ドン・シメオンは四里の遠くから駆けつけてきてくれたのだという。
どちらも信徒の殿である。
その中に、我われをこの地に運んでくれた船頭の彦左衛門もいた。食事も終わりに近づくと座が乱れるのが日本式では普通のことで、彦左衛門も満面の笑みでヴァリニャーノ師に挨拶に来たが、むしろ我われの方が畏まってしまった。
「今、我われがここにいるのはすべてあなたのおかげです。とりわけ最後の海賊に追われた時は、あなたの機敏な行動と備えによって我われは九死に一生を得ました」
ヴァリニャーノ師はそう語り、フロイス師に伝えてもらっていた。それから自ら日本語で言った。
「マコトニ カタジケノウ ゴザル(本当にありがとうございます)」
聞くと、彦左衛門はもう明日、豊後に帰るのだという。
食事も終わり、臼杵の城の時と同様に、ディオゴは我われ五人を別室の茶室へといざなった。そしてドン・フランシスコと同じように鉄瓶の湯を茶の粉の入った器に注ぎ、茶筅でかき混ぜてからまずはヴァリニャーノ師から一人ずつ順番に茶が提供された。
その席上でヴァリニャーノ師が、言った。
「堺の信徒がこんなにたくさんだとは、驚きました」
フロイス師の通訳を聞くと、ディオゴは声をあげて笑った。
「いえいえ、今日集まってはるんは、みんな堺のキリシタンとちゃいまんねん。堺で生まれたものでキリシタンはうちら家族だけやけ。ほかから移り住んで人を入れても百人ほどしかいてません。今日こうして集まった人びとは、遠く摂津や河内、都から来たものたちです」
たしかにフロイス師も、今日ここに集まっているのは遠くから来た人々だと言っていた。
「ヒトツショモウガゴザル(一つお願いがあります)」
そこまで日本語で言うと、ヴァリニャーノ師は、あとの通訳をフロイス師に託して言った。
「あまり過度で派手なおもてなしは、今後どうかお控えください。我われはあくまでも質素で清貧なることをモットーとしていますので」
するとディオゴは、たて続けにしゃべった。
「いやいやいや、そうはいかしまへん。『天主』の地上における代行者であるバテレンの皆さんに対しては、どんなに手厚くもてなしてもまだ足りない。バテレン様方ははるか遠い海の果てから、何の利欲もなく、ただ我われの魂の救いのために多くの苦労を乗り越えて来てくださったんや。我われがまだ異教徒だった時には、仏教の僧には手厚くもてなしてたあかい、今や同じように、いや、それ以上にバテレンをもてなすのは当然のことです」
以上がディオゴの言葉をフロイス師がヴァリニャーノ師に伝えた内容だった。その言葉に我われは、ディオゴの厚い心を知ったのであった。
2
翌日は、枝の主日のミサだった。
ミサの最初に棗椰子の木の枝が聖別されるが、日本には棗椰子がないのでネコヤナギで代用している。
そしてミサに参列する人びとはそのネコヤナギを手に聖歌をラテン語で歌いながら行列をなして教会に入る。
実は堺には独立した教会はなく、この日比屋の屋敷の中の一室が御聖堂となっていた。いわばディオゴは自宅の一部を開放して教会にしていたのである。
もちろん聖職者が常駐しておらず聖櫃もないので、正式な教会ではない。
ところがこの日ばかりは、そう広くない御聖堂は多くの人でひしめき合っていた。それでも御聖堂に入れたのは、詰めかけた信徒のうちの三分の一程度だった。
その日の午後、我われは堺の町を散策した。府内と同じくらいの大きな町で、やはり道は縦と横の整然としたつくりだった。
総じて日本の町はエウローパのように城壁に囲まれているということはないが、この町の場合は城壁ではなく日本の城の周りにあるような人工の水路――堀で海に面した港以外の三方が囲まれていた。
その水面に映る町の美しさは、私が日本に来て以来最高の美と言ってもよかった。特に讃嘆していたのはトスカネロ兄で、兄はナポリ王国出身だが、イタリア半島北部を旅したこともあるということだった。
「ここはヴェネツィアだ」
だから、イタリア語で何度もつぶやいていた。イタリア語は知らなくてもラテン語は知っているフロイス師はその地名を聞きとったようだ。
「風景だけではなく、この町は会合衆という町民の代表の執政官によって治められています。ディオゴもその一人です。つまり、この堺はどの殿の支配も受けていませんでした。どの殿の領地でもなかったのです。そういう意味では、まさしく東洋のヴェネーザでしたでしょうな」
フロイス師も堀端を歩きながら言った。
だが、その表現がことごとく過去形であるのが私には気になった。それを聞くまでもなく、フロイス師は話を続けた。
「ただ、今は織田殿が奉行を派遣するようになりました。でも、それでもだいたいの政治は会合衆の自治に任されています」
我われがこれから会うことになるというこの国の帝王――織田信長の力は、確実にここまで伸びているのだ。
そのようなことを考えながら日比屋の屋敷に戻ろうとしていた時に、背後で我われを呼ぶ声がした。
「あの、もし、バテレン様方」
振り返ると明らかに貴人と思われるような身なりの若者が、さっとヴァリニャーノ師の前で片膝を地について跪いた。その隣には、旅装束のやはり若い女が立っていた。
「天竺からお越しの偉いバテレン様とお見受け致す」
そう言ってから目を上げた若者は、上品で利発そうであり、いかにも高貴な出のような顔つきだった。胸にはしっかりと十字架が輝いていた。
「拙者、豊後の国でかつて臼杵のお殿さまにお仕えする重臣の田原親賢の養子であった柳原勝之四郎親虎、霊名をシモンと申します」
「豊後の国におられましたか」
豊後と聞いて、私は親しみを感じた。だが次の瞬間、フロイス師がその若者に横から声をかけた。
「あなたは」
その顔を見たとたんに若者ははっとした顔になり、フロイス師も複雑な表情をしていた。
「バテレン・フロイス様…」
どうも気まずい空気が流れていた。
「どうしました?」
ヴァリニャーノ師が聞いた。フロイス師はそれをシモンという若者には伝えず、黙ってそのシモンを見た。シモンは自分から話し始めた。
「実は拙者、今は伊予で暮らしています。こちらは伊予で娶った妻です」
隣に立っていた女が、我われに頭を下げた。
「実は仔細あって都へ上ろうと今日、この堺に到着致しましたら、なにか偉いバテレン様が来ておられるということで町中のキリシタンが騒いでおりましたので、今からお伺いするところでございました」
「とりあえず、ディオゴの所に戻りましょう」
ヴァリニャーノ師はシモンという若者を立たせて、その妻と共に日比屋の屋敷に戻った。
屋敷の、我われにあてがわれていた三階の一室で、シモン夫妻とともに畳の上に座った。あてがわれていたというよりも、実はこの屋敷の三階は常に我われのような司祭が堺を訪れた時の宿泊のためだけに用いられているようで、いわばちょっとした司祭館であった。
その部屋で、まずはシモンはフロイス師の前にかしこまった。
「あの節は大変お世話になりました。それなのに、いろいろと我が生業のためにも便宜を図ってくれたにもかかわらず突然出奔致し、恩を仇で返すようなこととなり面目次第もございません」
「まあ、確かに、あの後バテレン・カブラルはかんかんでしたよ」
フロイス師はそう言ってから、ヴァリニャーノ師にシモンの話の内容を伝えた。シモンは、ばつが悪そうにしていた。
その時、臼杵にいた時にたしかカブラル師から、このシモンという若者について聞いたことがあったような気がしたのを私は思い出した。受洗まで導き、目をかけてその信仰を深めさせていったのに、ある日突然船で伊予へと行ってしまったということで、かなり不快に語っていた。
「実は今日お声をかけましたのは、私どもは今、伊予では全くの異教徒の中で生活をしております。周りにキリシタンは一人もおらず、当然教会もなければバテレン様もイルマン様も一人もおられません。そこで、長いこと告解をしておりませんので、今日はぜひ告解をお願い致したく」
シモンがもともと我われを訪ねようとしたのは、そういうことだったのだ。
さっそくその願いを聞きと届けることにしたが、ヴァリニャーノ師は告解を聞くには日本語が分からないし、メシア師も自信がないと言った。
いちばん日本語が堪能なのは言うまでもなくフロイス師だが、やはり過去に何かあったようでどうも具合が悪そうだった。
それを機敏に察したヴァリニャーノ師は、私に告解を聞くように言いつけた。そこで私は二人を伴って、屋敷内の階下の一室にある御聖堂へと連れて行った。
二人の罪の告白の内容を述べることはできないが、そのあとの聖堂内で私は彼らからその身の上話を延々と聞いた。
もともとは都の貴族の子であったシモンは十歳の時に豊後の田原親賢の養子として迎えられ、府内に渡ったのだそうだ。だが、ふとしたきっかけで教会の前を通った時に司祭の説教が耳に入り、それから興味を引かれて教会に出入りするようになり、受洗を決意したという。
だが養父はあのジェザベルの兄弟であり、大のキリシタン嫌で彼の受洗に大反対し、ジェザベルとともに妨害さえしてくるようになった。それでも受洗の決意は変わらず、しばらく様子を見るようにというカブラル師の助言も押し切って無理やり洗礼を受けた。
そうしたら妨害工作はますますインテンフィシカーレし、ついに彼の養父は領地から軍勢まで呼び寄せて教会を包囲し、彼を棄教させなければ教会を焼き払い司祭を全員殺すと脅しをかけてきたのだそうだ。
その時はまだ洗礼を受ける前だった大友殿ドン・フランシスコが間に入ってなんとかことは収まったが、彼は田原の家の養子の縁を切られ、しばらくは教会で生活し、ドン・フランシスコへ仕官する話にまでなったということだった。
しかしカブラル師はことあるにつけ、自分があれほど止めたのに強引に洗礼を受けた結果、教会までもが危険にさらされたと彼をなじり、とりわけ彼を苦しめたのはふた言目にカブラル師が言う「この日本人め」とか「しょせんは日本人だ」という見下した言葉だったということだ。
これが本当に『天主』に仕えるバテレンなのかと悩んだ彼はついにいたたまれなくなり、伊予へと逃げだしたのだということだ。今は都へ、実の親に会いに行くのだという。
「しかしよく、それで信仰を棄てませんでしたね。私はそこに感動しました」
私はそう言ったが、それが私の本心だった。
「たしかに、バテレン・カブラル様のお蔭様で、信仰を棄てて棄教した人も何人かいます。しかし、私は違う。私の信仰は『天主様』に直接向いているのであって、教会やバテレン様を信仰しているわけではありませんから」
そして、彼はさらに話を続けた。
「教会がどうあれ、バテレン様がどうあれ、そんなの関係ありません。天地の創造主であらせられる『天主様』は厳としておわしてそのみ手内に我われが生かされている、これは動かざる真理ですし、イエズス様のみ言葉も絶対です。拙者、先ほども申しました通り、伊予では教会もなくバテレン様もおられない状態で異教徒に囲まれて生活しておりますが、妻と二人でますます信仰を深めております。なぜなら、『天主様』は常にともにいてくださいます」
私は不思議な感覚だった。『天主』もキリストの教えも絶対だというのは分かる。だが、教会も司祭もなしで信仰を深めるなどという考え方は私には思いもつかない発想だったからだ。
信仰とは教会の共同体との交わりの中でこそ成立するものであり、教会を離れての信仰は傲慢からくると教えられてきた私だったが、彼の姿には傲慢のかけらもなかった。
エウローパではローマ教皇に属さない異端の新教の教会もたくさんできて問題になっているが、それともまた違う。このような考え方に至るのは、やはり日本人の霊性の高さからだろうか。
ふとそんな時私の中で、「『天主』あっての教会であって、教会があって『天主』があるのではない」という言葉がひらめいた。
このシモン夫婦も、ディオゴの厚意で屋敷内に泊まり、翌日二人は都の教会での再会を約して我われより一足先に早朝に都へと出発していった。そして我われも、多くの人に別れを惜しまれながら堺を後にすることになった。




