Episodio 9 Primo Natale, e Gezabele(最初のクリスマス、そしてイゼベル)
1
待降節に入ると、寒さはさらに想像以上に増してきた。だが、この地はまだ日本の中でも冬が比較的温暖な地だというから驚きだ。
そしてまず、司祭館が完成した。我われは早速まだ木の香りがする新しい司祭館へと移り、まもなく修練院も完成するのでその開校式の日取りも決まった。
12月24日―すなわちヴィジリア・ディ・ナターレの日であった。
その日の昼のうちに修練院の開校式が行われた。修練院の院長は私と同世代のスパーニャ人で、府内の教会にいたペドロ・ラモン師が任じられた。
任じたのはヴァリニャーノ師だから、もちろんラモン師個人の才腕もあるだろうが、日本におけるイエズス会の要職の大部分をポルトガル人が占めていることに対して均衡を図るという意味合いもあったかもしれない。
副院長は前から臼杵にいるポルトガル人のゴンサーロ・ラベロ師だった。
入学する学生はポルトガル人八人と日本人十二人で、ポルトガル人の中には、私とともに日本語を学んだ若いジョアン・ロドリゲス神学生もいた。
修道士たちはここでしばらくは語学の習得に努め、それが終わるまでは布教に従事することは控えるようにというヴァリニャーノ師の指示であった。
本当ならばそこで宴を開いて新しい教会と修練院の発足を祝いたいところだが、この日は大斎の日である。そのまま、食事もとらずに日没を迎え、ナターレの前夜ミサで、そしてすぐに深夜ミサへと移る。
私が日本に来てから初めて迎えるナターレだ。リスボンを離れてから最初のナターレは船の中だった。次の年はゴアで真夏の気候の中でのナターレ、そして昨年はマカオで迎えた。あまりにも寒いのは身に応えるが、やはりナターレは寒い季節でないと実感が湧かない。
前夜ミサと、そのあとのメインである夜半ミサの司式司祭はやはりヴァリニャーノ師だった。御聖堂にもあふれんばかりの町の信徒たちが参列し、静かな夜に厳かに主の御降誕を祝うミサは続いた。
本当に外は静かだった。ローマやリスボンのお祭り騒ぎのようなナターレとはまるで違い、この国の信徒たちの素朴な信仰を垣間見るような気がした。
ローマを離れてからいくつかの国を経てここにたどり着いた私だが、どこの国にいてもミサの時間だけは自分が故国にいるような感触があった。もの心ついてから毎週日曜日に、イエズス会に入ってからは毎日与ってきたミサである。
マカオで日本に来る直前に司祭になって、日本に来てからは当番制だったが自分が司式するようになってからは若干感覚は変わったし、日本式家屋形態の畳敷きの御聖堂でのミサはやはり少し勝手が違うところがあった。だがそれでも、たとえどんなに遠くに行ってもミサの時間だけは故国とつながっているという感覚はあった。
聖変化の時には司祭は祭壇に向かって跪いて頭を垂れ、そこだけ小声で一般の会衆には聞こえないように祈る。昔、子供の頃の私はミサに与るたびに、そこで神父様は何と祈っているのだろうと気になってしょうがなかった。
何か普通の人が知ってはいけないような秘密の呪文でも唱えているのかと、そのあとで侍者の鳴らす鐘の音と共に御聖体となったホスチアを高く掲げる神父様の背中を見ながらそう感じていた。
今となっては秘密の呪文でも何でもないその祈りの言葉を知り尽くしているが、ふとそんな幼少期のたわいもない思い出が私の脳裏によみがえった瞬間でもあった。
なお、私にとって日本で初めてのナターレで、不思議な光景を見た。
ミサの後、エウローパのようなどんちゃかお祭り騒ぎではないが、やはりナターレということもあって教会の庭で宴が催され、多くの日本人信徒が参加していた。
だが、彼らはなぜか皆平包という大きな四角い布に贈り物を包んで持ってきており、宴が始まると互いにそれを交換し始めたのだ。
ナターレの宴でこのような贈り物を交換するという光景は私は見たたこともなく、どうも日本独特の習慣のようだ。だが、日本でナターレの祝いが始まってまだ三十年ほどしかたっていないはずで、それでもうこのような独自の習慣ができていることに驚いた。
もしかしたらナターレ当日よりも年が明けてからの御公現の日に魔女ベファーナが子供たちにプレゼントを配るという伝説が変形して伝わったのかなとも思った。
私も子供の頃、御公現の前夜は期待とともに靴下をつるして寝た。いい子であれば翌朝はお菓子が、悪い子には炭が靴下に入れられると本気で信じていたが、毎年靴下に入っているのはお菓子で安心したものだ。
その真相、つまり誰がお菓子を入れているのかという真相を知ったのはずっと後、神学校に入る直前だったが、そんなことを思い出し、私は人々が贈り物交換している姿を見て苦笑した。
ミサの最中といい、どうも今日は幼少時の思い出ばかりが頭をよぎる。やはりナターレだからだろうか。
私はそばにいたメシア師に魔女ベファーナについてのそんな思い出を語ったが、メシア師は怪訝な顔をした。魔女ベファーナやそのような靴下にお菓子などという習慣については初耳だという。
ポルトガルではナターレに日付が変わった瞬間に、親が子供に「赤ちゃんイエズス様からよ」と言ってプレゼントを手渡すという。どうも魔女ベファーナはローマやイタリア半島だけの風習のようで、やはりナターレのプレゼントに関しては国によっていろいろ習慣が違うようだ。
だから子供たちにではなく、大人同士が大真面目に贈り物を交換している日本の風習もありだなと私は思っていた。
この年は翌25日が日曜日だったので早朝ミサの後の主日のミサがナターレの日中ミサと重なり、このミサの中で洗礼式が行われることになっていた。御聖堂の会衆席には臼杵の市民の一般信徒に混ざってドン・フランシスコが同じ列に座って参列していた。
このキリスト教会以外の日本の一般社会では、領主と領民が同じ建物の中で同列に同席することなど絶対に見られないし、想像だにできない光景だろう。
まさしく『天主』のみ前では総ての人は等しく神の子で、平等であるということの証であった。さらには、あのヤスフェさえも同じ堂内に同席していたのである。
特に、今回ドン・フランシスコも参列したのは、その三男大友民部親盛殿が、今日、受洗するからである。あの有馬の殿のドン・プロタジオと同じ十三歳であった。
今までずっと受洗できずにいたのはやはりその生母であるジェザベルからの数々の妨害があったからであろうが、この日からは霊名でドン・パンタレアンと呼ばれることになる。
さらにはこの臼杵の町の昔からの領主で、今は大友家に仕える臼杵殿とともになんと一人の仏教の僧、すなわち僧がここで受洗した。すでに七十は超えているだろうと思われる老人で、仏教では法印という高い位にある僧ということだった。
はじめは僧衣を着てミサに参列していてそれが異彩を放っていたが、いざ洗礼式が始まって自分が受洗される番になると僧衣の一切を脱ぎ棄ててそれを足で踏みつけ、普通の着物姿になっていた。
次に受洗したのは我われが有馬から豊後に来る途中に投宿した三重という村のすぐそばの井田という所の領主だが、これがまたジェザベルの妹婿だという。
そして伊東小右衛門という十歳の少年も受洗した。彼については事前にヴァリニャーノ師から経歴を聞いていた。伊東氏とはここから南の方の日向という国の殿であったが、彼の父は彼がまだ母の胎内にいるときに病死し、三位入道と呼ばれている祖父に養育されていた。
伊東家は小右衛門の三歳上の兄の三左衛門が殿となっていたが、まだ若いので祖父の三位入道が実質上の殿であった。
ところが大友と薩摩の島津との戦争で伊東家は島津に攻撃されて、命からがら大友家を頼ってこの臼杵に逃げてきたという次第だそうである。
この三左衛門と小右衛門の兄弟の母は、ドン・フランシスコの妹の娘、すなわちドン・フランシスコの姪だという血縁関係があったことも関係がしている。
この話を私がナターレの数日前にヴァリニャーノ師から聞いた時、師はさらに私に言った。
「有馬で殿ドン・プロタジオの従弟のミゲル千々石が洗礼を受けて神学校に入ったときに、同じ年かっこうだからといってマンショという少年を引きあわせたのだが、覚えているかい?」
マンショと聞いて、あのクリクリ頭をすぐに思い出したので私はうなずいた。
「小右衛門はそのマンショの従弟だよ」
そう言って師は笑っていた。
「祖父や兄は洗礼は受けないのですか?」
私が素朴な疑問をぶつけたら、ヴァリニャーノ師は言った。
「三左衛門はいずれ、折を見て」
するとそばにいたフロイス師が、鼻で笑った。
「三位入道とかいうあんな頭が狂った老人は、放っておいていいのです」
今日の洗礼式で小右衛門は、ジェロニモという霊名を名乗ることになった。賢そうな少年だった。
以上、こういった人びとが新たにキリストと出会い、新しい信仰生活に入ることになった。
ミサの後で私が御み堂を出ようとした時、そこにカブラル師がいた。カブラル師は私の袖を引き、入り口の外の脇の方へと私を引いていき、私の耳もとで囁いた。
「今日、洗礼を受けた人たちのメンブロスを見たかね」
「はい、まあ」
「どう思う?」
いきなりそう言われても、私は何と返事をしていいかわからなかった。
「いいか。民部親盛すなわちパンタレアン、あれはあのジェザベルが生んだ子だ。井田殿はジェザベルの義理の弟、そして法印という僧はジェザベルがずっと師と仰いでいた僧なのだ。だから私は反対したのに、ヴァリニャーノ神父は強硬にこの洗礼式を行った。もはや彼は私の言うことなど、風の囁きくらいにしか思っていない」
カブラル師が何を言いたいのかすぐには分からなかったが、はっと気付いた頃にはカブラル師自身が話を続けていた。
「身辺に気をつけた方がいい。大変なことになるぞ。何せあのジェザベルが黙っているとは考えられない。ヴァリニャーノ神父に言っても聞く耳持たないから、君に言っておく」
にこりともせずにそれだけ早口で言ってから、カブラル師はもう行ってしまった。
2
翌日から早速、修練院での授業が始まった。
驚いたことにヴァリニャーノ師が直々に午前と午後の一時間ずつの講義を担当した。内容はイエズス会の会則やこの修錬期間中に何を目指すべきか、また召命ということに関してどう向き合っていくかなどであった。
講義はポルトガル人と日本人が合同で聴講しており、ヴァリニャーノ師はまずはポルトガル語で話し、そばにフロイス師がいてそれを日本語に通訳するという形をとっていた。
私はそのヴァリニャーノ師の講義だけ、頼んで聴講生として入れてもらった。ヴァリニャーノ師の講義を受けるのは、ローマの修練院の時以来で、あのときはヴァリニャーノ師は修練院教師、私は神学生だったから、今とは立場が違っていたにせよ久しぶりのその感覚にまるで学生時代に戻ったような錯覚を受けた。
考えてみたら、あの頃のヴァリニャーノ師が、今の私と同じくらいの年齢だったのである。それを思うと何とも不思議な気持ちだった。
年が明けて1981年、ヴァリニャーノ師は一度府内に戻った。
府内ではこの臼杵の修練院と並んで、さらに高等教育を施す学院が建設中で、その視察に行ったのである。八日くらいでヴァリニャーノ師は戻ってきたが、戻ると再び毎日修練院の教壇に立っていた。
やがて2月になると、町全体が華やぎだした。この国での正月が来ようとしていた。この年は2月の4日がそれだった。
だが、全体的に静かな正月であり、マカオの時のような爆竹を町中でけたたましく鳴らすという習慣はこの国にはないようだ。
驚いたのは、信徒ではない異教徒の市民たちは正月に一斉に寺や神社に列をなして押しかけ、神や仏に祈るのである。
外を出歩いてその光景に驚いて戻ってきた私を見て、フロイス師はすぐに何にい驚いているのか分かったようだった。
「都ではこんなものではありませんよ。この国の正月の神や仏に祈る騒ぎは」
師はそう言って笑っていた。
その言葉に、私はふと熱くなった。すなわち「都」のひと言である。
すでに、あとひと月後くらいには、ヴァリニャーノ師は次の巡回地である都と安土に行くことになっている。当然、私も同行を求められた。
それについてヴァリニャーノ師は大勢が集まる夕食の席で、次のように人事を発表していた。つまり、都に行くに当たってやはり優秀な通訳が必要ということになるので、フロイス師を同行させると。
フロイス師は日本に長いだけではなく、ずっと都で福音宣教に従事していたわけで、土地勘もあるというのが理由だ。
だが、フロイス師は豊後布教区の上長なので、いったんはその任を解任し、そのあとにヴァリニャーノ師はカブラル師を当てた。彼は暫定的総布教長だが豊後上長を兼任となった。
このことによって、ヴァリニャーノ師はカブラル師を都に同行させる意思は全くないということを明らかに宣言したようなものだった。
もっとも、同行を求めてもカブラル師は拒否したかもしれない。
後にカブラル師は都へ同行しない理由をドン・フランシスコに引きとめられたからだと他の修道士たちに説明していたが、その言葉の真偽はあやしいものである。
ほかには昨年の暮れに洗礼を受けたジェロニモ伊東も連れて行くことになった。彼は神学校への入学を希望したが、この臼杵にも府内にもまだ神学校はなく、かといって単身有馬へと送るには彼は幼すぎるので、やはりすでに神学校が開校しているはずの安土へ連れて行こうとヴァリニャーノ師は思ったようだ。
あとはいつも師と行動を共にするメシア師とトスカネロ兄のほかは、有馬からずっと警護をしてくれているあのヤスフェもともに連れて行くことになった。
そんなことで都への出発の準備で慌ただしく過ごしていたある日、疲れて早々に眠りに就いた私は人びとの騒ぎで目を覚まさせられた。
もうだいぶ眠った後だったから、明け方近かったと思う。
「コニージョ神父! 火事です!」
部屋の外からの修道士の叫び声に、私は跳ね起きた。廊下に出ると、ろうそくを手に慌ただしく人びとが行き着している。だが、煙があるわけではなく、ろうそくの光のほかはまだ暗い夜の闇があるだけだ。ただかすかに、焦げ臭いような臭いはしていた。
「外です!」
誰とは分からない叫びに庭に出てみると、確かに海岸に近いほうの空が赤くなっているのが見えた。この教会が火事だというわけではないことは分かったが、火はそう遠くない所で立ち上る黒煙を照らして燃えていた。
日本の家屋はどんなに大きく頑丈に造られていたとしてもすべて素材は木なので、一旦火がつくとあっという間にすべてが燃えてしまい残骸さえ残らない。
そして恐ろしいのは、もし家屋が密集する市街地で火が出たら、その家だけでなく火はあっという間に周りの家屋まで延焼して、町中が焼け野原となってしまうのだ。
だが幸い、風はこの教会の方から海の方に向かって吹いており、火はこちらには来そうもない。そこでしばらく様子を見ていたが、これ以上炎が拡大している様子はなかった。
司祭や修道士たちも皆庭に出てきており、空が赤く燃える方角を見ていた。
「あの辺りは」
ゴンサーロ・ラベロ師が言った。臼杵の町の地理を知り尽くしているラベロ師の発言だけに皆が耳を傾けた。
「民家ではないですね。ドン・フランシスコの家来たちの大きな屋敷があるあたりです」
そうなると広大な庭があるから、民家の密集するあたりまでは飛び火しないかもしれない。そのラベロ師の隣に立っていたヴァリニャーノ師が、火の手の上がる方を見てつぶやいた。
「民家だろうと大きな屋敷だろうと、自らの家を失ったことには変わりはない」
それからラベロ師に言った。
「どなたの屋敷かすぐに調べてください。そして、困っていたら、何か手助けできることはないか聞いて来てください。何でも、遠慮なく、と」
ラベロ師はすぐに日本人の修道士を呼んで、同じ内容を日本語で言いつけた。
やがて戻ってきた修道士は、まだ庭にいたラベロ師の前で身をかがめた。
「志賀宗頓様のお屋敷でした」
その報告を聞いたラベロ師はすぐに、ヴァリニャーノ師に説明した。
「ドン・ゴンサーロです。ドン・フランシスコの重臣で、熱心な信徒ですよ」
その霊名を聞いても私もすぐに誰だかぴんとこなかったが、ヴァリニャーノ師も思い当たらないようだった。
「それで、何かお困りのことは?」
ヴァリニャーノ師が直接聞くと、修道士はさらりと答えた。
「はい。お困りということではないのですが、バテレン様が自分たちを憐れんで何でも望みをかなえてくださるとおっしゃってくださるなら、ちょうどいい機会なのでかねてから所望しておりましたボヘミアのコンタツをと」
その話の内容をラベロ師で聞いたヴァリニャーノ師は驚いていた。
「え? ボヘミアのコンタツ?」
ボヘミアのコンタツとは、教皇ピオ十四世がボヘミアの女王のために祝別した特殊なロザリオの玉のことであるが、ヴァリニャーノ師をはじめここにいる司祭の誰もがそのようなものを持ってはいないはずだ。
第一、いくら熱心な信徒とはいえ、この国の一信徒がそのような玉の存在を知っていようとは思えなかった。
「家を焼け出されて食料も財産も何もかも失って、気が動転しているのではないですか」
カブラル師が吐き捨てるように言った。
「もしそうではないとしたら。このような時にそんなことを言い出すなんて、しょせんは日本人だ。何を考えているのかわからん」
それには、誰も何も答えなかった。
やがて、武士たちに支えられて、白い就寝用の着物のままの殿が、女とともに教会に来た。
「ドン・ゴンサーロ!」
ラベロ師をはじめ司祭の何人かは声をかけて、すぐに駆け寄って介抱していた。とにかくまずはと、司祭館の中に二人は招き入れられた。
まだ若い二十代前半のようで、顔を見ると私にも見覚えがあった。たしか、臼杵の城での聖フランシスコの祝日のミサに参列していた。女は妻だろう。まだあどけなさが残っている。
さっそく一室で彼らに温かい飲み物と、肩から掛ける布団のような着物を与え、そのそばにヴァリニャーノ師をはじめ司祭たちが座った。
「大変でしたね。だいじょうぶですか。けがはありませんか」
ヴァリニャーノ師がそう尋ね、ラベロ師が通訳した。
「かたじけない、かたじけない」
ゴンサーロは何度も頭を下げていた。
「私たちが、あなたのためにできること、何ですか?」
ヴァリニャーノ師の問いをラベロ師の通訳を通して聴くと、やはりゴンサーロは目を輝かせて言った。
「何でもよろしいとおっしゃるのでしたら、御身が用いられておられるボヘミアのコンタツを戴きたい。妻も前からどうしてもそのれがほしくてたまらなかった様子だったのですが、我われにはまだそれを手にする資格はないと『天主様』がお許しにならないのだと思っておりました。しかし今、バテレン様がそのように何でも希望のものをとおっしゃってくださったということは、今こそ『天主様』のお仕組みだと思いましたので」
「しかし、ボヘミアのコンタツなど」
通訳された言葉を聞いてそうつぶやきながらも、ヴァリニャーノ師は懐から自分のコンタツを取り出した。それを見たゴンサーロの目は余計に輝いた。
「そうです。それです」
ヴァリニャーノ師もだが、私をはじめその場にいた司祭は皆首をかしげた。ヴァリニャーノ師のコンタツが、ボヘミアのロザリオなどという大それたものではないことは、誰もが知っている。
ただ、私がはっと気づいた。
「その石がベートロ・ディ・ボエミアですね」
そして、イタリア語でヴァリニャーノ師に言った。なるほどというような顔で、ヴァリニャーノ師はうなずいた。
かつて臼杵の城でドン・フランシスコにヴァリニャーノ師は自分のコンタツを見せ、その石がボヘミアン・グラスであることを話していたことがあったような気がする。そしてその時その場にいた人びとの中に、このゴンサーロもいたのだろう。
「このコンタツでしたら、どうぞ。でも、ほかにもっと困っていること、もっと必要なことがありますか?」
ゴンサーロは目に涙を浮かべてコンタツを押し戴き、首を横に振った。
「もうこのコンタツを戴けましたら、もうほかに何も望みはございません。屋敷も家財も、このコンタツに比べたらその価値は羽毛のごときものです」
そばにいた妻も、泣きじゃくりながら何度も礼を言っていた。
ゴンサーロたち若い夫婦には、しばらく教会で暮らしてもらうことになった。
そんな時またカブラル師が、私の袖を引いた。
「あの二人を置いておくのは危ない」
カブラル師は言う。またかと思ったが、とりあえず私はカブラル師とそばの部屋に入った。
私のような若輩者がこのような年長者に好悪の感情を持つこと自体おこがましいが、ヴァリニャーノ師と互いにあまりいい感情を持っていない相手だけに身構えてしまう。
「どういうことでしょうか」
私は床に座りながら聞いた。
「あのゴンサーロとは、ほら、ここに来る途中で岡という城にて志賀殿という殿に会ったでしょ」
「ああ、あの我われをあまり歓迎してくれなかったあの」
「ゴンサーロはあの弟ですよ」
それは意外な事実だったが、それがどういうことを意味するのかすぐには分からなかった。
「あの志賀殿の妻は、ジェザベルの連れ子でしたよね」
たしかに、ジェザベルがドン・フランシスコと結婚する前の、以前の夫との間の娘だったと聞いた。
「それにあのゴンサーロの妻のコインタは、ドン・フランシスコの今の妻のジュリアの娘、つまりジュリアの連れ子なんですよ」
どうも複雑な血縁関係だ。
「そしてあの時、我われが岡の城に泊まった時に、洗礼を受けたいと言ってきた若者がおりましたな」
「ああ、志賀殿の長男の太郎殿でしたね」
「最近、太郎殿はどうも叔父にあたるドン・ゴンサーロとしきりに手紙のやり取りをしている様子で、当然そのことはその母親の口から太郎殿には祖母に当たるジェザベルの耳に入るでしょうな。昨年の暮れの多くのジェザベルの縁者の受洗といい、太郎殿とドン・ゴンサーロとの手紙のやり取りなど、もうこれ以上ジェザベルが黙っているとは思えない。前にもそれは言いましたよね」
たしかに、カブラル師はナターレのミサの後でそのようなっことを言っていた。
「ほらごらんなさい。動き出したでしょう。ジェザベルは」
「え? まさか?」
今回のドン・ゴンサーロの屋敷の火事は、ジェザベルの放火だとでもいうのだろうか。そう思っただけでカブラル師は言った。
「その通りですよ。それしか考えられないでしょう」
「え?」
「明け方近くの、皆がまだ寝ている時分の、火の気も全くない時の火事ですよ」
私はどう答えていいかわからなかった。
「だからあの二人をこのまま教会に置いておくと、この教会も危ない。いや、そうでなくても危ないのに」
私はしばらくうつむいて、黙っていた。
「ヴァリニャーノ神父は私の言うことを聞かない。あなたからそう申し上げてくれませんかね」
そんなカブラル師の言葉は耳を素通りして、私はあることを考えていた。そして、さらに時間がたってから目を上げて言った。
「分かりました。なんとかしましょう。いや、なんとかではなく、はっきりと……。私はジェザベルに会ってみたいと思います」
「ええっ!?」
あまりにもカブラル師が大きな声を出すので、こちらも驚いてしまったくらいだ。
「会ってどうする?」
「ことの真偽を確かめたいと思います」
「何を考えている? あなた、殺されますよ。私自身、あの女のために何度身の危険を感じたことか」
「『列王記』のジェザベルは預言者エリアを殺そうとしましたけれど、殺せませんでしたね。ま、私は預言者ではないから殺されたら殺されたで、それも殉教ですよね」
まだ何か言おうとしているカブラル師を後に、私はもう立ち上がっていた。
3
その足で、私はヴァリニャーノ師の元へ行った。当然、ヴァリニャーノ師も反対した。
「しかしこのまま何もしなければ、ただ危険にされされて恐怖におののいているだけになってしまいます」
「いや、誰も恐怖におののいてはいないけどね、しかし、」
「誰かが何かをしなければいけないでしょう。だからといって、私の独断で行動するわけにもいきませんから、どうかお許しを下さい」
ヴァリニャーノ師は少し目を伏せてから顔を上げた。
「分かった。ただ……ヤスフェを連れていきなさい」
それだけをヴァリニャーノ師は言った。
ジェザベルが住んでいる場所をカブラル師から聞きだすと、驚くほど教会から近かった。教会のすぐそばを流れる川の少し上流のあたりの橋を渡り、坂を上って町はずれの山道に入ったあたりにある古い屋敷だという。
行ってみるとそこはもう屋敷というよりも塀も門も朽ち果てたあばら家同然であった。だが、庭だけはそれなりの大きさはあって、かつては立派なお屋敷だったような気もする。
建物はもう本来あったものの一部しか残っていないようで、冬だというのに枯れた草が庭にまるで敷き詰められているようだった。
私はヤスフェと、もう一人日本人の若い修道士を連れていた。もうかなり日本語には自信がついていたが、やはり込み入った話になると細かいヌアンスが伝わらなかったりする。
庭に入ると、修道士が中に向かって声をかけた。
「お頼み申す」
すぐにみすぼらしいなりの老婆が出てきたが、我われの姿を見ると、腰を抜かさんばかりに、転がるようにして中へ戻っていった。
中の声は、外まで筒抜けだ。
「ちゃあ、まあ! バテレンが、バテレンが来よったがえ。鬼ばつれちょって」
鬼とは、ヤスフェのことだろう。すると、その老婆の声に対する別の声が聞こえた。
「何ごとです? せわしかことですね」
気品ありそうな声だ。老婆はもう一度、バテレンが鬼を連れて来たと言うと、我われの立っている庭のいちばん近い縁側越しの障子がサーっと開いた。底には五十代くらいの、明らかに身分のありそうな女が立っていた。
私もヤスフェもミサの時のように片ひざを地について跪き、腰を折って頭を下げた。日本人修道士は土下座して何か言いかけたが、縁側に立った女はそれを手で制した。
「何をしにまいった? 私の落ちぶれた様子を見て、嘲笑いにでも来ましたか?」
ゆっくりと、女は言う。今でこそ老人の域に達しているが、若い頃はかなりの美人だったのではないかということがうかがえる。
この人こそ、我われがいうジェザベルに違いない。しかしまさか「ジェザベルですか?」と聞くわけにもいかないし、聞いたところで通じない。
すると修道士が言った。
「丹生島の大殿の、前のお内儀でございますね」
女は笑いだした。
「やはり、前の、でございますか」
そう言ってから笑いを消し、女は少しうつむいた。
私は驚いていた。皆が悪女ジェザベルの名でこの女を呼ぶし、特にカブラル師の話などから形作られた印象はものすごく恐ろしい形相の、それこそ悪魔のような女かと思っていた。
カブラル師もフロイス師もジェザベルという呼び方のみならず、彼女のことを怒り狂う雌ライオンとも呼んでいたのだ。それが実際は物静かな、気品のある顔立ちの貴婦人である。
「少し、話がしたい」
私は直接日本語で言った。
「バテレン様が今さら、何の話でしょう?」
「あなたの気持ちを聞きたい。どうして、火事をしますか? どうして、キリシタンに反対しますか?」
女は薄ら笑いを浮かべ、静かにその場に座った。
「火事? 何のことでしょう? それより、私からもお尋ねします。あなた方は何をしにこの国に来たのですか?」
「人びとの魂を霊的に救うためです」
「救うとは?」
「死して天国へと導き、やがて世の終わりに最後の裁きによって、永遠の命を得るようにすること」
「お待ちなさい」
ぴしゃっと、話は遮られた。
「そのような余計なお世話をして頂かなくても、我われは弥陀にすがれば極楽往生できるのです。この国は神に守られた神国なのですよ」
「あなた方のいう神も仏も、いずれは死すべき人間ですよね」
「あなたが首から下げている十字架の像は、誰ですか?」
「イエズス・キリストです」
「その方も人間でしょう? 結局は最後は、邪教を広めた咎で死罪になったと聞いておりますが」
「イエズス・キリストは天地創造の『天主』の御一人子、十字架で死んでも三日後に蘇りました」
女はまた、笑いだした。
「あなた方はおもしろい人ですね。ご自分の宗派の開祖が死刑になって死んでいったところの像を首から下げて歩いている。みっともない姿をさらされて、あなた方の開祖のヤソとやらもお気の毒なことにねえ」
これ以上話しても納得はしてもらえないだろうし、また私の語学力ではそこまで自信がなかった。
「人を救うのが人を幸せにするということなら、はっきり言って間に合っていますわ。無事平穏に暮らしております。ええ、十分に幸せです。いえ、幸せでしたというべきかしら。あなた方が来るまでは」
その言葉の意味を、私はすぐに理解できなかった。
「あなた方がこの豊後にやってきて邪宗の教えを説きはじめるまでは、私はあの殿と仲睦まじく、幸せに暮らしていたのです。何一つ不自由なく、それは楽しい毎日でした。前の夫と死に別れ、小さい娘たちを連れた私を、あの人は優しく受け入れてくれた。娘たちもかわいがってくれて、そしてあの人との間にも今度は男の子がたくさんできました。本当に満ち足りた生活をしていたのです。ところが、あなた方が来て、あの人を狂わせてしまった。幸せだった日々をすべてぶち壊した。あの人だけではなく、息子までも取り込んで。私の、このお腹を痛めて産んだ子供たちが片っ端からキリシタンになっていく。挙句の果てには、孫までもがキリシタンになる。どうして、みんな邪教に染められてしまうのですか。日本は神の国だというのに」
女は一気にしゃべった。私はなんと返事をしていいか、適当な言葉が見つからずにいた。すると、女はどんどんとしゃべり続ける。
「私の実家は奈多八幡宮の宮司です。神に仕える家なのです。それなのにあの人は私にも『天主』とやらを信じろという。そんなことできるわけないじゃないですか。そうしたら突然、本当に突然、あの人は、あんなに優しかったあの人は私を棄てて出ていってしまった。それもこれもあなた方があの人に、変な入れ知恵をしたのではないのですか?」
「私たちの教えは、結婚した夫婦が分かれることを禁じています」
「それはおかしいですね。あの、カブラルとかいうバテレン、あれがそそのかしたのでしょう? 人の魂を救うとかあなたおっしゃいましたけど、あんな居丈高に、そして人を馬鹿にしたような態度のバテレンに人を救うことができるのですか?」
そのあたりのいきさつは、前にドン・フランシスコとヴァリニャーノ師が話したことである程度は知っていた。
たしかにあの時のカブラル師の行動には疑問はある。しかし、我われはカブラル師という個人に対して疑問を持つにとどまるが、外から見ればそれが教会全体に対する批判の目になってしまうのだということを実感した。
「突然私を棄てたあの人は、キリシタンのために私を棄てたというのならまだしもさっさと他の女と結婚して、しかも全く知らない女ならよかったのですけれど、私に仕えていた女ですよ。私が目をかけ、かわいがって、引き立ててあげた女ですよ。それが私を裏切って。泥棒猫みたいに人の夫を横取りして、しっかりとキリシタンになっている。こんな気持ち、分かりますか? 私はあの人に棄てられて、何度も死のうとしたけど死ねなかった。そうよ。あの人が私を棄てたのではない。あなた方が、キリシタンが私からあの人を奪った。幸せも奪った。私の何もかもを奪い去っていった。あなた方がどんな遠くから来たか知らないけれど、この国でつつましやかに、平和に暮らしていた私たちの幸せを奪う権利があなたがたのどこにあるのよ! あなたがたが人を救うというのなら、私の幸せを返してください。総てを返しなさいよ! あの人を返して!」
最初は冷静に淡々と話していたが、そのうち涙交じりになり、ここまで言ったあと女は袖を目がしらに当てて、涙を流して泣きだした。隣で、最初に出てきた老婆も、一緒になって泣いていた。
そしてその老婆が、いつまでも泣きやまない女の身をかばいながら目を上げ、我われをにらみつけた。
「もう気が済んだじゃろうが。早く帰っちょくれ」
そう叫ぶ老婆の隣で女はいつまでも、泣きじゃくり続けていた。
「憎い! 憎い! キリシタンが憎い! バテレンが憎い!」
もうこれは、退散するしかなかった。帰り道、ヤスフェとも修道士とも何も話さず、私は無言で歩いた。歩きながら考えた。
私たちがこの国でしていることは間違ってはいないと思う。あの女とはどこで齟齬が生じてしまったのか……。今は我われの至らなさゆえに、『天主』のお顔に泥をお塗りしてしまったような結果になっていることを、まずは『天主』に詫びなければならないだろうと思う。
しかし同時に、ある聖句が頭の中によぎる。
「我、地に平和を与へんために来たると思ふか。我、汝らに告ぐ。然らず、反って分裂なり。今より後、一家に五人ならば三人は二人に、二人は三人に分かれ争はん。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑嫜は嫁に、嫁は姑嫜に分かれ争はん」
はっきり言って、謎のみ言葉である。実は私は、このみ言葉がずっと引っ掛かっていた。なぜなら、別の箇所ではキリストは、「我、平安を汝らに遺す、我が平安を汝らに与ふ」とも言っているからだ。
その両者は一見矛盾するが、前者は共観福音書にあるみ言葉で、後者は特異な「ヨハネ伝」にあるのだから福音書記者の観点が違うといってしまえばそれまでだ。疑問に思って先輩の司祭に質問しても、返ってきた答えはそのようなことだった。
ただ、私は前者の、キリストが与えるのは平和ではなく「分裂だ」の方のみ言葉は、今日の、今さっき体験したこういうことを指しているのではないかと、ぼんやり思った。
キリストを信じるか否か、キリストを受け入れるか否か、そこではっきりと線が引かれ、分裂が生じる。そのどちらを選ぶのか、明確な答えを出すことが我われ人類には課せられているのだ。
どっちつかずは許されれない。そういうことではないかとも思ったが、み言葉一つ一つには人知で計り知れない深い奥の奥があるのかもしれない。
だから、このみ言葉に関してははっきり言ってまだよく分からない、理解できていないというのが正直なところだった。
とにかくは、あの夫人の幸せを『天主』にとりなし、『天主』に願うしかないと考えていた。
教会に戻ってからヴァリニャーノ師に報告には行ったが私は多くは語らず、「大変厳しい状況でした」とだけ伝えておいた。カブラル師やフロイス師には、無論何も言わなかった。
4
そうこうしているうちに季節は少しずつ春めいてきて、すぐに3月となった。
いよいよこの豊後を離れて都へと出発する日が近づいている。
我われは最後の挨拶に、臼杵の城に登城してドン・フランシスコと面会した。
彼と話しながら、私は彼の例の前夫人のことを思い出していた。彼女には本当に幸せになってもらいたい、「列王記」のジェザベルのような非業の死は遂げてほしくないと心から願った。
ドン・フランシスコは、都の近くの堺という町まで船を出して我われを送り届けてくれることを申し出てくれた。ただ、船は臼杵ではなく府内からしか出ないというので、我われはもう一度府内に戻らねばならないことになる。
それだけでなく、ドン・フランシスコは気になることを言い出した。
ドン・フランシスコが頼んだ船の主はとある海運業者の船頭で彦左衛門というが信徒ではなく、それどころか今の日本でいちばん大きな勢力となっている一向宗という仏教の宗派の門徒なのだという。
「一向宗というと摂津という所に大きな寺を構えている一大勢力で、その力は強大であり、安土の織田信長公にとっても対抗勢力となっているくらいです。だから気がかりなのですが、今のところ出せる船はその船しかないのですよ。ま、自分で言うのもなんですが、彦左衛門は私がキリシタンということは抜きにして、ずっと昔から私を慕ってくれている人ですから大丈夫だろうと思うのですが」
そこですかさずヴァリニャーノ師はにっこり笑った。
「船を出して頂けるだけでも光栄の至り。あとのことはすべて『天主』に委ね、お任せするのみです」
そんな内容を、フロイス師に日本語で伝えてもらっていた。
ところがさらに我われは、ドン・フランシスコから気になることを聞くことになる。
「実は皆さんが恐らく寄港するであろう塩飽の宿の主から文がまいりまして、ちょっと面倒なことになっています」
「宿の主とは、あのジョアンですか?」
フロイス師が日本語で尋ねると、ドン・フランシスコは首を縦に振った。
そこでフロイス師はヴァリニャーノ師や我われの方を向いた。
「ジュアンとは塩飽という島の船宿の主です。もう八年ほど前になりますか、カブラル神父が都に向かう途中にこの島に立ち寄った際に病気になって八日間逗留し、その間いろいろと親切に世話してくれた人です。その時にカブラル神父から洗礼を受けて信徒になり、その後も都と豊後を船で我われが行き来するときには必ず立ち寄り、彼もまた我われにとても親切にしてくれています。私が都から豊後に来た時も塩飽で船の便がなくて困っていたら、いろいろと便宜を図ってくれましたよ。今回も当然そこに寄るつもりでおりましたが」
そう説明してくれてから、ドン・フランシスコから聞いたジュアンの手紙の内容を伝えてくれた。
それによると、我われが瀬戸内海を通って都に向かうことが、なぜか毛利の殿の耳に入っているという。かつて安岐の城に立て籠もっていた大友への反乱軍に対し、援軍として船手衆を送ってきた殿だ。大友の船手衆との海戦を、私が目の当たりに見たあの相手である。
その毛利の殿の領地には、あの山口が含まれる。かつてフランシスコ・ザビエル師が日本での福音宣教の拠点としていた教会があった地だ。あの頃の領主は大内殿といって、信徒にはならなかったがザビエル師の布教には好意的であった。
しかしその大内殿は家来の陶殿に討たれ、さらにその陶殿を討って山口を含む地方を今領有しているのが安芸の毛利殿である。
家来が主人を討ってのし上がり、さらにその家来に討たれる…今の日本ではそのような状況が横行しているといってもいい。これを下剋上というそうだ。その毛利殿は大友を敵視しており、これまでも実際に毛利と大友は何度も戦争をしてきたらしい。
そんな毛利だから教会の布教を認めるはずもなく、今や山口の教会は司祭も不在で信徒だけが取り残された形になっているという。
だから、大友の船に乗って我われが領内を通過するとなると、毛利は黙っていないというのだ。
「その宿主からの文によると、もしその港にバテレン一行の船が寄港することがあれば直ちに捕らえよという命が毛利殿から下されたということです。だから、くれぐれも今回は塩飽には寄港しないようにとのことでありました。そこで、私は皆さんを堺まで送り届けるように命じた彦左衛門にも、毛利の領内の港にはなるべく立ち寄らぬよう、また塩飽にも寄港しないようにと指示しておきました。しかし、なにぶんにも一向宗門徒ですから心配ではありますので、皆さまもくれぐれもお気を付けください」
そういうドン・フランシスコも心配そうであった。
こうして3月になってすぐ、我われは臼杵を後にした。我われとはヴァリニャーノ師とメシア師、トスカネロ兄、フロイス師、ヤスフェ、昨年末に洗礼を受けたジェロニモ伊東の七人だった。
思えば私が日本に来てから、いちばん長い時間を過ごしたのがこの臼杵の町だった。
府内に着くと、半年ぶりなだけに府内の町がやたらと懐かしく感じられた。やはりここは臼杵と違って町並みが東西と南北の真っ直ぐな道が縦横に条理的に規格されているので、広々とした感じがした。
遠くに山はあるものの平野の部分が広くて、臼杵のように山に囲まれている町ではない。
ここで目に着いたのは、大友の殿の屋敷に隣接する教会のすぐそばに、すでに学院の建築が始まっていて、外観はほぼ完成しているといってもよかった。臼杵の修練院よりも一回り大きい白亜の三階建てで、これも外観からは分からないが、総てが木でできた木造建築だった。私がかつて学んでいたゴアの聖パウロ学院に比べたら規模ははるかに小さいが、それでも周りの建物を十分に凌駕し、圧倒していた。
こちらは今年の9月開校を目指しており、院長はすでにビルヒオール・デ・フィゲイレド師に決定していた。
当面はポルトガル人修道士への日本語の講義のほかは、人文科学の講義が行われることになっている。この学院には、ポルトガル国王から多額の運営資金が下賜されることになっているという話だ。
今回、フナイに滞在する期間は長くはないが、ヴァリニャーノ師はフィゲイレド師および学院で教学に当たることになっているかつては臼杵にいたアントニーノ師に対し、こちらもすでに臼杵から府内に来ていた養方軒パウロ老人と協力して一刻も早く日本語とポルトガル語の辞書を完成させるように指示した。
養方軒パウロ老人は、臼杵で私が日本語の特訓を受けた日本人説教師だ。
その後、すでに屋敷に戻っていた府内の殿、すなわちドン・フランシスコの長男、五郎義統殿に挨拶のため、屋敷へと出向いた。前に戦争の陣中で会って以来で、屋敷で会うのは初めてだ。
ここでは型どおりに、平伏している我われの前に五郎殿が現れた。
「面をお上げください」
そのひと言で顔を上げて、我われは久しぶりに五郎殿と対面した。挨拶の言葉も本当に形通りのふた言み言で、我われに接する接し方は親子といえどもドン・フランシスコとは雲泥の差であった。




