Episodio 8 Primo Consiglio dei Sacerdoti(第一回司祭協議会)
1
翌日、ドン・フランシスコは茶の会で言っていたように、安岐城包囲戦に臨んでいる長男を支援するために出陣していったようだった。
我われもその翌日から、臼杵の教会の司祭館にて三か所に分けての司祭協議会の第一回目となる豊後協議会に臨んだ。
この時も、椅子の席が用意された。
有馬での予備会談の時は私はオッセルバトーレだったが、今回からは正規の参加者だ。
全員で協議会開始の祈りをささげた後、あいさつに立ったヴァリニャーノ師は、重大事項の発表があるということで咳払いをして話し始めた。カブラル師は、そのヴァリニャーノ師に視線すら合わせようとはしない。
椅子から立ち上がったヴァリニャーノ師は、一同を見渡した。有馬の予備会談に参加していた者以外は、何の話があるのか息を呑んでいた。
「このたび、かねてより申請しておりました日本管区の創設について総長より回答があり、巡察師である私に一任ということになりました。そこで、このことについて皆さんのご意見をお伺いしたい」
府内から来ているフィゲイレド師が手を挙げた。
「これまで日本はマカオ教区に属しておりましたが、管区となりますと教区より上部組織となりますから、マカオ教区からは切り離されるわけですか?」
一度座っていたヴァリニャーノ師が、返答のためにまた立ちあがった。
「そうなります。しかし、すぐにというのは無理でしょう。当分は現状を維持しつつ、日本が正式な管区になった暁には逆にマカオ教区は日本管区に組み込まれるようになる、いや、私そう計画しています」
場内がざわめいた。それは素晴らしい話だという声と、かなり無理があるのではないかという話とがあちこちでささやかれていた。
「日本の管区としての独立は、私は賛成です」
はっきり言ったのはフロイス師だった。それでも、人々はまだざわついていた。
「皆さん、お静かに。もちろん今すぐの話ではありませんから、ゆくゆく情勢を見て判断したいと思います。それともう一つ、お話があります」
すぐに一同は静まり返った。
「管区となると、管区長が必要です。本来ならばこれまで日本全体の総布教長を務めてこられたカブラル神父にそのまま管区長をして頂くのが筋なのですが」
ここで一度ヴァリニャーノ師は言葉を切って、少し間を置いてからまた話し始めた。
「カブラル神父はこれまで長年にわたる苦労を重ねてこられて、お年もお年ですし、たびたび体調を崩されて寝込まれることもしばしばです。それで、実は」
またここで、ヴァリニャーノ師は間を置いた。
「カブラル神父からはこのたびイエズス会総長と私宛てに、総布教長の職を辞任する旨の申し出がありました」
一同からは前にもましてざわめきが上がり、しばらく収まりそうもなかった。
「カブラル神父はここで総布教長の職を辞して、より自由に霊的修練に専念したいとの意向でした。そこで私はイエズス会総長の御名の元に、カブラル師の体調を鑑み、カブラル師の辞任を受け入れることとなりました」
人びとのざわめきはますます高まった。当のカブラル師は中腰まで立ち上がって、軽く礼をしただけだった。
ざわめきが静まるまでヴァリニャーノ師は少し待ってから、話を続けた。
「今後の人事ですが、新しい総布教長はまだ決まっておりません。それまでは、しばらくの間カブラル師に総布教長代行をしてもらいたいと思います。詳しくは追ってお知らせします」
そこまで言うと、ヴァリニャーノ師は座り、座ったまま話を続けた。
「それでは、議題に入っていきたいと思います」
そうして始まった協議会は、前の有馬での予備会議と同じ議題であった。
まず、すでに有馬に存在している神学校とは別に、この豊後にも修練院や学院を創設していくということである。
「この臼杵の教会の司祭館には多くの修道士と、日本人の同宿がいて小規模ながらも修練院の形態をなしています。しかし、この臼杵の殿のドン・フランシスコより我われは新たな土地と建物を頂くことになりました。この協議会が終了次第、新しい修練院の建築に入ります。さらにはもっと大きな教会も建ててくださるそうです」
人びとは、歓喜の声を上げた。イタリア語でいう修練院――ポルトガル語ではノビシャド――は、イエズス会に入会した者が最初の段階の修練期の訓練を受ける場所だ。私が修練院にて訓練を受けたのはローマにおいてであり、その時の教官がヴァリうニャーノ師だったのだ。
「修練院があれば当然、学院も必要になります。この臼杵の町はいささか手狭なので、私は豊後の学院は府内に建設しようと考えています。ここでは聖職者のさらなる教養と学問のための教学が行われますが、日本の学院は宣教師だけでなく、日本人を対象としたものを考えています」
「質問があります」
野津教会の恰幅のいいモンデ師が手を挙げた。
「教学内容はどこまで教えるのですか? ラテン語のみですか? 神学や哲学も含まれるのですか?」
これは、予備会議でも意見が割れたところだった。
「そのことについて、私は皆さんに諮りたいと思っております」
ヴァリニャーノ師が言うのでいろいろな意見がそのあと出たが、カブラル師の発言はなかった。
結局は、当初は語学習得に力を入れるが、後に豊後にも神学校を開いて語学習得はそちらに任せ、学院では日本人学生にも神学、哲学ばかりでなく自然科学、音楽、美術、演劇、体育などの高等教育を受けさせるところまで将来的に持っていくということになった。
「私は、日本人がいつまでも受け身で我われ宣教師から教えを受けるのではなく、日本人の司祭をも早急に養成して教えを広めていくべきだと考えます。日本人ならできます。日本人は私が巡ってきたどの国の人びとよりも優秀で、勤勉であり、霊性が高い。まずはこの豊後から手始めに、次第に日本全体に広めていくべきだと思います。そちらの方面は、日本人の能力を過小評価する間違った考え方によってこれまで停滞していましたけれど、これからはまずそこから手をつけていかねばなりません」
私が学院で学んだのは、ゴアにおいてであった。だが、ゴアの学院にはインジャの現地人の学生など全くいなかった。府内に学院ができたら、マカオにもまだ学院はなかったのだからマカオの先をいくことになる。
もっともマカオでも、近々学院を設置する予定があることは聞いていたので、どちらが先になるかは『天主』のみ意に委ねるしかない。
それからも、有馬の予備会議と同じ議題での論議が続いた。やはり人数が多いといろいろな意見が出るので時間が長引き、会議は四日にわたって続いた。
聖職者の服装の件、会の財源の件、日本への司教着座の件、福音宣教の重点を信徒拡大と既存信徒の養成のどちらに置くかの件、日本人同宿への接し方の件など有馬と同じ議題に加えて、イエズス会以外の修道会が日本での福音宣教を開始した場合、どう対処するかの問題も出た。
まだ日本にはイエズス会以外の修道会は来ていないが、フィリピーネにはフランシスコ会やドミニコ会も入っており、いつ日本に来てもおかしくない。
同じローマ公教会の修道会なのだから彼らが日本で教えを広めるのは問題ないはずだが、その二つの会はフィリピーネのスパーニャ総督の息がかかっている。彼らが来ると、ポルトガル人が大多数を占めるイエズス会とは、修道会としては本来あまりかかわるべきではない世俗の国際政治的問題にも発展する可能性もある。
つまりスパーニャとポルトガルの航海領域に関する条約などと微妙に関係してきて、問題が生じる恐れがあるのだ。
この議題だけに、会議三日目のまる一日が使われた。やはり今の状況でほかの修道会が日本に来るのは、その修道会が悪いとかそういうことではないにしろ、好ましくないという結論に達した。
中には、ポルトガル国王に依頼して圧力をかけてもらうという案も出たが、修道会の問題の解決を国家権力に頼るということに抵抗があるという意見もあった。あくまで聖職者のオルゴーリョを持って、世俗の力をあてにするなどということは考えるべきではないというのだ。
ほかにも、ゴアのポルトガル副王からスパーニャのフィリピーナ総督に圧力をかけるという案も出たが、これは逆に国際問題勃発の危険性を高めるということだった。
そうなると、世俗の力ではなくあくまで聖職者の中で、それでいてポルトガル国王よりも大きな力を持つ存在となると、これはもうローマ教皇しかない。
ことが他の修道会との関係だけにイエズス会の総長でもどうにもならないから、総てを統括する存在にイエズス会の日本における福音宣教の独占を保障してもらうしかないという案が出て、最終的にはこの案に落ち着いた。
そして最後に、日本の風習の中にいかに溶け込んだ形で福音宣教をするかという問題だった。
「かつての布教長であったトーレス神父は、福音宣教の最上の方法はその国の文化の中にこちらが入り込み、溶け込み、同化して、その上で宣教活動をするというもので、それでかなりの成果を上げていたのです。トーレス神父がザビエル神父とともに初めてこの国に来た時は、一つの教会、一人の信徒もいなかったのです。そこから始めて、十年前にトーレス神父が天草で帰天されたた時は、もう何万という信徒がここ国では増えていました。トーレス神父は日本語を話し、日本の食べ物を食べ、日本の着物を着て過ごしました。一時そのやり方が中断していましたけれど、私はそのやり方を復活させるべきだと思います」
この問題に関してもだいぶ意見が出たが、最終的に決め手になったのはヴァリニャーノ師の次の発言だった。
「いみじくも聖パウロは、その書簡の中で次のように述べています。福音宣教に当たって聖パウロは、〈我ユダヤにはユダヤ人のごとくなれり、これユダヤ人を得んが為なり。律法の下にある者には――律法の下には我はあらねど――律法の下にある者のごとくなれり。これ律法の下にある者を得んが為なり。律法なき者には――我『天主』に向かいて律法なきにあらず、反ってキリストの律法の下にあれど――律法なき者のごとくなれり。これ律法なき者を得んが為なり。弱き者には弱き者となれり。これ弱きものを得ん為なり。我すべての人には凡ての人の状に従えり、これ如何もして幾許かの人を救わん為なり〉と述べていますね。皆さんもご存じの、第一コリントです。そうです。我われも日本人のごとくなりましょう。我らは日本人にはあらねど。これ、日本人を得んが為なり…です。日本人の魂を救うためです。そのためには、心は日本人になりきることです」
トーレス師の適応主義を見事に裏付け、その精神を端的に表していた。これで、ヴァリニャーノ師に同意する司祭がほとんどとなった。
最後の締めくくりの言葉を述べるために席を立ったヴァリニャーノ師の顔は、今までに見たことがないくらいに輝いていた。
「今、私の心は大いなる慰めに満ちています。正直、ちょうど一年前にこの国に初めて来たときは、その現状に打ちのめされ、どうして日本における福音宣教はこうも壊滅的状況にあるのかと嘆いたものでした。しかし今は、喜びに満ちています。近い将来において、日本のイエズス会とキリスト教会はさらなる発展を遂げるものと確信しています」
それに対する拍手喝采で、四日間の会談は終割った。翌日は主日のミサがあって、ヴァリニャーノ師はこのような『天主』の仕組みに深々と感謝を捧げていた。
2
こうして今の教会のすぐそばの川岸近くに、修練院の建築が始まった。木材もドン・フランシスコが提供してくれたし、大工はわざわざ都から呼び寄せてくれるという。
そうなると実際の建築はその後ということになるから、まだ十日ほどありそうだった。
その十日の間はちょうど雨が降り続き、しかもバケツで水をひっくり返したのではないかと思われるような大雨の日もあれば、さらに風も増して暴風雨の日もあった。
聞くと日本では、だいたい九月から十月にかけて時折暴風雨の日があるのは年中行事だそうだ。
だが、そんな大嵐の翌日は、あたかもノアの大洪水の後に『天主』は大いなる契約の虹を示されたがごとく、虹こそ出てはいないが必ず雲ひとつないような穏やかな晴天となる。
たしかに今回の嵐では、あとから伝え聞いた話によるとここからずっと東の越中という所では大きな河川が氾濫し、富山という町のほとんどが洪水に流されてしまったとのことであった。
そしてようやく雨が続くような日々が終わった頃に、修練院の実際の建築が始まっていった。
その時期に、ヴァリニャーノ師はとにかく日本語を完全マステリッザートするよう私に命じた。ミサはラテン語で挙げればいいにしても、説教をしたり告解を聞くことは日本語が分からないとできないからだ。だからこそ私自身も、日本語がもっともっと上達しなければならないと実感していた矢先だった。
そこで、修練院の建設と競争する形で、私の日本語の特訓が始まった。講師は日本人の説教師で、養方軒パウロという七十二歳の老人だった。普段は府内にいるのだが、我われの日本語特訓とさらにはヴァリニャーノ師の用事があるとのことで臼杵に呼び寄せられていた。もう信徒になってから十年たつという。
そして日本語以外はほとんど話せないというのも、私にとっては語学の特訓のためにはうってつけの教師であった。
私のほかにも数人、修道士が日本語を学んでいたが、その中でもいちばん若いジョアン・ロドリゲスという二十歳の神学生はこの年にイエズス会に入会したばかりだということだった。
商人である父親に連れられて十四歳でポルトガルを離れ、ゴアやマカオを経て三年前に日本に来たが、都や府内で教会に通ううちに召命を感じ、イエズス会の門を叩いたのだという。
もうかなり日本語に精通しているようだったが、私と共に養方軒パウロに鍛えられて、さらに日本語力を磨きたいとのことだった。
マカオで日本語を学び始めてから一年以上になるが、やはり日本人から学び、日本語の中で生活していると上達は違う。ほかにも主日のミサの後などは、集まって来た臼杵の町の信徒の日本人を積極的につかまえては会話をすることによって日本語力を磨いていったし、何よりもこの地方独特の言葉にも慣れなければいけないので、練習台がいるのはいいことだった。
養方軒パウロは我われへの日本語特訓のほかの時間は、よくヴァリニャーノ師の部屋に赴き長時間出てこないこともしばしばだった。
秋が深まっていくと、修練院の建築もどんどん進んでいった。修練院は三階建てだ。この国では城の櫓以外は三階建ての建物というのはめったにないので町の中でもひときわ目立つ存在となり、その白い壁と窓をすぐ下を流れる川の川面に映していた。
ところが驚いたことに、外観はエウローパの建物のように白い壁だが、総てが木でできた木造建築なのである。
司祭館の方は全くの日本式建築であった。これまで長崎や有馬、そして府内の教会なども皆日本式建築だったが、それは既存の建物、例えば府内の場合は大友殿ドン・フランシスコの以前の屋敷の建物をもらったものだし、有馬はもともと仏教の寺だった建物をもらってそのまま使っていた。だから日本式建築でも仕方なかった。
だが、ここ臼杵では全く新しく新築するのに日本式建築で、実はこれはヴァリニャーノ師の指示によるものだということだった。
これまでゴアでもマカオでも、教会関係の建物はすべてローマやリスボンにあるのと同じ建築様式で、だからこそ遠いゴアやマカオにいてもリスボンと同じような建物で暮らしていたので違和感はなかった。
だがここでヴァリニャーノ師がそのような指示を出したのも理解できる。徹底的に日本文化に溶け込み、適応し、それを日本での福音宣教の糧とするというのが師の考えだからだ。
そしてなんと驚いたことに、我われが臼杵の城に登城した時にドン・フランシスコから日本の茶をふるまわれたあの茶室も司祭館の中には設けるという。茶室は日本においては客人をもてなす最高の設備だから、どうしてもなくてはならないということだった。
ただ、御聖堂だけは妥協せず、エウローパのそれと同じ様式にした。建築している大工さんがたにとっては、自分が見たこともないものを作れと言われているわけだからさぞかしたいへんだっただろうが、文句も言わずに着々と工事を進めていってくれていた。それでも床は畳敷きだった。
これまでも仏教の寺だった建物を教会として使用することがあったというが、日本の教会ではその寺の本堂だった建物を御聖堂にするということだけは絶対にしてこなかったという。
その頃、城の方から知らせが届き、十一月の中旬ごろにドン・フランシスコの長男が包囲していた安岐の城が降参し、反乱の張本人である田原親貫は内陸の鞍懸の城まで逃走したけれど、結局その城も降参して親貫は死んだという。
これで、昨年から続いていた一連の大友家への反乱分子は一掃されたことになる。臼杵も、そして府内も一応の平和を取り戻したことになるが、北からは竜造寺、南からは島津がまだまだこの大友家を狙っているので油断できないとのことであった。
ヴァリニャーノ師は我われの前に、めったに顔を出さなくなった。その部屋に時々呼ばれて行っているのが養方軒パウロなので、ある日、日本語の勉強がてらに養方軒パウロに聞いてみた。
「ああ、ヴァリニャーノ様は、とても大きな事業をしようとされております」
そう言って語ってくれたことによると、まずは「ドクトリーナ・クリスタン」と題して初心者向けの教材ともなるべく公教要理を分かりやすくまとめるという作業に入っているらしい。
ヴァリニャーノ師が語ったことを通訳を通して聴き、それを養方軒パウロがきちんとした日本語の文章として書きとめているのだという。まだ日本語訳聖書もできていないのに、日本人信徒は非常に熱心に何か書き記された教義書を要求したからだということだ。
また、我われにとっても、今後は福音宣教の過程で、日本の多くのほかの宗教の人びとと語り合う機会も必ずあるはずで、その時の指針ともなるべき書物ともいえた。
今後は増えるであろう日本人修道士が、キリストのみ言葉と教会の教義をよりよく知り、さらには新たなる信徒獲得のためよりよく教えられるようにするためのものでもあるらしい。
たしかに日本語訳聖書は早急に実現させなければならない課題ではあるが、すぐには困難な以上、初期教会の聖ペトロや聖パウロがまだ福音書が書かれていない時点でも福音宣教を成し遂げたその心意気で、あらゆる工夫を講じないといけないと私も感じていた。
さらにはヴァリニャーノ師は、我われのような在日外国人宣教師に対する福音宣教の指示、心得などの指令書も合わせて執筆しているという。さらには巡察師としてイエズス会総長に対し、この国での福音宣教についての報告書もしたためなければならないはずだ。そうなると、ヴァリニャーノ師はほとんど寝ていないのではないかとまで心配してしまう。
ヴァリニャーノ師がこうだから我われも当然のこととしてそれを手伝ったし、また時には教会の司祭の総力を挙げて取り込んでいるというような風景さえ感じられた。
そうして修練院が完成に近づいていったが、気候もどんどん寒くなっていき、町の周りの山々の木々の葉が赤や黄色に鮮やかに染まっていった。どこまで美しいのだこの国はと、感嘆の声を上げずにはいられなかった。
だが、朝晩を中心とした寒さには閉口した。日本の冬がこんなにも寒いとは意外だった。なにしろこれまで二、三年の間、一年中が夏しかないような国で生活してきたのだから、余計にそう感じたのかもしれない。
去年はマカオで久しぶりに冬らしい冬を越したが、それでもここまでは寒くなかった。




