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とある司祭(パードレ)の憂鬱(メランコリア) ~聖なる侵略者~  作者: John B.Rabitan
Capitolo 2 Attraversando Kyushu(九州横断)
12/96

Episodio 6 Campo di battaglia a Funai(府内の戦場)

                  1


 野津から府内までの道は最初は山道だったが、午後になってから急に視界が開けた。あとは、ほぼ平坦な道だ。時々森の茂った丘があり、また遠くにはさほど高くはない山並みが横たわって利しているが、道の左右は田んぼだった。ずっと川に沿って北上する形となった。

 やがて道は、その川を西へと渡り、またさらに北上した。進むにつれて、川幅はどんどん広くなっていく。


「もうここまで来れば、府内に着いたも同然です」


 カブラル師が馬上から一行を振り返っていった。


 たしかに道の両側の水田は少なくなり、民家が立ち並ぶようになった。

 そして夕日が左手の方から照りつける頃には、道は左右にぎっしりと家が立ち並ぶ大きな町へと入っていった。


 時々越える四つ辻の右の方はすぐに川で行き止まりだが、左の方へはさらに道がまっすぐに延び、ずっと民家が続いている。

 そんな道をいくつも越えた。人通りも多くなった。

 民家は平屋造りで屋根は木の板であり、大きな石がいくつも乗せられている。見渡すと大きな瓦の屋根の建物も時々あったりした。

 異教徒の礼拝所であるテラのようだ。


 私が日本に来て、初めて訪れる本格的な都市だ。都市の入り口から街の中をだいぶ歩いても、まだ目的地には着かない。

 時々商家と思われる大きな建物もいくつもあり、また市場と思しき場所は特に人が多かった。

 道も広く、どこまでも町全体に清潔感があふれている。

 驚いたのが割と広い道がどこまでもまっすぐに延び、そのようなまっすぐな道が縦横に組み合わさって町ができている。

 ローマやリスボンも、そしてこの国で私がこれまで行ったどの町も、道は複雑に入り組んでいた。こんなまっすぐな道が何本も縦と横にきれいに組み合わさってできた、いわばスカッキ(( チ ェ ス ))の板のような町など初めてだ。


 あのリスボンにはまだ及ばないであろうが、現在のローマの町よりかはかなり大きいようで、人口も数万人はいるだろう。

 もっともかつてのローマ帝国の都として繁栄を極めたローマも、今ではその頃に比べてかなり縮小され、人口も一万五千ほどしかいなくなっている。


 我われが行くと町の人びとは歩みを止めてじっと我われを凝視し、時々多くの人が寄ってきたりして人垣ができ、その視線の中を我われは進んだ。

 やはり我われのような違う顔つきの、違う服装の異国のものは珍しいのかなと思っていた。だが、カブラル師は馬上で独り言のように言う。


「やけに今回は人びとから好奇の目で見られる。私の眼鏡は見慣れているはずなのに」


 そういえばカブラル師は今回の旅の途中で、この国には眼鏡はないのでかつて町を歩いたら眼鏡を好奇の目で見られ、異国の宣教師は目が四つあると噂されたこともあると笑い話として話してくれたこともあった。


 しかしこの町には教会もあって司祭や修道士などの宣教師も多くいるはずであり、またポルトガルの商人もたくさんこの町には住んでいるということだ。なのになぜ今頃好奇の目で見られるのか……


 その原因はすぐに分かった。

 

 彼らが好奇の目で見ているのは馬上の司祭・修道士たちではなく、その後ろを歩くヤスフェの姿だったのだ。ヤスフェ見たさに噂も広がっているのだろうか、どんどん人も増えていく。


「バテレン様、あの顔が黒か人は何ですかあ?」


 おそらくカブラルのことをよく知っているのであろう信徒が問いかけてくる。


「あれは、警護です」


 メシア師が代わって答えたりしていた。


 やがて、道の先に大きな十字架が見えてきた。やっと目的地に着いたうようだ。

 近づくにつれて分かったが、ここは町も大きいだけに教会も大きい。

 どこかの殿の屋敷のような塀に囲まれて門があり、門は開いたままだ。中へ入ると完全に日本建築の建物があって、屋根は木の皮かなんかで葺いたような茶色だった。

 その屋根の上に、高らかと十字架が空にそびえていたのだ。


 まず、トスカネロ兄が中に入り、大声で巡察師一行到着の旨を告げた。すると突然どたどたと足音が響いて、大勢の人が急いで玄関まで出てきた。馬から降りて入り口で待機していた我われを迎え入れるかのように司祭が二人、日本式の履物の草履ゾーリをつっかけて玄関から降り、カブラル師とアブラッチ(( ハ グ ))を交わしてから、ヴァリニャーノ師を見た。


「こちらが巡察師ヴィジタドールですね」


 カブラル師に目で確かめてから、二人の司祭はまずヴァリニャーノ師と握手を交わし、それぞれ自己紹介をした。


「ビルヒオール・デ・フィゲイレドです」


「ルイス・フロイスです」


 二人ともカブラル師と同じ五十歳くらいの年かっこうで、名前からポルトガル人だと思われた。

 それからメシア師や私、そしてトスカネロ兄と次々に握手を交わし、我われもまたそれぞれ名前だけの自己紹介をした。

 私だけではなく他のメンブロ((メンバー))も、カブラル師をのぞいてはこの二人とは初対面だった。


 まずは馬をつないで、ヤスフェの待機場所を案内してもらってから、我われは靴を脱いで上がった。門を入ったところの玄関が司祭館で、御聖堂おみどうは敷地内にすでに新築されているという。


 中もまるで高貴な身分の人の屋敷のようで、いくつものタタミの部屋があり、また板張りの部屋もあった。そのうちのひと部屋に通されて、とりあえずは旅装を解いてくつろぐようにとフィゲイレド師は気を使ってくれた。


「すごい建物ですね、ここは」


 床に座って天井を見渡しながら私が言うと、カブラル師が少し笑みを見せた。


「もともとはこの府内の前の殿トノのドン・フランシスコの屋敷だった建物です。ドン・フランシスコがまだ殿になる前の若い頃に住んでいた屋敷だということですよ。それをもらいうけて教会にしたのです」


 そんな説明を聞いて、だから日本式建築なのだなと思った。

 外を見ると、庭も見える。エウローパの庭のような華やかさはないが、素朴で落ち着いたたたずまいだった。庭には複雑な形をした池があり、中島もあって赤い欄干の小さな橋で結ばれている。中島には岩がいくつも置かれ、うるさくない程度に松の木が植わっていた。


 そこでひと息ついてから、到着の感謝の祈りを捧げるために我われ一行は一度靴をはいて外に出てから、御聖堂おみどうへと向かった。

 同じ敷地内にはあったが、御聖堂は新しく白亜の壁の教会風の建物。それでも、やはり建物の形状や雰囲気はこの国の特色を持つ木造建築だった。

 ただ、屋根には鐘楼があって、エウローパ式の教会のカンパーナが吊るされていた。


 中はやはりタタミだったが、完全な教会の造りだった。ただ、敷地が塀で囲まれているがこの御み堂だけは入り口が外の道に面しており、塀の門をくぐらなくても外から入れるようになっていた。


 9月8日の木曜日に出発し、この日は十四日の水曜日だったから、カブラル師の言っていた通りちょうど一週間の旅だった。

 ようやく我われはその一週間の旅を終えることができた。

 しかしそれは私にとって一週間かけて場所を移動したというだけでなく、この国に来てから初めてのいろいろな貴重な体験をし、いろいろなものを見た旅でもあった。

 有馬アリマを後にしたのが、もう一年も前のことのようにも感じられる。


 御聖堂で祈りを捧げているうちに、空は暗くなった。

 さっそく食事だというので、食堂へと招かれた。食堂は椅子式だった。そして料理はなんと、エウローパの肉料理が出たのには驚いた。


「今日だけ、特別ですよ」


 聞きもしないのにフィゲイレド師は笑って説明した。

 上席にはそのフィゲイレド師とヴァリニャーノ師、カブラル師、ルイス師が並んで座っていた。

 フィゲイレド師がこの教会の長であるが、ルイス師は豊後ブンゴ布教全体の上長であるという。シモでいえばあのコエリョ師と同じ立場だ。

 その高名は日本に来てから時々耳にしていた。日本滞在が誰よりも長い司祭であり、日本語の流暢さは右に出る者がいないという話だった。ただ、どこか神経質そうな顔をしていたが、あまり顔色はいいとは思えなかった。


 同席していた司祭はスパーニャ人でほぼ私と同世代と思われるペドロ・ラモン師がいた。ほか、ポルトガル人の修道士イルマンはかなりの数いたし、日本人の同宿もけっこうな数にのぼっていた。



                  2


 翌日、本当ならばドン・フランシスコの長男であるこの府内フナイ殿トノ大友五郎オートモ・ゴロー殿に挨拶に行くべきところであるが、野津ノツで聞いた通り五郎殿は弟で信徒クリスティアーノのドン・セバスティアンとともに、反乱軍の首領の田原親貫タバル・チカツラが最後の抵抗をしている安岐アキの城を攻撃しに行っているので留守であった。


 ただ、一応形式だけでもということで、ヴァリニャーノ師はメシア師と私を伴って殿の屋敷に向かった。

 ルイス師も豊後ブンゴの上長として同行してくれた。それだけでなく、通訳もしてくれるというので大助かりだった。


 殿トノ屋敷マンションは教会と隣接していたが、教会は屋敷の西にあった。屋敷の門は東側だというので、回り込まなければならない。屋敷マンションは日本語ではヤシキというように、それはシロではなかった。


 町中の全く平らな土地に、わずかな堀と塀だけで囲まれた一角だ。石垣もない。それでもかなりの広さで、塀の向こうにはいくつもの屋根がそびえているのが見えた。

 屋敷の東側には河口間近のかなり大きな川がほんの少し先の所に横たわり、我われはその川に向かって開いている大きな門を入った。門から中央の大きな建物までまたかなり歩いた。


 建物に入り、大広間まで通されると、出てきたのは私と同じくらいの年かっこうの無骨そうな武士サムライだった。


若林わかばやし中務なかつかさと申す」


 殿トノの代理人であろうから、一応は殿トノに対するのと同じ礼をなした。

 そしてヴァリニャーノ師はルイス師の通訳があるので、今日はとうとうとしゃべった。

 そして、どうしても殿トノに挨拶がしたいので殿トノが敵の城を包囲している陣中へ行きたい旨を、通訳を通してヴァリニャーノ師は語った。


「それなら心配ご無用」


 若林ワカバヤシという武士が語るところでは、今敵は安岐アキの城に立て籠もっているが五郎ゴロー殿たちは包囲線を敷いているという。

 自分の城への立て籠もりを日本では籠城ロージョーというが、その包囲戦の目的は城内への食料補給を断つことである。だが敵の田原タバルは本拠地の国東クニサキ半島の方から海路で食料を補給している。なにしろ立て籠もっている安岐城が海辺にある城だから、それが可能となってしまう。


「そこで拙者が大友の船手衆を率いて出陣し、その海上補給路を断つ所存。明日か明後日にでも、風の具合を見て出発する予定でござる」


 船手衆フナデシューとは、海軍のことらしい。そしてこの若林殿の申し出は、我われをその軍船に乗せて五郎殿の元まで送り届けてくれるというのだ。


 これは願ってもない話なので、ヴァリニャーノ師は早速お願いする旨を伝えていた。なにしろ安岐城とは、馬で行っても途中で一泊しないと着けないそうだ。

 それに、これまでの旅とわけが違って、戦場へ行くのである。普通に陸路を馬で行ったらどんな危険が待ち受けているかわからない。


 翌日は風がなく、出発はもう一日延ばす旨を屋敷の方からの使者が伝えてきた。ちょうど一週間の長旅で疲れていたので、延期になったその日は十分な休養に当てることができた。

 ヴァリニャーノ師の目的は単に挨拶ではなく、カブラル師から聞いていた話を、本人に直接会って確かめたいということだった。つまり、五郎殿の受洗延期の真相と、その後に再び堕落したという話の真偽である。


 その次の日、17日の土曜日に、ヴァリニャーノ師とメシア師、トスカネロ兄、そして私は港へと向かった。カブラル師は、どうしても行かないと言って動かなかった。

 そもそもカブラル師にとってはこの豊後の地がこれまでずっと長く暮らしたいわば本拠地で、やっと帰ってきたという感じだろうし、さらにはどこに行くにも土地勘があって勝手を知っているがためにどこにでも自由に行かれる。だから、他に行きたい所ややりたいことが山ほどあるらしい。

 フロイス師とのつのる話もあるとのことだった。


 港までは歩いてもすぐだ。そこですでに数隻の軍船が止まっているのを見た。

 軍船といっても関船セキセンと呼ばれる木でできた箱型の船で、普通の船の甲板に当たる所の上に木の板の壁でできた船と同じ大きさの箱が乗っている。その上が甲板だ。

 ポルトガル海軍の軍艦などとは比べようもないくらいに小さかったが、それでもこの国では十分巨大な船なのだ。ほかに同じ形だけれども半分くらいの大きさの船がかなりの数で、関船の周りを取り囲んでいた。


 その周りを囲んでいる船のうちの一艘に、ヴァリニャーノ師とメシア師、私、トスカネロ兄の四人は馬と共に乗りこんだ。さらには万が一の時のためにと、ヤスフェも同行させた。


 船には多くの兵士と馬が乗りこんでいた。その中で我われは小さくなっていたが、かなり窮屈ではあった。

 船の漕ぎ手は漁民たちのようだった。平時は海に漁に出ているが、こういった戦争の時は借り出されて軍船の漕ぎ手か、あるいは船手衆の兵士になるようだ。

 そもそも戦争で指揮を執るのは武士だが、実際に戦う数多くの兵隊たちは皆農民なのだそうだ。だから、秋の収穫の農繁期前にはこの戦争の決着をつけないとまずいということで、今や五郎殿たちは最後の全力で総攻撃をかけるところだという。


 船はどんどん沖へ出た。だがここでも海岸線は大きく湾曲していて、その湾の向こうが左手から回り込んで目の前の遥か彼方で霞んで見える。船はそこを目指しているようだ。つくづくこの国の海岸線は複雑だと思う。ずっとまっすぐな砂浜というのは、あるのかもしれないが私は日本に来て以来まだ一度も見たことがない。


 ほんの三時間ばかりで、もう目的地に着いた。海上から見るとここは府内と同様にかなり平らな土地が広がっており、大地の行く手を遮る横たわる山はずっと向こうの方だ。

 馬でまる二日と聞いていたのに、こんなに早く着いたので驚いた。だが、それもそのはずだった。実は別に船足が早かったとかいうのではなく、府内からここまでもし陸路ならあの大きな湾にそってぐるりと大回りに回り、さらにはちょっとした峠道も越えなければならないという。そ

 れが海上の船だとほとんど直線距離で来られるので、所要時間に大きな違いが出るらしい。


 たしかにかなり海岸近くに小高い丘があって、そこが城のようだ。その周りを囲むように多くの兵士たちが幕を張って待機している。その中でも何本かの旗が立っているところがあり、そこに五郎殿がいるようだ。



                  3


 我われを乗せた船だけが漁港らしき港に近づいて、小舟で我われと我われの馬を下ろしてくれた。そのまま船は沖で待機していた他の船と合流して、さらに北の方へと進んでいく。


 我われは馬に乗り、船の上から見た旗を目印に進んだ。途中でも多くの兵士が思い思いの場所に寝転がったりしていたが、我われの足音にぱっと起きて槍を身がまえた。

 だが、我われの顔を見て敵ではないと知り、槍を治めた。顔で分かるのは便利なものだ。もしこれがポルトガルやイタリア半島での戦場だったら、我われの顔を見ても敵かどうかは分からないのだ。


 幕で囲まれた一角の中には屋根が見えて、そこに五郎ゴロー殿はいるようだ。

 まずは取次の武士サムライが先に中に入って伺いを立てているようで、やがてその武士サムライが呼びに来たので我われは案内されて幕の中に入った。

 建物は民家のようで、裕福な家族が所有するもののようだ。


 日本にしては珍しく木のタボーラ((テーブル))が部屋の真ん中にある。ただ、あくまでこの国の特色を持つ簡易的なタボーラ(( テーブル))で、大きな箱の上にみすぼらしい木の板を置いただけのものだ。

 そして、その周りは椅子というよりも腰かけがあって、武士サムライたちはそれに座っている。


 我われは庭に面した外側の廊下からその部屋に入り、そこにいた人びとは腰かけているので我われも立ったままお辞儀をした。

 部屋の中央にいたかなり大げさなヨロイ(アルマトゥーラ)を着た若い武士が五郎ゴロー殿のようだ。その隣には、同じような年かっこうで同じようなきらびやかなヨロイをつけた若者も座っていた。


 五郎ゴロー殿は、我われを見て驚いたような顔をした。


「バテレン様が来られたと聞いたのでてっきりカブラル様かと思いましたが、そうではないのですね」


「私は巡察師ヴィジタドールのヴァリニャーノです。ポルトガルから去年、日本に来ました」


 その言葉を、ここではトスカネロ兄が通訳する。


「そのヴィジタドールとは?」


「日本での宣教の様子を、巡回して視察するために来ました」


 五郎ゴロー殿は隣の若者以外の同じタボーラ((テーブル))についていた者たちを、他の部屋へと移動させた。

 そしてその空いた腰かけに、我われが座るように促してくれた。


「お初にお目にかかる。予は大友宗麟(そうりん)義鎮よししげが嫡男、五郎ごろう義統よしのぶ。そしてこれが弟の、」


 五郎ゴロー殿は脇の若者を示した。示された弟は自分でにこりともせずに言った。


「同じく大友宗麟(そうりん)義鎮よししげが次男、常陸介ひたちのすけ親家ちかいえにござる。以後お見知りおきを」


「あなたが、セバスティアン?」


 そのヴァリニャーノ師の質問には、大きくうなずいた。


「いかにも」


 そう言って、胸の十字架を示した。だが、依然無表情だった。

 話には聞いていたが、確かにかなり気性の激しい若者のようで、それだけにあえて感情を表に出さないように取り繕っているのだろう。


 すると五郎殿の方が、聞いてきた。


「今日は、カブラル様は?」


 そのことの方がよほど気になっていたのだろう。


「今日は、用事があって来られないのです」


「それは安心……いやいやいや、失言失言」


 その滑稽な仕草に、私などは吹き出しそうになるのを必死で抑えた。その言葉はトスカネロ兄はあえて通訳しなかったが、私は聞き取ってしまった。


「なにしろカブラル様は怖い。てっきりカブラル様が何か小言を言おうと来られたのかと思った」


 やはりカブラル師は日本人の間でもこのように怖がられている存在なのか、あるいは目の前のこの五郎殿だけが恐れている存在ないのか、それは分からない。


 そこで、ヴァリニャーノ師が、ゆっくりと口を開いた。


「今のあなたのお気持ちを、聞かせてください。洗礼が延期になってだいぶ落ち込んでおられたと聞いていますけれど」


 トスカネロ兄の通訳を聞いた五郎殿は少し考えて、間をおいてからヴァリニャーノ師の目は見ずに少しうつむいて言った。


「予のことはいいのでござる。妻が、ほとんど洗礼式の準備までしていたのに、土壇場になって取りやめになった」


「あなた自身はどうなのですか? 少し心が『天主デウス』の道から離れたなどということはありませんね」


 カブラル師から聞いていたように彼が再び偶像崇拝に走りまた放埓な生活に戻ったということは、あえてヴァリニャーノ師は口にせずに遠回しに話を続けた。


「自分が離れるのはそれはいいとは言えませんが、他の人をつまずかせるのだけはよくありません。大きな罪…に、なります」


 また少し目を伏せてから、五郎殿はかすかに苦笑を洩らしていた。


「申し訳ない。実は予はいささか優柔不断なところがござって、すぐに周りに染められてしまう。これも予に与えられた試練でござろうか、周りにはなんとか予を『天主様デウス』より引き離そうとするものばかりで。そうなるとカブラル様は予を責める。もちろん、それもカブラル様が予を思うてのことと頭では分かっておるが」


「誰もあなたを責めることはできません。私たちはみな同じ罪びとです。人が人を裁くことは、『天主デウス』より許されていない。『汝等人を裁くな。裁かれざらん為なり。己が裁く裁きにて己も裁かれ、己がはかはかりにて己も量らるべし』と福音書にもありますね。安心してください。あなたの罪は許されます。イエズス様も『健やかなる者は医者を要せず。ただ、やまいある者、これを要す。我は正しき者を招かんとにあらで、罪びとを招かんとて来たれり』と言われています。そしてその罪びとの罪の許しのため、自ら十字架にかかられた。総てはキリストの、我われに対する愛の現れに他なりません。私たちも同じです。遠い遠い国からこの国にわざわざやってきたのも、イエズス様が『それ我が来たりしは世を裁かんためにあらず。世を救わんためなり』と言われたのと同じです。誰もあなたを裁きません」


 トスカネロ兄の通訳を聞き、五郎殿の目には、うっすらと涙が浮かんでさえいるようだった。


「しかし、予は父上からも、かなりきつく叱られました」


「それもお父上が、あなたを『御大切』に思われているからでしょう。聞いた話ですと、あなたはお父上から殿トノになるように譲られたけれど、お父上はまだあなたに自由にはさせないでいろいろと口をはさむ。この領地では今でもお父上が一番偉い人、だからあなたはそれがいらいらしていたのではありませんか?」


 ヴァリニャーノ師は一所懸命言葉を探して、なんとか意思を伝えようとはしていた。つまり、五郎殿の父の大友宗麟オートモ・ソーリンドン・フランシスコが、殿の座をこの長男に譲って隠居インキョしたとはいえ、まだまだ権力は父にあり、一国の領主として自由に振舞えないことが歯がゆく、父への不満が募り、父への反抗心が生じたのではないかと師は指摘したかったのだろう。


「たしかに、それもあり申した。父に対する予の不満をうまく利用して、予の父に歯向かおうとする勢力が予の周りには生じたのです。しかし父は、私のすべてを許してくれた」


「お父上はキリスト者(クリスタン)として、よくキリストのみ言葉を学んでいますから」


「ご安心くだされ。予も再び洗礼を受ける準備を進めています。今はまだ洗礼を受けていないので罪の告白はできませんが、今や父に歯向かおうとした者たちとは予はすで手を切っております。やつらは勢力は竜造寺とも通じて反乱の烽火のろしを上げ申したが、今やこうして予は父の名のもとに謀反人たちを追い詰めております」


 陣営の外は静かだった。戦場とはいえ包囲戦なので銃火を交えるでもなく、城に籠もった敵が根負けして降伏か和議を申し出て来るかを待っていればいいだけなのだ。だから、今すぐにここに銃弾が飛んでくる心配はない。


「このいくさは、いつから続いていますか?」


 私が直接日本語で尋ねてみた。


「かれこれ七月からになりますか。最初は我が軍とこの常陸介との挟み撃ちで攻撃を加え申したが、なにしろ敵も猛反撃で、長引いてしもうた。敵も籠城を決め込み、あちこちに援軍を求めている様子ですが、一向に援軍は現れません。だから、我われは長期の包囲戦を決めました。あとは、海上からの食料補給を断つのみ。そのあとでいよいよ最後の総攻撃をかけ申す」


 戦争の話になると、五郎殿は生き生きとしてきた。やはり根っからの武士サムライ、すなわち軍人なのだ。


「七月からとはこれは長い。今は九月だから」


 私は指折り月日を数えはじめたので、ヴァリニャーノ師が小声の早口で私にイタリア語で言った。


「七月とはこの国のカレンダリオ((カレンダー))での七月でしょう。我われのカレンダリオでいえば八月下旬頃からということになる」


「それにしたってもう半月以上。やはり長い」


有馬アリマの時もそうだった」


 ヴァリニャーノ師はイタリア語のままつぶやいた。

 言葉が分からない五郎殿はぽつんと残されていたので、私はずっと疑問だったことを聞いてみることにした。


「この家の人は、どこに行きましたか? 村の人たちはどこですか?」


 上陸以来この陣地に来るまで、包囲戦に参加している兵隊以外は私はだれ一人として人を見ていなかった。いくつかの集落もあったが、すべて無人の村なのである。


「城の中でござろう。逃げたものもかなりおりましょうが」


 五郎殿がそう答えてくれた後、ヴァリニャーノ師がまた小声で私に耳打ちした。


「こういう時は、村人は行くあてがあるものは事前に避難して逃げだすけれど、行くあてのないものや逃げ遅れたものは、立て籠もっている城に武士サムライたちと共に籠もることになる。私はそれを有馬アリマの時に目撃したけれど、食事も尽き、また屎尿の処理も追いつかないから不衛生で悪臭が漂っていて、伝染病が発生することもある。まさしく、地獄の様相そのものなんだよ」


 そして今、五郎殿がしようとしているのは食料補給を断つことだから、この状況にさらに拍車をかけようとしているのだ。

 それが戦争だといってしまえばそれまでだが、城の中で苦しんでいるのは非戦闘員たる農民たちが大多数なのだろうというから、思わず胸が痛まずにはいられなかった。

 ヴァリニャーノ師も顔を曇らせていたから、同じ思いだったのかもしれない。そして五郎殿に向かって言った。


「城の中の、村人たちはとても大変な状況ですね。私たちは何もしてあげられません。せめてこの場で、城の中で苦しんでいる人たちのために祈りたいと思います」


 五郎殿は怪訝な顔をした。


「城の中の人たち? 敵ですよ」


「『されど我は汝らに告ぐ。汝らの敵を御大切にし、汝らを責むる者のために祈れ』、キリストのみ言葉です」


 我われ四人の司祭と修道士はそれぞれが無言で、一日も早く城の中の農民たちが解放されるようにと祈った。



                  4


 その晩は、その五郎ゴロー殿の本陣ホンジン、すなわち作戦本部で眠った。五郎殿たちもここで寝泊まりしているという。

 本陣とはいっても本来は民家であり、無人なのをいいことに勝手に入りこんで本陣にしているだけだ。しかもまだここで寝られるのはいいが、一般の兵隊たちはもう半月以上もこの周りで野宿しているのである。

 食事は城の中の敵の兵士たちと違って、ここでは十分に供給される。だがやはりその屎尿の処理が行きとどいておらず、城の中ばかりか村中にも悪臭が漂っていた。

 夜になるともうすっかり涼しくなり、虫の声がけたたましい。空には半月が中天に輝いていた。


 翌朝、陣営がやたら騒がしいので目を覚ますと、兵士たちは慌てふためいて走り回っている。五郎殿ももう起きていてすでにヨロイ(アルマトゥーラ)を身に付けた。


「落ち着け。落ち着くんだ。こういうことにも手は打ってある」


 そう大声で人びとに叫んでいる。

 そして我われの姿を見ると、穏やかに言った。


「海岸へ行ってみましょう」


 この日は日曜日、すなわち主日なのでミサを捧げたいと思っていたが、どうもそれどころではないようだ。

 警護の兵を数名引き連れた五郎ゴロー殿とともに、我われも歩いてすぐの海岸に出た。


 沖には昨日我われをここへ運んでくれた船手衆フナデシューの船が停泊しているはずだったが、さらにその向こうにおびただしい数の船団がこっちへ向かって来るのが見えた。


「あれは毛利の船手衆だ。親貫め。毛利に援軍を要請したな」


 五郎殿がそうつぶやいた。毛利モーリとはこの海の向こう、昔ザビエル師の布教の中心地だった山口ヤマグチを含む地域の殿トノである。その毛利モーリからの船手衆が、大友オートモへの反乱軍を支援するためにやってきたのだという。

 そこでそのまま、この海岸に幕が張られ、五郎殿が座る小さな腰掛けが中央に据えられた新たな本陣が作られた。

 五郎殿はしっかりとカブト(カスコ)までかぶり、その腰かけに腰を下ろしてじっと沖を見ていた。


 やがて戦いの歓声が上がり、たどり着いた毛利の船手衆に対して、若林ワカバヤシ殿の船手衆が戦いを挑んでいた。

 銃撃の音、ひいては大砲の音までが海上から響き、船と船の間に何本もの水柱が立っているのも見えた。

 戦争が打ち続くこの国に来て、これが私にとって初めて見る戦争の場面となった。しかもそれは、海戦だった。

 否、この国に来てからというのは正確ではない。日本でもエウローパでも私が生まれてこのかた、話の上ではなく直接この目で実際に見た戦争というものはこれが初めてだった。

 だからしばらくは茫然として、人の命の殺戮劇を見ていた。それが遠くの海戦であったため「目の前で」というわけではないことだけが幸いだった。


 一時間ほど戦闘は続いてだろうか、毛利の船手衆はどんどん後方へと退却を始めているようだ。


 午前中にはかたがついた。

 時間としてはそう長くはなかったが、私にとっての衝撃は大きかった。足が震えて止まらない。

 話によればヴァリニャーノ師ら三人は私が日本に来る前に有馬アリマにおける有馬アリマ殿ヨノ竜造寺リューゾージ殿との戦争を間近で目撃しているというから、初めて戦争を見るのは私だけなのだ。

 

 その日の夕方、若林ワカバヤシ殿の船手衆は一度府内フナイに戻るというので、我われはまた便乗させてもらうことになった。

 漕ぎ手以外の兵隊で特に負傷のないものはここに残していくというので、船内はけが人ばかりとなったが、来る時よりは若干船上の空間に余裕があった。

 しかし、足や腕に銃弾を受けたり破裂した船の破片で負傷した者など、白布で応急手当はしているもののそれでも血は止まらず、甲板の上は赤く染まり、あちこちに転がっている兵隊たちからのうなり声が船の上に充満していた。


 たどりつくまでの三時間、我われ四人はひと固まりとなってひたすら祈りを捧げていた。もう何をどう祈っていいのか分からないという感じなので、とりあえずヴァリニャーノ師がロザリオを取り出して十字を切り「使徒信条クレド」「主祷文パーテル・ノステル」から初めて「天使祝詞アヴェ・マリア」へと続く連環の祈りを唱え続けていた。


 やがて府内フナイに着くと、負傷者は真っ先に病院へと搬送されることになった。

 実はその病院とは教会と隣接し、ちょうど大友屋敷と教会の間にあるのだが、ヴァリニャーノ師が府内に行ったらぜひ見学したいと言っていた病院だった。

 病院の敷地の南半分には孤児院もあり、また墓地もあった。そしてそれらを運営しているのはリスボンに本拠地のある信徒互助組織の慈善団体「聖なる慈悲の家サンタ・カーサ・デラ・ミゼルコルディア」の、いわば日本支部だ。

 そして、その日本の「ミゼルコルディア」の創立者こそが、今は口之津クチノツにいるアルメイダ師なのであった。


 そのことはマカオで当時はまだ修道士だったアルメイダ師とともにマカオのカルネイロ司教と談話中、カルネイロ司教がぽろりと言われたのを思い出す。

 マカオの同組織のマカオ支部を発足させたカルネイロ司教と、日本で発足させたアルメイダ師は、いわば同じ業績を持つということになる。


 船から負傷者を下ろして病院へ運ぶのを手伝いがてら、我われはその足で病院に向かった。

 病院の建物の中央の屋根の上にはかなり大きな十字架があって、かなり遠くからでもその十字架は見えた。ヴァリニャーノ師が見学するつもりでいたというのだからこの府内滞在中にいつかはここを訪れたであろうが、けが人の搬送の手助けというまさかこのような形で来ることになるとは思わなかった。

 この病院は日本で初めてエウローパ式の医学で治療を行う病院として、多くの人がここを訪れているという。

 それに、マカオで司教から聞いた話では、アルメイダ師自身がイエズス会に入る前は商人であったばかりではなく医師の資格も持っているということだったが、そのアルメイダ師も修道士時代に自らここで医療行為に当たっていたそうだ。しかもその頃のアルメイダ師は、ちょうど今の私と同じ年くらいだったという。


 建物の外見は平屋造りの全くの日本建築で、中の部屋も板張りだったりであり、そこには多くの病人が布団の上に横になっていた。

 ここがもともとは府内フナイの教会で、ドン・フランシスコから今の教会の土地と建物を献堂されて教会が今の所へ移ってから、その元教会が病院になったのだという。

 てきぱきと人びとを指示して医療行為に当たっているのは、皆日本人であった。ポルトガル人の医師は二人しかいないらしい。

 総ての薬品をゴア、マカオ経由でポルトガルからここへ取り寄せるのは至難の技で、一部は日本の地に生える薬草や、チーナの医学の薬も用いているということだった。

 当初は我われの技術による外科手術は、日本人の目には魔法に映ったらしい。

 その病院に隣接する「ミゼルコルディア」の建物も、当然日本建築の屋敷だった。ここでヴォロンタリアート((ボランティア))で働いているのもすべて日本人の信徒クリスティアーニであった。

 「ミゼルコルディア」の規則により、聖職者はその中で働くことはできないのだ。だがエウローパ各地のこの団体の互いの結束が、教会を陰から支えているともいえた。


 だが、日本においては別の意味があった。

 それについて教会に帰ってから、ヴァリニャーノ師が我われ三人に語ってくれた。

 つまりは福音書にあるように、「飢えているもの、渇いているもの、宿に困っている旅人、着る者もなく裸のもの、病気のもの、囚われのもの」などの弱者に手を差し伸べるというキリストの根本精神によるものであることは間違いないが、日本ではさらにそれが福音宣教の手立てでもあったのだという。

 たしかにキリストも使徒を宣教に派遣するとき、「汝ら行きてまず病める者を癒せ。しかる後に福音をつたえよ」と述べておられる。

 だが、使徒の時代はまだ奇跡の業があった時代なのだ。彼らは手をかざせば病は癒され、目の見えぬ者は見え、耳の聞こえない者は聞こえるようになり、歩けなかったものが歩いた。だが、今はそのような時代ではない。


「どうしても、病院に来るのは病気の人だけですからね。そのような人たちに福音を伝えるのはもちろんとても大事だけれど、それだけでは福音宣教は伸びない。健康な人は、福音を聞く機会を奪われてしまうのです」


 そうしたこともあって、この病院は病院として続けて行くけれども、日本における福音宣教の方針と針路は、影響力の大きい領主クラスの人の改宗へとベルサーリオ((ターゲット))を向けることになったということだった。その延長線上に今がある。だから私が来てからも有馬アリマの殿に会い、昨日は大友オートモの殿に会った。


 そして、次に会うべき人は分かっている。隠居したとはいえまだまだ実質上はこの豊後ブンゴの領主である大友宗麟オートモ・ソーリンドン・フランシスコだ。

 ドン・フランシスコはこの府内フナイではなく、ここから南に七時間ほど歩いた所にある臼杵ウスキという町にいるという。

 そこも港町だが、そこにも教会がある。府内に続いて豊後の第二の都市ともいえる町だそうで、ヴァリニャーノ師は豊後の協議会は臼杵でと考えているようだ。

 だから、早く臼杵へ行くべきなのだが、ヴァリニャーノ師には何か考えがあるようで、臼杵へ行くのはあと一週間ほど待てと我われに告げた。                 

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