Episodio 1 Partenza(旅立ち)
「私の意図するところは、異教の地を悉く福音化することである」(イエズス会創設者・イグナチオ・ロヨラ)
1
私がイエズス会に入会して初めてこの天使像を見たのは、四年も前のことだった。その頃、ローマのこのイエズス・キリストの聖なる御名の教会はまだ建築中だった。
巨大な伽藍も今はかなり完成しつつはあるが、それでもまだ建築は終わっていない。やがてここが完成したら、我らイエズス会の母教会になると神父様方はおっしゃる。だが私はこの目で、その完成の日を見ることはないであろう。この天使像も、今日が見納めなのだ。
明日になったら私、つまりジョバンニ・バプテスタ・コニージョ神学生は、ローマを離れてポルトガルのリスボンへ行く。言葉もよく通じない西の果ての国の町、リスボン。しかし、そのリスボンからは、もっともっと遠くへの長い長い船旅が私を待っている。
天使像があるのは聖堂ではなく、聖堂の入り口の右手にあるいわば司祭をはじめイエズス会士の居住する司祭館の建物の一室だ。他の部屋よりかは幾分大きな造りになってはいるが、それでも小ぢんまりとした部屋である。なにしろまだ建築中の教会なので、廊下のあちこちに造りかけの天使像や聖人像、絵画などが無造作に置かれていたりする。
私が四年前に初めてこの天使像を見た時、その異様な姿態は十分に私を驚かせた。天使像自体はどこにでもあるような普通の天使なのだが、異様なのはその足元だった。
何かを踏みつけている。
蛇に化けた悪魔などではなく、人だ。天使が人を踏みつけている。向かって右の天使が踏んでいるのは、ローマ公教会に属さない異端教会の牧師たちである。これはわかる。異様なのは向かって左で、見たこともないような服装の僧侶たちで、手には本を抱えている。その本の表紙にはローマの文字だけれども、「Cami Fotoque」という、聞いたこともないような言葉が刻まれていた。
同じ部屋にいた先輩の司祭に、その意味を聞いてみた。
「異教徒が崇拝する悪魔の名だよ」
さらりと先輩は言う。その時私は、背中にうすら寒いものが走ったのを覚えている。
「どこの国の異教徒ですか」
「Giappone」
私ははっとした。
日本といえば、私がその名を初めて耳にした時は「Zipangu」という呼称でであった。遠い東の果てにある黄金の島、それが人びとの中に普遍的にあるZipanguのイマージネだ。そのイマージネの出所は『Il Milione』という一冊の本で、書かれてからすでに二百八十年近くがたっているが、今のローマではたとえ読んだことがなくてもタイトルくらいは誰でも知っている有名な本である。
「その黄金の島に、異教徒がいるんですか?」
「そりゃいるだろうよ」
先輩はうすら笑いを浮かべた。
それから四年の月日が流れた今、私はその黄金の島「Zipangu」に向けて旅立とうとしている。イエズス会の神学生として、その黄金の島の異教徒に福音を告げ知らせ、魂を救済するために。
時にキリストご聖誕から1578年目の一月のことであった。
イエズス会では神学生といえども、実際に数年間司祭と共に使徒職に従事しなければいけない。今年二十八になる私であるが、これからの人生を教育、社会正義とともにイエズス会の目的の一つである福音宣教に捧げるつもりで志願したのだ。ただ、志願をしたからとて簡単に許されるものでもない。それが降ってわいたような日本行きの話に、私は目に見えない大きな何かの力を感じていた。
旅立ちは慎ましやかに、あっけないものだった。ただ、北風が強くて、やたら寒い日であった。
同行するマテオという神学生とともに聖堂にて祈りを捧げ、その聖堂の入り口から外に出た。マテオはずっと、同じ修練院で学んできた仲だ。
教会の静寂の中から一歩外へ出ると、たった一枚の壁を隔ててそこはまだ早朝だというのに喧騒の世界だった。特にこのジェズ教会の周りはローマでも一番騒がしい場所で、建物も重なるようにごちゃごちゃと建っている。人通りも多い。そんな雑踏の中で、母と兄が私を見送るために待っていてくれた。特に教会の造りからここは、聖堂の中と外の俗世とは一枚の扉板で仕切られているだけなのだ。
「ジョバンニ!」
私の名を呼ぶ母は泣いていた。しきりにそれを兄がたしなめる。
「お母さん」
私も優しく母の両肩に手を置いた。
「私はどこにでも行かなければならない。地の果てにでも。全世界のすべての創られし者に救いの訪れのよき知らせを告げなければならないのです」
母は涙ながらに何度もうなずいていた。頭では私の言わんということは分かっているようだったが、感情が彼女の目からどんどんと涙をあふれさせていたのだ。
「せめて、体には気をつけて。そして、必ず帰ってきておくれ、ジョバンニ」
私がイエズス会に入会した時点で、もうすでにここへは二度と帰らない覚悟であったことも母は知っているだろう。修道会へ入るということは、そういうことなのだ。だが、私はあえてそれは言わず、
「必ず帰ってきますから、お母さんもそれまでお元気で」
と言いながら、二度と会うこともないであろう母の顔を見つめた。
そして教会を見上げた。そんな見上げるような大きい教会ではない。ただその正面は他に類を見ないバロック様式であった。そんな見納めとして教会の姿を私は目に焼き付け、母や兄と別れて歩きだした。まずは港を目指す。今日、リスボンまでの船旅が始まる。
2
リスボンは、港町である。ローマよりも比べものにならないほど人びとの活気にあふれている。
私とマテオが最初に上陸する時、それまで乗ってきた船は海に面する港に停泊するものとずっと思っていた。だが実際に錨を下ろした港はそうではなった。港は内陸に大きく入り込んだ入り江の北側にあり、外海は微かにしか見えない。対岸の陸地はすぐ目の前にあるが、入江の奥の方で面積は広がり、ちょっとした湖のようにも見える。
「これは川なんですぜ」
荷物を積み下ろしていた船員の一人が、大きな箱を担ぎながら私とマテオにしたり顔で教えてくれた。
「川?」
「ずいぶん大きな川なんですね」
私とマテオが驚きのあまり顔を見合わせてそんなことを言っているのを見て、船員は笑った。
「川は普通の川なんだけどな、海に注ぐ前に急に幅を広げて湖のようになって、そのまま海に注ぐってわけさ」
だから、船も入って来られる。
船員はイタリア語で言ってくれたが、そのあと街を歩く人々の言葉に二人とも緊張した。明らかに自分たちとは違う言語を彼らはしゃべっている。ここ外国なのだと、それだけで十分に思い知らされる。
ただ、全く分からないわけではなく、ところどころイタリア語と似たような単語も混ざっていて、強引にいけば片言くらいはイタリア語とこの国の言葉であるポルトガル語とでも会話が成立してしまうこともありそうな気もする。そもそもがどちらも元がラテン語であるのだから当然だ。
かつてのイタリア王国が約五百年ほど前に神聖ローマ帝国に包含されて以来、現在はイタリアという国は存在しない。だが、ナポリ王国、ローマ教皇領、ヴェネチア共和国、その他の小国家などイタリア半島に今ある国々の言語は、それをイタリア語と呼んで差し支えないだろう。
上陸した我われは、すぐに教会へと向かった。聖ロッケ教会は港から歩いてもそう遠くないところにあり、民家の間を細く続く緩やかな長い坂道を登って行けば、その白い正面が民家の壁の間から見えてくる。
町は太陽の光を浴びて明るく輝き、まぶしいくらいだった。
港町らしく人々の活気にあふれ、解放感がみなぎっていた。言葉だけでなく、このような景色にも私は異国を感じていた。ごちゃごちゃごみごみしているローマよりもはるかに整然としており、緑も多く、輝いていた。そのような印象を私が受けた理由に、町全体が茶色っぽいローマと違って家々の壁が白いからかもしれないということもあった。白い壁とオレンジ色の屋根の家がどこまでも続く。そのあたりが、ローマとは異なる町の景観となっている。
果たして教会も、白亜に輝いていた。我われの来着はすでに教会には知らされているようで、多くの司祭、修道士、神学生などが我われを温かく迎えてくれた。
ローマのジェズ教会は、さほど大きい教会ではない。周りの民家よりかは少し大きいというくらいである…。だがこの聖ロッケ教会はそれよりさらに一回り小さい。ここでもかろうじて、周りの民家よりは大きいという感じだ。
リスボンの町は坂が多い。南の港から町全体がごくなだらかに北へと傾斜している。市内でも最も古い教会がリスボン大聖堂で、ここからもそう遠くはない。そして、町の中央の小高い丘の上がポルトガル国王の居城で、聖ロッケ教会からも遠くにその城壁は眺められた。
我われはこの町に、ふた月ほど逗留させられた。その間になすべきことといったら、まずはポルトガル語の習得だった。これから向かう東の国では、同じイエズス会士といえども多くの国々のメンブロで構成されており、それゆえに互いが意思を疎通させるための標準の言葉はポルトガル語なのだそうだ。だが、私にとってそれはたいして難しい課題ではなかった。
言葉を習得したら、この教会にいる年長の司祭たちとも会話ができるようになった。
そしてリスボンに来てからひと月半ほどたったある日、一人のポルトガル人修道士が朝の食事の席で、我われが出発する日もそう遠くないことを我われに告げた。
今回のアジア行きで我われが同行することになる助祭の方々が今日宮殿に呼ばれ、エンリケ一世国王陛下に謁見するのだそうだ。もちろん、神学生や修道士は留守番である。
エンリケ国王陛下は現職の枢機卿でもあり、もう七十歳の老齢であるという。我われのリスボン滞在中にこの国は大きく揺れ動き、八月には異教徒のイズラム勢力との戦争で地中海を南に渡って親征した前国王セバスティアン一世陛下は、その戦いで戦死した。
だから、そのあとを受けて即位したエンリケ国王陛下はまだ新しい国王なのであるが、国王になるなど夢にも思っていなかった枢機卿時代からアジアへ派遣する宣教師を精力的にこのリスボンに集めていたと聞く。
そんな国王に助祭の方々が今謁見していると話してくれた修道士は、だからこそ今日の謁見はいよいよ我われの出発を意味するのだと語った。
「あちらに行ったらヴァリニャーノ神父様にお会いすると思うから、よろしく伝えてほしい」
それは温和な口調で、笑みを含めての言葉だった。
そのヴァリニャーノ師の名を聞いて、私は胸が躍った。なんと懐かしい名前なのか。
それは、私がローマの修練院で学んでいた時の教官だ。いや、ただの教官ではない。その情熱のすべてを学び取り、今の私があるといっても過言ではないだろう。年は私より十歳ほど年長なだけなのだが、人物としては私の何回りも大きかった。
「今、ヴァリニャーノ神父様はどちらにおいでなんでしょうか」
「ゴアに長くおられたようだが、もうマカオに移られただろう。いずれにしても間違いなく、日本に行かれるはずだ」
そうなのだ。ヴァリニャーノ師はイエズス会総長代行として、東インジャ管区の巡察師としてアジアの地に赴かれたのだ。それが二年前のことである。巡察師といえば東インジャ管区の宣教を統括する全権を委託されたことになる。いずれにせよ私は師と再会するはずなのである。
「行け! 地の果てまで」と使徒たちを派遣したキリストは、「見よ、世の終わりまで常に私はあなた方と共にいる」と仰せになった。このみ言葉で、どんな天涯の地に行こうとも私は孤独ではあり得ないと自分を鼓舞しての旅立ちだったが、実際はこのような形で孤独から解放されることを主は御自身が「共にいる」と表現なされたのだなと、その時の私はそんなふうに観念的に考えていた。
1578年3月21日、我われが同行する宣教師団の三人の助祭が聖ロッケ教会から少し離れたリスボン大聖堂にて司祭に叙階され、私も参列した。ロドルフォ・アクアヴィーヴァ師とミケーレ・ルッジェーリ師、そしてフランシスコ・パシオ師である。
アクアヴィーヴァ師は私とほぼ同世代、パシオ師に至っては少し若いようで、いわば年下の先輩だ。そしてルッジェーリ師だけが十歳ほど年上のように思われた。
アクアヴィーヴァ師とルッジェーリ師の二人はナポリ王国出身、そしてパシオ師は私と同じ教皇領の出身だが、すなわち三人とも私やマテオと同じ言語を話すイタリア人であった。
だがそれだけではなく、特にアクアヴィーヴァ師に関してはさらに親近感を持つ要素があった。
彼の叔父も司祭でイエズス会のナポリ管区長の地位にあるが、その叔父はなんと学生時代にヴァリニャーノ師と学友だったということだ。
「私はヴァリニャーノ神父様を直接存じ上げないけれど、叔父からはよく話は聞いていたよ。でも残念ながら私は今回ゴア派遣だからたぶん今回も会えないね」
そう言ってアクアヴィーヴァ師は笑っていた。パシオ師と、私にとって学友であるマテオも、同じようにゴア派遣だ。ルッジェーリ師はマカオ派遣で、この五人の中で日本まで行くのは私だけのようだ。
そうしてその三日後、多くの船員や商人たちに混ざって我われ神学生二名と司祭三名、修道士八名の総勢十三人の聖職者を乗せた巨大なナウ船はリスボンの港で錨をあげ、入江の入り口のような川の河口から大海へと出て、帆に春の風をいっぱいに受けてまずは南へと針路を進めた。