39. Two years.
レスコウの町は崖の上にあった。家と家との距離が遠い。住宅街は段々になっているから、うっかり窓が開けっぱなしでもお隣さんを覗いてしまうことがないのはいいところだ。観光客は少ない。海があって仕事はあるから、自然と賑わう。拘らなければヘナシェは仕事に困らなかった。
さして広くはないが、部屋数の多い家をヘナシェは奥方のために用意した。その部屋の一つは住み込みの老婆へと与えられている。
三人で暮らし始めて、一年半が経つ。
「乳母や。まだあの人のこと気に入らないのね」
女は困ったようでいて、嬉しそうにもとれる。同じ家に住む彼らに仲良くしてほしいという希望と、自分の好きな男を独り占めしたいという欲望とで。
とろりとした光沢の、オレンジがかった金の髪は片側に流されていた。好きな男のために大事に伸ばされた髪だ。
「好きではありませんね」
答えながら、しわしわの手が鏡台の櫛を取る。日陰にいることが多いせいか暗くなった髪色を梳きはじめた。
主人に対するにしてはよろしくない返答のはずだが、若い女は笑う。
「愛情に飢えたかわいそうな人なの。ヘナシェは自分だけの家族が欲しかっただけ。最初はなんて自分本位な人なんだろうと思ったけど、そばにいるうちに見捨てられなくなっちゃった」
「それこそ、わかりません。自分の幸せのためなら他人にごり押ししてもいいんですか」
「世の中なんの犠牲もなく幸せが成り立つことはないのよ」
「ヘナシェは一方的だと思います」
「乳母やはすべてを失くしてでも、これが欲しいっていう思いをしたことがないのね」
彼女にとってはそれがヘナシェという男だった。腕っぷしは強く頼りがいがあるかと思いきや、とんだ寂しがり屋な反面がある。ギャップにやられたとも言う。それから女性には分け隔てなく優しくて、こちらが愛した分だけ愛を返してくれる。深く愛せば愛すほど、特別扱いしてくれる。
老婆は独身を貫いていたと聞く。そこまで愛せる人がいなかったのかもしれない。
「ありますよ。……手に入ることは絶対にないとわかっていましたし、実際に叶いませんでしたけど」
「あなたは途中で諦めてしまったの」
後ろにいる乳母へ、横顔だけを向ける。
「人が望まないことはできませんから」
「粘ったら、叶ったかもしれないのに」
「いいえ。奥さまのように押し通したらきっとダメになってました」
垂れたまぶたは重く、老婆が目を開いているのかどうかも怪しい。感情を瞳から読み取るには難しかった。昔話をさせられて、怒ってはいないようだが。
「いやだ。迫ってきたのはあちらからよ」
「知ってます。でも奥さまも途中からすっかりその気だったでしょう」
「うっとうしかったはずなのにね。だって、素敵な人なんだもの。かわいいわ」
乳母の髪を編み込む指は以前よりも動きが固くなった。歳をとると不便が増える。もう長いことナターシャの世話は続けられないかもしれない。この先もあるというのに。
「ヘナシェにしたらあなたはかけがえのない友人なのよ。いじわるしないであげて」
「だから、優しくしてます」
細いリボンで毛先近くをくくり、背中に流す。畳んで置いていた膝掛けを広げてナターシャの膨らんだ下半身にかけた。
布の下でぐにゃりと変形して、元に戻る。胎動は激しい。産み月まで二月を残している。腹は胎児の成長とともにさらに大きくなるだろう。
しきりに家族が欲しいと言っていたヘナシェは念願を遂げた。今日もにこにこで仕事から帰ってくるだろう。
二年もの間、この女に故郷から助けや捜索が来ることはなかった。
Two years.
(二年。)




