14. Take my hand.
病院にラカシアを運び入れて、何分、何時間経っただろう。時間の感覚がない。まさか日付は越えていない、はず。
「先生、患者さんのご家族が」
看護師を押しのけて割って入ってきた男はジオの姿を認めて四つ葉色の瞳を険しくした。ラカシアも同じ色をしている。
「ラカシアが死にそうってどういうことだ?!」
胸ぐらを掴まれて、ジオは揺らいだ。マルセルの背後に、一組の夫婦も見えた。
「みなさん、どうぞこちらに。経過をご説明します」
医師が冷静に別室を指差す。
普通ならば血の繋がった家族が優先されるところだが、ジオはラカシアが倒れる現場にいた当事者で、彼女を病院まで運んできた。誰もジオが同席することに異をとなえなかった。
「たまに発生する奇形種といいますか……蜂には似てますが、毒の質が異なりまして。まだ謎の多い生物です」
よそ見をしたあの一瞬で、ラカシアはよくわからない虫に刺された。ただ危険種ということだけが確かだ。
「これまで他の地域でいくつか症例を見たことがあります。発見が遅く治療が手遅れの方ばかりでした。生きて運ばれたのはラカシアさんがはじめてですよ」
三人が息を飲んでいた。唯一ジオのみが気配を押し殺して聞いている。実感があるのかないのか。
「おかげで、処置が間に合いました」
「それで、後遺症などは」
感情を殺した声でマルセルが訊く。
「残念ですが、術後どうなるかははっきりとは申し上げられません。初の生存者ということで状態の急変はいつでもありえます」
それはそうだ、と頭では理解しつつも内心ではなぜ、と医師を責めたい気持ちがないまぜになる。
「術後の経過観察で容体が安定すればベッドに移っていただきますので、面会も可能です」
ただそれまでは集中治療室で面会謝絶だと断られた。
若い男が鼻を赤くしている。瞳に恨みの全てがこもっていた。彼の双子の姉、ラカシアが本気で怒ったらこのような表情をするのだろうか。嫌だ、見たくない。胃の腑がさらに重くなった。
「お前は、なにを守っていたんだ」
ジオのせいでラカシアは死にかけた。信じて預けていた家族の怒りは当然だ。
「やめなさいマルセル」
厳しい声は似ても似つかないが、彼女には母親らしくラカシアの面影がある。
「こいつのせいでラカシアは……っ」
「事故は起こるものよ。この方は逃げずに最善を尽くしてくださった。それでラカシアは助かるの」
歯ぎしりをしたマルセルは俯く。助かるのだと、思いたい。
「声を荒げるだなんてラカシアのためにもならないわ。それに病人はラカシアだけじゃないの。騒ぐんなら家に戻ってなさい」
しぶしぶマルセルは細い背を向けた。
沈黙は長い。病棟は明るく空調も効いている。なのにジオのじわりと滲んでくる汗は止まらなかった。それでもここから帰る気になれない。
「ラカシア・アンデルサンさまの意識が戻りました。ベッドに移します。ご家族の方もいらしてください」
呼びかけた看護師はファイルを胸に抱いている。あれにラカシアの病状変移の全てが記録されているのだろう。重なっているカルテは一枚や二枚ではなかった。
「はい。ジオさんもいらして」
名指しされたことに目を丸くしていると、家族でもないジオを待っている。ふらりと立ち上がって、彼女らに続いた。
個室の前でラカシアの母は軽く手を上げた。
「先に見てきます。待っていてくださいね」
いまだラカシアの血縁でもないジオが近くにいていいものか迷いながら、神妙に頷いた。扉越しに、会話らしきものがぽつぽつ聞こえる。内容まではわからないが、ラカシアは確かに意識を取り戻している。
扉から顔だけ覗かせた母親が顔をほころばせた。
「うるさいあの子がいない今のうちに、娘に会ってくださらない?」
「……いいのか?」
「いいでしょ、あなた」
眉間を広げた父親はジオを招いた。
「ラカシアが会いたがっていることだしね」
「まだ薬の影響でぼーっとしてるところがあるけど、生きたラカシアを見ればあなたも安心できるでしょ」
「それは……」
体を滑り込ませると、入れ替わりでラカシアの父母は出ていってしまう。ハンカチを手にしていたから、余計な言葉はかけなかった。病室は窓にカーテンが閉まっており薄暗い。ベッドの上で影が動いた。
「マルセル……、怒っちゃだめよ。私がわがままで寄り道したいって言ったの。ジオさんはなにも悪くない」
いまにも閉じかけているまぶたで、ラカシアは焦点もなくジオを眺めた。
「……あれ?」
身長も髪色も、弟でないことに気づいたらしい。
「声が……弟の声が聞こえて……」
「ああ、先ほどまでいた。とても心配していた」
「大げさなんだから」
「実際きみは死にかけた。すまない。俺が守ると言ったのに。どれだけ謝罪しても足りないと思う……」
ラカシアは点滴管のまとわりつく腕を持ち上げて、ジオに向けた。手を取ってほしい、との意思表示だったがなんとも痛々しい状態になかなかその気になれなかった。
十秒も保たず重力に負けて落ちていく手をベッドに着く寸前に掴んだ。血が通っているかも怪しい、ひんやりした指は肉が薄く力が込もっていない。
「ジオさんは、守ってくれました。こうして助けてくれたじゃないですか」
過失で襲われる現場を見逃して、死の一歩手前まで追い込んだことを、「助けた」というのだろうか。毒を抜いたとはいえ、話すほどまで回復したラカシアの容体はまだ悪い方に転ぶ可能性がある。医者も今後を保証してはくれなかった。
「きみが助かってよかった」
とりあえずいまはそれが最大限言えることだ。
「ありがとうございます」
ラカシアがとろんとした笑顔を作る。感謝したいのはこちらのほうだった。
ヘナシェ、と待合室に寂しく座っている男にジオは話しかけた。
「おまえの彼女は」
「だめだったよ。毒がまわりきってどうしようもなかったって」
担当した医師の言葉をそのまま繰り返しながら、膝の上で両手を広げる。
「それは、残念だ」
ジオが述べたが、ヘナシェは悼むでもなく、泣きそうな気配もない。失った女に思い入れがないからか、実感がないか、どちらだろう。
沈黙すると、ヘナシェは廊下の奥を見つめる。まるではっきりと、ラカシアの病室を透視しているかのように。
「そっちの子は?」
「ラカシアは生きている」
「へぇ、よかったね」
声はどこか平坦だった。恋人を亡くした直後なのだから、気持ちを込められなくても仕方ない。
Take my hand.
(手を取って。)