第三十九話
これまでとちょっと趣がちがう、暗めなやつ。そういうのが苦手な方は読み飛ばしても何ら問題のない話。次回からは平常運転です。
夜半に達しようかというのに金床亭からは大騒ぎする声が絶えない。どいつもこいつも元気なことだ。
「ちと酔い覚ましに散歩でもしてくる。」
とミルカに言い残し、俺はロビンを連れて内水路沿いの道を歩く。もっともロビンは自分の足では歩かない。寒いのはイヤだ、とコートの中におさまって顔だけを外に出している。
吐く息は白く、地面には所々月の光を反射して光る場所もある。空を見上げれば、まん丸の大月とそれより小さな三日月。数カ月も暮らせば、二つの月が照らす不思議な夜空も見慣れてくる。
「相棒よう、俺にはきちんと話してくれてもいいんじゃねえか?」
「きちんと話すって何を?」
「さっきミルカたちに話したの、あれで全部じゃないだろう?何かに都合のいいように適当に端折って、適当に誤魔化して話してたんじゃねえのかよ。そもそもダンジョンであの骨を『鑑定』した時からこっち、何かオマエの様子が変だったし。」
「……気づいてたか。」
「ったりめえじゃん!それによ、前にひっでえ二日酔いしてたヴォートとかいう酒をあんなにかっぱかっぱ飲んでんのに、今日のオマエ全然酔ってねえじゃん。これで何もねえってほうがおかしいぜ?」
「……わかったよ、全部教える。でもな、今はまだうまくまとまらんことが多いし、言葉にできそうもなかったり、そうしたくなかったりする部分もあるから念話で話す時みたいにしてくれないか?」
「いいぜ……」
ロビンは小さな頭を俺の胸にぽすんと預けてこすりつけてくる。
『ほら、話して……いや、考えてみろよ。俺らの間に隠し事はなしでいこうぜ?』
『ああ……』
十七年前のイルメリの身に起こった不幸、あれはモンスターとの遭遇で発生したもんじゃない。
限りなく殺人に近い自殺だ。
「殺人の部分」の犯人もほぼ確定、自白がないから「ほぼ」付きだけど。
ヴィルホだ。
『マジか……』
ここからは『鑑定』でわかったことを中心に、ギルドに残されていた記録から読み取れること、そして俺の勝手な推測も交えて話す。
……今から十九年前、十四歳の少女が故郷の村を離れて冒険者になるためラハティにやって来た。彼女には幼馴染で将来を誓った二つ年上の男がいて、そいつが先に冒険者になっていたからだ。彼らの再会がどういうものだったかまではさすがにわからんが、すぐに二人はコンビを組み、生活を共にしながら仕事を請け始める。
『いきなりかよ。新人訓練とかもしねえで?』
ギルマスから聞いたんだが、ラハティに今のような新人訓練課程が定着したのはここ十二、三年ほどのことらしい。それまでは田舎からぽっと出のガキンチョでも登録さえすればその日のうちに冒険者を名乗ることができたんだとさ。
続けるぞ?
少女は男と夫婦になる日を夢見て懸命に働いた。それこそブラック仕事だろうがクソ仕事だろうが関係なく、法に反しない限りは何でもやった。だが可哀想なことに、男の心は彼女にはなかった。
ヴィルホはテレーゼと知り合ったのが事件の後のように言っていたが、この頃既に何らかのつながりはあったんだ。「宰相」なんてあだ名のつく、あれだけの規模の商会だ。汚い仕事をさせるための「暗部」みたいな連中を子飼いにしていて、ヴィルホはその仲間だったんだ。
兎も角、男は自分に思いを寄せる少女を言葉巧みに利用して日銭を稼ぎ、その体を性欲の捌け口にもしていた。
そんな生活を続けて二年近く経ったある日、少女は男に告げた。
妊娠した。貴男の子供ができた、と。
そこで男はビビった。
「ヤバイ。俺には出世の道がある。いつまでも冒険者なんてやってられるか。テレーゼと一緒になってデ・コルト商会に食い込むつもりなのに、これはマズい。……イルメリの体がそれとわかるほど変化する前に、皆に知られる前にカタをつけなきゃならん。」
そして男は少女と共に、当時はまだほぼすべてが調査区域だった第八ダンジョンに潜った。
今なら『新米の出る幕じゃねえ』と追い返されるんだろうが、当時はまだゆるかったんで可能だったんだな。ヴィルホ本人も言ってたろう?『金を握らせれば管理者を買収できた』って。まだそういうことができてたんだよ。
そしてあの階層で、男は少女を手にかけた。
だが男にはまだ逡巡があったのか、それとも単純に人を殺せるだけの覚悟もスキルもなかったのか、止めを刺すまでには至らなかった。手負いの少女は逃げた。逃げて逃げて、あの洞窟樹の生い茂るあたりで壁の一部に空間を見つけ、そこに飛び込んだ。洞窟樹の根をカーテン代わりにして、鬼畜と化した昨日までの恋人から我が身を隠したんだ。
『出ればきっと殺される。でもこの子のためにも、自分は生きてダンジョンから脱出しなければならない。それにこれはきっと何かの間違いだ。なぜあの人がこんな酷いことを……』
洞窟樹の根の隙間からは、自分を探してうろつき回る男の姿が見える。問い質したい。なぜこんなことをするのか?だが男の手には武器が握られ、目には明らかな殺意の光が宿っている。息を殺して見ていることしか、彼女にできることはなかった。
ヴィルホがイルメリを探してダンジョンをうろついたと言っていたが、それは本当の事だと思う。ただし、目的は彼女を見つけて息の根を止めることだったわけだ。
やがて恐ろしい追手は彼女を探すのを諦めたのか、どこかに行ってしまった。しかし、その時にはもう、少女には何かをするだけの力は残されていなかった。洞窟樹の根に覆われた暗い洞の中で、彼女はやがて訪れる死を覚悟した。
『私にかけてくれていたあの言葉は嘘だったの?一緒になろうと言ってくれたのも嘘だったの?なぜ?なぜこんなことを…………許さない。あの人を、私は決して許さない。大海の沈む果て、大地の途切れる果て、地獄の果てまでも追い詰めて、必ずこの手で殺してやる。あなたも手を貸してちょうだい。ごめんなさい。でも、許してほしいなんて言わない。私と一緒に一番昏いところまで堕ちましょう……』
『おい、それってまさか………』
あのナイフ、たぶんどこかでサプライズ的にヴィルホに渡すつもりで肌身離さず持ってたんだろう。
彼女は、それを自分の下腹に突き立てた。
『お前などに殺されてたまるものか!お前の手にかかって死んでなどやるものか!私の体も、この子の体もこのダンジョンの中で朽ち果てていく。だけど私の、私たちのこの恨みは決して消せはしない。いつか必ずお前に……』
薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞って少女は己の体から抜いたナイフを鞘に納め、鞄の中に仕舞い込んでしっかりと抱き、たった十六年の短い生涯をダンジョンの中で終えた……。
『…………』
コドク。
『ん?相棒、今なんつった?』
「蠱毒」だよ。前に読んだ本に出てたんだが中国の古い呪術でな、壺の中に百種の虫を入れて飼育し共食いをさせる。最後に生き残ったものを使って人を呪い殺すってヤツで、唐や明の頃の法律じゃ実行犯、未遂犯、教唆犯、そのどれもが死罪に定められてたそうだ。
『うへあ、よくもまあそんなのを思いつくもんだ。人間てオカシイぞ。で、それがどうかしたのかよ?』
最後に残ったのが蛇なら「蛇蠱」、蠍なら「蠍蠱」という風に呼ぶらしい。イルメリがやったのは、差し詰め「人蠱」とでも言うべきかな。自分だけでなく我が子すらその手で殺め、生きることへの望みも、ひとかけらの愛情や慈悲心すらもみな怨念に変え、地獄堕ち上等の覚悟で優秀無比の悪鬼となってヴィルホを呪ったんだ。
ダンジョンでエルが言ってた言葉、覚えてるか?
『どんなんだっけ?』
現世に執着を持ったまま亡くなった人の霊は土地や物に憑く。
『え、それじゃあ……』
彼女は自分を見つけてほしくてあの場所に出たんじゃなくて、あのナイフを見つけてほしいがために俺たちの前に姿を現したんだ。
今日俺がヴィルホに渡したあのナイフ、あれは彼女が自分と子どもたちの命と引き換えに遺した、呪殺のための道具だよ。
……すごいよな、見えるオマエでも気づかなかったんだろう?あの場にいた誰も、その後あのナイフに接触した誰も気づかなかった。彼女はその強烈な殺意や怨念を、呪うべき相手の首元に最も近づけるその瞬間まで隠すことにしたんだ。そうすれば彼女の亡骸を発見した者は、彼女にとっての唯一の縁者であるヴィルホのもとに遺品であるナイフを届けるだろう、とな……
『相棒……オマエ、あれ触ってたよな?大丈夫か?』
正直な話、わからん。気分的にはイヤ~な感じはあったけど、今日までのところ健康上の問題はない、と思う。それに俺、長男でもともと霊感とかいうのがないタイプだし。幽霊を見たのだってあん時が初めてだよ。さっき話したけど彼女は優秀無比な悪鬼、ヴィルホを呪い殺すというその一点でギリギリまで研ぎ澄ましたんだから、俺までとばっちりが来ることはないんじゃないかな。たぶんないと思う。ないといいな……
ダンジョンで彼女の亡骸を『鑑定』した時、俺はおおよその事情を知ってしまったんだ。
彼女の身に何があったのか、彼女が何を考えて死んだのか。彼女の鞄の中身が何で、何のための物なのか。
『大鑑定』ってホントにすごいスキルだよ。ほぼ一瞬ででそういうのがほとんど理解できるんだから。
日本で暮らしてた頃はさ、ファンタジー世界みたいに魔法なんてなかったろう?さっき話した「蠱毒」みたいな呪いにしても、現代じゃせいぜいが「人をいやな気分にさせる逸話」くらいのものだったじゃないか。でもさ、ここじゃそれらはすべて現実に存在するものなんだよ。
何の準備も覚悟もなくそのギャップに初めて直面した俺はどうしていいかわからず、半ばパニックになった。それで「ノイズ」という言葉で誤魔化して、自分が知ってしまったことの内のごくわずかな部分しかヴァルトには伝えなかった。
この世界にも日本の警察のような連中は一応いるし、冒険者ギルドだって身内の不届き者は自分たちの手で仕置きできる仕組みがあるらしい。ましてやここのアタマはあのチャガチェフのおっさんだ、ガッツリ締めてくれるだろうさ。
でも、なぜなんだろうな。俺はそうする道を選ばなかった。選べなかった。
ホンモノの呪いがどういうものか見てやろうというえげつない好奇心だったのか、彼女に思いを遂げさせてやろうという同情だったのか、俺自身もあずかり知らないところで動く大きな流れに乗せられてそうするように仕向けられたのか、自分でもさっぱりわからん。
ただ、その道を選んでしまった以上、「ナイフをヴィルホに届ける」仕事は俺の手でやらなきゃ駄目だという思いがあった。
商会を訪ねてヴィルホという男に会って、アイツがナイフを抱いて涙を流した時、俺はヴィルホが過去を悔いているんだと思った。過去に犯した罪の重さに苦しんでいるんだと思った。
違ったよ。
元々俺の『大鑑定』スキルの優秀さゆえに、ここまで首を突っ込むハメになった話だ。ここまで来たならいっそ行きつくところまでと思って、アイツが銭袋を持ってきた時『鑑定』してみたんだ。
それこそ「見なけりゃよかった」ってレベルで汚れてやがった。
「情けなさの混じった泣き笑いの顔」は、イルメリの死が確定したことを知った喜びと、そこにギルドや俺たちが疑義の念を抱いていないことへの安堵を隠すためのものだった。
にじみ出ていた「責任と使命感のようなもの」は、自分がそういったことをいろいろやらかして手に入れた今の地位や富、名声を更に高めてやろうという醜く歪んだ欲望のあらわれだった。
アイツさ、イルメリの手袋で作った袋に彼女の髪を入れて懐に忍ばせてただろう?何でそんなことしてたと思う?自分を「不幸な過去を背負って苦悩する弱い男」に見せかけてテレーゼを初めとする、事情を知る一部の者たちの同情を引くためだったんだ。
「ありがとうございます」と頭を下げたあの時、アイツは心の底から笑ってやがったんだ。
『…………』
だから俺は、何も言わずあの場を後にした。
これからアイツの身に起こることが何なのかある程度は予想して、かなりの部分は確信していたんだけど、それを伝えなかった。怨霊、怨念が人を呪い殺す、ここはそんなことが現実に起こる世界なんだから、何がしかの対策や予防策もきっとあるんだろうと思う。『吉備津の釜』みたいにな……って、ありゃ失敗例か。ま、それでも何か取るべき手立てはあったはずさ、エルたちに聞いて確認したわけじゃないけど。
でも、俺はそうする余地を残さなかった。
何も知らない、何も気づいていない風を装ってアイツを油断させた。
おそらく近いうちに、イルメリの怨霊が本懐を果たすだろう。
俺は、その時アイツに残されていたかもしれない「逃げ道」を潰したんだ。
「……とまあ、そういうワケでここんとこ俺の様子がヘンだったってこと!『悪人、犯罪者の自業自得』って言ってしまえば簡単なんだけどさ、いざこういう場面に出くわして自分がそこで役割を分担する立場になってみたら、人間てそう簡単に『悪党に人権なし!死ね!』って割り切れないものなんだなって……」
「相棒、俺のことぎゅーってしてみろ。」
「は?」
「いいから、早く!ぎゅーって!あ、でも力は入れ過ぎんなよ?中身が出たら困るから。」
「いや、そんな。三十六にもなったオッサンが月夜の町で猫を抱きしめるなんて姿を誰かに見られでもしたら最低七回は恥ずか死ぬぞ。」
「いいから早く!俺も恥ずかしいんだ!」
「わかったよ。こうか?」
ぎゅーっ……
「相棒、何か感じるか?」
「ん、けっこう温いな。」
「だろう?オマエだってぬっくいぞ。今はそれに加えて酒臭いけど。……よし、完了!」
ロビンが両手で俺の顔を押しのけてくる。
「で、今のはいったい何だったんだ?」
「俺が半分持ってやった。さっきはシニッカの奴に先を越されたけどよう、オマエの傍にいつもいるのは相棒の俺だぜ?何かあった時は、オマエ一人で駄目そうな時は半分寄越せよ、俺が持ってやるから。」
「……いいのか?重いかもしれないぞ?」
「俺を何だと思ってやがる。積載量は2トンだぞ?そう簡単にツブレてたまるかよ。」
「そうだったな……ふふっ……ふふふ……はははははっ!」
「にゃはっはっはっはっは!」
薄雲が大月にかかってあたりが少し暗くなった。『金床亭』のある方から食器の割れる音と内容不明の怒声が聞こえてくる。
「飽きもせずにまーだあんなに大騒ぎしてらあ。さ、戻ろうぜ相棒。すっかり冷えちまったよ。」
「ああ、もう少し飲んで体をあっためなきゃな。オマエのおかげで気が楽になったから、これなら酔えそうだよ。」
「それならさ、俺にも少しでいいから飲ませてくれよ。ホンモノのネコみたいに気にしなくてもよう、ぜーんぶ体ん中で魔力に変えちまうんだからいいだろ?ツマミはネコちゅ~ぶ・ホッケ風味で!」
「……うすーく割ったのを二、三口舐めるだけだぞ。それと、ビールとかエールとかの類はなし。」
「何だよそれ?」
「オマエは色違いだけど、モデルは黒猫だったっていうし。とにかく、日本では明治の頃から人格のある猫にビールは厳禁なの。いいな?」
「ワケわかんねえ。」
「そうだ、その前に……」
ポケットから小さな銭袋を取り出す。昼間、ヴィルホが俺に無理やり押し付けてきたやつだ。
「どうすんだよ、ソレ?」
「こうするのさ……」
俺は銭袋を水路に投げ捨てる。どぷん、という音をさせて袋はあっという間に沈んでいった。
「彼女への花は俺のポケットマネーで買うさ。あんな男の金で買っちゃ、俺までアイツの仲間入りみたいなもんだからな。金そのものに貴賤はないけど、出所が汚すぎる。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「旦那、このぶんなら明後日の昼にゃあポートミルシェに着きやすぜ。」
海図の上に木製の器具を並べて何やら計算していた航海士の一人が顔を上げないまま、後ろの商人に声をかけた。
「そうか。予定が早まるぶんには何も問題ない。船長、積荷は問題ないだろうな?」
「はい、それはもう。見張りは信用の出来る奴しか置いておりませんからな。」
「前のようなことがもしまたあったなら、お前だけでなく八族三代一人残らず狂い死ぬまで山で奴婢働きをさせてやるからそう思え。」
「ははっ……」
「私は自室に戻る。行くぞ、ガスリィ。」
護衛の戦士を連れて商人は部屋を後にした。船長と呼ばれた男も、他の船員も低頭して見送るが、実際は皆心の中で彼をさげすんでいた。
『ヒモあがりの田舎者』
『赤銅どまりの能無し』
『組織の威を借るクソ鼠』
『種馬の婿』
『義父殺し』
様々な蔑称が使われたがそのほとんど全ては事実であり、誇張こそあれ虚偽はなかった。もっとも本人はそこまで悪しざまに言われていることに少しも気づかず、自分は畏怖畏敬の対象になっていると勘違いしているのだが。
船尾の部屋の前まで来ると、商人は護衛の男を扉の外に待機させて中に入った。机の上には紅石と蒼石がはめ込まれた簡素な銀細工の施されたナイフが置かれている。ナイフを手に取ってランプの灯りの下で眺めた後、再び机の上に置いて商人は吐き捨てるように言った。
「……クズ石付の安物が……」
だが商人は嬉しくて仕方がなかった。喉元に刺さったままだった、過去の失敗という名の棘が綺麗に抜かれたのだ。
あの頃の自分はまだ稚拙で、一人の女すら始末できなかった。
もしもあいつが生き延びていたら?ダンジョンから生還して今もどこかで復讐の炎を燃やし続けていたら?俺の前に現れたら?
組織の下働きから初めて二十年、冒険者の町でも有数の商会を仕切る立場を手に入れ、組織の幹部の椅子が見えるようになった今も拭い去ることができなかった懸念。今さら女の一人が現れたところでどうとでも片付けるだけの力はあるが、それでもなお消し去ることのできなかった不安の種。
それはもう無い。
アイツはやはり、あのダンジョンで死んでいたのだ。しかもギルドの阿呆どもは何も気づいていない。俺はツイている。俺の道を邪魔するものは何もない。俺はまだ先へ、上へ行ける人間なのだ。
商人は近くにあったワインの瓶を取り、親指で栓をはじき飛ばしてそのままラッパ飲みした。口の端からこぼれ出る赤紫色の液体が血のように男のシャツを染めていく。
瓶を口から離し、船窓から投げ捨てようとナイフを手に取った瞬間、室内にあったランプの灯りがすべて消えた。窓にはめられたガラスを通して、冬の月光が室内に幾筋かの光の道を作る。
「ガスリィ!おいガスリィ!灯りが消えたぞ、換えを持ってこい!ガスリィ!」
大声で呼ぶのだが、外からは何の反応もない。波の音と、船体がかすかにきしむ音、冬の風に帆がはためく音が聞こえるだけだ。
「クソッタレの役立たずが……」
扉に向かって歩き始めた商人の耳に少女の声が聞こえた。
心底嬉しそうな、それでいて冷たい声。
その声が十七年前のある時まで毎日聞いていた声であると気づくのに、少しばかりの時間が必要だった。
「久しぶりね、ヴィル。会いたかったわ………」




