国に必要な力
塔の中へ入り、長い階段を登る足はいつもよりもどこか速く感じた。それは背中に未だ、じくじくとしたアダマスの視線の感覚が抜けないからだろう。そうしているうちに、目的の部屋に着いた。そこでようやく息が整う。少しだけむせ、深呼吸してから大きな扉を開けた。
部屋の中心にある円形の大きなテーブルに資料を置く。一旦自分の席に腰を下ろして、もう1度深く息を吐いた。
机に置いた拍子に広がってしまった書類をついでに見直して、ここからは正面となる席に持って行く。この椅子に普段座っているのは、同じ柱の中でも4人をまとめる役目を持つ人物だ。直接渡せたらと思っていたが、どうやら見回りに行っているらしい。
「しかし、彼までアダマスの手中となってしまうなんて……。真面目すぎるのも、隙なのだろうか」
五大柱の皆に好まれていないのはもう慣れた。更には、この席の主にもっとも嫌われている事も。それでも平等に話し合いをしてくれるのは彼だった。
コランは無念そうに机を指でなぞる。いいや、感傷に浸っている暇は無い。悲観している自分に首を振り、壁周りに設置された本棚へ目を向けた。調べておきたいものがあるのだ。
(シェーンが収容されている牢の呪い……まだ何か、解く方法はあるはずだ)
一刻も早く彼女を外へ解放したい。アダマスを手にかける事も一時は考えたが、彼が死んでは、牢の扉は一生固く閉ざされてしまうため、諦めた。
するとコランは、呪術を主体とした本を収めている棚へ向かう途中、妙な事に気付く。歩いても一向に距離が縮まった感じがしない。むしろ視界はぐにゃぐにゃと揺らいでいた。一体どうしたものかと思ったその時、やっと自分の足に感覚が無いと気付く。
喉からヒュッと嫌な音が鳴った。続けて膝がガクリと折れる。倒れそうになる体で必死にバランスを取ろうとした結果、腰を地面に打ちつけた。頭に振動が響き、余計に視界が回る。
脳は酸素を求めるが、口は浅い呼吸しか繰り返さない。体が言うことを聞いてくれない。胸元が苦しくなってきた。
(まずい……薬を)
薬は机の引き出しに常備している。映る世界は全てが何重にもなり、おそらく常人なら歩けない。何度か同じ世界を体験している彼は、力を振り絞って立ち上がり半ばぶつかるような形で引き出しに駆け寄った。
腕輪に飾ったムーンストーンを翳し、引き出しを開ける。しかしコランは中を見て目を丸くした。
「無い……!?」
おかしい。最後に席に座ったのは2日前。確認した時には確かに数本あった。瓶に入れた液体の薬を布に染み込ませ、口に当てる。この薬は他人には強力なもので、万が一を考えて持ち歩いていないのだ。ここだけが頼りだったのに。
コランは両膝をつき、机に突っ伏す形で倒れ込む。浅い呼吸を続けながらも、耳から音が消えていく。意識が薄れるのを感じながら、重たくなった目蓋を閉じた。
「──コラン」
小さく、名を呼ばれた気がした。気のせいかと思ったと同時、グイッと肩を後ろへ引かれる。背中が誰かに支えられ、口元に何か触れた。体の感覚が鈍いが、コランはそれが何か本能で理解した。探し求めていた布だ。更には嗅ぎ慣れた薬の匂いがする。
思い切り吸い込むと、蒸気となった薬が肺を隅々まで満たした。閉じていた目を開くと、ぼんやりと見えたのは湖の様に透き通った水色をした瞳。その冷たい目は、五大柱の長的存在。
「ヴィリ、ロス……?」
ヴィリロスは名を呼ばれると小さく溜息を吐き、冷たくなったコランの手に布を持たせる。そして少し乱暴に体を引き上げると椅子に座らせた。
「手を煩わせるな」
「す、すみません。薬を常備、していたはずが……ケホッ……。見間違って、しまったようで」
そう言うと、ヴィリロスはどこか呆れた息を吐き捨てた。
コランは懐に手を入れて何かを探している彼を、ぼんやり眺める。取り出されたのは、見覚えのある4本の薬瓶。それは本来、引き出しの中にあるはずの物だった。
ヴィリロスは細い瓶を指の間に器用に挟み、目を瞠る彼の机に置いた。
「な、何故、これを」
「もっと厳重にしまっておく事だ」
「それは、一体どういう……?」
言葉の意味が分からずにいると、彼は机に置かれた書類をパラパラと捲る。視線にも問いにも答えようとせず、書類を引き出しにしまう。その様子にコランは、何故彼が薬瓶を持っていたのかという疑問に蓋をするしかなくなった。ヴィリロスは必要以上に会話を好まない。1度口をつぐむと話をする気がないという主張なのだ。
すると、やっと普段通り鮮明に映り始めた目と鼻の先に、ヴィリロスの顔が映り込む。コランは驚き、距離を取る様に背筋を伸ばした。その顔は無表情に近く、何を考えているのか想像できない。
「立て」
「え? 何か」
言葉と同時に腕を引かれ、無理やり立たされる。彼はそのまま、不安定に震えた膝を無視し、引っ張るように歩き出した。どこへ行くのかと思えば、連れられたのは部屋の外。
コランがピンクに近い赤目を瞬かせていると、ヴィリロスは部屋の中へ引き返した。当然の様に閉まろうとする扉へ慌てて振り返る。だがヴィリロスは室内に招こうとはしてくれなかった。
「必要以上にここへ来るな」
「そ、それは出来ません。私も柱の1人です」
「死体になられても迷惑だ」
「待ってください。貴方と話がしたいんです! アダマスについてもう1度──」
完全に閉じようとした扉が、僅かにピタリと止まった。それと同じようにコランの言葉も、中途半端に終わる。遮ったのは、氷の様な目。それまでとは異なる光の無い瞳は、まるで殺人鬼が持つ殺気を放つ冷徹さだった。あきらかに、先程までと様子が違う。
空気だけでなく体まで凍ったように動かない。しかしコランは思わず結んだ口で言葉を振り絞る。
「目を……覚ましてください」
「貴様のくだらぬ妄想に付き合う暇などない」
「ヴィリロス!」
こちらの声など聞こえていないかの様に、扉は完全に閉ざされた。叫びに金属製の重い音が混ざって廊下に虚しく響く。コランは悔し気に唇を噛んだ。
アダマスがノイスに来てからというもの、彼らは今のように、時折り別人のようになる。
「やはり彼らも……」
あの目は、確かに正気のものではなかった。そもそも彼は態度は変わらずとも、どんな些細な事でも耳を貸す男だ。いくら嫌っていようとも、職場に私情を絡ませない。
「あの力を解く方法を探さなければ」
胸ポケットに入れた新たな国石を見つめる。そのぬくもりを確かめるように、胸元で握りしめた。
~ ** ~ ** ~
ヴィリロスは深く息を吐き、椅子に腰を下ろしてじっくり資料に目を通し始める。主な内容は新しい行方不明者と、近付いてきた宴に参加する出店の情報。読んでいる最中、ふと空色の目が細まる。その顔はやはり感情は読めないが、どこか穏やかな色に見える。
コランが作った資料は、どんな内容でもとても分かりやすい。もちろん別の人物が作った物も、分かりにくいわけではない。しかし彼が制作したものは他と比べて細かな情報でありながら、スムーズに読める丁寧さがある。
(性格によるものか。私にはできない)
ノイスでは珍しい、裏表も無く物腰が柔らかいのがいいのだろうか。国民にとって親しみやすいようで、見回りの際、他が聞けない情報を聞けるのだ。
もちろんその姿をいいとする者ばかりではない。この国で優しさは時に弱さとなる。そのため、彼を引きずり下ろそうとする民も居る。厄介なのは、その悪意にコランが気付いていない事だ。それも彼が仲間だと信じる者たちのものでさえ。
ガチャリと扉が開く音がした。視線だけをそちらへ向けると、入って来たのは柱の3人。彼らは何やら、口惜しそうに顔をしかめてボソボソと話し合っている。
と、ヴィリロスに気付いた1人が周りを制し、会釈した。彼は瞬きでそれに返し、資料に再び顔を向ける。すると、集中し始めた耳に煩わしい内緒話が聞こえてきた。
「せっかく懐にしまったというのに」
「今日は発作を起こさなかったのでは?」
「しぶとい奴め」
荒々しくも、どこかその小言には愉快そうなものが混ざっているのが分かる。
ちょうどヴィリロスの水色の瞳が、最後の行を読み終えた。その時1人が、コランの机の上に薬瓶が置いてあるのに気付く。目を丸くし、まだ陰口を弾ませている仲間を肘で突く。気付いた彼らも同じように、薬瓶が彼のもとにあるのが信じられないと言った顔をした。
「この国で必要とされるものを、理解していないようだな」
「!」
感情を感じさせない声に振り返る。いつの間にか、ヴィリロスは席を立って集団の真後ろに居た。
3人は思わず顔を引きつらせる。1人がなんとか固まった唇を動かして言葉を作った。
「も、もちろん存じているとも。強さだ。だからこそ、あの男は要らんのだ」
あの男とは間違いなくコランの事だ。ヴィリロスは今日何度目か、呆れたように溜息を吐く。彼らは全く分かっていない。そして悪意を投げられている本人もだ。
「この国に必要なのは、心身の健康ではない。卑怯でないかどうかだ。それをゆめゆめ、忘れぬよう」
「それは……」
言葉は最後まで作られず、ゴニョゴニョと糸くずの様に絡まった。
全員目を逸らしている。陰口だろうが悪意だろうが、少しは貫けないのか。これでよくノイスの五大柱が務まるものだ。そういえば、どんな時でも自分と目を合わせ続けるのはコランだけだった。4人の中1人だけとは、なんて情けない。
ヴィリロスは目を伏せると、扉へ向けて歩き出す。しかしノブを握る直前、顔だけを振り返らせた。
「それと、物を隠す暇があるのなら、彼よりも詳しい資料を作る事だ」
廊下へ出た時、後ろで小さな悲鳴を聞いた。扉が閉まった瞬間、今度は何やら部屋の中でバタバタと慌ただしい音が聞こえ始める。
分厚い壁越しに、まるで大人のものと思えない言い争いが聞こえる。ヴィリロスはそれを背中にして廊下を進んだ。次に五大柱を決める時は、彼らとはもう出会わないだろうと思いながら。




