女神像内部
彼女の足が天井から消えたのを見送り、ルルは改めて周囲を確認する。牢以外、これと言って何か特別な物は無さそうだ。
(出入り口は……あそこだけ、かな?)
歩き出した時、足元からコツンと音が鳴っていると知り、靴を脱いだ。普段は心地好いと思えるが、今は厄介な客人を誘き寄せる災いの音になってしまう。それにこうすれば、自分以外の音にすぐ気付ける。もし見つかっても少し眠ってもらえばいいだけだ。
壁を伝いながら試しに奥へ向かった。円を描くコロシアムに沿った形で牢が続いている。するとその途中、ルルは何の変哲も無い壁で手の動きを止めた。積み重なった石が作る壁から、指先に微かな風を感じる。湿っぽい空間の中、偶然か必然か、そこから唯一風が出ているのだ。
(ここだけ、隙間が大きい。でも……外の風とは、少し違う?)
隙間風だけでは判断するのは難しい。しかしここからは外の風が運んで来る、木や砂埃などの香りがしなかった。
ルルは背後に気を配りながら、鞘から抜いた剣先を風の出所へ差し込み、渾身の力でグリップを押し上げた。壁からはパラパラとレンガの欠片が落ちるだけでびくともしない。テコを利用して上下とも試してみたが、解決する兆しは見えなかった。
(難しいな。僕ってそんなに、力弱いかな)
性別の無い体の物理的な力は、どちらかと言うと少女寄りだ。旅で多少鍛えられはしたが、同じ歳の少年に腕力では勝てない。
彼は少し息を荒くさせながら、悔しそうにムッと壁と睨み合う。しばらくして後ろへ振り返る。どれほど時間が経ったか分からないが、間もなく太陽が顔を見せるだろう。出来たらそれまでに、もう少しだけ探りたい。
(こうなったら……ゴリ押しが、1番)
最後はこれに尽きる。そう自分に頷き、剣を腰に刺し直して深呼吸した。そして助走を付けると力の限り、全身で壁にぶつかる。すると壁の中から、まるで歯車が合わさる様な、カチッという小さな音が聞こえた。同時にカタカタと音を立て、壁は体と共に傾き、ガコン……と彼を地下牢の外へ放り出す。
ルルは突然の浮遊感に息を呑んだ。更に短い段差のせいで体勢が整わず、背中で地面へ派手に着地する事となった。ドサリと鈍い音が鳴り、ルルは体を硬らせてなんとか痛みに耐える。
(痛い)
すぐ起き上がれたが、背中はジンジンと痛かった。やっぱりもっと慎重にすれば良かったと思いながら溜息を吐く。
恐らく今の物音は誰かの耳に入っただろうが、進展はした。周囲はやはり外では無く、隠し通路だった。人一人分程度の細い階段が上に続いている。構造的に、コロシアムの奥に立つ女神像の中だろう。ルルは壁から生える様にしてある階段を素早く上がった。
階段は突然終わりを告げる。それまであると思って踏み込んだ足が、空気を蹴った。ルルの喉から、予想だにしない事にヒュッと音が鳴る。しかし咄嗟に衝撃を想像して縮んだ体を受け止めたのは、硬い地面ではなかった。
バシャンと大きく飛沫を上げ、彼の体を包んだのは冷水。深くはなく、座った状態で頭を水面から出せる浅さだった。思い切り落ちたため、全身ずぶ濡れな事には変わりないが。
(何、ここ……?)
見渡す1階は一面が水溜りだった。2階へ続く階段は無く、まるで部屋全体が大きな桶のようになっている。しかし出口が無いわけではない。地下から登ったすぐの壁に、小さいが子供なら通れそうな窓がある。そしてもう1つ、天井付近に丸い穴があった。
(もしかして、あそこが2階への、道?)
どうやらここは人が入るような場所ではないようだ。2階に繋がっていそうな穴から、液体がポタポタと流れている。
(……? これ、血……?)
小さく、それでも絶え間なく落ちている雫から、生々しい香りがする。上で何かが起きている。しかし探索はここまでだった。更に上の階から、誰かの足音が聞こえて来たのだ。
ルルは急いで窓辺に上がり、靴を履いて外へ飛び出す。どうやら足跡が残っているようで、侵入者を探しているらしい言葉が聞こえて来た。
(見つかっても、いいけど……まだ早い)
ルルは素早くも音を消して草原を走り、女神像の後ろに広がる木々の中へ入った。
~ ** ~ ** ~
女神像の中等部分には、いくつかの部屋が設けられている。それらの中で最も大きいと言っていい扉から、数人の白衣に身を包んだ者が出入りしていた。やがて最後の1人が、室内へ深く腰を折って廊下に出ると、静かに扉を閉めてその場をあとにした。
大きくも音が無く閉まった扉を見送る豪華絢爛な部屋の中、似合わない唸り声が小さく響いた。
「一体、何なのだ」
吐き捨てる様に言ったのは、部屋の新たな主人となったアダマス。少しの間従者たちが出て行った扉を見ていたが、広いソファにドカリと座る。足が苛立ちに揺れていた。端正な顔を歪ませるのは、昼間の出来事が原因だ。
毎日何人もの信者が集う、未来を言い当てる占い。その最中、媒体として使っているブラックダイヤが使い物にならなくなった。
よく似た漆黒の瞳が、恨めしそうにブラックダイヤモンドを見つめる。そのせいで占いは中止。明日もおそらく行えないだろう。
思い出すのは、民たちが自分を見る目。口では心配そうな言葉を作っていたが、あれは疑わしいものを見る色をしていた。
「もし私自身に、予知能力が無いと噂が回れば……信用が落ちる」
そう、アダマス本人に占う力は無い。彼にあるのは、他人を意のままにする力。それも世界の王に近い、生き物の中に眠る服従心を操る力だ。それは人間である彼に元からあったものではない。王に仕えるオリクトの民の心臓を食べ、手に入れたのだ。それも数人の。人間に近づく彼らを言葉で巧みに騙すのは簡単だった。
だが人間には重い力なのか、自由に使えない。無闇に扱えば自分を壊すだろう。このダイヤモンドが無ければ、コントロールが難しかった。
アダマスは柔らかな布の上にあるブラックダイヤに触れる。占う事は出来ないが、かろうじて力をコントロールずる事は出来そうだ。それさえできれば、疑いを強く持たれても長くはないだろうが、宴まで持てばいい。王の心臓を食べてしまえばこちらのものだ。
持ったダイヤに、アダマスは薄青い手が添えられる幻覚を見た。そうだ、これが壊れたのはあの旅人を見てからだ。頭に直接響く、抑揚の無い音。不思議と胸が騒つく声だった。
「何者だ……?」
未来を見せる事を拒まれた人物は初めてだ。しかもあの旅人は、このダイヤを誰のかと尋ねてきた。言われた通り、これはただの宝石ではない。元は自分に力をくれたオリクトの民の目。しかし、使用できるようにと加工しているため、これが生き物だったと分かる者など居ない筈だ。
従者たちが集めた情報によると、観光目的に訪れたらしいがなんとも怪しい。あの見た目で、武器を使わずに高い賞金を課せられたと聞いた。ただの旅人ではない。
ああ、思い出せば思い出すほど気に触る言葉を残された。
「血で溺れるだと……? この私が?」
今まで散々血を味方にし、この体を保っているというのに。今更溺れるだなんてありえない。
どこか血生臭いワイングラスを回してからひと口含んだ時、シックな扉が少し強くノックされる。入って来たのは顔を布で隠した従者の1人。彼はどこか慌てた様子だった。
「何事だ?」
「捉えた娘に逃げられました」
「何だと? 門番はどうしている」
「それが……食事を持たせた人間以外、出入りしていないと」
アダマスは目元に深くシワを刻んで唸った。せっかく#美味そう__・__#な娘を捉えたというのに。しかし地下牢からの出口で、彼女たちが知っているのは門番が守るあそこだけだ。
「実は、1階に見知らぬ足跡が……。娘の物ではなく、おそらく別の子供の足跡かと」
「子供……? まさか」
頭の中で色濃く浮かび上がるのはあの旅人。確かにあの背丈と声色からして、子供だとも判断出来る。
「探しますか?」
「いや、いい。娘も放っておけ。どの道連れて来られた記憶は無いのだから」
アダマスはガラステーブルに置いた鏡へ手を翳し、撫でる様に動かす。映し出されたのはその旅人の姿。
「この者を監視せよ。何か怪しい動きをしたら、すぐ報告を」
「はっ」
従者を下げ、彼は鏡を見つめて醜い笑みを浮かべた。
これから先、邪魔となるのなら静かに命を終わらせる。もしそれを掻い潜り、より派手な動きをしたら公開処刑してしまおう。反感者へのいい見せしめになる。
「止められるのは神だけだ。しかしその神すら、近いうちに止められなくなる。全てに後悔するといい」
少しでも目立ち歯向かおうとした事を絶望し、その身で許しを乞うといい。
アダマスはワイングラスに入れた鉄臭い液体を鏡へ投げ付ける。彼は採れたてのソレに濡れる旅人に、勝ち誇った様な笑みを浮かべた。




