小石を退かす程度の力
落ち着いた紫色の道に導かれ、ルルは図書室を目指していた。プライベートルームや食堂など、主な住居スペースとは別に、図書館は別棟として作られているらしい。昨日聞いた時は小さな1室を想像したが、わざわざ別棟として作るほど拘っていると知り、気になっていたのだ。
大きな窓から夕日が差し込み、別棟への道を赤く彩っている。少し遠くを見れば、薔薇が作る迷路の庭がよく見えた。
細い廊下を抜けてすぐ、大きな入り口があった。薄暗いドアの両端に付いたランタンが、客人に気付いてフワリと灯る。ノブの下に埋め込まれた国石へ、コランから借りた鍵を翳す。装飾として嵌め込んだムーンストーンが反応して、ゆっくりと音無く開いた。
ドアが背後で閉まるとまず、本の香りが迎えてくれた。1階と2階に分かれていて、それぞれに数人で囲めるテーブルと椅子が設けられていた。照明は、高い天井から吊られている月の光だけ。沢山設置されている本棚は迷宮の様だ。壁に飾られた絵画が、本棚の影からこちらを値踏みする様に見ている。
ルルは手始めに、奥側から攻める事にした。本棚が重なり合うそこは、より暗くて自然と重々しい雰囲気を漂わせている。
指の感触を頼りに、本を物色する。分厚い本に紛れ、薄い本があった。しかし表紙が硬く、どこか丁寧に作られている。背表紙をなぞると、そのタイトルは『神の使い人』という、ルルにとってはなんとも意識を惹くもの。
迷わずそれを選び、その場に腰を下ろしてページを開く。
(これは……オリクトの民の、生態について?)
主な内容は、人間にとってのオリクトの民の生態についてだった。民の心臓や血液など。
血液は万病の薬となるそうだ。それも、採ったばかりの方がいいらしい。しかし薄めなければ、逆に命を脅かすものだという。人間には強すぎるようだ。彼らの唾液は塗り薬として使えるそうだ。人間の作る薬に混ぜると効果が高い。
そして心臓だが、これは食べる事によって寿命を延ばすという。何人か、賢者と呼ばれる人々が口にし、不老不死かと疑われるほど長生きしたらしい。
(……人って、不思議。どうしてそんなに、何かに、縋るんだろう。縋らずとも……彼らは強く、生きられるというのに)
人の欲は底無しだとは聞くが、本当にその通りだと実感した。
その他にも、涙は加工して宝石になるだとか、剥いだ肌は着心地がいいだとか。人間にとって有益となるオリクトの民の情報だらけだった。
ルルは本をパタンと閉じ、深く息を吐く。情報は増えたが、流石にいい気分ではない。これだけの情報が湧くのに、どれだけの民が犠牲となったのだろう。
(それなのに、滅んだら……人は可哀想だと言う。何もかも遅いというのに)
愚かと言えばいいのか、素直と言えばいいのか。全ての人がこうも欲に忠実ではない。なんとかそう自分に言い聞かせた。
(でもアダマスが、心臓を食べた……という噂は、本当である可能性が、高いね)
そうまでして死を遠ざける意味がよく分からない。どんな存在にも、終わりというのは必要だ。もちろん、その形がいいものとは限らないが。それでも逃げれば逃げた分、いい結果にもならないだろう。
(あれ? この香り)
ルルは本以外の知っている甘い香りを嗅ぎ取って立ち上がる。本を戻し、入り口付近まで戻った。
自分以外の気配を上の階から感じて見上げる。すると、ピンク色の目と合った。
「あら? ルル。いらっしゃい」
『ルービィ、来てたんだ。そっち、行ってもいい?』
「もちろんよ」
ルービィは腰までの手摺りからこちらを覗いて手を振っていた。ルルは1階の左右の壁に取り付けられた階段を登る。
「ここ、来たの初めて?」
『うん。1階は、少しだけ見たよ』
「良ければ、2階を案内するわ」
『でも何か、していたんでしょ?』
彼女が居たであろうテーブルの上には、本が広がっている。ルービィは途中まで開かれた本を閉じると、にこりと笑った。
「ええ。でも、休憩する所だったから」
『そう? なら……お願いするよ』
ルービィが案内してくれたのは、茶色や黒などの堅苦しさが無い、カラフルな本が集まった棚。光が届かなくても、不思議と空気が鮮やかに感じる。ここの多くは子供向けに作られた絵本らしい。あまりルルが触れない種類だ。
勧められ、近くにあった本を引き抜く。そっと開いてみた瞬間、ページの中から何かが飛び出した。
「!」
「ふふ、魔法よ。不思議でしょ?」
本から出て彼らの周りをクルクルと飛ぶのは、透明な石造りの翅を背に持った妖精だった。
イタズラ好きの彼女たちは、緑鮮やかな森の挿絵から抜け出して、驚いているルルの仮面を外す。すると小さな妖精たちは、鏡の様な虹の瞳に驚いていた。どうやら王である事が分かったようだ。妖精はただ絵が具現化しただけでなく、個体として本の中で生きているらしい。
指を差し出すと、彼女たちは少し迷っていたが、小さな手で握手に応じてくれた。それから手の平を出してみると、嬉しそうに腰を下ろす。
『妖精……初めて会った』
「ルルの事、気に入ったみたいね」
ルービィの頭にも、いつの間にか妖精が座っていて、器用に何か作り始めた。完成したのは、2つの可愛らしい花冠。妖精はルルとルービィへ、完成を嬉しそうに交互に見せる。そして2人の手の下に滑り込むと、それぞれの薬指に冠を着けた。
驚いている姿に、彼女たちは仲間同士で愉快そうに笑い合い、2人の頬へキスをすると、本の中へ帰って行った。
ルルは残された贈り物を顔に近づけ、柔らかな花の香りに微笑むように目を細める。
『素敵なプレゼント』
「そ、そうね」
ルービィは薬指に嵌められたイタズラ心に、ルルの顔を見れなかった。今だけは、彼の目が自分の顔を認識出来ない事に感謝してしまう。お揃いに嬉しさと恥ずかしさを感じて真っ赤になっているのがバレないから。
しかしルルは他人の動きに敏感だ。彼が今の心情を察してしまう前にと、ルービィは背を向ける。
「そろそろ次の所へ行きましょう?」
『うん、そうだね』
花の指輪に視線を落としていたルルは、そう言って歩き出したルービィに慌てて付いて行った。
小1時間ほどで探索を終えて興味深い本を手に、席に戻ってきた。彼女が先程まで居たテーブルには何冊も本が重なっている。そのどれもが分厚い。
ルービィはクッションを置いたソファに座り、積まれた本を見ているルルへ微笑む。
「お隣どうぞ」
『ありがとう。調べ物?』
「いいえ、ちょっとお勉強」
『べんきょう?』
ルルはあまり聞き慣れない言葉に、首をかしげる。しかしルービィは、その反応に驚く事はしなかった。
勉強をした事がない人は少なくない。平民は、全国の五大柱が取り決めた世界の基礎知識や、各々の国で決まった法律だけを教えられる。親が幼い頃に我が子へ教養を数年掛けて与えるのだ。世界や国の常識が変わらない限り、それが最初で最後の勉強となるだろう。
基礎以上を知りたい者は、弟子入りや独学などで個々に学ぶ。ルルが文字の書き方を教わったのも、その一つだ。
『じゃあルービィは……何の勉強を、しているの?』
「父様の跡を継ぐためよ」
女の五大柱は少なくないが、多くもない。力を求められる男とは異なり、器量の良さと賢さが重要となってくる。男よりも女の五大柱への門は狭く厳しいもの。この国では力を特に重視するため、民からの目はあまりいいものとは言えなかった。
しかしそう言うルービィの顔は悲観している様子はなく、むしろどこか楽しそうだった。
「私たちが歩く道は平坦で、安全でしょ? 最初からそうだったと思う?」
『思わない、かな。元は……道ですら、なかったんだから』
「ええ。そう考えると、初めての事をする人って、とっても勇敢だと思わない? だって、誰も通らない道なんて、とても怖いわ。私がルルの事を凄いって言ったのは、この意味もあったの。まだ誰も歩いた事が無い場所を進んで、誰かへの道を作るんだから。私もね、そうありたいの」
ルービィの夢は、厳密に言えば五大柱になる事ではない。世の女性が男性に負けない世界。そして男性も女性も関係なく実力で、上に立てやすくする世界を作る架け橋の一部になる事だった。五大柱になるのは、その過程のたった一つ。
ルービィは自ら、茨の道を素足で歩く事を選んでいる。進むごとに棘は鋭く、彼女を血で汚すだろう。しかしそれでも、痛みよりも進んだ事に微笑む彼女の背中が、ルルにはとても凛々しく感じた。そして美しいとも思った。
「だから尚更、アダマスが許せない。人を人として見ないその姿が。絶対あの人より……いいえ、誰よりも知恵をつけて、道を拓く五大柱になる。もちろん、そうなるには知恵以外にも必要だけれど」
ルービィは少し恥ずかしそうにはにかんで言った。彼女が誰も知らない、茨の道の先にある新しい光に照らされる姿が描かれる。彼女のような人こそが、人の上に立つのに相応しいのだと心から思えた。そしてその姿が、自然と旅路の背を押してくれた気分にもなる。
きっと彼女は、誰よりも強く美しい五大柱になる。だがルルはそれを言う事はしなかった。わざわざ励ましとなるような言葉を、口にする必要は無い。もうルービィの胸の中で、その未来が創り上げられている。だから、言える事は一つだけ。
『別の国で、貴女の名前が聞けるのを、待ってる』
ルルの言葉にルービィは目を丸くしたが、すぐ挑戦的に、強く頷いた。
彼女と共に同じ道を拓く事は出来ない。だが、目の前を覆う邪魔な存在から守る、つかの間の騎士になる事は出来る。
人を裁く事が許される王。そんな彼が望む力は、全ての人を従えるものではなく、足元を掬おうとする石を退ける、ほんの僅かな力だった。




