国宝が穢れた時代
多くの人が彼の本名を知らない。もちろんそれは、名前を売られないためだったり、易々と他人に教えたくないというプライドのためだ。その代わり、大人はドラゴンの坊やと呼んだりしている。
2人は人の流れを絶たないようにと、壁に寄った。すると少年は、興味深そうに言葉を待つルルに、念を押して繰り返し尋ねる。
「なぁ、本当にドラゴンを信じるのか? 馬鹿にしてるわけじゃないんだよな?」
『うん』
「見た事無いのに?」
『無いからこそ。居ないっていう、証拠も無い。それに……できれば、会ってみたい』
フードの影になった紫の唇はそれまで堅苦しそうに結ばれていたが、仄かに緩んだ気がした。それに少年は腕組みをし、壁に背中を預けながら空を見上げた。
何から話そうかと考えながら、鳥たちが群れを成して飛んでいるのをなぞった。
「昔は、空にドラゴンが普通に居たんだぜ。信じられるか?」
『どうして、今は?』
「戦争のせいさ。大昔のな」
『せんそう? 何、それ?』
「ずーっと昔、国同士の交流が盛んだった時に起こった、大きな殺し合いの事だよ。国宝が穢れた時代ってやつ」
それは、とても静かな今の世界では、想像のしづらい過去だった。しかし知らない若者はそう少なくない。穢れた時代はあまりにおぞましく、だからこそ、中々簡単には触れられない歴史だった。
ビジュエラの黄金期と呼ばれた時代。国宝が最も美しいと言われていた時代の数百年後、穢れと共に滅びの争いが起きた。荒んだ土地には沢山の死体が転がり、村は焼け、悲鳴の絶えない日々が長年続いた。地獄が舞い降りた様な光景を、何百年もかけて再生したのが今の世界だ。
『そんな時が……あったんだ。でも、それとドラゴン、何の関係が、あるの?』
「ドラゴンは使われたんだよ、兵器としてな」
ルルは言葉を心の中で復唱、少し不満そうな顔をした。意味を知らない言葉ばかりが出て来るが、なんとなく、いい意味ではないのだと分かる。
ドラゴンの戦闘力や生命力共に、人間は戦争に便利だと考えた。ドラゴンの卵を攫って子供の頃から調教を続け、確実な兵器として育て上げる。そんな調教師が昔は流行っていたほどに。
「確かに凄い力だったらしいんだ。炎を吐けば、村一帯は滅んだんだって」
『……凄い力だね。でも、もったいないなぁ』
「もったいない?」
『だってそれはきっと、優しい炎だった、筈だよ。この世界に、命を奪うための力……なんて元々、存在しない。この地は…………血で汚れるために、出来ていないから』
ルルは残念そうに、つまらなさそうに呟いて足元を見る様に俯いた。きっと炎は寒さを和らげ、水は生命を保つための力だった筈だ。
少年はそう言う半分も見えない横顔を、驚いて見つめていた。戦争や兵器を知らないところ、特別学に富んでいる訳ではなさそうなのに、まるで確信しているかの様な物言いだ。想像力が豊かというより、彼らの力を創り出したような言い方をする。
その言葉は間違っていない。元より自然界に近いドラゴンのその力は、世界を殺すためではなく、生命を絶やさずに生かすための力だった。
「……なんかさ、お前って変に達観してるよな」
『? そう?』
「超強いし、徳積んでるやつが言いそうな事言うからさ」
『そんな事、言った? それより……どうして、確かにあったものが、空想になって、いるの?』
「戦争って、もう何千年も前なんだよ。今はそんなの嘘みたいに、土地も空気もちゃんと綺麗だろ? だから大人はみんな、戦争は無かったものとして、物語として記録に残したんだ」
『事実なのに?』
「ああ。穢れた時代だって言われるから、それを真実だって認めたくないんだろうな。大人はキレイ好きだからな。そのせいで、兵器として使われ、兵器として絶滅したドラゴンの存在は、架空の動物にされたんだ」
『……随分と……勝手な、平和だね』
ルルは不機嫌なのか、珍しく声が低い。
受け継がれるべき悲劇は夢物語となり、その悲劇に巻き込まれたものは、架空のものとなったのか。永い平和を望み幸せになりたいのなら、それなりに土台となった惨劇は、忠実に語り継がれるべきだ。ましてやそれは、忘れるよりもタチが悪い。
『ん……色々分かった。教えてくれて、ありがとう』
「もう行くのか?」
『うん』
「何でこんな事聞いたんだ?」
『地形図を作るの。その国の、特徴だったり……いろんな事を、本に書きたいから』
あまりいい情報ではなかったが、それでも知識として知られたのは良かった。ルルは満足そうに少年へ答え、礼を言うと背を向ける。
少年はその呆気なさにポカンとしていたが、去ろうとする慌てて手を掴んだ。
『なぁに?』
「あ、あのさ、俺……アンタみたいにドラゴンに本気で興味持ってるヤツと、初めて会ってさ。いつも馬鹿にされるばっかでさ、えっと」
少年は何が言いたいのか、頭で整理出来ないまま、本能的に手を離せないでいた。目を逸らしながら辿々しく、必死に言葉を繋げる。
ルルは握る彼の手が緊張に少し汗ばんでいるのを感じ、ふふっと息をこぼす。そして少年に歩み寄ると、耳元で囁く真似をした。
『ルル』
「へっ?」
『名前。ルル』
「あ……あ~」
少年は最後にもう1度、迷うように目を左右に往復させ、気を緩めた様に笑うとルルの手を離した。そして、彼と同じ耳元で言う。
「俺はベリル。他人に名前、教えるの初めてだから……誰にも言うなよ? 俺も言わないけど」
『うん、ありがとうベリル。これで、友達だね。落ち着いた?』
「え、とも」
『嫌だった……?』
「そ、そうじゃないけど」
ベリルは何度も、まるで実感させるように「俺と友達」と呟く。
思えば1人になった頃から他人を警戒するばかりで、友達という関係を築いた事がなかった。簡単に出来上がった思いがけない関係に、新しい戸惑いが生まれる。
酔いそうになるほどに勝手に泳ぐ視界に、ルルのフードで隠れた顔が覗き込んできた。彼はどうしたの? と不思議そうに首をかしげる。
『ベリル?』
「うっい、いや、何でもない。嫌だからとかじゃないからな?!」
『それなら、良かった。それで……引き止めたのは?』
「あぁ、えっとさ、まだ時間あるか? 何か急ぎの用事とか」
『夕方には、会う人がいるけど……まだ日は、落ちていないなら、大丈夫』
時刻はまだ昼前で、ベリルはそれに嬉しそうな顔をした。しかし慌ててそれを誤魔化すように咳き込むと、ルルを人の居ない道まで手を引く。
フードで隠れた耳に手を軽く添えると、周りを警戒しながら小声で言った。
「俺の家に、ドラゴンが居るんだ」
『えっ?』
「まぁ、生きてはないんだけどな。親父が、趣味でだけど歴史とかを詳しく調べる人だったんだ。それで他の国に行ったりした時、ドラゴンの核を見つけて、各地に散らばった臓器だったりの断片を集めて、1匹作り上げたってわけさ。いわば剥製だな」
『へぇ……凄いね、ベリルのお父さん」
「へへ、内緒だぜ? そんでさ……良かったら、来て、見てみるか?」
『本当? いいの?』
「おう」
『……見ず知らずの、僕を……警戒しなくて、本当にいいの?』
ベリルは改めて、ゆっくり問い直すように言われ、しばらくの間悩みに唸った。確かにルルは見た目も職業も怪しい。しかしここまで話して、楽しそうな声も聞いた。今更疑う気にはなれなかった。
「そっちにも何か事情があってその格好なんだろ? それに……まぁ、全部嘘だったとしても、信じた俺の責任だしな」
『……そう』
僅かに見れる紫色の唇が、笑みとは程遠いが嬉しそうに緩んだのが見える。ベリルはそれにニッと笑い、再び腕を引くと道の奥へ進んだ。




