太陽と月の民
トントントンと、ドアを叩く音が遠くから聞こえて目が覚める。ルルは数回目を瞬かせ、のんびりベッドから出て小さな欠伸をした。背中を伸ばして深く呼吸をし、頭に酸素を分けて僅かに残った眠気を飛ばす。カーテンの隙間から来る太陽のぬくもりで、朝が来た事が分かった。
ノックが止み、代わりにバッカスの呼ぶ声が聞こえた。
「おい、起きてるか?」
『うん。今、起きたよ』
「下に来い」
ルルはそっとドアを開け、顔を半分だけ出して廊下を覗く。足が古い木の床を踏むごとにギィギィと鳴っていた。ドアが開いた事に気付いたバッカスは振り向いた。彼はじーっと見つめる視線を鬱陶しそうにし、眉間に深くシワを寄せる。
「んだよ」
『ううん。呼びに、来てくれるとは……思ってなかったから』
彼は癖の様に鼻を鳴らすとさっさと背を向け、階段を降りて行った。ルルも部屋を一瞥してからあとを追う。
『昨日は、ありがとう』
「気紛れに感謝なんて要るかよ」
『うん、言いたかったの』
「あっそ。そこ座れ」
示された椅子を気配でなんとか辿り、カウンターテーブルの丸椅子に腰を下ろす。バッカスはカウンター内に入り、よく磨かれた小さなナイフを取り出した。
四角いパンを程よい薄さに切り、その上にアーモンドの粒が混ざるバターを塗って、野菜とチーズを乗せた。フライパンに小さくまん丸い卵を4つフライパンに落とし、焼ける間にコーヒー豆を挽く。豆が砕けるカリカリという音がとても心地好い。
#芳__こう__#ばしいその香りは、ルルにとって初めてのものだった。不思議と心を目覚めさせてくれる気がして、自然と背筋が伸びた。
『何を、しているの?』
「黙って待ってろ」
『……じゃあ、この国を教えて』
「観光か?」
『半分は』
「太陽の地区には行かない方がいいぜ……つっても、無意味な忠告になりそうだな」
『太陽?』
「ああ。ここは昔から、太陽の地区と月の地区に分かれてる。国宝もな。ここは月」
ノイスはその昔、まだ地図が世界を繋いでいた頃は、太陽の民も月の民も1つの国として、互いに支え合っていた。しかし五大柱が変わった時に均衡は崩れ、国内での紛争が起こると最後は2つに分裂してしまったのだ。
その世代が終わった今は、お互いを嫌う風習だけが意味も無く残り、太陽と月の民が交流する事は滅多に無い。
「太陽は脳筋だらけだ。特に珍しい物を持ってる旅人はすぐ狙われる。賞金だって……きっとアンタにも付くだろうな。持ち物も高級そうだし」
『どうして賞金を、わざわざ?』
「そういうのが好きなんだよ。賞金があった方が、捕まえる時にスリルがあるからな。アイツらは刺激が無けれりゃあ生きていけない」
『人はみんな、刺激が無ければ……狂うものだよ。行きすぎるのは……良くないけど。じゃあ、ここの人たちは?』
バッカスは当然と言う様に呟かれた言葉に、作業していた手を思わず止めた。まだ子供に見えるのに、随分と達観した言い方をすると感心した様な声をこぼす。しかし彼にとっては思った事を言っただけで、それまでスムーズだった動きが止まった事に不思議そうにしている。
我に返った時には目玉焼きが半熟を過ぎようとしていている所で、パンの上へ丁寧に素早く乗せ、2つに切って皿に盛った。出来上がったサンドウィッチの片方を、コーヒーと同時に差し出しながら、先程の問いに答える。
「散々向こうを言っても、ここもそんな治安は良くねぇよ。賞金だって付く。こっちは陰湿な奴らが多い。つまりは暗殺だな。タダにこだわる占い師は信用するな。アイツらは他人の名前を使って好き勝手しやがるからな」
『気を付ける。これは?』
「朝メシ。匿った相手が野垂れ死にされたら景気悪いだろ」
『……貴方はとても、優しいね』
「下げるぞ」
『食べる』
低く唸る様な声で言われながらも、ルルは口から面白そうに「ふふ」と息をこぼした。感謝される事に喜ばない人は初めてだが、その反発的な態度に嫌悪感は無い。
出された皿を手探りで見つけ、形を軽く確かめると両手で持って齧った。半熟の卵が膜を破ってハムと絡み、とても美味しい。噛むたびにシャキシャキとする新鮮な野菜もいい。
するとバッカスは、違和感が少なくも自分たちには無駄な仕草に気付いて、訝しそうにした。
「もしかして目が見えないのか?」
『うん。何で……分かったの?』
「探り探りに見えた」
『そっか。ほとんど気配で、分かるけど……食べ物は、なんだか判断が、難しいの』
基本は気配や匂いで有機物、無機物を判断出来る。形などは、空間との距離を頭で計算するのだが、それでも理解出来るのは大まかな輪郭だけ。具体的なものは分からず、料理は特にだ。何を使いどう食べるのかという考えに、答えを出すのに時間が要る。
「ここは他の国より危険だ。アンタにはハンデだらけだろ」
『知ってる』
「それでも出て行かないのか?」
『うん、やる事があるから。それに……そんなに、弱くはない』
バッカスは微かに頬を緩めながら穏やかに言うその様子に、赤い目をパチクリとさせ、初めて可笑しそうに笑った。断言するまっすぐとした声が、それを見栄には感じさせない。
ルルは最後の一切れを口に入れ、ミルクを入れてくれたコーヒーを飲み終える。背中に置いていたカバンから無地の小袋を出すと、ルナーをひと握り分バッカスの手に持たせた。彼は何の事かとポカンとする。
『美味しかったよ』
「おい、気紛れには」
『情報をくれた、お礼』
「……まぁ、そーいう事なら。ただし多すぎる」
そう言われ、青い手には半分残された。ルルはそれに何も言わず、戻されたルナーを袋に入れる。腰を上げると、見送りにと先回りして、バッカスがドアを開けてくれた。
外へ一歩出ると、昨晩とは打って変わっての賑やかさが出迎えた。晴天のようで、太陽の香りが心地好い。ルルは最後、店内へ振り返る。
『ありがとう』
「おう。太陽の方は今、殺気立ってるのが多いから気を付けろよ」
『何か、あったの?』
「さぁな。最近増えてるんだ」
『そう……覚えておく。それじゃあ』
通行人の波に入った紫のマントを目で追うと、本当に器用に人と当たらず道を行く。その背が徐々に小さくなっていく事に目を細める。
「……ルル」
『? なぁに?』
「太陽の地区で泊まるなら、ヘリオスって居酒屋を訪ねろ。トパズって奴に俺の名前を出せばいい。知り合いなんだ」
『そうする。ありがとう』
こちらへ向いた、唯一見える口元がクスリと笑ったのが分かった。バッカスはその無表情に近い笑みにそっぽを向くと、手短に別れを呟いて店の中に戻る。ルルはもう居なくなった彼へ軽く頭を下げ、今度こそ人々の間に消えて行った。




