物騒な国
夜空にぼんやりと浮かぶ月に、真っ赤な液体が入ったワイングラスが翳される。男は月へ乾杯し、満足そうに鉄臭いワインをひと口飲んだ。
そんな薄暗い部屋の中、ジャラリと鎖が動く音がした。鎖が巻き付く先にあるのは、細く青白い腕。金を基調としながらも、シックで豪華な部屋に取り付けられたその牢屋は、随分と異質である。
「飲むか?」
男は仄暗く厭らしい笑みを浮かべながら、背後の牢屋へ尋ねた。返答は無い。しかし口角はますます引き上がっていた。
月の光が窓から差し込み、牢の中が微かに明るくなる。そこに居るのは、目元を布で隠した女性。彼女の体は粗末な服を着せられていても、人間離れした美しさが分かる。
「お前の心臓は、もうすぐこの手に来る。もう少しで、我らは一つになる運命だ」
「…………」
「どう足掻こうとも、それが神の思し召しなのだよ。我らが王よ」
そう唄うように宣言し、彼はグラスに残った自家製ワインをグイッと煽った。
そんな、外へ小さくこぼれるほどの笑い声も平等に受け入れる女神像。2つに別れている歪な国を見守るその女神の瞳は、ここへ新しく訪れた旅人を見つめていた。
石橋を渡る音は、深夜の静かな世界にはよく目立った。眠気と格闘していた門番は、コツンコツンという足音に意識を引き戻され、慌てて背筋を伸ばす。眠気まなこを細めながら、暗闇に潜む様な姿をした他国民へ槍を向けた。
「止まれ。名を名乗れ」
『ルル』
「何用だ」
『旅を、しているの』
門番はその言葉に訝しみながら、ジロジロと舐め回す様に見つめる。
ルルは出来るだけ彼を刺激しないようにじっとした。2年以上の旅を続けて学んだのだ。国の門は特に部外者を嫌い、散々疑わないと通してくれないのだと。
「出身国は?」
『アヴァール』
「フードを取れ」
『それは、出来ない』
「何ぃ?」
『出会ったばかりの、貴方に……見せたくない』
「貴様、他国民のくせして何て口を」
『それなら、僕にとって、貴方も他国民だよ』
「……ならば持ち物を見せろ」
ルルは舌打ちを打って観念した門番に快く頷いて、カバンの中身を見せる。マントの影になった腰の剣がキラリと瞬いた。すると、それまで小馬鹿にしていた態度が変わる。
「ほう、なるほど。相当の手練れか。ならば通れ」
『? さっきまで、あんなに……怪しんでいたのに』
「この国、ノイスはどれだけ良い武器を持っているかが重要なんだ。特に他国民はな。でなければ、旅人の首なんざ一瞬で飛ぶからな」
『そう。忠告、ありがとう』
「脅しだったんだがな」
『全然怖くない、脅しだね』
「このガキめ」
意図的な皮肉を無意識な皮肉で返され、門番は更に大きく舌を鳴らして身を引いた。ブツブツと悪態吐きながらも、彼の合図で重たい門は開く。
新しい国に来ると、歓迎されるされない関係無しに、好奇心は湧くものだ。しかしこの時間は、皆やはり眠りについているのだろう、人っ子ひとり居ない。硬い砂を踏むのは風と自分だけだ。それに少し残念に思いながらも、ルルは金属で造られた店が多く並ぶ繁華街を歩いた。
眠さに出た欠伸を隠しながら、宿から漏れる灯りを感覚で探す。もし無いなら、建物の間か木を探して眠るつもりだった。
「おい、アンタ」
突然聞こえたよく通る低い声に振り返り、試しに自分を指さして見せた。呼びかけた男は鋭い赤目で、品定めするように見つめて来る。
「そうだ、マントのアンタだ。旅人か?」
『うん。さっき来たの。宿はある?』
「無えよ。夜通し歩いてここから出てった方がいいぜ」
『どうして?』
「首が飛ぶ」
『……そうなる前に、用を済ませるよ』
「何だ、まさか賞金稼ぎか?」
あまり聞かない言葉だ。首をかしげて横に振ると、男は「ふぅん」と言いながら、再びじぃっと睨む様な視線を送ってくる。それにいい気はしなかったが、今は不愉快さより微睡みの方が勝る。彼が言葉を発するか迷っているのが焦ったく、ルルは早々に終わりを切り出した。
『宿が、無いなら……どこかで寝るから、平気。教えてくれて、ありがとう』
「待て、野宿か? 冗談だろ」
『ん……でも、眠たいから』
礼を言って進もうとする彼に、男は不機嫌そうに眉根を寄せて、濃い紫の髪を搔き上げる。我慢ならず、小さくなろうとするその背を引き止めた。
「入れ」
「?」
「元々宿だったんだよ。入れ」
『いいの?』
「さっさとしろ。営業外なんだ」
『ありがとう』
ドアを閉めると、コロンと小さな鐘の音が室内にこだまして、2人の帰りを迎えた。
周囲はあまり嗅ぎ慣れない、甘ったるいアルコールの香りに満たされている。部屋の中を包むクラシックな音楽がとても心地好い。雰囲気だけでほろ酔い気分になれそうだ。
数人で囲えるテーブルが点々と並び、カウンターテーブルの奥には数え切れない量のワインボトルがある。よく掃除された店の中は、月の模様を模った照明が、夜の静けさを綺麗に表していた。
ここはノイスの『アメシスト』という名のBAR。数多くの酒場が経営している中、ここは酒の取り揃えも豊富で、オーナーである彼の腕もあり一目置かれている。
「BARは初めてか?」
『うん。不思議な香り』
「酒の匂いだからな」
『酒?』
「大人の飲みもん。部屋はこの上だ」
感じ慣れない風景に立ち止まり、ボーッとしているとオーナーの急き立てる声がした。ルルは壁に取り付けられた石階段を急いで上り、彼に続く。
確かにここは宿を改造した店らしい。2階には3つ、古い扉が並んでいた。
オーナーは適当なドアを開け、部屋の状態を確認している。それをしばらく待っていると、真ん中の部屋へ通され、鍵が手に落とされた。
「朝一で出てってくれよ」
『うん』
「鍵は閉めろ」
『分かった。ありがとう』
「厄介ごとは御免だからな」
付け加えられた言葉に仮面下で目をパチクリさせると、ルルは可笑しそうに頬を緩めた。本当に厄介ごとが嫌いならば、旅人なんて野放しにしておくだろう。ましてや、こんなほとんど姿を隠した人物を匿う事はしない。
オーナーは笑われた事に気付いたのか、とても不機嫌そうに顔をしかめる。
「何だ」
『ううん、何でも。そうだ……僕はルル。泊める相手の名前……知っておいた方が、いいでしょ?』
「…………この国では、無闇に他人に名前を教えない方がいいぜ」
彼は鼻を鳴らすとそう言い、背を向けてドアノブに手をかける。しかしドアが閉まる間際に、途切れそうなほど小さく「バッカス」とだけ名乗った。
ルルは完全に閉まったドアの向こう側へ、少し嬉しそうに微笑んで部屋に振り返る。狭い部屋でも、普段野宿が多いため充分な寝床だった。よく利く鼻は埃を煙たがったが、それも眠気には勝てない。それに、文句は贅沢だ。
言いつけに従って鍵を閉め、ついでに少しボロボロのカーテンも閉める。金色の月光が穴の隙間から入り込み、新しく埃を退かした客人の足跡を照らした。
(ノイス……。武器が必要な国)
バッカスや門番の忠告からして、あまり警戒心を解ける場所ではないようだ。しかしこの国も国宝の悲鳴がする。いくら血の気が濃くても、これを解決しないに出て行く気にはなれない。
フードと仮面はそのままに、早速ベッドを探す。上から吊られ、しずく型をした物が部屋の隅にあった。中を触るとふかふかしていて、枕や毛布の代わりになる物がある。
(面白いベッド)
物珍しそうにさっそく腰掛け、剣を胸にして体を丸める。優しく揺れる感覚が良い眠りを誘ってくれそうだ。
カバンから刺繍のある小袋を取り出し、ひと粒、宝石を摘んで口へ放る。もう少し食べたかったが、やはり眠気の方が強かった。ルルは「おやすみなさい」と剣に囁き、目を閉じて揺かごに身を委ねた。




