心配性の友人
ルルは意識が鮮明になった。地面は足首まで、冷たく重い液体で満たされている事だけが分かる。それだけの情報で、ここが夢の中なのだと理解した。夢と言えど彼の瞳は何も映さず、永遠につまらない空虚だけを見せる。
しかしここは、彼がよく訪れる夢だった。動く事は叶わず、ただ棒立ちで何かを待っているのだ。
何も訪れる事のない空間で、ルルは1人の人間を思い出す。それは自分に虚無以外を教えてくれた優しい人。
『クゥ、どこ?』
彼のぬくもりを思い出した途端、慣れていた孤独が恐ろしくなった。恐怖によって生み出されたそれは、真っ黒い影の様に纏わり付いてくる。しかし鉛の様な水は足へ執拗に絡んで取れない。
助けを求めて開かれた口から、意味の無い空気が吐かれた時、冷たい手が頬に触れた。その手は彼が望んでいた相手のものではない。
ルルは見知らぬ手にビクリと肩を跳ねさせる。
『だれ……?』
- 幼き子よ、我らの子よ。望まれた神の子よ -
声は謳うように頭の中に響いた。紡がれた言葉は問いかけの答えではなく、ルルは戸惑いに口をつぐむ。すると声からは、満足そうに小さく笑った気配がした。
- 今はまだ眠ればいい。いずれ全てを見るだろう -
誰かは声を押し殺しながら微かな笑みを残し、両手でルルの頬を包み込む。
氷の様でいてどこか柔らかなその両手は、スッと離れ、ルルは追いかけようと手を伸ばした。しかしその手は相手に触れられず、ただ空気を掴んだだけで、意識が溶けて沈むのを感じた。
~ ** ~ ** ~
丸いテーブルの前でルルを椅子に座らせ、クーゥカラットはキッチンに立っていた。後ろからルルが欠伸をする音が聞こえる。
朝食の準備をと思い1人早起きを試みたのだが、上手く行かずルルも起こしてしまった。子供はまだ眠気の影から出るのに難しい時間だろう。太陽が目覚めたばかりで、キッチンの窓もまだほんのり暗い。
「まだ少し寝ていてもいいぞ?」
『ん………寝ない』
ルルはフルフルと頭を振って、なんとか眠気を覚ました。夢から目覚めてせっかくクーゥカラットに会えたのだから、もう眠りたくなかった。
しかし夢を思い出した彼は、クーゥカラットが居なくなってしまうのではと根拠の無い不安に駆られる。
『……クゥ…』
「ああ、すぐ作るから待ってなさい」
彼はルルが空腹だと勘違いしたらしい。ルルはそれに少し寂しそうにしたが、大人しく頷いて待つ事にした。
鍋に水を入れると沸騰させ、その間に大きめに切っておいた新鮮な野菜を鍋に入れる。柔らかくなるまで混ぜながら煮込み、そこに溶いた卵を入れてスープを作った。器に盛り、テーブルに水の入ったコップと共に並べる。
そこでルルに抱擁を催促されて彼の肩を抱いた。
しかしクーゥカラットはまだ椅子に腰を下ろさず、食糧庫から茶色い木ノ実を取り出してようやく席に座る。
『クゥ、今…何をしているの?』
「ん? あぁ、メインを作り終えたから、デザートでもどうかと思ってな」
『……デザート?』
「ラフの実って言う、同じ名前の木になる木ノ実だ。少し待ってろ?」
クーゥカラットは手に持った長細いハート型の木ノ実を、ナイフでノックする様にコンと叩く。すると、軽く叩かれただけで縦に綺麗な亀裂が入り、真っ二つに割れた。
実が割れると、中に詰まっていたしずく型の半透明な種が現れ、殻から数個テーブルにパラパラと溢れた。この小ぶりな宝石の様な種が、食べる事が出来る部分だ。
クーゥカラットは一粒殻から拾うとルルの唇へ差し出す。ルルは口にツンと指先が触れたのに気付き、薄く開いて種を招き入れた。舌の上に転がる種の薄い皮が、口を閉じたと同時にプチッと潰れて中身が弾ける。口内に濃く甘い果汁が広がり、後味にサッパリとする酸っぱさが残った。
『…おいしい』
ルルは次をねだってクーゥカラットへ口を開いた。クーゥカラットはその様子に可笑しそうに笑って、もう一粒を彼の口へ入れる。そして自分も一粒食べ、残りを殻ごとルルに持たせた。
『僕、これ好き。とってもおいしい』
「そうか、沢山買って来たからな。残ったのは夕食に食べよう」
『ありがとう、クゥ。なんだか、口の中が…不思議な感じだね』
「今まで何を食べていたんだ?」
『ん…何を、食べていたのか……分からない。味は、無かったし…冷たくて、硬かった』
クーゥカラットは思い返して呟いたルルの言葉に、苦々しそうに顔を歪めた。
セルウスショーに出される奴隷たちは、他の見世物屋とは異なって、多少優遇されている。他の奴隷が1日1食であるのに対し、セルウスショーに出る奴隷は2食与えられると聞いた。それでもやはり、味の無い食事だったようだ。
「これからは沢山美味しい物を食べよう。これはどうだ? 野菜と卵のスープだ、飲んでごらん。熱いからよく冷ましてな」
クーゥカラットから木の器を受け取ったが、ルルは息を吹きかけず、そのまま口付けて飲んでしまった。
今まで熱い物を口に入れた事が無かったため、クーゥカラットの忠告は、言葉だけでは伝わらなかったのだ。案の定ルルは口の中と喉が焼ける感覚に驚き、ビクッと肩を大きく跳ねさせた。
「危ないっ!」
クーゥカラットもまさかそのまま飲んでしまうとは思わず、手から傾きかけた器を慌ててルルから奪う。もし体に掛かってしまったら大火傷だ。
「だ、大丈夫かルル。ほら、冷たい水だ」
冷水が入ったコップを差し出されると、ルルは両手で持って勢いよくグラスを煽り、一気に飲み干した。
コップが空になるとテーブルに置き、肩で息をする。しかしまだ口内に痛みがあるのか、赤い小さな舌を外にはみ出させていた。
『あ…あっつぃ……。ベロ、痛い…………』
その姿が何だか可愛らしく、クーゥカラットは悪いと思いながらも笑い、彼の頭を優しく撫でる。
「ちゃんと説明しなくて悪かった。待ってろ、俺が冷ます」
クーゥカラットはスプーンでゆっくり掻き回しながら丁寧に冷ます。しばらくそうしてから軽く息を吹きかけ、充分に冷まし終えると、スプーンで掬ってルルへ差し出した。
「口を開けてごらん」
『…………また、あっつい?』
「もう大丈夫だ」
ルルはその言葉を信じて恐る恐る、そぉっと口を開く。そこに浅いスプーンからスープが流れ、今度は程良い暖かさで口の中が満たされた。スープが喉を通ると、だんだん体の奥底がポカポカと暖かくなる感覚がした。無意識にホッと落ち着いた息を吐く。
「どうだ?」
『ん、おいしい……。なんか、体があったかい』
「なら良かった。スープは体の中から暖かくしてくれるんだ」
ルルは小さく頷きながら、渡されたスープを今度は一口ずつじっくり味わう。
そんな彼の様子を、クーゥカラットは食べる手を止めて眺めていた。こんなにのんびりとテーブルを囲むのはとても久し振りだ。ルルを見ていると、こちらも不思議と穏やかな気持ちになってくる。
しかしその気分はドアを乱暴に叩くノックで打ち消された。突然の訪問者に玄関へ怪訝そうな視線を向けると、知っている声が飛んできた。
「クーゥカラット、そこに居るのか!」
「クリスタ?」
『どうかしたの? クゥ』
「あぁ、客だよ。ルルはそのまま食べてていいからな」
クーゥカラットは未だに鳴り続けている扉を開けた。
そこに居たのはやはりクリスタ。しかし彼は何故か慌てた様子で、肩で息をしながら血相変えた顔をしていた。クリスタは荒げた息を整える暇も無く、クーゥカラットの両肩を掴んだ。
「やっぱりここに居たんだな…っ!」
「何かあったのか?」
「それはこっちのセリフだ! お前が城を売り払ったという噂を聞いたから…っ」
「ああ、その事か。噂じゃなくて真実だ」
「急にどうしてそんな事を…? 何があったんだ」
なおも迫るクリスタの悲痛な顔に、クーゥカラットは呑気に目を瞬かせて他人事の様に思い出す。友人がとても心配性である事を。
しかしそんな彼へ別に、黙っておこうとした訳ではない。この生活が落ち着いてからルルを紹介し、話そうと思っていたのだ。どうやら噂の方が目立ってしまったらしいが。
クーゥカラットは肩に置かれたクリスタの手を緩く降ろさせ、落ち着かせるようにゆっくりと言った。
「分かってる、お前にはちゃんと話すさ。だから…とりあえずは入ってくれ」
クリスタは未だ納得いっていない様子だったが、渋々と抵抗はしなかった。
何度か訪れた事がある景色を目で辿った時、彼は見知らぬ存在が居る事に気付いた。10歳ほどに見える幼い少年が椅子に座り、こちらに見向きもせずラフの実を食べている。
「あの子は…?」
「あの日、セルウスショーで出会った子だ。ルルと名付けた」
「セルウスショーで? じゃあ…あの子を買ったのか?」
「ああ。確実にするために、有り金と城を手放したって訳だ。あの城は俺には広すぎる。住み続ける理由も無いしな」
その言葉がクリスタの中で引っかかったのか、彼はまるで自分事の様に目元を歪める。
そんな彼にクーゥカラット本人はフッと笑った。クリスタのシワが寄った眉間をグッと指で伸ばす。
「そんな顔をするな。どのみち手放そうと思っていたんだ。いつまでも居たってしょうがない。それよりは、意味のある今だろ?」
「…ああ、そうだな」
「ルルを紹介する。実はな、この子の事でお前に相談があったんだ」
「相談?」
「ルルは人間ではないらしい。身体が宝石で出来ているんだ。そのせいか、耳、口、目の自由が利かない」
「宝石だって? じゃあ、テレパスで会話しているのか?」
「通話石を造って、それを持たせてある。ルル」
彼の名前を呼ぶ声だけが聞こえたのか、ルルは口に運ぼうとしていた手を止めて振り返る。こちらに向けられた優しく垂れた瞳は、遠くからでも人と異なるのが分かった。
『なぁに?』
「俺の友人に挨拶をしてくれ」
ルルは目をパチクリさせる。そこでようやくこの家に、クーゥカラットと自分以外の存在がある事に気付いたのだ。