マラカイト
ジェイドはその言葉に勢い良く振り返った。今のセリフ、一言一句覚えている。まだ昨日の事のように鮮明な記憶だ。
「新しい、物売りだって?」
「いいのがあったら、教えておくれよ」
彼女はそれだけを言い残して去って行った。こちらの返答など待とうともしない。
ジェイドは生唾を飲むと後退り、本能的にその場から逃げる様に歩き出した。
『どうした、何かあったのか?』
「国民が……妙だ」
『妙?』
「同じセリフだったんだ。あの日との。全くの狂いが無かった」
悪寒を紛らわすために、静かだった足取りが徐々に速くなっていく。あの会話はまるで、研究段階のロボットを相手している感覚だった。
嫌な事を想像する。もしここに存在する生き物全てが、記憶操作をする誰かによって作られた物だったら? 突然浮かび上がった過度な妄想のようなそれを否定出来ず、少しでも背こうと目を固く瞑った。
『おい少し落ち着け。大丈夫だ、お前は正常だぜ』
どれくらい歩いたか。そんなリンクスの言葉が、痛くなりかけた足を止めてくれた。ジェイドは家の壁に手を添えて咳き込む。
『バカだな、1人じゃねえんだから焦るな』
「はぁ、ああ……そうだな……っ」
『昔っからせっかちなのは変わんないなぁ』
「お前は一言多い」
しかしぶっきらぼうな慰めの言葉には深呼吸を促された。とにかく落ち着かなければ。目の前にある答えへ伸ばした手が、辿り着く前に壊死してしまう。
再び空を見上げる。日は暮れて、建物をオレンジ色に染めていた。
『もう少しで壁に着きそうだな』
「ああ。すっかり日が傾いてしまった」
まだ足は疲労のせいでとても重たい。ゆっくり歩くのが限界だった。
すると手を着いていた家の肌から離れようとした拍子、パラパラと外壁の欠片が落ちる。ジェイドは手元に違和感を感じ、横目で見る。瞬間、その場から目を離せなくなった。走ったせいか霞む視界を細め、そこへまじまじと顔を近付ける。
なんて偶然か。触れた壁には小さな亀裂が出来ていた。彼は亀裂の中にある緑色を夢中で見つめてポツリと呟く。
「……マラカイト」
『何がだ?』
「壁の亀裂……家の壁に、亀裂がある。その中身がマラカイトなんだ」
リンクスは囁く声に映像を催促した。送られてきた映像はマラカイトで間違いなかった。汚れの少ない壁の中、不自然に入った亀裂から、何種類もの緑を混ぜた天然のマラカイトが、顔を覗かせている。
『何だこりゃあ? 確かに建物には砕いた宝石も使われているが、こんなふうにはならないだろ。まるで、建物自体がマラカイトで出来てるみたいじゃねえか。それもどうしてその石なんだ?』
「マラカイトはグリードの国宝、国石なんだ」
『国石? お前それを持ってたのか?』
「ああ」
『誰から貰ったんだ? 長く滞在する意思がある旅人は、その国の石を持つ決まりがある。だったら五大柱に会ってる筈だ』
「違う。これは……五大柱から貰ったんじゃない」
『おかしいじゃねえか。国宝を扱うのを許されるのは、五大柱だけだろ?』
吸い込まれそうになる模様を持つマラカイトを見ながら、そこに映し出される様に記憶を振り返る。途端、ジェイドは肌にプツプツと鳥肌が立つのを感じていた。
「ああ、そうだ」
何故思い出せなかったのか。グリードに訪れた日の事を。
グリードは静かな国だった。ただ静かという訳ではない。誰一人として、人間が存在しない国だったのだ。いくつも家のドアを叩いて窓を覗いても人が居ない。そこで、最後にと訪れた大図書館で彼と──ジャスパーと出会ったのだ。
「これは……ジャスパーから貰ったんだ」
長い間、色んな事を話した。警戒していた彼とすっかり打ち解け、言葉の魔法を披露してもらった。
やがて、グリードに来て二度目の太陽が登った頃、この国を発つ事を話した。家族の無いジャスパーを旅に誘ったが、彼はここから出られないからと、寂しそうに言って断った。だから、再びここへ訪れる時までと、別れを告げたのだ。しかし大図書館を出る直前だった。プレゼントだと言って渡してくれた物があった。
ジェイドはポケットに入れている、今まで身に付けていた国石を取り出す。それが、このブレスレットだ。
『ジャスパーって……お前が可愛がってる住民か? 何でその子から貰ったんだ』
これを貰った時、彼はこれを国石とは言わなかった。純粋な贈り物だと信じ、これを腕に飾ってから外へ出た。大図書館のドアが閉まる直前「また明日」と言われた気がする。
そうだ、それからだった。その日から、旅人だった事を思い出した事が無かったんだ。突然現れた国民に親しく話しかけられても、昔からの仲の様に応じていた。
『ジェイド?』
ジャスパーは次の日も、何の違和感も無く訪れた自分を迎えてくれた。また来てくれたんだと、少し嬉しそうに、安心したように言って。
あの子は寂しいと言っていた。ずっと孤独だったと言っていた。
「あぁ、まさか……」
盲点だった。可能性すら疑おうと思えなかった。彼の力を使えば、世界の全てを変える事すら容易いというのに。
「あの子だ」
『確証があるのか?』
「ああ……なにせ、あの子の魔法は──」
国全体に鳴り響いた鐘の音に、言葉が遮られる。1回、2回、3回……そして5回目の音が終わった瞬間、夜が来た。
「なっ?」
いいや、夜ではない。空を覆ったのは、何とも言い表せない空虚な暗闇。呑まれる様に、全ての生命が断たれた様に何も無くなった。
ガラガラと崩れる音が聞こえた。地上に視線を戻してみれば、そこは一面緑の海だった。その正体は、この国の人々を支える存在であったマラカイト。しかもそれらは建物や草木、人など、国を彩っていた全ての形を作っている。そこに生物はジェイド以外に存在しない。
馬鹿らしいと思ったあの妄想は、妄想ではなかったのだ。思わず後ずさった足が、ガシャリとマラカイトの地面を踏んだ。
「この国は……偽物だったんだ」
しかし何故、今になって国は真実を見せたのか。どうして幻覚に似た姿を保てなくなったのか。
そこで、今朝見たルルの書き置きに、大図書館に行く旨があったのを思い出す。彼が無事大図書館に辿り着いているのなら、ジャスパーと対面している筈だ。
彼は昨晩考えながらも、何か心当たりがある様な目をしていた。もしも確信を求めて向かったのだとしたら、はたしてジャスパーは、その問い詰めに正気を保てるだろうか。
「まずい、国が崩れるかもしれん!」
ジェイドは、もうマラカイトの柱となった大図書館へ振り返った。




