直された記憶
道を紡ぐ色取り取りな小さい石畳の欠片を、誰かの靴先が蹴った。普段はその僅かな引っ掛かりにも、無意識に一部の意識を向けるジェイドだったが、今は見向きもしない。
彼は息を少し荒くさせるほど、足早に道を進んでいた。時折親しげに声を掛けられるが、ぎこちない笑みしか返せない。
(ああ、これほどまでに何もまとまらないのは……初めてだ)
心の中で悩ましく頭を抱える理由は、理解していても飲み込めない状況のせいだ。
人影が少なくなると、ジェイドは堪らずに溜息を吐きながら、耳に手を添えて口を開いた。その耳たぶには、あまり見慣れない紺色の宝石が下がっている。
「繋がっているかね? リンクス」
『おう、しっかり聞こえるぞ。さっきの溜息もな』
耳にはめ込んだ、目立たない小さな機械。そこから聞こえてきたからかいに、少し眉根を寄せて笑って返す。
今彼が着けているのは、遠くの人間と音声通話が可能な機械。『科学の国』と称されるマジェスが発祥の通信機だ。
『んで? 思い出したんだって?』
「ああ。昨日、ようやく全ての……本当の記憶を思い出したよ」
マイクの向こうから、安堵の吐息が聞こえた。そう、全て思い出したのだ。
以前彼から指摘された通り、自分はこの国の住民ではなかった。とある理由で、世界に存在する国々の技術を知るべく旅をしていた彼は、10年前この地に訪れた。
『どうして急に思い出せたんだ?』
「前に言った、グリードに来た旅人に言われたのだよ」
本当の記憶を取り戻す事が出来たのは、昨晩のルルの問いのおかげだった。彼の質問は『宝石の花』から始まった。ジェイドは昨晩の事を思い返す──。
『宝石の花が……道端に、咲いていたんだ』
彼は何の前触れもなく、ポツリと呟いた。まるで独り言の様にどこかを見て言ったあと、こちらの様子を伺ってじっと見つめる。
ジェイドは向かい合う形でソファに座りながら「ああ」と小さく頷いた。
『あれは世界に、1つだけ……なのにね』
「ん? あれはこの国の名産だぞ」
ルルはその言葉に驚くように目を開いたが、浅い呼吸をすると目蓋で隠し、ゆっくり首を横に振る。
『違うよ』
そう否定する声は、決して間違えを責めるものではなく、全てを悟ったように静かで、落ち着いていた。
『あれは、ジェイドの錬金術。貴方が花を咲かせて、僕の力を使って……宝石に変えたの』
キョトンとした小さな翡翠の目が丸くなり、彼は疑問に口を開いた。しかし言葉が発せられる直前に、その唇にルルのしなやかな指が置かれる。
『いつから? いつから、あれが……当たり前だと、思ったの?』
その言葉を最後に、ようやく口が指から解放される。しかしジェイドからの返答は、しばらくの間無かった。一切逸らされないその虹の瞳が、まるで自分の中身全てを見つめている気がして、言葉を無闇に紡げない。
しかしルルの顔が優しく緩む。
『ごめんね……沢山、質問をして。ゆっくりでいいから、この事について、記憶を教えて?』
ジェイドは先程よりも柔らかな音に促され、自身の記憶を脳裏に描く。今は懐かしく感じ始めたルルとの出会いまで遡った。
ジャスパーを紹介するついでに、土産として宝石の花を用意した。その時に花の事を……説明したんだ。そこで、記憶の一部に鏡に入る様な亀裂が走る。
(どうやって説明した?)
自分はなんて言った? 彼は花を見てどんな言葉を発した?
「何だ……? 何故、それだけ思い出せない?」
自分でも気付かないうちに、口の外へ思考がこぼれ出る。宝石の耳はそれを拾うが、ルルは何も言わない。
「エムスの林に……行ったんだ」
『うん』
「そこで、宝石の花を摘んだ。なのに、その時の会話を……思い出せない。分かっているのだよ、花が確かに、この国の物であると」
確かだと言えるんだ、その知識は。それなのに、そこの記憶だけがすっかり消えている。思い出そうにも、縋れるような引っ掛かりが無い。
今までこんな、思考が動かせないなんて事は無かった。答えを探すための過程すら雲隠れしている。
「わ、私は……っ」
答えを失ったジェイドの息が徐々に浅くなっていく。聡明な彼にとって、見つけたその亀裂はとても恐ろしいものだろう。
それに気付いたルルは、互いを挟んだ背の低いテーブルに片膝で乗り上げると、彼の冷たくなった顔を両手で包み込んだ。
『大丈夫だよジェイド。僕は、嘘を疑っているんじゃ、ないの。嘘だとも、思わない。だってその記憶は、きっと貴方にとって、確かなものだから』
ルルは落ち着かせるために、少しシワのある目元を指先で撫でた。顔面蒼白になって強張る彼へ首をかしげて見せる。
透き通る瞳に自身の色が混ざり、ジェイドは我に返った。浅い呼吸のせいで痺れ始めた頭に、急いで充分な酸素を与える。冷静さを失ってしまってはいけない。深呼吸をすると、いつもの調子で微笑んで薄青い手をそっと握った。
「ああ。もう大丈夫だ」
『良かった。うん……まずはね、そっちの記憶を、教えてほしいんだ。その次に、僕が覚えている事を、言うから』
「ああ。しかしいくら冷静になっても、やはり細かな一部が思い出せんのだよ。今まで、私は何かを忘れた事は無かったんだ。それなのに、まるで亀裂が入った様に所々の記憶が抜けている。そうだ、考えれば……今日の事もあまり覚えていない」
ルルは「そっか」と呟きながら頷き、ソファに腰を戻す前に鞄から本を取り出した。ページを捲りながら、先程聞いた記憶を確認の意味を込めて囁く。
『宝石の花が、この国の物だと、思っているんだよね? そしてさっきジェイドは、僕を急いで、探していた。まるで……何か大事な事を、思い出したみたいに』
「大事な事?」
ジェイドは眉根にシワ寄せながら、口元を手で隠して悩ましそうに唸る。
しかしいくら考えようにも、頭が真っ白になるとはこれを言うのかと、漠然と思う事しか出来ない。常に様々な思考を巡らせる彼だからこそ、これ以上0から何かを思い出す事は難しいだろう。自分の記憶が頼りなのに、その根本が矛盾しているのだから。
本を持つルルの手がとあるページで止まった。指で自分の文字をなぞって確かめ、納得して頷く。
『これを見て』
ジェイドが覗き込んだ気配を感じてから、本を見やすいようにひっくり返す。そこに書かれていたのは、エムスの林の地形や、エムスの木についての事。そしてその中央には、宝石の花の造り方が図を用いて丁寧に書かれていた。
ジェイドは本を受け取り、食い入る様に見つめた。小さな緑の瞳が、何度も何度もそのページを行き来する。
『まず、宝石の花について……僕の記憶を聞いて? エムスの林に行った。ジェイドがジャスパーに、お土産を持っていくと、言ったから。そこでエムスの樹液を取って……リュックから何かを、取り出した。それを、試験管に混ぜて……種を入れて──』
ルルは記憶を辿りながら呟く。ジェイドは本を開いたままテーブルに置くと、普段から背負い歩いているリュックに振り返り、重たいそれを引っ張った。
中から取り出したのは、そこに記されている試験管と、金と白の粉。
そう、確かに覚えている。これは自分が作ったものだ。だが何のために? 花を咲かせるために作った。あの日エムスの林へ行き、美しい贈り物をと。
しかしジェイドにとってその記憶は、半ば強制的に言い聞かせている感覚だった。
『びっくりしたの。僕が思えば、それが宝石になるって』
ルルは少し嬉しそうに言いながら、両手を合わせて拳を作った。するとそこからパキパキと音が鳴り、細い指の間から光が溢れ始める。
そっと開かれた手の中には、宝石の花そっくりなアメジストが出来ていた。
そうだ、全く同じ景色を知っているじゃないか。
今まで見えなかった記憶の亀裂が埋まって色が付く。ルルに自分にも何か出来ないかと尋ねられ、取って置きがあると言った。そして彼の力を借りて、宝石の花を生まれて初めて完成させたのだ。
「あぁ、ああ思い出した。アレはその日初めて作ったんだ……。何故、私は今までアレを、生花だと勘違いしていたんだ? 本当に呆けてしまったのか」
ルルはホッと胸を撫で下ろしてから、髪を掻き乱す彼に首を横に振った。
『ジェイドの記憶は、正しいんだよ。間違っているのは、僕』
「な、何だって? おかしいじゃないか、何故そうなるんだね。君が正しい。私の記憶が間違えていたんだぞ? それを今、正してくれたんじゃないか」
『うん。でもさっき、言ったよね? 宝石の花が、咲いていたって。アレは、誰かによって当たり前に、なったの。ジェイドは、それに合わせて……記憶を変えられた。だからその記憶は、正しいものにされている。つまりね…………僕の記憶は、古い記憶になるんだよ』
想像もつかない考え。しかし現実味の無いそれ以外の考え方は、どうにもしっくり来ない。
それでも、冷静な音を唖然とした顔で聞いていた。彼の喋り方がゆっくりで助かった。飲み込むまでに時間がいる。常人の速さでは、頭が追い付いてくれなかっただろう。
「……、……それは……国自体が、変えられてしまったという事か?」




