道端の花は
夕刻の鐘が鳴るほんの少し前。ルルの姿は大図書館にはまだ無かった。彼は注意深く辺りを見ながら、建物に挟まれた狭い道を辿っている。
この国の道はどこも狭く、広くても両腕を端に伸ばした男が、2人ほどで通せんぼ出来てしまうくらいだった。なだらかでも坂道や階段が多く、国の東側に作られた大図書館へ背の低い階段が続いている。
(国の端は、どうなってるのかな。地形の予想は出来ても……端を見ないと、確かなものが分からない)
ジェイドにあまりペンが進まないと言ったが、言葉通りにそこで止まってはいられない。充分この国での思い出を胸に刻んだら、次の国へ渡り歩かなければならないのだ。
それに今は、ただ国宝を探すだけではなく、国の事を記すという目的も出来たのだから、進まなければ。
(えっと……この国に来て、もうちょっとで、3週間かな。人に聞けないと、随分時間が掛かるな。やっとこの国の、半分が分かった)
やはり国民の意見は必要だ。自分の足と手だけが情報源である彼にとって、目的がある旅には、人一倍時間が掛かってしまう。今日も結局、一日中歩き回った。
意識せずに口からふぅっと、疲労を含んだ息がこぼれる。家の壁に手をついて立ち止まる。ここで国の事をまとめながら、少しだけ休憩をしよう。背中を壁につけ、誰の気配も無いと分かるとその場にしゃがみ、肩に掛けたカバンから本を取り出す。
重たそうに開かれたページには、グリードの建物や街並みの一部が図形として描かれている他、紙飛行機の絵があった。記しているのは地形だけではない。料理や変わった風習など、誰かがこの国を訪れたいと思えるような特徴も記録するのだ。
(この国には特別、目立った事は無いけれど、自然がとても、綺麗。花や、木の香りが、とっても澄んでる)
すると、楽しそうに本の隅にメモを残すルルの鼻先に、蝶が透き通る様な桃色の羽を休めに止まった。彼は予想外の感覚に驚き、ピクッと肩を跳ねさせる。その拍子に蝶は飛んでしまった。
『あ……ごめんね、びっくりしちゃった』
それが遅れて蝶だと気付いたルルは、申し訳なさそうに囁いた。蝶は再び休める場所を探し、やがて日陰になった建物の隅に咲く花に止まる事を選んだ。
花弁が蝶の重さによって揺れる。その時、よく知った香りが漂って来た。
(宝石?)
香りを辿った仮面越しの目は、迷い無く、蝶が止まった物に導かれた。
(どうして、こんな所に……宝石が?)
ルルは訝しそうに首をかしげ、本とペンをしまうと立ち上がる。再度誰も居ない事を確かめ、物陰に入った。
建物同士の隙間のせいか、強風が駆け抜けた。その瞬間、それまで微かだった宝石の香りが、風に煽がれて大きく広がる。その強い香りは、まだ記憶に新しかった。
(この香り……知ってる。宝石の花だ)
その場に座り、試しに足元に咲く花に触れた。
間違いない。その闇色に見えるほどに深い紫の花は、ジェイドと共に手掛けたアメジストの花だった。しかし決定的な違いがある事に気付く。
(この宝石の花、生きてる……?)
触れた指先に、内側から石とは異なる生きた鼓動を感じたのだ。つまりこの花はこの地に生え、一種の植物として存在しているという事になる。
それもよく見れば、ここにはいくつも同じ花が風に頭を揺らしていた。
(どうして……?)
蝶は宝石の花から蜜を充分に堪能したのか、夕闇の空へと飛ぶ。
ゴーンゴーンと、鐘が重たく国全体を震わせる。
ルルは弾かれたように顔を上げ、立ち上がると勢い良く後ろを見た。視線の先にあるのは、夕闇に佇む大図書館。淡い霧に隠され、そこだけが別世界のようになっている。
彼は周りの気配を確認せず仮面を取り、虹の双眸を晒して、そこを食い入るように見つめた。
(聞こえた)
頭の奥深くを震わせる様な、その悲鳴に似た国宝の声。いつまでも慣れる事が無いその声は、やはり大図書館から聞こえた。
しかしそれはまるで、今まで抑えていた蓋の隙間からこぼれてしまった様な、不意打ちによる小さなものに感じた。再び確かめようと、目を閉じてフード越しに宝石の耳に触れるが、いくら集中しても、もうその音が聞こえる事は無かった。
(やっぱり、大図書館にあるんだ。それなのに……香りにすら、気付かないなんて)
何がどう国宝を隠しているのか。何故微かにしか聞こえなかったのだろう。どうしてここの住人たちは、大図書館以外を語ろうとしないのだろうか。
(まるで国を、深く知られないように、しているみたいだ)
例えば、この宝石の花は一体誰が生み出したのか。誰が当たり前にしたのだろう。
疑問は湧き出るばかりで消えてくれない。しかしそれはもどかしさを産まず、いい意味で挑戦的な好奇心を芽生えさせた。
妙に静かなこの国の心臓部。あそこに行けば、確実に答えが分かるだろう。グリードにとって、探られたくない何かが。
(きっと、それは……明かされる必要が、ある。たとえ、国宝じゃなくても)
ルルは仮面を着け直すと宝石の花を一瞥し、今度こそ大図書館へ足を運ばせた。
彼が大図書館に辿り着いた頃には、もうすっかり日が落ちていた。美しい夜空すら見られないルルにとって、時間の経過は分からない。それに今彼は、この国の深くを見る事に夢中で、時間なんて忘れていた。
しかし夜のせいか、大図書館の門はその大きな口を閉ざしている。それも構わず扉に手を掛けたその時、呼び止める声があった。
「ルル!」
『……ジェイド?』
ルルは大きな取手を掴んでいた手を下ろし、聞き慣れた声がした方を向いた。ジェイドは長い間走り回っていたのか、息を荒げている。
彼は呼吸を整える事もせず、足早に駆け寄って来る。
『どうしたの?』
「君を探していたんだ……!」
『何か、あったの?』
「ああ、それが──」
するとそれまで乱れ、上ずっていたジェイドの声がピタリと止んだ。それはとても不自然な安定。
「あ……? 私は、何を?」
『? 僕を、探していた……んだよね?』
「あぁ……そうだ。君を迎えに来たんだ。もう夜になるからな」
ルルは突然変化した言葉と様子に訝しげに眉根を寄せた。先程の慌てようを考えると、明らかにおかしい。もっと何か重大な事を伝えようとしていた筈だ。
しかしジェイドの声色は、どちらも偽りには聞こえなかった。何かが息を乱してまで自分の姿を探させ、何かが息を整えたのだ。
『そのために、僕を探したの? そんなに、急いで?』
「ああ。用事を終えるのが遅くなってしまったからな。もう大図書館も鍵が掛かっているだろう」
『……そう』
試しに扉に向き直り、押して引く。しかし言われた通り、門は鍵のせいでビクともしない。
ルルはしばらく黙り込んだあと、大図書館に背を向けた。
『分かった』
今すぐこの違和感を晴らしたかったが、肝心な場所に入れないのならば、諦める必要がある。
しかしこのまま何もせず、また翌日を繰り返す事はしない。謎の壁がまた新しく立ちはだかるのなら、柔らかな場所から崩せばいいのだ。今までのように何も掴めなかった訳ではないのだから。
『ジェイド、あとで尋ねたい事が、あるんだけど……』
「ん? ああ、何でも聞きたまえ」
まずは彼自身へ、先程の変化の理由を突き止めなければならない。彼らは、夕闇の中沈む大図書館をあとにした。




