知らない記憶
ある昼下がり。ランタンが照らす、狭い部屋の中。2人分の息遣いに混ざっているのは、ペンが紙面をスムーズに滑る音。
これから世界を記す本に、ルルはジェイドの顔を描いている。その国でお世話になった人物の姿も残したいと、思い立ったのだ。今まで羽ペン以外を使った事が無いが、新しく手に入れたガラスペンの書き心地もいい。手に馴染むし、引っ掛かりも無く筆を進められる。
『出来た』
「どれ。ほう、見事だ。まるで鏡を見ているかの様だよ」
ルルは嬉しそうに頬を緩ませ、描き上げたばかりの絵にフッと息をかける。充分に乾かしてから本を閉じた。
ジェイドは飲み物のおかわりを持って来てくれた。向かい合うソファに座り直す彼からホットミルクを受け取り、純白な水面を見ながら呟く。
『変な事、言ってもいい?』
「何だね? 改まって」
『この国……不思議だと、思うんだ』
「不思議?」
『うん。いろんな人に、グリードの事を聞いても、なんだか答えが……曖昧なの。おかげで、ペンも進まない』
「まぁ、それほど広さはないからなぁ。歴史も浅い」
『みんな、そう言うね。でもこのくらい、広いなら……もっと人が、居てもいい。大図書館だって、有名な筈。なのに僕、ジャスパー以外の人と、あそこで会った事……まだ、無いよ』
そんな事、言われるまで意識しようとも思わなかった。しかし指摘されて記憶を辿れば、確かに言葉通りだ。自分も大図書館で国民と顔を見せ合う事が、あまり無かった気がする。
「……?」
ジェイドはそこで小さな違和感を覚え、一瞬のうちに、記憶を何度も反芻した。
先程の言葉を訂正する。『あまり』ではない。大図書館でジャスパー以外の誰かと会った事が『全く』無い。おかしい。時折ではあるが、外から国民たちが出入りする姿を確かに見る筈なのに。
タイミングが合わない? ありえない。自分は毎日と言っていいほどに足を運んでいるのだから、誰1人として会わないなんて妙な話なのだ。
(何故今まで、それに気付かなかったんだ……?)
頭の奥底がズキリと鋭い痛みを訴え、ジェイドは顔を歪める。まるでその激痛は、これ以上の思考を拒絶する様なものだった。
『? どうしたの?』
「あ、あぁ、いや」
『大丈夫?』
「ああ、大丈夫だ。しかし君の言う通りだよ。考えれば奇妙だ」
『うん。だからまた……大図書館に、行こうかと思う。ジェイドは?』
「すまん、同行したいんだが用事がある。片付いたら、私も大図書館へ向かおう」
ルルは頷くと、さっそくソファから腰を上げ、仮面を着けるとマントで線の細い体を包んだ。
「もう行くのかね?」
『うん。早い方が、いいだろうから。じゃあ……また、あとで』
ジェイドへ振り返りながら扉を閉めて道に出る。仮面下で目を閉じ、人々の気配を辿るがやはりまばらだった。ルルは顔半分を隠すフードをより深くかぶり直し、もう慣れた大図書館への道に足を運んだ。
ジェイドはルルを見送ったあと、ソファへ戻る前に、棚の引き出しから何かを取り出した。それは半透明な白い石版。平べったいそれを持ち、再びソファに腰を沈めると机に置いた。
先の鋭いペンの様な物を取り出すと、石に誰かの名を刻む。馴染ませる様にその上を手が通ると、薄く彫られた名前が石の中にじわじわと溶けて消えた。
するとすぐに、何も無かった表面に誰かが映し出された。この石版は、ウレキサイトが素材に使われている映像石だ。石に名を記せば、どれほどその相手と距離があろうと、映像を通した会話が出来る。
これを作ったのは、今映像石に映し出されている男だ。彼は科学の国と呼ばれる『マジェス』の科学者だった。
映ったのは、ジェイドよりも歳を重ねた壮年。しかし相手はこちらに気付いていないようで、作業に没頭し続けている。相変わらずな様子に、ジェイドは笑いながら仕方無さそうな溜息を吐いた。
「リンクス。もう映ってるぞ」
『んぁあ? あ~、ジェイドじゃないか。なんだ、もう日が昇っちまったのか?』
リンクスは手を止め、間の抜けた声を出しながら振り返る。濃い灰色の髪をわしゃわしゃと掻きながら、ガラスの中に埋め込んだ時計に目をやった。
2人は共に、科学と錬金術の高みを目指す友だった。ルルに語った、互いの知識や力でこの孤独な世界を変えてやろうと意思を交わした友人とは、彼の事だ。そのための作業に必要な物資を送り合う事はしょっちゅうだった。
「また徹夜か」
『しょうがねえだろぉ? 新しい秘薬を見つけちまったんだよ。話、聞くか? 聞くだろ?』
ニヤニヤと怪しげな笑みを浮かべながら、まるで子供の様に前のめりになるリンクスに、ジェイドは呆れた笑いを返す。
きっと彼自身は純粋に笑みを浮かべているのだろうが、誰がどう見ても極悪人のそれだ。口調が荒いのも手助けしている。
「その調子じゃあ、1週間はまともな睡眠を取ってないのではないかね? まったく、お前も若くないんだぞ」
『まだまだ現役なんだから、そう言うなよ。んで、どうした?』
「お前に送ったろう? エムスの樹液を。欲しがっていたじゃないか。届いたかね?」
『あぁ、あぁ、昨日来たぞ。ありがとな。相変わらずいい臭いだ』
直接それを嗅いだルルが言った通り、エムスの樹液はとてもじゃないが、お世辞にも良い香りとは言えない。しかし彼はその香りを思い切り吸い込み、満足そうにしている。
「私はいつまで経っても慣れん」
『そりゃあ、酷い臭いだからな。だからいいんだ。こいつは、臭ければ臭いほど使えるからな。クククッさぁて……どう調理してやろうか』
「お前なぁ」
この科学者はきっと、自分より変わり者だ。そして誰よりも自分の科学を信じ、愛し、疑わない。
その姿は友人として、追求者として、誰よりも尊敬している。時々自分の世界に入り過ぎるのが難だが、悪い人間ではない。
『そうだ、そっちはどうだ? 確か……最近は旅人と一緒に居るんだって?』
「ああ、お前にも近いうちに紹介しよう」
『今は居ないのか?』
「大図書館へ行ってるよ」
『ふぅん、残念だ。あぁところで、いつこっちに来る? たまには画面越しじゃなく、直接話そうぜ』
「そうだなぁ」
『そっちの国も、聞く限り良いとは思うが……やっぱり故郷は別格だろ?』
それまで優しげな笑みを見せていたジェイドの顔が、ポカンと保ける。リンクスの言葉を頭が本能的に繰り返した。
彼は今なんと言った? 故郷?
一方でリンクスは彼の顔色の変化に気付き、樹液を入れた瓶を置いて訝しそうに首をかしげた。
『どうした』
「今、何を言った?」
『たまには帰れって言ったんだ』
「何言ってるんだね? 私はグリードから一歩も、まだ出た事など無いじゃないか」
『はぁ? おいおい、ジェイド……旅のしすぎてもうボケたのか。勘弁してくれ、相棒』
彼は冗談好きではあるが、こんなしょうもない嘘は吐かない。けれどこちらだって嘘は言っていないのだ。
リンクスは改めて映像石に向き直って姿勢を正す。
『よぉく聞けよ? お前は25年前にマジェスから旅に出た。そして10年前にグリードを見つけ、それからそこに滞在してるだろ。お前の故郷はマジェスだ』
まるでこちらを落ち着かせる様に、彼にしてはゆっくりとした丁寧な口調で語った。しかしそれが脳に響くごとに、自分の持つ記憶に食い違いが生まれる。
見つめられている翡翠色の目は、理解出来ずに戸惑い、見開かれたままだ。
「な、に? しかし、私は幼い頃から、ここに……。それに、おかしいじゃないか! 25年前ならば、私はまだ10の時に旅立ったのかね?」
その言い分は真っ当だった。ジェイドの歳は30代前半で、旅立つには幼すぎると周りが止めるだろう。
しかしリンクスはその言葉に1番驚いたようで、首を横に振りながら言った。
『お前……覚えてないのか? 俺らは同じ歳だろ?』
「なん、だって?」
『確かに、お前は見た目も中身も若い。でもそれは、お前が転生の秘薬造りに失敗し、若返りの薬を飲んだからだ』
ジェイドはその言葉に促される様に、壁に掛かった鏡へ顔を向けた。それから、まだ若くハリがある手の平を見る。全くもって、その言葉が飲み込めない。しかし体は小さく震えていた。
画面越しに1つずつ、存在しない記憶を尋ねられる。
『いつ俺と知り合った? どこで夢を語り合った? お前の師は誰だ、名付け親を、お前に心を与えた存在を忘れたのか。ほら……言えるか?』
「…………、……」
『ジェイド、すぐにその国から出ろ。彼を忘れるなんて異常だ』
「だ、だが、あの子らを置いては……」
『なら、引っ張ってでも出ろ。早い方が___ッ』
「リ、リンクス?」
『いい、俺を__しんじ_____ッ』
映像が雑音を含み、2人を邪魔し始める。すると画面にピシリと亀裂が入り、映像が歪んだと思った瞬間、大きな音を立てて石が粉々に割れてしまった。
「リンクス!」
ジェイドは叫びながら立ち上がり、壊れた映像石のカケラを掬うように両手で拾う。この石はそんなやわな物ではない。何かの力が強制的に壊したのだ。
「い、一体、どういう事だ……どうなっている?」
国中に夕刻を報せる鐘の音が鳴り響いた。窓を見ると日が傾き、太陽は建物に顔を隠している。
胸の奥底がざわざわと波立って落ち着かない。
「あぁ、ルル、ジャスパー!」
あの子たちにも何か異変があったのでは? 彼らの身に危険が降りる前と、身支度も整えずに家から駆け出した。




