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宝石少年の旅記録(8日更新)  作者: 小枝 唯
【宝石少年と言葉の国】
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音の無い夜

 夜の闇を糧に生きる鳥が、月を背に飛んでいく。そんな音を子守唄としながら眠りに付いていたルルは、混ざった他の音に眠たそうに目を開く。それはジェイドの足音。少しして柔らかくフルーティーな香りが漂って来た。

 ルルは、寝床に貸してくれた大きなクッションに積んだ3つの枕から頭を上げ、小さな欠伸を噛み締める。


「おや? すまない、起こしたか。まだ夜中だぞ」


 ジェイドは淹れたばかりの紅茶を注いだカップから顔を上げ、申し訳なさそうに小声で言う。ルルはそれに首を振った。


「飲むかね」

『うん、ありがとう。眠れないの?』

「いや、今宵は満月である事を思い出してな」

『満月に……何かあるの?』

「月には、不思議な力があるのだよ」


 ジェイドは楽しそうに言いながら、紺色の紅茶に半透明の蜂蜜が溶けて、星屑の様になって消えていくのを見つめた。キャディースプーンで静かに混ぜ、ルルに渡す。ルルは手の平で温かさを堪能すると一口すすり尋ねた。


『例えば?』

「地上に星が降りて来る」

『地上に……星が?』


 前髪から見える、星に負けないキラキラした瞳を瞬かせ、ルルは想像も出来ない言葉をただ繰り返す。そもそも文字でしか見た事の無い星空の模様。空にあって、決して手の届かない美しい光。それが自分たちと同じ場所まで降りて来るだなんて、なんて壮大な夜なのだろう。


「行くかね? 星空の散歩に」

『行く』


 食い気味に返事をしたルルに、ジェイドは可笑しそうに笑う。ルルはふかふかな寝床から急いで立ち、ソファに置いたマントを羽織った。

 最後に仮面を着けて準備万端としたが、せっかく淹れてくれた紅茶を残していた事に気付いてぐっと飲み干す。


「慌てなくても、逃げはしないぞ?」

『でも、早くすれば……沢山散歩、出来るでしょ?』

「はっはっは、それは違い無い」


 肌を滑る外の風は冷たい香りだった。ルルは肺いっぱいに吸い込んで、残っていた眠気をスッキリした空気に溶かした。ジェイドは雲一つ無い晴れた空を見上げる。


「今宵の満月は真珠の様だ」


 目を細める彼に習ってルルも月を見る。まるで、それを映えさせる様な真っ暗な空に浮かぶ、白銀色の月。とても小さいのに、その眩しさは見た人々の目に残る。

 星は月の明かりに負けて見えず、本当に穴が空いているようだった。触れられるのではないかと思うほどに存在が強く、ルルは光を想像して手を伸ばした。


『……宝石』

「ん?」

『宝石の香りがする。小さいけど……とても澄んでいて、綺麗な香り』

「ほう、もしかすれば……本当に月は宝石の類いかもしれんな。いや、自然界の物だから当然か」

『美味しいかな』


 ルルは掴んで口へ放って見せる。ジェイドはキョトンとすると吹き出した。静かな空間に彼の声は反響し、月まで届きそうなくらいに大きい。

 すぐにべっと舌を出して冗談だよと言うルルに、ジェイドは面白そうに提案する。


「そうしたら、新しい月を生む方法を研究するべきだね」

『それ、とても楽しそう』


 ルルは一生懸命に試行錯誤するのを想像して、可笑しそうに笑った息を吐いた。


 しばらく2人で小道を進む。大通りに出る事はせず、追い掛けるジェイドの背中は更に人里から離れて行った。


 外は本当に何の音も無かった。動物の声は聞こえず、少なくなってきた家から漏れる明かりの暖かさも無い。妙に靴底の音が響くせいで、どこか何も無い部屋に放り出された様な感覚に落ちる。音が無い世界が久し振りだからか、以前より精神が研ぎ澄まされる気がした。

 少し離れて歩くジェイドがもっと遠くを行っていそうで、静寂が彼を攫っていきそうだった。ルルは咄嗟にジェイドの背中を掴んだ。


「おや? どうした、歩くのが早かったか?」

『あ……ん、と。音が、無いからね……ジェイドがどこかに、行っちゃいそう……だったの』


 ジェイドは恥ずかしそうに言って手を離すルルに目を瞬かせ、改めて周囲を見渡した。自分はすっかり見慣れた暗闇。人が生み出した灯りは全て途絶え、足元を照らすのは月光のみ。そんな誰もが寝静まり、自分の呼吸する音しか無い空間の恐ろしさを、いつの間にか当たり前だと忘れていた。

 足を止めさせた事に申し訳なさそうにするルルの頭を、ジェイドは優しく撫でる。


「ああ、グリードの夜は暗い。けれど、そんな顔をするべきではない。この世界で俯けば、美しい君を月が見失う。前を見て、共に明るい月に導かれようじゃないか」


 そう言ってルルの幼さが残った頬を包んで上を向かせる。ルルはポカンとしながらも、その励ましの言葉に口元を綻ばせて頷いた。ジェイドは僅かな強張りが取れたルルの肩を優しく抱いて、背中をポンポンと叩いた。ルルはその胸元に、少しだけ頭を強く押し付ける。


「置いてなどいかんよ。安心したまえ」

『うん……そうだね。もう、大丈夫』


 手を繋ごうかと差し出されたが、ルルは遠慮した。グリードの道はそれほど広くないのだ。しかもこの先からは森があるのか緑の香りがする。あまり整備されていない道に並んで歩くのは少し危険だろう。


 少しして、住宅街にある様な人の香りも消え、より森林に近付いたのか自然の香りが強くなった。そこでジェイドの足が止まる。目の前に広がるのは黒い葉を持つ木が生い茂る森。これより奥は人が無闇に立ち入らない超自然の入り口。そのため、何もしないままでは歩けない真っ黒な場所だった。

 ルルはジェイドの後ろからチラリと覗いで見る。暗闇に手を伸ばすと、森の中特有の涼やかな空気を感じた。しかし普段の森は好きだが、こうも何の気配もしないと流石に不気味に感じる。


『もっと、先?』

「ああ、もうしばらく歩くぞ。疲れは無いかね?」

『平気』


 ジェイドはリュックからランタンを取り出した。中で何かぶつかる小さな音が聞こえる。そこから知らない宝石の香りがして、ルルは興味深そうに、卵の様なガラスの中身を見つめた。よく見かけるランタン用の、油をよく吸う炎を灯す石とは香りが異なる。

 仄かに白くボヤけたランタンの中には、丸く削られた石が針金の鳥籠に収まっている。


「見たのは初めてかね」

『うん。てっきり、火がつくの……だと思った』

「ふむ、最近はその方が便利だという者も居るからな。しかし私は、この灯りが好きなんだよ。これはヴァダール石と言ってね、水に触れると光ってくれるんだ」


 古い時代、人はこの石を頼りに一般的な照明や、豪華なシャンデリアなどの灯りに使っていた。しかし個体によって灯りの強さが異なる事で、人は少し不便さを感じ始めた。そのうちヴァダール石自体の生産も減って、日用品の灯りは、火に強い物か、それ用に開発された人工石が主体となったのだ。

 ジェイドは幼い頃から、目の潰れた様な暗闇に襲われるとこれを使う。大事に使えば変わらぬ美しい輝きを見せてくれるため、手放す気になれない。


「いくら世が変わった所で、美しい物の眩しさは変わらんのだよ」


 ジェイドは水の入った瓶を取り出し、栓を抜いてランタンの中に注ぐ。中が満たされると、鉄の蔓に包まれていた石が水を吸い込んだのか深く沈んだ。

 気泡が零れた時、ルルの宝石の耳は石の微かな声を聞き取った。少しずつ水が染み込むと共に、透き通った音は大きくなっていく。

 まず石は内側から、まだ外に漏れない程度の小さな光を生む。そしてそれは徐々に膨らみ、水の壁を突き抜けて柔らかな光を放出した。石は水のなかで揺れるたびに美しく鳴く。


(綺麗な音……)


 灯りは決して眩しいとは言えない。ぼんやりとした明るさは、確かに火の方が便利なのがよく分かる。しかし、炭の中に水を垂らした様に闇を溶かして導くこの光は、それらには無い幻想的な美しさを見せてくれる。


「人間は、美しいものに自然と目を奪われる。だがそれに慣れると途端に価値を忘れてしまうのだ。さぁ、進もうか」

『うん』


 ここから整備された道は無く、森の奥深くへ続く獣道を歩く。風すら消えた空間で木の葉を揺らすものは無く、まるで動かぬ偽物の様だった。

 先程にも負けない静かな空間には慣れず、ルルは少し落ち着かない様子でジェイドのあとを付いて行く。やがて獣道からも外れ、道自体が消えた。ジェイドの足だけが、長さの揃わない草や落ちた小枝を退かして、新しい道を作る。

 右を向けば鼻先が触れそうな距離に枝がある。1人通るのにも随分と狭すぎる場所になってきた。


「大丈夫か?」

『ん……凄い所だね』

「人の手が入っていないからな。だからこその超自然なのだよ。もうしばらくの辛抱だ」


 何度も行き来しているジェイドは森を泳ぐ様に進んで行く。それでもルルを不安にさせない程度の理性を持って、いつでも手の届く距離を保った。

 草木の壁をようやく抜け、ジェイドは足に力を込めると、急坂になり土地が途切れているそこから小さな石の上に跳んで降りた。急に拓けたそこは、大きさもまばらな石が点々と続き、その下には綺麗な川が流れている。


「おいで」


 ルルは周囲を見渡してからジェイドに頷き、彼の胸元にぴょんと飛び込んだ。細いルルの体はしっかり抱き留められ、そっと石の上に下ろされた。

 ルルはしゃがんで、水中の石や花が見える澄んだ川に両手を入れる。器にして掬い、口付けて渇いた喉を潤した。冷たすぎず、甘くてとても美味しい。

 動物たちや人間の音が無い代わり、ここは鉱石の香りが濃かった。ジェイドが向いたであろう先は、より黒に染まっているが、確かに鉱石の香りと音を感じる。


「もう目の前だ」

『あそこから、沢山の香りがする』

「ご名答。素晴らしい光景が待っているぞ」


 薄青い指が示す先に迷いはなく、ジェイドは満足そうに頷いた。

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