幻想種族
やがて水溜りを踏むのはジェイドとルルだけになった。街に住む他の住民はとっくに自宅へ避難し終えている。
ジェイドの家は、都心から随分離れた場所にあった。雨に濡れながら小走りに辿り着いたのは、狭い道に建つ住宅街も通り抜けた外れ。壁が蔓草で半分ほど覆わている横に薄くて細長い一軒家が、木と一体化する様にポツンと佇んでいた。
「あぁ、濡れた濡れた。大丈夫か?」
『うん。でも、何だかジェイド……楽しそうだね』
「ふっふっふ。滅多にこんなずぶ濡れにはなれないだろう? 刺激的だと思わないかね?」
ルルはその返しにキョトンとしたが、確かにと小さく頷く。様々な面で国民から慕われる彼ではあったが、同時に『変わり者』としても有名ではあった。そんな彼は愉快そうに笑いながら、紐を巻くようにして重ねたブレスレットを扉へ翳し鍵を開けた。
ジェイドの持つブレスレットの小さな5つの宝石は、グリードの国石でもあるマラカイトだ。
ジェイドは上着に付いている雫を手で払い、目の前で水が滴る薄緑色の白髪を掻き上げる。ルルもそれを真似てマントをササッと撫でた。
「さぁ、お入り。散らかっているから足元に気を付けておくれ。冷えてしまったから、暖かいものでも出そうか。お好みは何かな?」
『ありがとう。甘いのが好き』
ジェイドはそれに頷きながら荷物を適当な場所に下ろすと、マグカップを2つ取り出して並べる。
しかしその片方が少しだけ汚れていて、埃にフッと息を吹きかけた。それでも完璧に綺麗にならず、彼は小さく唸るとやがて諦め、そこに自分用に紅茶を注いだ。もう片方の綺麗なカップに、ルルへの甘いホットミルクを淹れる。
「荷物はソファにでも置いておけばいい。暖炉の前に座って体を暖めたまえ」
『うん』
ルルは礼を言いながら、慎重に玄関から上がった。すると、丸い物を無理やり平たくさせた様な不思議な物が、爪先に早速当たった。ジェイドの家の床は、他にも途中まで記された本やこれまた使い方に迷いそうな物が沢山落ちている。
ルルは恐る恐る足を引き、なんとか何も置かれていない気配の間を縫って中へ進んだ。枝がパチパチと小さく爆ぜる暖炉の前の、揺れる椅子に腰を下ろす。剣は足元に立てかけ、カバンも背中に置いた。
ジェイドはそんな彼の様子に首をかしげた。ルルが濡れたマントも、蒸し暑いであろう仮面も取らないのだ。
「脱がないのかね? 若くたって風邪は引くだろう」
『ん……まだ、このままでいるよ』
「? そうか」
ジェイドは妙な受け答えに訝しんだが、何か事情があるのだろうとそれ以上追求しなかった。
ルルはジェイドからホットミルクを受け取り、すっかり冷たくなった両手で包んだ。かじかんで固くなった指先が暖かさにじんわり溶ける様で、とても気持ちがいい。しかし流石に、マントが水分を吸って重たかった。ルルは気を紛らわす様に、一室しかない部屋を見渡して息を深く吸い込む。
『本の香りがする。壁にあるのは、全て本なの?』
「ああ、そうだが……香りとはどういう事だね? その仮面、見えているのでは?」
『ううん』
「それならばなおさら、何故付けたままなんだ? 見えないなら、取った方が便利だろう」
『仮面を取っても……僕は目が、見えないままだから』
「何だって? それなのに、1人で旅を?」
ルルの隣に座ったジェイドは、湧き出る疑問に言葉を紡ぎ続ける口を慌てて閉じる。いつもの癖で、つい探ったような質問をしてしまった。
ルルはそんな彼をじーっと見つめ、可笑しそうに言う。
『ジェイドからは……沢山、質問が来るね』
「う……す、すまない。癖でね」
『謝らなくても、大丈夫。面白い癖だね』
「そう言うのは君くらいだ。知りたくなってしまうのだよ、分からない全てを」
ルルは口から笑った様な息を零したが、少しだけ申し訳なさそうに顔を俯かせる。
『あまり……答えられないかも、しれない。僕も貴方を……知らないから』
「あぁ、そうだな。まずは、招いたこちらが君の質問に答えるべきだ」
『本が、沢山あるけれど……ジェイドは、何のお仕事を、しているの? 研究者……とか?』
「そうも呼ばれるな。けれど私はどの職にもついていなくてね。ただ本を集めて読み漁り、自分でも書き……好きが高じて、解明されていない事を研究しているのだよ。それがたまたま、世間様に認められて資金になっただけ。私は自分の欲求を満たしているのさ。だからそんな大層なお役柄じゃあない」
肩を竦めて軽く笑い飛ばす彼に、ルルは仮面下で目を閉じて頭をゆっくり振った。
『充分素敵。僕だって……世界を知りたくて、旅を、しているんだから。ねぇジェイド、貴方が悪い人じゃないのは……とてもよく、分かったんだ。だからね、お礼をしたい』
「お礼? はっはっは、困った時は助け合いと言うだろう」
『それでも、だよ。僕……2年は旅を、しているの。貴方の中で、どうしても分からない、解明出来ない事は無い? もしかしたら……協力出来るかも』
「どうしても? うぅん、そうだなぁ」
ジェイドは難しそうに唸りながら、天井高く作られた壁中の本棚を見上げる。そこで彼の翡翠の瞳は、ある一箇所で止まった。
他の本棚は、隙間なく本が敷き詰められているのにも関わらず、その一段だけに余裕がある。しかし少しの間そこを見つめたが、忘れようと目を伏せた。
「私はこの国を出た事が無いんだがね、外に興味はある。だから旅の話を聞かせてくれれば満足さ」
『嘘。今、ジェイドの困った声…一瞬、止まった。分からない事……言ってみて? 答えられるか、そうじゃないかは…言葉にしないと、分からない』
ジェイドは鋭く、まっすぐとした指摘にギクリとすると、頬を掻きながら目を泳がせる。しばらくの間、お互いに沈黙を続けていたが、その無言に負けたのはジェイドだった。
彼は思わず見てしまった先程の本棚の隙間を再び見上げながら口を開いた。
「ルルは、幻想種族とも呼ばれる種族を知っているかね?」
『幻想種族?』
「ああ、実際の名とは異なるがね。掴み取れない幻想的な美しさを持つ種族だからそう呼ばれる。けれど、それがより深く知られる前に……彼ら一族は滅んでしまったのだよ。もう何百年も前の事だ」
『どうして、滅んでしまったの?』
「彼らの全てが宝石で出来ていたからだ。人間はそれに欲が眩み『宝石狩り』と称して彼らを絶滅に追い込んだのだ」
その重く沈んだ言葉に一瞬だけ、ルルの体がピクリと反応を見せた。ジェイドはそれに気付かないまま話を続ける。
「彼らの名は──」
『オリクトの民』
「ああ、知っていたか。そう、彼らの資料だけがどうしても抜け落ちている。私はな、生涯で1度は会ってみたいと夢見ているのだよ」
『もし会ったら、何をするの?』
「話をしたいと思っているよ。沢山質問をしてしまうかもしれないな。この世の事から、種族、神の事なんかをね。それに、その美しさを本に収めるのもいいだろう」
夢を語る彼はどこか生き生きとしていて、ルルはそれにつられたのか、ふふっと口から楽しそうな息を吐く。
ジェイドの大きな手に、淡い青色をした手が重なる。
『ねぇジェイド、僕からナゾナゾ』
「いいぞ、来たまえ」
『僕は……人間?』
仮面とフードで殆ど影になったルルの顔が近付き、面白そうに頭をかしげられる。ジェイドは目をパチクリさせながらも、好戦的に細めた。
相手の正体を見破るには、もちろんだがよく観察する事が必要だ。ルルからの情報はとても少なく、限られている。しかしその『ナゾナゾ』の答えはもう出ていた。
「肌が青い。肌質も異なる。答えは人間ではない、だ」
『そう。何だと思う?』
「ふむ……もう1つ、ヒントをくれないか?」
『ん…………じゃあ、どうして姿を、隠していると思う?』
ジェイドの目が様々な可能性を見出し、1つの答えに絞るため辺りを見渡す。肌が弱いからかと一瞬思ったが、最初のナゾナゾの答と関係があるとすれば選択肢から消えた。
「質問は?」
『どうぞ』
「人は好きかね?」
『面白い聞き方だね。好きだよ……ジェイドみたいな、優しい人はね』
「狙われているのか?」
『ん、半分そう……かな。僕らを、物として見る人も、居るから』
「仲間は?」
『……。ずぅっと前に、滅んだらしいよ』
最後の問いに答えたルルの声は、その内容とは裏腹に嬉しそうだった。それは恐らく、答えに近付いているからだろう。
ずっと前に滅んだ種族。種族が違えども同じ生き物である彼が、ただの物として扱われる可能性。そして、会話から突然始まったナゾナゾ大会。全て関係あるとすれば、1つの単語が頭に浮かぶ。
「オリクトの、民?」
『それは……最後の答え?』
無意識に呟いた言葉に尋ね返され、ジェイドは思考の波から自分を引き上げるとぎこちなく頷く。まさかと言いそうになった時、ルルの口角が僅かに上がった。
『正解』
「な……ほ、本当か?」
『うん。正解者には、景品があるよ。ジェイドの願い、少しだけ、叶えられる』
ルルは目を閉じたまま仮面を取り外し、ガラス製のローテーブルに置く。ジェイドはただ、彼のしなやかな指の動きを目で追う事しか出来ないでいた。
彼を置き去りにしている事を知らず、ルルはフードをマントごと脱いで最後に目を開けた。




