新しい物売り
一つの小さな紙飛行機が、風に乗って空をゆらゆら飛んでいる。不安定に見えるその姿は、今にもすぐ落ちてしまいそうだが、橋を超え、国の門すらも超えた。
しかしその散歩は、門から続く道を挟んだ林に入って終わった。
紙飛行機を受け止めたのは、道端の草花を摘んでいる男。緩く編まれた髪が揺れる頭に、紙飛行機の先が当たってパサリと落ちる。何枚も異なる布を器用に縫い付けた重そうな服を着込んだ男は、その感覚に振り返った。
彼は作業の途中だった。何だと辺りを見渡していた緑の瞳は、足元に落ちた紙飛行機に気付く。
「あぁ、こんな所まで来たか」
呟かれた声は穏やかだった。そしてその言いようはまるで、この紙飛行機が飛んでいる事に全くの驚きを感じない。そう、当たり前なのだ。この国グリードでは、紙飛行機が頻繁に飛んでいる。グリードで生きる彼も、とっくの昔に成人を過ぎてた今でさえ、時折飛ばす事があるのだ。
彼はさっそく紙飛行機を解体する。そこには子供の拙い字で、母親に花を渡して喜ばれた嬉しさが書かれていた。男は微笑ましさにつられて笑う。
この紙飛行機は、誰かへの手紙。しかし特定の人物ではなく、グリードの国民全員へ向けたものだ。知識の国と呼ばれるここでは、風が、言葉が、手紙が相手を選ぶとされている。
「おぉ~い、ジェイド! これから降るぞ!」
「!」
ジェイドと呼ばれた彼は、門番からの声にハッと顔を上げて空を見る。少し遠くから、ズッシリとした雨雲がゆっくり迫ってきていた。
ジェイドは両手にした薬草や木ノ実を見て、それを背中にしたリュックに入れた。少量だが仕方がない。雨上がりにはまた違う材料も手に入るため良しとした。
「ああ、今から帰る!」
知らせてくれた門番に手を挙げて答え、足元を見て全て持ったかと確かめてから林の外へ出た。その時、細長い靴の先が何かをコツンと蹴って、道に転がす。
「ん? これは……」
思わず目を瞬かせ、しばらくそれを眺めてしまった。落ちていたのは、ひと粒のエメラルド。
不思議そうに首をかしげながらも、腰を屈ませて指で摘み上げた。まだ太陽が見える空に翳すと、黒に見えるほど濃い緑が、美しく透き通った新緑に変わった。
「ふむ、上質だな。それにしてもこれまた、随分へんぴな落し物だ」
ジェイドは親指ほどのエメラルドを、上着の深いポケットに入れて門を潜った。
下に大きな川が流れる橋の上を通ると、道の外側が物売りたちで埋まっている。市場の様なそこには、果物や野菜、花の中に紛れて、本や骨董など変わった物も売っていた。ごく稀にだが、掘り出し物に出会える時もある。
「ようジェイドさん、買ってかないか?」
「あぁ、今日はやめておこう。新しいのが入ったら、またよろしく頼むよ」
以前寄った事のある本屋の男に、彼は肩を竦めながら頭を振って見せた。あそこに販売している本は、もう昔に読み終えた物ばかりだ。
通りかかったジェイドに気付いた女亭主が、彼に手を振りながら商品の果物を投げて寄越した。ジェイドは反射的に片手で受け取る。
「今日はもう帰りかい? 持って行きなよ」
「ありがとう。雨が降るそうだからな」
「大事な研究対象が濡れたら大変だもんねぇ。あ、そういえば今日、新しい物売りが来たんだよ。変わった物を売ってるって」
「ほう? 雨の前にでも寄ってみようか」
「良いのがあったら、教えておくれよ」
ジェイドはこの国では多少名の知れた人物だった。国民は彼を『研究者』『考古学者』『錬金術師』と、様々な役柄で呼ぶ。30代前半という若さで彼は目利きでもあったため、国民の信頼も厚い。
(おや?)
物売りの列が途切れかけてきた頃、最後尾の販売所は随分と離れた所にあった。賑やかさが減った住宅街の入り口の、建物の影になった場所に。
小洒落たフードを目深にした亭主の顔は見えないが、先程聞いた新しい物売りだろう。金色の剣を胸で立て掛ける様に抱え、商品に目を落としている。人々へ声掛けをしない所を見ると、物売り自体が初めてなのか、商売下手に思えた。
ジェイドは広げられた商品を一瞥する。そして、もう視線を外せなくなった。
「やあ」
亭主はハッと頭を上げる。その時に顔を見れるかとも思ったが、黒と白の仮面で、上半分は伺えなかった。
「失礼、これを売ってるのかね。君が……本当に?」
亭主は無言で頷く。ジェイドはそれに驚いた声を零しながら、しゃがんで商品を手に取った。
広げた布の上に並ぶのは、宝石のアクセサリー。ブレスレット、チョーカー、ネックレス、指輪……他にも様々なアクセサリーだ。それも、どれもが上質な物ばかり。とても子供が手に入りそうな品物には見えず、ジェイドは手に入れたルーツに興味を持った。
「どう手に入れたんだね?」
亭主は首をかしげ、どこか悩ましそうにしている。どうやら言うかどうかを迷う様なルーツなのか、それとも言えない理由があるのだろう。
ジェイドはその反応に、手の平を見せて静止させた。
「結構。野暮な事を聞いた、すまないね。あぁ、もちろん買うさ。良い物を目の前に、冷やかしなんて趣味ではないよ。これはおいくらかな?」
半透明で、微かに紫色をしたブレスレットを手に取って見せる。亭主はそれを見つめたあと、仮面が半分を覆う顔でジェイドを見上げた。
『貴方が決めて』
ジェイドはゆっくりでハッキリした声にハッとし、辺りを見回す。しかしそれは紛れもなく、外からではない頭の中で響く音だった。男女と判断するのに数秒必要な、中性的な声音。どちらかと言えば、少年寄りだろうか。
彼は亭主に再び顔を向け、まさかと思いながらも小さく尋ねる。
「君の、声か?」
『驚かせて、ごめんなさい。僕、声が出ないの。だから……これで貴方と、話しができるんだよ』
ジェイドは細い喉元を触れた手の動きに誘われ、視線を彼の胸元に向ける。そこには、赤紫色の宝石が下がっていた。
「随分珍しい物を持っているじゃないか。言わば通話石かね」
『うん。それで……欲しい物、貴方がいくら出すか、決めてほしい』
「しかし、それはどう言う事だね? そんな事をしたら……最悪、タダで持っていかれるだろう。これは良い商品だ」
『ありがとう。でもそれは、仕方ないよ』
「ふむ、変わった商売方だ。何故そうするのか、聞いても?」
『僕はこれに、値段は、付けられない。だから他人に、決めてもらう。もし、タダで持っていくなら、その人の中で、そうしてもいい商品だった……っていうだけ』
ジェイドはその答えに驚きに聞き入っていたが、少年が不思議そうに首をかしげた時、可笑しそうに笑った。
物売りは、どれだけ商品を元の値段より高く売るか、試行錯誤しながら売る。自らの生活が掛かっているのだから、それは当然だ。だから、そんな切羽詰まる価格競争の中で、こんな面白い販売者は初めて見た。
「はっはっは! そうか、そうか。面白い事をする。少年の名前を聞きたいが、構わないかね? 私はジェイドという」
『ルル』
ジェイドはもう一度「そうか」と満足そうに頷きながら、カバンから5万分のルナーと、先程拾ったエメラルドをポケットから出し、彼の手を取って握らせ、商品を受け取る。
ルルは思った以上の重みに、仮面の下で目を瞬かせた。
『いいの? こんなに。それにこれ、宝石?』
「私が決めた価値さ。エメラルドは、拾い物ですまないがね」
『……ありがとう。大事にするよ』
「こちらこそ」
ルルは肩掛けカバンの中から小袋を取り出し、そこにルナーを入れた。その時、エメラルドを見つめて首をかしげる。
『これ……落としたかも』
「なんだって?」
『僕は今日、この国に来たんだけど……その時、かも。知っている、香りだから』
彼はルナーを入れた袋をしまってから、ジェイドへ別の、紺色の小さな袋の中身を見せた。その中には、確かにエメラルドと同じ大きさの宝石が、まるで飴玉のようにジャラジャラと入っている。
「なるほど……そうかもしれんな。しかし、鉱石を集める趣味でもあるのかね?」
『ううん、趣味ではないよ。ただ、必要なだけ』
「ほう?」
ジェイドが興味深そうにしたその時、色取り取りな煉瓦道にポツリと雨粒が落ちた。ポツポツと不定期に降り出した雨は服に染み、やがて人々が空を見上げる頃には、途切れない大雨になった。
二人も顔を上げ、ジェイドは頭の上に片手で傘を作り、ルルはのんびりと商品をカバンに入れて立ち上がる。
「ルル、君は旅人だろう?」
『どうして、そう思ったの?』
「今日この国に来たと言っていたじゃないか」
『あ……そっか』
「はっはっは。宿はあるかね? 無いならうちへおいで」
『いいの?』
「ああ、ここで会ったのも何かの縁と言う物。是非、そうしたまえ」
手を差し伸べられ、ルルはそれを反射的に握った。ジェイドはそれに目をパチクリとさせる。手を繋ぐのではなく、彼へ手招きの意味で手を差し出したのだ。
(まぁいい)
ジェイドは微笑み、彼の手を振り払う事なく繋いだまま、導く様な形で家路を急いだ。孫が居たらこんな気分か? と心の中で思いながら。




