とっておきの場所
トントンと、工房のドアを控えめに誰かが叩く。ジオードがドアを開けると、そこにはルルが居た。そういえば昨日、アルナイトと何か約束をしていたのを見た覚えがある。しかしまだ彼女は夢の中。いつもならとっくに起きている頃だが、さすがに疲れたのだろう。
ルルもそうだと思って、ジオードの工房を訪ねたのだ。最初は自宅のドアを叩いて、試しに呼びかけもしたが応答が無かったから。
ルルはキョロキョロすると、今はすっかり嗅ぎ慣れた絵の具の匂いを辿って顔を室内に向ける。真新しい匂いが混ざっていて、作業中なのが分かった。
『アルナイトが、起きるまで、ここに居てもいい?』
「構ってはやれんぞ」
『うん、いい』
ジオードのそっけない言葉は、退屈が嫌いなルルへの気遣いだ。彼もそれを察して頬を緩めた。
ルルは邪魔にならない程度の距離に椅子を持ってくると、ちょこんと座ってジオードを急かすように見上げる。ジオードはいつも通り仕方なさそうに、しかしどこか笑ったように鼻を鳴らして、キャンバス前の椅子に腰をおろした。
自分の呼吸と筆がキャンバスを滑る音に、他人の呼吸が混ざる。しかし不思議と気にはならなかった。きっとルルが、普段から呼吸の音を小さくしているせいだろう。旅人ならではだ。ジオードはそうだと思うことにした。
やがて、筆がピタリと止まる。ルルには終わりではなく、中途半端に止めたのだと分かった。ジオードの筆の動きが、少しずつ迷いを持つようにぎこちなくなっていたから。彼はそれ以上色を置くことはせず、代わりにルルに振り返る。
「外に出ることを、お前は恐れなかったのか?」
突拍子のない話題だった。しかしルルには意味が分かったようで、首をかしげない。仮面を外し、何も映さない鮮やかな全眼でジオードの濁った目を見つめる。
『不安は、あった。だって僕、全てが、初めてだったから』
初めて人々の顔の違いを知った日、外へ初めて出た瞬間。心の中では昨日のことのようだが、実際の時の流れは早く、もう遠い。今は手を繋がなくても、気配で何があるか分かる。しかし、なお不安はあった。
いくら強くなっても、補えないものがる。違う世界に、孤独を感じる時もある。しかし足を止めないのは、それ以上の美しさがあるからだ。
ルルはそう語ったあと、ふふっと楽しそうな息を吐いた。
『僕には、何も無かった。ジオード、貴方とは、始まりが違う』
「……失うことと同じだ。だから俺は……恐れているんだ」
『なぜ? 貴方が失うのは、視界だけ』
「だけ?」
『貴方は、たくさん持っている。感性、これまでの記憶、体に染み付いた経験。それらが、貴方のこれからを、支える。もちろん記憶は、霞んでいく。けれど、その間に別の、それ以上のものが、手に入っている』
ルルはまるで、羨むように言葉を並べる。自分がその経験をしているかのように、音が弾んでいるように聞こえるのは、気のせいだろうか。
『全てに触れて。舌で、指で、鼻で、耳で。そうすれば貴方は、目では見られない、美しいものを知る』
そしてジオードには、目で見た記憶がそれをより手助けし、美しい絵に落とすだろう。唖然としているジオードと逆に、ルルは嬉々としている。しかしすぐ、思い出したようにしょんぼりとした。
『それを、見られないのだけ、とっても残念。きっと、とっても美しい』
「……お前も、大概だな」
目を瞬かせていたジオードは、参ったと言うように笑った。不安は払拭されない。なんの問題解決にもなっていないのだから。しかし、肩の力は不思議と抜けた。なるようになる。なんとなくそう思えて、この先消える視界に対して踏ん切りがついた気がした。
しかしさすがの好奇心だ。これは世界の王の言葉だからではなく、ルルだからこそだろう。
(あの目が何を見ているのか、知るのも悪くないか)
ジオードから伝わる緊張がほのかに消えたのをルルは感じた。と同時、にぽんと頭に手が乗せられる。少し不器用だが、撫でられたのだ。驚いたように虹の目をパチクリさせたが、すぐ嬉しそうに細めた。
「そろそろ、あいつも起きる頃だ」
ジオードは天井から吊るした、丸い砂時計を見る。1時間ごとに測れるもので、ちょうど砂が繰り返されようとしている。いつも疲れている時、アルナイトはだいたい1時間余分に眠ればスッキリ目覚める。
『うん。様子、見てくる』
ジオードは頷いて、腰を上げたルルを目で見送る。すると、思い出したように呼び止めた。彼は戸棚を漁り、小さな紙袋を持って来た。ルルは差し出されるままに受け取りながら、不思議そうに首をかしげる。
「パンだ。腹が減ったら食え」
『ジオードのは?』
「まだ別にある。アルナイトに付き合うんだろ? 倒れられたら夢見が悪い」
物言いは変わらないが、気遣いは以前よりハッキリ見えるようになった。ルルは笑うように頬を緩めると、有り難く受け取って工房から見送られた。
荒削りな石階段を登り、アルナイトとフロゥが使っている工房のドアを叩く。数秒後、まるで転がるかのような激しい音が、バタバタと近づいて来た。ドアを恐る恐る開けて目だけを外へ覗かせたのは、やはりアルナイト。耳が特別鋭くなくても、荒い呼吸で彼女が急いで支度をしていた最中なのだと、予想ができる。
『おはよう、アルナイト』
「お、おはよルル。ごめん、さっき起きた」
『ゆっくりでいいよ。入っても、大丈夫?』
アルナイトはそこでまだドアを隔てて会話しているのが目に入ったのか、慌ててルルを中へ招いた。
身支度を終えると、アルナイトの薄い腹からグゥッと低い音が空腹を主張する。寝坊して急いでいたから、胃袋の中にはコップ1杯分の水しか入っていない。恥ずかしそうに苦笑いする彼女に、ルルは貰ったばかりの紙袋を差し出した。
『ジオードが、くれたんだ。パンだって』
「マジでっ? 食べよう!」
アルナイトは目をキラキラさせ、少し年季の見えるコップに水を入れ、椅子を向かい合わせにさせた。工房だから、食事に使えるようなテーブルは無い。それでも掃除はしているから、床も汚くはないはずだ。
紙袋には、肉と野菜が挟まったパンが2つ。サイズは小さいが、具沢山だからか1つで十分腹に溜まる。
『そういえば、昨日はちゃんと、眠れた?』
ジオードが、アルナイトの記憶を奪う理由となった悪夢。今の記憶があるから大丈夫だとは思うが、なにせ一気に思い出したのは数年分だ。混乱も相まって、夢が悪さする可能性はあった。
アルナイトは少し心配そうなルルの言葉に、目をパチクリさせる。しかし彼女は逆に、嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「母様に会ったんだ!」
『夢に、出て来たの?』
「うん。で、頭撫でてくれたんだ。あんな母様見たの、すっごく久しぶりだった」
それはもしかすれば、サファイアの魂が夢に入って来たのかもしれない。魂は夢を散歩する、なんて言葉がビジュエラにあるくらいだから。ルルは時々夢で頭を撫でてくれるクーゥカラットを思い出しながら、微笑むように目を細めてそっと頷いた。
パンを平らげ、少し他愛のない会話をする。そこで、今日の予定をアルナイトに教えてもらった。既にルルが絵のために着る衣装は用意しているそうで、あとは画材を用意するだけだと言う。
『じゃあ、着替えるね』
「あ、描きたい場所があってさ。もう着替えると寒くなっちゃうから、そこ行ってからしてほしいんだ」
『そうなの? どんなところ?』
「へへ、秘密。とっておきの場所なんだ。それに、その前に顔料も取り行きたいしな」
顔料と聞いて、ルルは『あ』と音をこぼす。カバンを漁り始めた彼に、アルナイトはどうしたのかと首をかしげた。取り出したのは、ここに来る前に見つけた顔料を包んだ布。少し崩れていたためか、布の先が僅かにキラキラしている。
『これ、使える?』
そう言って包みを開いてアルナイトへ差し出す。アルナイトは灰色の混ざる淡いピンクの目を大きくさせ、唖然とする。ルルは反応が薄いことに、あまり使えないものかと、視線を手元に落とす。だがその直後、手ごとアルナイトにガシッと掴まれた。
「これ、どーしたんだ!?」
『あ……昨日、崩れた場所で、見つけたの』
「オレが欲しかったやつなんだ! ありがとうルル!」
聞けば、これはアルナイトが無茶をして川に落ちた原因となった顔料だった。偶然とは言え、ちょうど手に入って良かった。色が分からないルルは、どんな顔料なのか判断してなかったから。
早速、アルナイトは顔料を砕く。硬い鉱石はあっという間に粉になり、やがて粘りを持って絵の具となっていく。他の油絵の具と違って、まるで炭のような独特な香りだ。色は半透明で、キラキラと星空のように細かな光を持っている。これを使えば、普通の絵の具では表現しきれない美しさが最大限に見せられる。
出来上がった絵の具をそれぞれ小瓶に入れ、道具を詰めた荷物を背負う。
「よし、しゅっぱーつ!」
小さな拳を挙げるアルナイトを真似て、ルルも面白そうに手をかかげる。すると、ちょうど工房のドアをフロゥが開けた。仕上げに向けて、道具を色々買ってきたようだ。
フロゥは玄関前で拳を挙げている2人にキョトンとする。
「あ、おはよフロゥ」
『おはよう』
「お、おはよう……何をしてるんだ?」
「えへへ、気合い入れてた。じゃ、ルルと出かけてくるな!」
アルナイトはウキウキしながら、ルルの手を引く。ルルは置いてけぼりなフロゥへ、小さく手を振ってアルナイトについて行った。
手を繋いで、足を弾ませながら道を行く。手を引かれながら、ルルはどこへ行くのかと周囲を探った。しかし国の出入り口とは逆方向で、まだ探索したことのない場所だ。
神の揺かごと言われたアルティアルの、足元と呼ばれる場所。そこも周りと同じで、高い壁がある。しかし唯一、壁の一部に穴があった。あの黄金がある地下の洞穴以外に、この国には美しい洞窟が存在する。絵に思い悩んだ時、心がモヤモヤした時なんかに来る、アルナイトにとって大事な憩いの場だ。
雨で削れた穴は、滑らかだが足場が自然とできている。細い洞窟の入り口を入ると、なだらかな階段が続いている。
「昔な、まだアルティアルに慣れてない時に見つけて、よく来てたんだ」
階段が終わると、冷気が肌を撫でる。カツンと足音が響くそこは、まるで夜のような深く鮮やかな青色をしていた。サラサラと、水が流れている音が近くでする。目の前には、小さな純白の花を咲かせる浅い湖が広がっていた。
シャラシャラと、水の動きに花びらが揺れる音がする。華奢な薄青い指先が触れると、花びらは淡く輝く。しかしその刹那、キラキラとした粒子となって、水に溶けていった。まるで雪でできた花。その様子から、ここは雪の華の湖と呼ばれる。ここが、とっておきの場所だった。
いつも読んでくださり、ありがとうございます!休み休みですみません…!
ルルはジオードを励まそうとはしてませんでした。ただ本心で、自分が手に入らないものを持ちつつも、これからジオードが知る世界を羨んでの言葉です。受け取り方によって、相手に歪んで伝わりそうですね。まあ、仲の良い相手だからこその言葉でしょうが。
次回は、アルナイトお気に入りの場所で、2人だけの最後の思い出を作ります。




