シナバー
テーブルの上に置かれた紅茶は、アルティアルに訪れて初めての香りだった。これはマリンと恋仲になって、初めて淹れてくれた彼特性のハーブティーだった。ファルベにとって、良い事ばかりではない記憶を優しく包んでくれる、心の安定剤。
飲んでみると、ハーブの涼やかな香りが体を通り抜けていく。まるで体の中を風がそよいだようで、とても心地よかった。
「マリンとは、もう70年以上前に会ったんだ。私は、オリクトの民の奴隷として捕まって、まだ間もない頃だった」
お伽話を聞かせるように、ファルベはゆっくり、静かに語り始める──。
【宝石狩り】という名前は、同胞の中で有名な話題だった。もちろん、悪い意味でだ。なぜ人間を見守る役目である我々が、彼らの欲望を満たす対象でなければならないのか。だがそんな正当は、人間にとってどうでもいい綺麗ごと。とにかく、群れを成して生きるオリクトの民にとっては分が悪い。だからファルベは、1人で旅に出る事にした。
それまでファルベが腰を落ち着けていた村で、彼は服を着る文化に感銘を受けた。様々な国の衣装を見たい。そんな興味もあって、旅人の道を進んだ。
いくつもの国を渡り、次に長く滞在した国で、彼は売られた。奴隷となったファルベは、体に傷ができようとも構わず抗った。しかし何日もそうしていれば、体力ばかりが削られる。彼を買った商人は、魔術に長けていて到底敵わなかった。
しかし商人は、ファルベを丁重に扱っていた。良質な宝石を与え、体も綺麗にする。そして外に出る事以外の要求は、大概叶えてくれた。商人いわく、商品の望みを叶えるのは義務なのだそうだ。
「そんな時に、とある村でマリンと会った。彼は人形劇を行う旅人だった」
マリンは奴隷になど興味なかった。むしろ彼自身、人間に商品として好まれやすい。だから商人が来た頃、こっそり身を隠して村から去ろうとした。その時、マリンの青い瞳とファルベのローズクオーツの目が合わさった。
「一目惚れ、だそうだ。私としては信じられなかったけれど」
500を超えたファルベにとって、100になったばかりのマリンは子供にすぎない。そしてその頃のファルベは、外の世界を羨んで、少し卑屈だった。
しかしマリンはどんな嫌味を言われようと、毎日通った。目の色と同じの花、手作りのアクセサリー。そして毎日、ファルベが無視しても話を続けていた。やがて根負けしたファルベは、徐々に心を許して惹かれていった。
「けれど、私の値打ちは高かった」
ファルベの容姿は、とても好まれる形だった。中性的でありながら男女どちらにも好まれる。そして淡いピンクの肌は、とても美しく触っても極上。だから当時のマリンの財産を全て渡しても、買えなかった。
「商人は、マリンの懸命な姿に猶予を与えた。けれど、長く一つの場所には止まれない」
たった1人のためだけに、馬車を止めるわけにはいかなかった。商人にとって、商売にならなければそれまで。しかしマリンは諦めなかった。
「……彼は交渉した。自分の目を、その場で抉り取って」
長寿の長耳族の目。しかもまだ若く、良質で美しい青い瞳。マリンはそれにとても価値があるのを自負していた。だから商人に、この目を譲る代わり、自分以外にファルベを売らないで欲しいという条件を出した。
馬鹿馬鹿しい交渉だ。ファルベはやめろと叫んだ。マリンが傷つくのは、自分がひどい目に遭うよりもつらかった。だが、商人は意外な事にその条件を飲んだ。いわく、その姿勢と根性が気に入ったらしい。
「私は本当に売られなかった。しかも商人は、それまで傷をつけず、律儀にも売買の項目から私の名前を消した」
『その商人が、目を取ったのでは、ないの?』
「あの人は、あんな仕事をしていながらも、理性的で自分の考えに忠実だった。私以外の奴隷も、他よりは比較的、優遇されていたと思う」
マリンはそれから、ルナーを貯めるのに奮闘した。がむしゃらに見えても、毎日牢を挟んでの面会は欠かさない。それから30年後、ようやく十分なルナーが貯まった。しかし、それを報告しに行った時、ファルベの目は見知らぬ男の手の中にあった。
『商人が、約束をやぶった?』
「違う。商人は新しく交代したんだ。彼は、病気に倒れて亡くなった。新たな商人は、シナバーという男だ」
彼はマリンのために用意された契約書を、目の前で破り捨てた。その契約書は、たとえ商人が亡くなっても約束を守るためにあるもの。それがあるのにも関わらず、シナバーは目を売ろうとした。
マリンは激怒し、シナバーから目を奪い返したのだ。長寿の長耳族は戦いに長けている。力はただの人間であったシナバーより圧倒的で、取り返すのは一瞬の出来事。それでも魔術を得意としたシナバーから奪い返すのに、彼は激しく負傷した。
「目を取り返したあと、マリンはシナバーへ約束のルナーを叩きつけ、牢の鍵を奪い取り、私を解放した」
目を取り返しても、それが元通りになることはない。ファルベにとって、治らない傷を負う事は絶望だった。オリクトの民は、傷物になることをひどく恐れる種族だ。とくにファルベのように、心に決めた相手が居れば尚更。
そこでマリンは、ファルベの目を僕にくれと申し出た。「僕が生き続ける限り、君の目は僕の義眼として美しく生き続ける。一心同体だ。だから、一緒に生きて」と。そんな励ましは、ファルベの心にあった生傷を、数年かけて傷跡に変えてくれた。
「だから私は、マリンを信じている。彼は、他人を自分のために傷つける事はしない」
『うん、僕も彼を、信じているよ。マリンの言葉は、まっすぐだ』
ぎゅっと握られたファルベの拳に、ルルはそっと手を添えた。シナバーは聞いただけでも、3人の想いを裏切っている。商人とファルベ、マリンのだ。元奴隷であるルルからすれば、奴隷商人は悪だ。しかし彼の商人としての誇りは、守られるべきだった。
『リッテ、ここに来る時、馬車が襲われたと言ったね』
「ええ」
『それは、アヴィダンからの情報?』
「そうです。生き残りはヤツだけでしたので、他に証言者はおらず」
『馬車の破片は、ある?』
「え? あぁ、ほんの一部ですが」
馬車が族に遭ったという証拠を、アヴィダンは持っていた。仲間の服の一部や馬車の破片は、同情せざるを得ない悲惨さを物語っていた。それこそ、アヴィダンの生存が信じられないほど。
『彼らの死は、偶然ではない』
「まさか、アヴィダンが仕組んでいたと?」
『その破片を、アウィンに見せて。魔法の痕跡が、あるかもしれない』
「どうしてアヴィダンがそんな事を?」
『ファルベが居るから』
「私が?」
『シナバーは、生きている』
ファルベとリッテは、驚いて思わず顔を合わせた。ルルの考えを理解したのだ。アヴィダンの正体がシナバーだと。ルルにとっては、彼の罪深さを理解するための話。そして確信するために、ファルベの過去を訪ねた。
目を取った張本人であれば、ファルベの目が無い事情も知っている。
「目利きなだけではないのですか?」
『彼は、姿を隠した僕を、オリクトの民と判断しなかった』
手袋をしていたとしても、肌はわずかに見えていた。彼は警戒したが、あくまでそれは本当にアヴァール出身なのかという事に対してだけ。資料の中に目の持ち主だった奴隷の名前が記されていないのに、アヴィダンが見抜けるはずがない。
「でも、アヴィダンとシナバーは、ずいぶん姿が違う。それにシナバーは、初老でもう亡くなっているはずだ」
『オリクトの民の血は、長寿をもたらす。容姿は魔法で、どうにでもなる』
彼の魔術の力を確かめるため、知識があるアウィンに馬車の残骸を見せる。まあ、複数の人形を操れるほどの石を持っているのだから、ある程度の実力はあるのは確実だが。
マリンが帰って来ないとなれば、捕まっているだろう。おそらくは脅してマリンが直接操る手筈だったろうが、拒否した結果、石で操る事になったと予想できる。
『そしておそらく、シナバーは全てに、気づいている』
「なんですって?」
「気づいてるって、ルルがここまで考えているのを?」
『うん。彼の行動が、変わってきている』
ここ数日、呪いや画材と言ったように、時間をかけるものばかりだった。それなのに急に人形を使った大胆な行動に変わっている。
そこまで語ったルルの顔が、少し申し訳なさそうな表情に変わった。
『……僕が、見られていたかも、しれない』
何度か行き来していた姿を、見られた可能性は少なくない。視線を感じなかったが、人形を使えばどうにでもなるし、ルルは魔法を感じ取る事ができない。隙はあった。
『まずは、マリンを助ける』
そこからは、シナバーの動き次第になる。呪いと共に、ルルの鉱石の耳を少しずつ国宝の叫びが震わせていた。国の命運は、ルルとシナバーが握っている。
お読みいただきありがとうございます!
傷物というのは、オリクトの民にとってものすごく重要です。きっとファルベは、二度と同胞から受け入れられないでしょう。
しかしマリンの目の空洞を埋めるローズクオーツ。それはファルベを優しく、愛しく見つめます。それがファルベにとって、存在の赦しとなっているのです。
次回からはルルの推測通り、アヴィダンもといシナバーは本格的に動き始めます。




