騙し合い
ルルの目を覚ましたのは、太陽の温もりでも鳥の囀りでもなく、オーアトーンの音だった。
アウィンが弾いているのだろうか。そう思いながら起き上がったが、すぐに違うと判断した。音が少し違う。アウィンの奏でる音は、彼の声のような柔らかさがある。だが聞こえる音は、ハッキリとしていて芯を感じる。
ベッドから起き上がり、小さくあくびをして眠気を一緒に吐き出す。降りる時、少しだけ昨日の痛みを引きずった足を庇いながら、音を辿ってリビングに向かった。
鍵盤を鳴らしているのは、リッテだった。アウィンの姿はない。彼の音色も好きだが、リッテのは技術的にも素晴らしい。アウィンの歌と組み合わせたら、どんな歌姫とも張り合えるだろう。集中しているのか、リッテはこちらに気付く様子がない。ルルは普段からあまり足音を立てないのが癖だから、素足に気付かないのも無理もないだろう。ルルはソファに座り、しばらく演奏を楽しむ事にした。
鍵盤から、赤茶色の肌をした指が離される。ルルは数秒間の余韻につぶっていた目を開き、最後の音が消えると拍手した。予想していなかった賞賛の音に、リッテはびくっと肩を跳ねさせて勢いよく振り返る。
「ルル様?! いつからそこに……!」
『途中から』
「き、気付かず、申し訳ありません。しかし声をかけて下されば……。足が痛むでしょう?」
『邪魔したく、無かったの。怪我は旅で、慣れているから、大丈夫だよ。それに動かした方が、早く元に、戻るから』
「そんな脳筋な」
『のう?』
ルルはあまり聞き慣れない言葉に首をかしげる。リッテははっとすると、慌てたように口に手を当てて「お気になさらず」と呟いた。調子を取り戻すように咳払いし、オーアトーンの鍵盤に蓋をする。ルルの前で膝をつくと、失礼して足の包帯を解いた。
「痛みはどうですか?」
『うん。違和感は、あるけど……あんまりもう、痛くはない』
「そうですか。明日には無事に歩けるでしょう。念のため、本日はお休みください」
『……ちょっとも外出ちゃ、ダメ?』
「ダメです」
即答だ。ルルはむぅっとした不服そうな顔をしながら、小さく『はぁい』と返事をした。
足の腫れはいくらか治り、色も紫色から元のように薄青い肌に戻っている。昨日帰ってから、すぐに足をお湯で温めたのが効いたみたいだ。まだ大きく動かしたり体重をかけると、まるで骨が外れているかのような違和感は拭えないが。
「アウィンはアルナイトの工房へ向かっています。アヴィダンが渡した画材の件で」
『そっか、ありがとう』
ルルは新しい包帯を巻き直す足元に落としていた視線を、オーアトーンに向ける。
『さっきの、芸術祭の?』
「え? あぁ、ええ一応」
『そう。とても、素晴らしかった。本番が、楽しみになったよ』
「ありがとうございます。アウィンから、ルル様も音楽がお好きだとお聞きしました。歌われないのですか?」
『ん……歌えないの』
「歌えない?」
『僕の声を、僕は聞けないから』
リッテは単純な言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。ルルの胸で煌めく通話石。それはあくまでも考えを伝えたいと思った相手へ、伝えられるだけ。ルルは頭に文字を並べるだけで、通話石は他者へしか音を伝えないのだ。だからルルは、自分がどんな声で、どんなリズムで伝わっているのか、分からない。
まさかそんな仕組みだとは思わなかった。ルルがあまりにも上手く喋るから、当然のように周囲は、本人も聞こえている前提で捉えていた。
「も、申し訳ありません……。そうとは知らず」
『いいの。とある森の魔女が、言っていたんだ。声が出ないのは、まだ幼いからだって』
それを知ってから、小さなわくわくがある。喉から音を出し、自分の鉱石の耳にも伝わる、その日がいつだろうと楽しみだった。
頭の中でそう言う声は、変わらず言葉を並べただけな単調さなのに、不思議と弾んで聞こえる。声が出ない人物で、こうも楽観的な人物は、そうそう居ないだろう。
『僕は、どんな感じに、笑うんだろうね』
そう言ってふふっと息を漏らしながら、ルルは朝食にと用意された紅茶を、楽しそうに飲んだ。
アウィンが帰宅したのは、ちょうどルルが朝食を食べ終えた時だった。すると「今帰りました」という静かな声と一緒に、元気な声もルルへ飛び込んできた。
「おはよ、ルル!」
ソファに座るルルの首に抱きついたのは、アルナイト。怪我の様子が気になっている彼女を、アウィンが宿に招いたそうだ。それに以前、紅茶を飲みながらゆっくり話がしたいと言った約束もある。疑り深いリッテは、中々に裏表のない彼女に戸惑いを持っているようだが、ルルが嬉しそうに背中に手を回すのを見て、小言は留めているようだ。
今日1日休めば問題ないと知り、アルナイトは安堵に胸を撫で下ろす。
『ごめんね、今日は探索、行けなくて』
「気にすんなって! まだ時間はあるし、元気な時に行かなきゃ楽しくないだろ?」
『うん。ありがとう』
彼女の言う通りだ。万全じゃなければ、何かあった時に対応もできない。
ルルは微笑むように目を優しく細める。だがすぐ、彼女の持つ手提げ袋に視線を向けた。その中から、あまり良くない匂いがする。指で示すと、思った通り中には、アヴィダンから買った画材道具が入っていた。用意されたリベルタ発祥の紅茶の香りに邪魔な匂いだ。
袋から出てきたのは、パレットナイフと数種類の細い筆。そしてこれは道具とは関係ないが、ネックレスも入っていた。リッテも匂いが分かったのか、不愉快そうにガーネットの全眼をしかめている。それはアウィンも一緒だった。しかし彼は画材ではなく、ネックレスに注目している。
アルナイトはこれらに触った事が、幸いジオードから渡されて道具箱にしまった一度だけだった。それもルルからお守りのネックレスを貰ったあと。それからは、ルルの忠告で道具を使わなかった。
『フロゥの様子は、どう?』
「んー……最近煮詰まってたみたいなんだけど、嘘みたいにずっと描いてる。たまに集中しすぎて、ちょっと心配なんだ」
「道具を奪えないのか」
「フロゥの道具箱、鍵がかかるんだ。ずっとフロゥが持ってて、簡単には無理なんだよ」
『……明日フロゥに、会いに行くよ。この道具、少し危険だ』
早い方がいいのだが、それこそこの足を庇いながらでは、何かあった時に対応しきれない。
じっと道具を虹の瞳で見つめるルルに、アウィンがこそっと鉱石の耳に囁く。
「これには例のダイヤは?」
例のダイヤというのは、以前の国で妖精の母を死に追いやったブラックダイヤモンドの事だ。人の行動に大きな影響を与えると言えば、ダイヤの存在に隠れるアダマスの仄暗い笑顔が浮かぶ。しかしルルは静かに目を伏せて首を横に振った。
確かに、この道具から感じる匂いは、意図的に穢れた石によるもの。変哲のない道具だが、黒く塗られた持ち手を作っているのは、数種類の細かな宝石。それらが作用し、人の心に影響を与えているのだ。だが石の中に、ダイヤと同じ匂いはない。かと言っても、完全に関係ないとは言い切れない。もしかすれば、アダマスの入れ知恵から発想した可能性もある。
ふとルルは、横の席に座るリッテから怒りを感じとった。
「こんなものを、同盟国に売りつけていただと……っ?」
「分かりますが、今は落ち着きなさい」
「アルナイト、友にもそなたにも、申し訳ない事をした。今日、あとにでもすぐに問い詰めて」
『待って』
リッテの気持ちは安易に想像できる。同盟を築くのにあたって信用は何よりも重要なもの。アルティアルはその証拠にと、リッテの義足を提供した。それなのに、リベルタからの証拠に連れてきた商人が、まさか呪具のような粗悪品を売っているだなんて。良くて破談、最悪険悪な関係となり戦争に繋がる。
しかしルルは止めた。アヴィダンがわざわざ道具を買わせるのには、混乱と同時に意味がある。そこでリッテは、以前アヴィダンを地下資料庫で見かけた際、聞いた独り言の一部を思い出す。
「そう言えば奴は……『下準備が整った』と言っていたような」
ルルはそれに頷いた。おそらく混乱を招いているうちに、宝と呼ばれる地下の金塊を探すつもりなのだ。これが一体どんな混乱になるかは分からない。だがきっと国民に大きな影響を及ぼし、アヴィダンにとって宝と同時に国の命運も手中にされるだろう。
ルルは暗い色をした自分の唇に、そっと人差し指を添える。まるで内緒話をするように、小さく言葉を並べた。
『だからね、簡単な作戦を1つ、やろう』
それは本当に簡単な事だった。まずこの道具はルルが浄化する。石を丸ごと変えるわけではないから、見た目も変わらずオリクトの民でなければ変化に気付かない。そのままアルナイトには、道具を持ち帰ってもらう。
そしてルルたちも、アヴィダンの企みは気付かないフリをする。そうすれば彼は順調に行っていると思い込み、疑わずに行動するだろう。それを1番近くで見られるリッテが監視し、何か動きがあればルルに報告する。
『これだけ。できる?』
「大丈夫かな」
『もしアルナイトが、道具を使わない事を、尋ねられたら、手に、馴染まなかったと、言って』
「分かった!」
『リッテはアヴィダンが、商品を渡した相手の、リストを確認して。全員のところに、僕が行って、道具を綺麗にする』
それにはアウィンの力も必要だ。念のため、石以外に魔法の仕掛けもあるかもしれないから。
「しかし、それはあまりにもルル様の体に負担です。私も同行いたします。多少ではありますが、浄化の力も残っていますので」
「そうしましょうルル? 1人でやるより、複数でやった方がよろしいかと」
『分かった。そうしよう』
「浄化って、体に負担なのか? 大丈夫か……?」
早速浄化しようと、道具に伸ばした薄青い手を、アルナイトは遮るように包んで心配そうにする。ルルはそれに淡く頬を緩め、空いているもう片方の手で彼女の手に添えた。
『大丈夫。僕の体は、これくらいの穢れは、痛くないから』
「本当か?」
『うん』
アルナイトは信じたのか「そっか」と言って、やっと手を解放させた。
ルルは束ねられた細い筆とパレットナイフを両手で包み込む。穢れは匂いにしては、そこまで深くない。使用していないからだろう。この程度ならば、世界の王の体に影響はほとんどない。
しかし痛みはないが、穢れから来る熱がある。ルルは口付けするかのように口元に近づけ、深く呼吸をする。やがてしなやかな薄青い両手から、淡い光が溢れだした。光と共に、ルルの長い薄紫を混ぜた銀髪が、風を必要とせず揺らいだ。
光はとても美しかった。見ていると不思議と心が落ち着く。本当に、言葉通りに綺麗にしているのが分かった。
閉じられていた虹の目がすっと開かれると、光も収まった。ルルは手に持った筆を見せる。
「お見事です」
正直、人間から見れば変化は全く分からない。だが感嘆しながら頷くリッテの様子からして、完全に浄化できたようだ。
アルナイトは恐る恐る筆を持ってみる。何も起きない。変な感覚もなければ、ただの良質な筆だ。
「次はそれですね。私に任せてください」
アウィンはネックレスを手拭きの上に置き、杖を持ち出す。この細かな彫りが美しい銀のネックレスには、呪術が掛けられている。持ち主の生気を少しずつ奪っていくものだ。持ち主はやがてネックレスの美しさに魅了され、おかしいと気付きながらも手放せなくなる。
隠し武器である杖を抜き、魔術を込めた刃を、言霊を呟きながらネックレスにぶつける。キーンと鋭い音が、長い間響き渡った。言霊を紡ぐ唇が止まると同時に、音はぴたりと止んだ。アウィンはふぅと息をつく。
「これで大丈夫でしょう。ついでにですが、新しい術をかけておきました。人工物なので、ルルのお守りまでとはいきませんが、身を守ってくれますよ」
「ありがとうアウィン!」
『アルナイト、今日フロゥに会ったら、できるだけ、目を、離さないであげて』
「うん、分かった。フロゥの事は、オレに任せてくれ」
『危険な事は、しないでね?』
「もちろん! ルルもな?」
そう言われ、ルルは垂れた目をパチクリさせる。アウィンとリッテからも頷かれ、可笑しそうに笑った息を吐いた。
いつも読んでくださり、ありがとうございます! お待たせしました!
アヴィダンは目利きですが、ルルが見た限りただの人間。騙す事は容易でしょう。心配なのはフロゥです。彼にも、アルナイトを通してお守りを渡していますが、以前の話で筆に魅了されているはず。
ルルの浄化は間に合うのでしょうか。
ちなみにですが、アルティアルでは作業の邪魔にならないよう、食事は基本軽食で、夕食は豪華なパターンです。




