二対の騎士と王
視界は暗く、何も見えない。それでも音は、膜が張ったように朧げだが聞こえていた。どれもハッキリしない中で、唯一痛覚だけが主張してくる。記憶も曖昧だが、自分が生きている事は分かった。
「──様、こちら───ました」
「そう──だ。私が──」
懐かしい声がした。それは夢でも聞く事ができなかった、大好きな姉の声。徐々に体が、痛み以外を伝えてきた。手の平が暖かい。包んでくれているそのしなやかな指は、やはり彼女のものだ。ひと目見たくて、重たい目蓋をこじ開ける。
ボンヤリした視界に、天井が映った。そしてすぐ、煌めく色彩を持った目が覗き込む。
「ルービィ、気が付いたか……!」
そっと頬を撫でられる感覚は確かに夢ではない。そう確信した途端、世界が水面の様に歪んだ。あっという間に涙が器からあふれて頬に伝った。
「姉様!」
ルービィは体の痛みなど忘れて起き上がると、思い切りシェーンの胸に抱き付いた。シェーンもそれに応えてそっと、それでも力強く抱きしめ、静かに震える背中を優しくさする。
「姉様、シェーン姉様……ずっと会いたかったっ!」
「ああ、私もだ。お前とまた会えるなんて、夢みたいだよ」
百を悠に越える時を生きる中で、たった4年がこれほど永く孤独であるとは、誰が想像できただろう。大切な人のためだと豪語したのに、少しも彼女たちと別れる覚悟なんてできていなかった。
2人は離れていた時間を取り戻すように、しばらく何も言わずに互いを抱きしめ合った。全く異なる2つの鼓動が、ゆっくりと合わさっていく。
「そうだ、アダマスは?!」
「今、行方を探しているそうだ」
「そう……。姉様、体は大丈夫? 何もされなかった?」
「ああ、何もされていない。アレも所詮人だ。王だとされる者を相手に、捕獲が精一杯だったんだろう。愚かな人間だ」
「王……」
脳裏に焼き付いている光景が、再び目の前で見ているかの様に思い出させる。これまで見たどんな美しい者よりも美しく、凛々しい姿。確かにルルには普通のオリクトの民──いや、普通の生き物と違う力を感じていた。それでもまさか、神の依代である世界の王だとは思わなかった。
そういえば、彼は無事なのだろうか。途中から記憶がない。国宝の光の強さのあまり気を失ったと聞けば、近くにいた彼の事も心配だ。
『目が、覚めた?』
コツンコツンと、ゆっくりとした足音と頭の声に振り返る。その声音は、表情と同じように優しく安堵しているように見えた。
『体はもう、平気?』
「ええ……ルルも無事で良かった」
微笑むように虹の目が細くなったあと、少し申し訳なさそうに伏せられる。彼はチラチラとルービィを見ながら顔を俯かせ、何か反省するように両手の指を絡めた。
『あのね、えっと……王だって、黙っていて……ごめんなさい。逃げたく、なかったんだ』
これまでにない弱々しい声と仕草に、ルービィはキョトンとしておかしそうに笑った。しかしその鈴のような笑い声は、どこか安心しているようにも聞こえる。
彼女は少し不安だった。もう、今まで接してきた彼とは会えないんじゃないかと、思っていたから。それほどまでに、アダマスと対峙していたルルは別人の様だったのだ。だが今は、先程まで断罪者だったのが嘘のようだ。王という遠い存在ではない。
「ううん、ありがとう。貴方のおかげで、姉様を助けられたわ。本当に、ありがとう」
『怒って、ないの?』
「ふふふ、もちろんよ。ルルはルルでしょ?」
その言葉に、今度はルルが垂れた目を驚いて丸くした。そして嬉しそうに、微かに口角を緩める。
虹の目がシェーンに向いた。彼女も気付くとベッドから立ち、目の前まで歩み寄って跪いた。ルービィとルルはその姿に顔を見合わせる。彼女は目をつぶり、胸に手を置いた。
「世界の王、お会いできて光栄です。我が娘でもあり、妹でもある子を救っていただき、感謝申し上げます。そして……貴方の名を使った事、申し訳ございません。私に罰を言い渡しください」
ルルは目を見開き、ポカンとあっけに取られた。オリクトの民にとって、王は確かに忠誠を誓う相手だろう。しかし今まで生還を喜び合っていたじゃないか。なぜ命をそうも安売りできるのか。
少しムスッとした顔をして、膝を折って座る。気配に恐る恐る頭を上げた彼女は、目と鼻の先にある虹の全眼に驚いて身を引いた。
『僕は、貴方を裁こうとは、思わない』
「え?」
『何故裁くの? 貴方は何故、裁かれようとしたの?』
「そ、それは」
『罰は、罪人のためにある。貴方は、僕やルービィ……そして国のために、自らの自由を犠牲にした。それに、アダマスへ申し出たのは、足止めのためでも、あったでしょう?』
幻と言われる石に良く似た色を持つ、鋭いオパールの瞳が丸くなる。その通りだった。目的は王の心臓を守るためだけではない。アダマスは他にも企みを持っていた。心臓を喰らうのは、あくまでもその目的の1つ。だからこれ以上他国に被害が及ばないよう、閉じ込める目的でもあった。
ルルは無言でいる事に予想が当たったと理解したのか、優しい表情を浮かべる。
『名を借りた? 代わりを演じた? たったそれだけで、貴方は罪人にはならない。賞賛される事は、あったとしてもね。あ、でも少し、怒ってるよ』
「えっ?」
『もう二度と、自分の命を軽率に、投げないで。誰かのためなら、生き残ろうとして。貴方にはまだ、大事な家族が、いるんだから』
家族を失う悲しみは分かっているつもりだ。
シェーンはその言葉に促されるように、後ろで見守っているルービィに視線を向ける。彼女の微笑みはどこか悲しそうで、思わず抱きしめた。自分はなんて事をしたんだろう。守るという建前で、逆に大切な存在を傷付けていただなんて。なんて愚かな偽善を働いたのか。
「すまなかった……本当に」
そっと腕が背中に回され、抱擁を返される。華奢でもずいぶん大きくなった。4年という月日はなんて尊いものだったのか。もう二度と離さない。シェーンの腕は、その誓いに僅かに抱きしめる力を込めた。
紅茶の香りが部屋に穏やかに漂っていた。使用人たちが運んできた紅茶には、傷を癒す効果あるという。紫の水面に、キラキラと砂糖が落ちて溶けていった。
確かに飲んでみると、薬草を食べた時と同じ爽やかな味がした。半分ほど飲むと、僅かに残っていた痛みも鎮まった気もする。
「王、1つお聞きしたい事が──」
『ルル』
じーっと虹の両目がこちらを見つめる。その瞳にシェーンは名で呼ばなければそれ以上話を進ませないという、頑なな意思を感じた。
「ル、ルル様」
『なぁに?』
何事もなく、コテンと幼なげに小首をかしげられて言葉に詰まっていると、隣でルービィがクスクスと笑う。シェーンは咳払いをし、改めて姿勢を正した。
「失礼を承知でお聞きします。アダマスが奴隷として出会い、人間に買われた……と言っていましたが」
『そうだよ』
「おひとりで? それからも、その人間にだけ育てられたのですか?」
『うん』
「いつからそこに?」
『分からない。ずっと、考えているけれど……思い出すのは、最初から牢屋で、僕は奴隷だった』
「他の者が側に居た事は?」
『調教師は、多分居た』
何度繰り返し感覚を思い出しても、やはり奴隷の頃、誰かが触れてくれた記憶は無い。しかも調教師や奴隷商売に関わる人間は誰ひとりとして、触れて来ようとしなかった。動く合図は首枷に繋がった鎖のみ。初めて自分に触れたのはクーゥカラットだ。
シェーンは信じられないと言った顔をすると、悩ましげに考え込む。
「姉様、そんなに1人で居た事がおかしいの? 1人の牢なんて珍しくないわ。セルウスショーでは特に」
「いや、そこじゃない。王が1人でいるという事が妙なんだ」
その疑問にルルはふと、カバンの中にしまった書物の内容を思い出す。
『もしかして、王の隣には、騎士が居るべきなの?』
「騎士?」
「その通りです。王の傍には必ず、二対の騎士が居ます。騎士は、その瞳の片方に王と同じくルルの石を持って生まれます。2人は生涯、王の隣で世界を保つ旅の護衛をするのです。ですからこのような事例は初めてで」
騎士は本来、王よりも先にこの世に生まれる。そうする事で、国宝の再生が近い事を皆に伝えるためだ。そして百年経たずに王が生まれ、それよりも永い時間をかけて力を蓄えて、旅に出る。
王は特別、反発者以外の攻撃から身を守る事はしない。そのため旅路の手助けをする目的で、二対の騎士は存在する。王の育て親は彼らと言っていいだろう。
『大丈夫だよ。クゥや友達に、剣術と足技を、教わったから。まだ、強さは必要だけど。それに騎士は、存在はしているんでしょ?』
「ええ、王が生まれたと共に、存在は絶対です」
『なら、きっと会える。会うべきならば。僕はずっと、旅を、続けるんだから。心配しないで』
確かにルルは歴代の王と異なり、自分の意思で戦う術を持っている。旅の危険はそこまで心配する必要はないかもしれない。
なぜ騎士が隣にいないのかという疑問は残るが、それはすぐ晴らせるものではないだろう。それに彼の言う通り旅をしていさえすれば、何かしらの邪魔がない限り騎士とは巡り会うはずだ。
『王だと知ったのは、旅に出る直前だったの。何か他に、僕が知っておくべき事は、ある?』
「申し訳ありません。王について、私共が深く知る事は禁じられているのです」
騎士の事は本人たちや王にしか分からない。オリクトの民は生まれた頃から王についての接し方や忠誠心を教えられ、それから来る本能に応じるだけだと言う。しかしそうなれば、あの書物は誰が書いたのだろうか。
他にシェーンが知っているのは、1つの重要な事実。しかし──。
「いえ、貴方には不必要でしょう」
ルルの事を見つめて思案していたと思えば、思考を僅かにこぼして首を横に振る。そのまま何も言わずに、紅茶の残りを飲み始めた彼女に2人は目を合わせ、不思議そうに首をかしげた。
扉がノックされる。促されて入って来たのは、メイド服に身を包んだ使用人の1人。彼女は会釈すると、少し楽しそうな笑顔で伝えたい。
「宴の開催式がまもなく整う様子です」
「え、宴の?」
『あ……うん。ヴィリロスがね、台無しにされた分を、取り戻そうって言って、準備をしているんだ。舞踏会もちゃんと、やるの。僕も、国宝の核を探して、支度するから』
ルービィは先日の約束を思い出す。怒涛すぎてすっかり忘れていた。それと同時に覚えていてくれた事に喜びを感じ、頷き返す。この短時間では痛みは完全には癒えないだろうが、踊るのに支障は無い。それにもし片腕が飛んでも、舞踏会には彼と参加したかった。
席から立とうとしたルルをシェーンが止める。差し出された手の平を2人で覗く。両手の器にあったのは、サンストーンとムーンストーンの核だった。互いがまるで半月のような形で、ちょうど合わせると完璧な球体となる。
「動ける者に探させました。どうぞこちらを」
『ありがとう。そうだ……宴前に開催式を、するんだって。その時にシェーンが、僕にもう1度、渡してくれない?』
「よろしいのですか?」
『うん。開催式も、仕切ってほしい。貴方のおかげで、保たれた命も、あるから』
「ありがたくお受けいたします」
シェーンは核を抱くように胸元に引き寄せ、ルルへ深く頭を下げた。




