第88話 最期の願い
私は懐柔の悪魔を見下ろす。
あまりにも弱々しいその姿には陰りが覗いていた。
何もかもを諦めた表情だ。
放っておいても勝手に死ぬだろう。
それほどまでに力を失っている。
悪魔は精神力を軸にする存在だ。
そこが折れた者から脱落し、人格を保った転生ができなくなる。
精神の摩耗は誰にも止められない部分であるため、自分との戦いとも言えるだろう。
真理に到達したり、我に返っても消える場合があった。
最適解など用意されていない中で、自分なりに納得と葛藤と疑問を内包していなけばならない。
懐柔の悪魔はその問答に負けた。
「また一人、古の悪魔が減ってしまう。積み重ねた年月とは無関係に呆気なく転落するのだな」
「あんたが特別なだけだ。名の支配なんてするもんじゃない。いつかは飽きる、からな……調停の悪魔みたいなのが、正解なんだ。使命だけ引き継がせて、さっさと死ぬべきだからな」
"懐柔"は小さな声で愚痴る。
ここで彼女が調停の悪魔を出すとは意外だった。
その行き様を毛嫌いしていた印象があったのである。
死に瀕することで共感できるようになったのかもしれない。
私は彼女に問いかける。
「消滅する恐怖はないのか」
「……正直に言うと怖い。それでも終わりを迎えられることに、感謝している。半端な悪魔にわざと負けたところで、魂まで死ぬことは、ねぇからな」
懐柔の悪魔は嬉しそうに言った。
彼女は咳き込んで吐血するも、呼吸を整えてからじっと私を見た。
「そうだ……あたしの名を、貰ってくれよ。あんたなら、安心して……預けられるだろ」
「不要だ。どちらの名も私には向いていない。次の名はいずれ探すつもりだ」
「ははは……こういう時は、嘘でも優しい言葉をかけて、くれよ」
懐柔の悪魔は力無く笑った。
気丈な振る舞いをする普段の彼女からは想像も付かない姿だった。
悪魔として再起できない領域に達している。
屈託のない笑みを見せる"懐柔"は、どこか人間らしさを漂わせていた。
彼女は、期待と恐怖を膨らませながら懇願する。
「さあ、あたしを殺してくれ」
「分かった」
頷いた私は鉈の切っ先を"懐柔"の胸に刺した。
そのまま刃を沈めていく。
彼女の中に残る僅かな力を吸い取り、魂に決定的な損壊を与えていった。
「ああ……ようやく、終わる」
懐柔の悪魔は安らかな顔で呟く。
彼女の身体は、端から砂になって崩れていくのであった。




