第76話 懐柔の悪魔
私は手から粘液を滲ませると、いつもの鉈に変えた。
意識を戦闘のためのそれへと切り替えながら"懐柔"に尋ねる。
「お前の目的は何だ」
「気にすんな。あんたに話す義理なんてありゃしねぇよ」
"懐柔"は気楽そうに笑った。
その際に鋭利な牙が覗く。
彼女の得意な攻撃の一つが噛み付きだ。
単純な殺傷技としても優秀だが、最も恐ろしいのは、己の唾液を流し込んで相手を術中にはめられる点であろう。
彼女は上位悪魔としての能力と幻惑系の魔術を併用することで、唯一無二の支配力を発揮する。
"懐柔"は軽く伸びをすると、長い舌を見せながら私達に告げる。
「さあ、挨拶はここらでいいだろう。そろそろ殺し合おうぜ」
彼女の言葉を合図に、皇帝と近衛騎士が動き出した。
彼らは一列になって私達の前に立ちはだかると、それぞれの武器を構え出す。
隙だらけの佇まいを見るに、囮として運用するつもりらしい。
あまり油断はできない。
彼らはただの操り人形ではない。
"懐柔"に縛られた悪魔が憑いている状態だ。
中位や下位の悪魔なので能力的にはこちらが強い。
しかし"懐柔"の能力による補正を加味すると、やはり軽視できない存在であった。
(面倒な状況だな。まさか懐柔の悪魔が敵対してくるとは)
彼女は古き時代より消滅せずに同一の自我を保ってきた悪魔だ。
何度か出会ったもある。
暗躍を好む性質だが、無意味な嫌がらせをする悪魔ではなかったはずだった。
(何か目的があるのか?)
そうして疑問を重ねていると、不意に"懐柔"が動き出した。
軽やかな疾走から私に膝蹴りを浴びせてくる。
そこからさらに上体を捻って肘打ちを放ってきた。
私は鉈で防御する。
ついでに彼女の四肢を切断しようとするが、それは紙一重で躱された。
懐柔の悪魔は近接戦闘が得意だ。
その名や魔術師の能力から勘違いしがちだが、純粋に鍛え上げた身体能力だけで、上位悪魔を相手取ることもできる。
戦闘面における才能を持たない私とは大違いだった。
私と"懐柔"が撃ち合う一方、少年は悪魔憑きの人間達と対決していた。
物理的負荷を無視した挙動で攻め立てる悪魔憑きを相手に、少年はやや苦戦している。
ただし、防戦気味ながらも相手の動きを観察していた。
打開策を見い出そうとしているのだ。
少年はこの局面でも冷静だった。
そのことに感心しつつ、私は目の前の悪魔に集中する。




