トイレノオト
ふと便意を催しトイレに向かい、便座に座って目を瞑り、集中しながら用を足す。
不要な物を体内から排出し終え、トイレットペーパーへとおもむろに手を伸ばすも、そこにあるはずのトイレットペーパーは無かった。予備のペーパーはと室内を見回すも1個も無い。まあ仕方がないかと、普段は使わないシャワートイレのボタンを押す。がしかし、水を送り出しているであろうポンプの音が「ブィィィン」と聞こえるのみで、そこからでは見えないノズルから水は出て来なかった。故障したのだろうかと眉をひそめたその瞬間、ある事を思いだした。
『屋上の貯水タンクに問題が発生したため、急遽断水を行います』
そんな案内が社内メールで回っていた。私は「まさか」と直ぐに「流す」ボタンを押した。だが「ガポっ」と音がしただけで、水の流れる音は聞こえない。恐る恐る中腰になり便器の中を見てみるも、そいつは流れる事無く底にいた。
私が勤める小さな会社が入居するビルのそのトイレ。決して大きくは無い古い雑居ビルのそのトイレ。1フロアに1つづつしか設置されていない男女兼用のそのトイレ。タンクトイレであれば1度は流す事が可能であろうが、それは節水の為なのか何なのかは不明なれど、ここのトイレはボロい雑居ビルのくせしてお洒落なタンクレストイレ。私は紙も水も無く、流す事も洗う事も拭く事も出来ないという、現代では稀な状態に追い込まれた。
排出時の感覚からそれは柔らかく、出口にお土産が残っているであろう事が予想された。そんな状況の中、私の脳裏にあらゆるオプションが駆け巡る。
このままパンツを履いて知らんぷりを貫き通す。とはいえお土産が残っている事を無視出来るだろうか。勇気があれば可能ではあろうが、きっと時間が経てば、私の下腹部からは芳醇な香りが立ち上るであろう事は想像に容易い。周囲の人間もその匂いにきっと気付く事だろう。換気の為だと言って窓を全開にすれば何とか誤魔化せるだろうか。だが問題はそれだけでは無い。パンツだけでなく、ズボンにまでお土産が染み込んでしまうかもしれない。黒いスーツであれば見た目は誤魔化せそうではあるが、今日のスーツは明るいグレー。色合い的にも目立つ事は必然。それを見せないようにするには不自然な歩き方をしなければならない。就業中は何とか誤魔化せたとしても、帰宅時の問題が残る。駅へと向かって歩く際、誰にも背を見せずに歩くというのは困難である。それを実行するとなれば、とりあえず終電ギリギリまでは何処かに隠れ、闇夜に紛れて駅へと向かうという作戦が考えられる。だとしても問題は残る。駅のホームに於ける立ち位置や電車への乗り降りと様々な困難が待ち構えている。そして最後の大問題。私の産み出したそいつが便器の底に居座っている。電気は生きている為に脱臭機能が働いてはいるが、実体その物が消える訳では無い。その脱臭機能も蓋を閉じれば数分後には自動でオフとなり、その後は芳醇な香りが蓄えられ、次に誰かが蓋を開けたとなれば、それが見つかると同時に芳醇な香りがその部屋中に放たれる事は必至である。いくら知らん振りをしても直ぐに犯人探しが粛々と行われ、すぐにでも私が入った事がバレるだろう。それが男の同僚であれば何とか笑いにして誤魔化せるかもしれないが、次に入るのが「掃き溜めに鶴」といったアノ子であるなら最悪だ。その子の黄色い歓声が小さなフロアへと響き渡り、私の生み出したそいつを男女問わず皆が見るという最悪の光景が目に浮かぶ。故にその選択は出来ない。
では全神経を集中させ、聞き耳を立てつつ人がいないのを見計い、パンツを降ろしたままにトイレの外へと出て、自席に戻ってティッシュを調達するというのはどうだろうか? いやいや、何の特殊な訓練も受けていない一般人である私にとって、それはミッションインポッシブルと言えるだろう。そもそもどれ位のお土産が付着しているかも分からない。万が一にも想像以上の大物が残っていたとしたら、地雷とも言えるそれがポトリと落ちてしまうかもしれない。更にその瞬間を見られたとしたら、私の居場所がこの国から無くなるかもしれない。いや、世界の何処にも無いかも知れない。
恥を忍んで男の同僚を呼ぼうとした物の、急いでいた所為もあって携帯電話は手元に無い。仕事も詰まっている事もあって直ぐに出して戻ろうとしていた為に持って来るという考えはなかった。小さいフロアは男女共用のトイレが1つしかなく、女性社員が来るかも知れないが為に、誰かが来るまで待つという運に掛けるという選択肢も無い。どちらにしても急がなければならない。
私は既に用を足し終えてはいたが、便器に座りながらに両肘を膝につき、俯きながらに頭を抱えていた。ふと訪れた終焉。存外、世界の終焉とはこうしてあっさりと訪れるものなのかもしれない。
ふと「ガボガボ」と遠くで音がした。何の音だろうかと思ってハッとする。私は即座に「流す」ボタンを押してみた。すると、便器の中から「ジャー」という音が聞こえた。私は再び中腰に、首を後ろに便器の中を覗いた。その中では美しいとも言える水流が見事なまでに渦を巻き、私のそれを飲み込んでいった。私は便器に座るとシャワーボタンを押した。すると「シャー」という水の音と共に、私の股間後方へと暖かい水が撫でるようにして掛けられた。水を司る女神が『よく頑張ったわね』と、そんな事を言いながら股間を撫でてくれているような錯覚に陥る程に、シャワートイレは私に幸せを与えてくれた。
唐突にして世界の危機が訪れたと思った矢先、案外あっさりと平和が訪れた。世界は何と不安定な物だろうかと実感する。
結局私は30分という長い間トイレに入っていた。いや、籠っていた。結局ペーパーで拭く事は出来ず、股間が濡れたままにパンツを履いたせいもあり多少湿っている気もするが、緊急事態に於いては十二分に看過出来るレベルである。
素知らぬふりして自席へ座ると、同僚達がニヤニヤしていた。
なるほど、仕組まれていたとは言わないが、全員が私の状況を共有していたという事か。なるほどな、断水なのにトイレに向かった私を笑っていたという事か。そしてそんな私を嘲笑を以って迎えたという事か。流石にペーパーまで切れていたというクリティカルな状況が発生していたとは誰も気付いていない様子だ。しかし一番残念なのは、私の斜め向かいに座る「掃き溜めの鶴」の彼女もクスクスと笑っていた事だ。
とはいえ、結果から言えばベターと言えるだろう。若しかしたら股間にお土産を残したままにパンツを履き、更にはアレを便器にそのまま残すという最悪の未来もあったのだ。そう考えればこの位で済んで良かったと、被害を最小限に抑える事が出来たと言えるだろう。
今回の件、これは私にとって水の有難みを体を以って知るという、大変に貴重な体験が出来たと言えるだろう。もしかしたら科学の進み過ぎへの警鐘を私に与えるという、神の啓示とも言える出来事だったのかも知れない。とはいえ、神の啓示であっても聞く耳を持つ気は更々無い。むしろ科学をより発展させ、今回の様な重大インシデントが起こらないようにして貰いたい物である。ひょっとして、その啓蒙活動を私にしろという啓示なのだろうか。だとしても、やはりそんな事をする気は更々無い。
兎にも角にも私は今日の事を胸に刻み、今後このような事が起こらないよう周囲に目を配り、与えられている情報に留意し、注意しながら生きていこうと思う。
2020年04月13日 初版