1章 夜の来訪者
瀬戸内海に浮かぶ島の一つ、因島。
少子化に伴って過疎化が進むこの島で、日々銭湯の番台に座り続ける少女がいた。
「今日も、お客さんは近所の常連さんだけ、と……完全に赤字だわ」
台帳を見つめる少女の顔はさえなかった。
それもそのはず、見事な赤字だった。
都会にあるようなスーパー銭湯ではない、昔ながらの地域密着型の銭湯だ。
各家庭に風呂ができただけでも経営は苦しくなったのに、過疎化まで進んでいてはなおさらだ。
「お~い、湯子、今日はそろそろ閉めて飯にしようや」
マッサージ機に座った初老の男性が、うちわで顔をあおぎながら声をかけた。
「もう、お父さんは呑気なんだから! このまま赤字が続いたら、借金生活になりかねないのよ!」
「その時は、この土地を売ってしまえばいいわい。それでも十分、お前を大学に行かせてわしの老後を賄うくらいにはなるだろうよ」
台帳を手に熱弁する湯子をよそに、父親の態度はのんびりしたものだった。
慣れた手つきで暖簾を外し、『本日終了』と書かれた札を出す。
「まったく……まあ、この時間じゃ誰も来ないわよね」
これが、ここ数年の銭湯『玉の湯』の現状だった。
銭湯経営を仕切っていた母親は数年前に病気で亡くなり、会社員を辞めてその後を継いだ父親も、一人娘に苦労をかけてまで維持するつもりはとうになく、娘の養育費と老後の計算を始めている。
今年高校一年生になった娘の玉野湯子は、朝早く起きては風呂の掃除をし、湯をため、家に帰ってからは番台に座り、家計に悩む日々だ。
(お父さんはああ言っているけど、本当はお母さんの思い出が残っているこの店は残したいはずだもの)
安定した仕事を辞めてまで、慣れない銭湯の営業を続けることに決めたのだ。
愛着がないわけがない、というのが湯子の考えだったし、それは彼女自身も同じだった。
「……とはいえ、お店と心中するわけにもいかないし、ウチの学費や進学だって確かに問題よね」
小さな頃から母親の手伝いをしてきた湯子だが、学業との両立は大変なのも事実だ。
『それでは、次のニュースです』
ぐるぐると考え込んでいた思考を、聞こえてきたニュースが断ち切った。
『ここ一ヶ月ほどで、瀬戸内海の水位が下がっていると一部の研究者から発表がありました』
「へ~。温暖化で海面上昇ってのは、問題になっていたけど……」
『地元の漁師の方々の間では、漁に影響するのではないかと悩みの種になっております』
「ウチら島に住んでる人間にとっても他人事じゃないわね。あっ、でもこれが話題になって瀬戸内海に人が集まれば利用者も増えるかも……」
と、淡い期待を抱きかけた湯子だったが、
「なんて、甘くはないわよね。人がたくさん来ても、ホテルに泊まられたらお風呂があるわけだし。それに詳しいことはわからないけど、水面が多少下がったくらいで人が集まるわけないじゃない。しまなみ海道ができて、サイクリングブームになってもダメだったんだから」
ニュースでも、水面の低下は今すぐ環境に影響を与えるものではなく、潮の満ち引きの影響や、海流の乱れによって起こった一時的なものだろうとの見解を発表している。
妙な期待をするよりも、今日の宿題を早く済ませてしまわないといけないのを思い出した湯子は、さっさと食事を済ませにかかる。
「あ、お父さん。ビールは缶で2本までだからね」
「むう。そういうところはお母さんそっくりになってきたなぁ」
家計が厳しいのだ。
切り詰められるところは、しっかり切り詰めないといけない。
明日の湯子のお弁当だって、この晩御飯の残りを詰め合わせることになっている。
「あとは、料理の腕さえまともだったら、嫁の貰い手も心配ないんだが……」
「そこ、財布を握っているのはウチだってことを忘れないように」
料理担当の父のいらない一言を封じてから、さっさと食事を済ませた湯子が部屋へ戻ろうとした時、めったに鳴らない閉店時用のインターホンが鳴った。
「ん? こんな時間にお客さんか?」
「あ~、お父さんは待ってて。お客さんだったら、ほろ酔いで相手するのは失礼でしょ」
もっとも、ご近所さんが裏口に回るのを面倒がっただけだろう、と湯子は内心予想していたが。
それでも、お客が来ることを期待しなくなったらおしまいだ。
入浴希望のお客さんだったら、まだ湯も抜いていないし短い時間なら開けてもいいかも、と考えながら鍵を開けると、そこには今の状況には似つかわしくない格好の男が立っていた。
「失礼。こちらは玉の湯さんで間違いないかな?」
「はい、そうですけど……」
夜とはいえ蒸し暑い夏に、グレーのダブルのスーツをしっかり着込み、ネクタイまでしっかりしめた三〇歳前後の男だった。
荷物は何もない。
この島の人間ではないのは雰囲気から明らかだが、ただの旅行者でもないようだ。
「では、君が玉野湯子さんで間違いないかな?」
「ええ、ウチですけど」
(な、何者かしら、この人……。犯罪者とかには見えないけど、普通の人でもないような……そう、警察とか公安とかの捜査官みたいな)
彼女が思っているイメージは完全にドラマのものであって、本物はそんなに目立つ雰囲気を醸し出してはいないと思うのだが、逆にそんな雰囲気を持っていること自体が、この男の異様さを際立たせていた。
「私はこういう者だ」
『国土交通省 特殊事案対策官 金戸政治』
「……はあ」
(『金と政治』……いや、ウチも人のことは言えないけど、この人が名は体を表すだったら、嫌だなあ)
失礼極まりないことを口に出すのはどうにか我慢しながら、視線で先を促す湯子。
「ニュースで既に知っているかもしれんが、現在、瀬戸内海の水位が下がってきているのだ」
戸惑う湯子にはお構いなしに、淡々とした口調で話す金戸。
「ええ、そうらしいですね。でも、それで何でウチのところへ?」
「それはだな-」
ここで初めて会話に間を作ると、
「実は、瀬戸内海の栓が抜けたのだ」
「はい?」
とんでもないことを口にした。
湯子も言葉が続かない。というか、これ以上どんなリアクションをとったらよいのかわからない。
(今の、何? 冗談? 聞き間違い? それとも、役人のふりをした怪しげな宗教の勧誘?)
ありとあらゆる可能性を考えていると、金戸が先回りして言葉を続ける。
「念のために言っておくが、私がさっき言ったことは冗談でもなければ、君の聞き間違いでもない。役人を装った新興宗教の勧誘でもなければ、自然破壊を憂うあまりに発狂した自然崇拝主義者でもない」
おまけに、さらにぶっ飛んだ発想の可能性も先に潰された。
金戸は一枚の写真を差し出してきた。
どうやら、水中で撮られた写真らしく、ライトで照らしてはあるものの、かなり見づらい。
ただ、写真中央に写っている水の流れは見慣れたあるものに似ていた。
「何です、この写真? まるで、ウチの銭湯の栓を抜いた時みたいな水の流れが―」
そこまで言って、思い当たった。
「よくぞ一目で見抜いた。流石だな。そうだ、この写真に写っているのは、瀬戸内海某所の海底だ。さっきも言ったが、抜けたのだよ。瀬戸内海の栓が」
「……最近のCGは良くできてますね」
「CGではない」
あまりにも堂々とした主張に、湯子の自信の方が揺らいできてしまった。
どうしたものかと迷っていると、心配した父親が奥から顔をのぞかせた。
「おーい、湯子。いったいどちらさんが何の御用だったんだ?」
「お父さん、この人が瀬戸内海の栓が抜けたって、あれ?」
父親の方を振り向いた一瞬の間に、金戸は姿を消していた。
残っているのは手元の写真のみ。
「誰もおらんようだが」
不思議そうに首をひねるのも無理はない。
荒唐無稽過ぎて、全て夢だったと言われた方がよほど納得できる話だった。
「ねえ、お父さんはこの写真どう思う?」
「うん? この写真がどうかしたのか?」
父親には、写真に写っている水の流れは感じられないようだ。
それもそのはず、母親が生きている頃から銭湯の手伝いは湯子の仕事だった。
今も責任者こそ父親だが、細かい部分の管理は湯子が行っている。
こんな薄暗い海底の写真、しかも、栓が抜けて水に流れができているなんて思いもしない場所の写真からでは、思い当たるはずもない。
改めて写真を見る。
湯子には何度見ても水の流れが見えていた。
細いながらも、下向きに引き込む流れの渦がそこにある。
「よくわからんが、そろそろ戻ろう。鍵も閉め忘れるなよ」
「あ、うん」
いつもの湯子なら、夜出歩く人もいないこの島で、そこまで気をつけなくても……と思うのだが、その日ばかりはしっかりと鍵を確認して床に就いた。