254話 助けられた証明
「──〝天光の大魔導士〟……」
「はい。分不相応極まりない身ですが、そう呼ばれています」
「──っ」
ポツリと零れた翡翠の呟きに、天光の大魔導士である彼女は、抑揚のない口調で謙遜を口にする。
言葉だけを聞くと社交辞令のようにも思えるが、その何の感情を見せない緑の瞳から本心の言葉であることが窺えた。
──だが、翡翠には酷く癪に障った。
歴代最強と呼ばれるだけの実力があるのにも関わらず、どうして分不相応などと口にするのか……それだけの力があるなら、どうして美沙を助けてくれなかったのか……。
自分の無力さを呪うが故に、彼女の態度がとても気に入らなかった。
「それで、何をしているのですか?」
「何って……そ、それより、どうしてここにいるの?」
止められた手前、自殺をするためとは咄嗟に口に出来ず、何故屋上にいるのかと、わざとらしくも話題を逸らす。
そして、今になって人と話すのは久しぶりだと気付く。
そんな僅かな動揺を気付かれないに、平静を保とうとする。
幸い察せられていないようで、天光の大魔導士はなんてことのないように答えた。
「今日の昼頃に唖喰と交戦したのですが、その際に負った負傷を治すために、しばらく入院するように初咲支部長より命令されたからです」
「聞きたいのは、なんで病院にいるのってことじゃないんだけど……」
微妙に質問の意図を汲み取れていない返答に、翡翠は思わずそう呟く。
怪我をしていることくらい、相手の左腕に巻かれたギブスを見れば一目瞭然であった。
同時に、恐怖も感じる。
彼女程の魔導士であっても、唖喰相手に腕一本の負傷を免れないことがあるのだと驚愕を隠せない。
実際には、彼女は自身の負傷より敵撃破の効率を優先した特効を繰り返し続け、それを見兼ねた初咲が厳命を下したのだが、本人に懲りた様子はなく、魔導器を取り上げられたのが現状だった。
そうとは知らず唖喰への脅威だけを受け取る程には、天光の大魔導士は有名な人物なのである。
「なるほど、そういう意味ですか」
一方、翡翠の質問の意図を察した彼女は、やはり気にしていない様子で答える。
「中々寝付けず、ここで夜風に当たっていた際に魔力の動きを感じ取ったので、見渡してあなたの姿を見掛けたからです」
「え……それ、だけ……?」
「そうですが?」
「……」
なんとも、反応に困る理由だった。
彼女は翡翠の自殺を止めようとして、止めたわけではなかったのだ。
そんな理由にも関わらず、四メートルはあるフェンスを片腕を使えない状態であっさりと越えたことにも、呆れを感じる他ない。
天光の大魔導士は、中々に常識外れな思考の持ち主だという印象を抱く。
「それで……あなたは何をしようとしているのですか?」
「う……見て、分からない?」
「車椅子に乗ったまま、飛び降りようとしていることしかわかりません」
「……それ以外あるように見える?」
「見えませんね」
「……」
──なんなんだこの人は……。
予期しない形で実現した最強との邂逅は、僅かな会話だけで翡翠にそう思わせた。
こんな浮世離れした人が自分を含めた全ての魔導士より……美沙や美衣菜の頂点なのかと、失望にも似た感想を抱く。
付き合ってられないと、翡翠は後ろに立つ彼女を一瞥し、前に向き直す。
「──と、とにかく、そういうことだから、邪魔しないで……」
「はい、分かりました」
「え……?」
自分を止めるなと告げたのだが、返ってきた言葉は翡翠が全く予想していなかったものだった。
どういうことだと振り返るものの、当の本人は変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。
「……とめ、ないの?」
「一度止めてもなお、あなたがそうするというのであれば、事情を知らず、関わりのない私が止める権利など無いのでは?」
「そ、それは……」
この少女に止められるまで、本気で死のうとしていたはずなのに、何故か彼女の緑の瞳に見つめられると決意が鈍ってしまう。
まるで、自分が責められているような錯覚を抱くのだ。
「止めてほしいのなら、話は別ですが……」
「い、いらない!」
思ってもいないことを口にするなと、翡翠は拒絶する。
人と話している気がしない、ある種の不気味さを感じながら、翡翠は車椅子を進める。
すぐそこの僅かな段差を越えれば、翡翠の望みは叶う。
「──うぅ……」
だがしかし、自分一人ならいざ知らず、人に見られながら飛び降りるのは憚られるように思えた。
「あの……見てないでどこか行ってよ……」
「先程言った通り、私は夜風に当たりに来ただけですので、あなたを止めたりしません。どちらにせよお好きにどうぞ」
「なに、それ……」
彼女の言葉に、翡翠はホトホト呆れる。
何故なら、彼女のしていることは見殺しに等しい行為なのだ。
普通であれば、何をしようと止めるはずなのに、まるでそんな常識的な思考を知らないかのようで……。
──なら、自殺をしようとしている自分はなんなのか?
「──っ!」
不意に、翡翠の胸中に迷いが生まれる。
あと一歩踏み出せば、すぐに美沙に会える……なのに、ここに来て少女はこれで良いのかと思ってしまった。
──そんなことない……わたしは、おねーちゃんに会いに行くんだ……。
そう自殺する目的を思い出し、翡翠は視線を落とし、六階建ての病院の屋上から地上を見下ろす。
底が見えない暗闇が視界に映り込み、吹き付ける夜風に煽られれば、すぐにそこへ落ちていきそうな気がして……。
「──ヒィッ、や、あぁ……」
……怖じ気づいた。
事此処に至って、翡翠は自殺を躊躇った。
その思いを表すように、越えるはずだった段差から距離を置くように後方に下がる。
「ハッ……ハッ……」
浅い呼吸を繰り返し、ドッと冷や汗が小さな背中に噴き出る。
ガタガタと体の震えも止まらない。
「飛び降りないのですか?」
「……」
背後でその様子を見ていた天光の大魔導士が、顔を青褪めさせる翡翠に尋ねる。
だが、何も答えられない。
一度生じた迷いが、諦念に駆られた翡翠を責め立てる。
「──どうしたら、いいのか……分からない……」
「……」
堪らず、己の迷いを口に出すが、後ろの少女は何も返さない。
それでも、翡翠の口は自らの心内を言葉にして紡ぐ。
「おねーちゃんはわたしの代わりに死んじゃったのに、その命を捨てていいのかなって……でも、おねーちゃんがいないのに、ひとりぼっちで生きるなんて、苦しいよぉ……ひくっ、辛いよぉ……ぐすっ、やだよぉ……」
話している内に、枯れたと思った涙がまたポロポロと零れる。
もう、自分が何を望んでいるのか分からず、泣くことしか出来ない。
「あなたにはお姉さんがいたのですか?」
「ぐすっ……うん……血は繋がってないけど、それよりずっと大好きで……わたしの教導係も引き受けてくれて……でも、怪我をしたわたしを守るために……うぅ……ああぁぁっ……」
思えば、誰かに今の自分の気持ちをハッキリと告げたのは初めてだった。
比嘉也の前では不貞腐れ、昔からの友達に魔導と唖喰の話は出来ず、今の今まで溜め込んで来た孤独を吐露する。
「家族が、あなたの代わりに……」
嗚咽混じりに泣く翡翠が明かした、亡くなった姉との関係に、天光の大魔導士は心当たりがあるのか、自分の知らない魔導士が少女の身代わりになった事実を反芻する。
そうして何を思ったのか翡翠の前に回り込み、目線を合わせるために屈む。
「──私の母親と同じですね」
「え……?」
唐突に告げられた言葉に、翡翠は目尻に涙を浮かべながら顔を上げる。
依然として彼女は無表情だが、ゆっくりと続きを語る。
「母は──いえ、母だけでなく父も私が六歳になる年に、唖喰に喰い殺されました」
「──っ!?」
淡々と語られる過去に、翡翠は驚いて目を見開く。
美沙や自分と同じく、最強の魔導士と呼ばれる彼女も、家族を唖喰に殺されていた。
それも六歳という、自分の両親が離婚する前の、家族が一つだった頃と同じ歳で……。
「その時、私はたまたま用を足すために車を降りていました。唖喰は最初に父を食べて、母は私を連れて走りました……ですが、追い付かれて、あの人は自分の身を犠牲にして私を庇った」
少しだけ、彼女の緑の瞳に哀しみが過ったように見えた。
それでも、最強の魔導士は顔色を変えることなく続ける。
「母は、死ぬ直前、私に言いました──『絶対に生きて』と」
「生きて……?」
「それから運良く助かった私は、あの人の遺言通りに『生きる』ことにしました」
「矛盾、してない……?」
生きるためなら、何も死の危険が身近な魔導士にならなくても良かったのではないか……そう問い掛けるも、やはり彼女は表情を変えず平然と語る。
「でしょうね。ですが、それ以外に自分の力を活かせる場がなかったのも事実です」
「……唖喰が、もし自分が死んだらって……怖くならない?」
「思わなかった訳ではありませんが──慣れました」
「──っ」
本当に同じ人間なのだろうか?
彼女の言葉を聞く翡翠は、そう思わざるを得なかった。
自分が怖くて堪らない事柄を、思わなかった訳ではないと言いながらも、慣れたの一言で済ましてみせた魔導士に、戦慄を感じる。
「あなたのお姉さんがどんな人だったのか、私には分かりません……」
「──っ!」
見下す訳でもなく、ただ事実を述べた彼女に翡翠は手に力が籠る。
あれだけ強かった美沙を知らないと言われ、憧れを持つ少女がいい気分になるはずがなかった。
だが、その不満も次の言葉で霧散する。
「──ですが、その人はあなたに生きて欲しいから、自分の身を犠牲にしたのではないのでしょうか?」
「──ぁ」
その言葉は……今まで空だった翡翠の心に波を立たせた。
今まで自分を責めるだけだった少女の頭に、別の見方が示される……。
──わたし……自分のことばっかりで、おねーちゃんがどうしてそうしたのか考えてなかった……。
開かない扉がスッと開くように、暗闇に沈んだ心に光が当てられたと思える程、翡翠の目に輝きが戻る。
「あくまで私の憶測なので確証は出来ませんが、後はその人ことをよく知るあなた次第だと思います」
「あ、待って!」
そう言って、天光の大魔導士は立ち上がって去っていく。
だが、翡翠は咄嗟に彼女の手を取って制止を呼び掛ける。
「なんでしょうか?」
「えと、わたし……天坂、ひ、すいって言います……お姉さんの名前は、なんですか?」
「私の名前、ですか?」
返された質問に、翡翠は首肯する。
相手が天光の大魔導士だと知ってはいるが、よくよく考えれば彼女の名前を知らなかったのだ。
何の偶然か、こうして彼女と言葉を交わし、あまつさえ自分のことばかりで見失っていた美沙の気持ちを思い出させてくれた、恩人の名前を知りたいと思っての質問に、彼女は……。
「──並木ゆずです」
彼女──ゆずは少しだけ、口元が笑みを浮かべたように見える表情で名乗った。
「あ、ありがとうございます……ゆじゅ……しゅず……」
彼女の笑みに見惚れつつ、名前を呼ぼうとして噛む。
美沙と出会う前からの癖が出て、どうしたものか困ってしまう。
苗字で呼ぶのはなんだか嫌だと思えて、何とか噛まずにゆずのことを呼べないか考える。
『──ひーちゃん、って呼んでいい?』
「あ……」
──かつて、美沙が自分に対するあだ名を付けた時のことを思い出して……。
「──噛んじゃうので、ゆっちゃんって呼びますね!」
「はい、お好きにどうぞ」
「はいです」
こうして、束の間の邂逅は幕を閉じ、翡翠はゆずと別れて病室に戻った。
車椅子からベッドに戻り、改めて自分がどうするべきかを考える。
「わたしは、おねーちゃんみたいになりたい……」
そう呟くと、スッと胸に入った。
誰にでも笑顔を向け、仲良くなることが出来た大好きな人のようになりたいと願う。
唖喰はまだ恐いから、戦うのは難しい……しかし、それ以外ならすぐにでも出来るだろう。
──まずは笑う練習をしよう……おねーちゃんみたいに、たくさんの人を笑顔に出来るように、ちゃんと笑えるように……。
──リハビリも一生懸命にやろう……しっかりとした体がないと、おねーちゃんみたいに好きな人に抱き着くことも出来ないから……。
──『わたし』を、『ひーちゃん』って呼ぶようにしよう……誰も呼ばないなら、自分で呼ぶようにすればいい……。
──舞川美沙という少女が、命に代えて守ってくれた命で、おねーちゃんがいたんだって、ひーちゃんを助けたんだって、助けられた証明をするんだ……。
そう胸に決意を宿しながら、翡翠は瞼を閉じて眠りにつく。
悪夢を見ることなく、久しぶりにぐっすりと眠れた。
代わりに見た夢の中で、美沙が笑ったように見えて、その笑顔に応えようと誓いを立てる……。
──おねーちゃん、ひーちゃんは頑張るよ……。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
次回は5月17日に更新します。
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