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230話 恐いくらい優しい人


 ──どうして、あんなことを言っちゃったんだろう。


 司と口論になって走り去った翡翠の胸中に浮かんだのは、そんな疑問だった。

 

 天坂翡翠にとって、竜胆司の生き様は本当に眩しいものだ。


 自分が未だに拭えない恐怖を覚える唖喰という、気味の悪い怪物相手に同じように恐れはしても、逃げもせずに立ち向かう強かさ。

 自分が絶望に暮れた、唖喰の絶滅が出来ないという残酷な事実を知って尚、折れない意志の在り方。

 

 彼が何か行動を起こす度に、翡翠の知る人物は大きく変わっていった。


 日常に疎く、誰とも関わろうとしなかった並木ゆずを、普通の女の子のように変えた。

 自分と同じように、自尊心が極端に低い柏木菜々美を、前向きにさせた。

  

 聞きかじりではあるが、フランス支部の最高序列第四位〝聖霊の歌姫(ディーヴァ)〟を取り巻く事情の解決に大きく貢献し、その騒動に巻き込まれた自分より経歴の浅いルシェア・セニエを救ったのだ。


 魔導士・魔導少女と唖喰の戦いにおいて、極稀に魔力を持って生まれてもあっても操れないため、戦力外とされやすい男性でありながら、彼は誰よりも魔導士や魔導少女のために心を砕いている。


 ──ひょっとしたら、自分も……。


 そんな淡い期待が翡翠の中に生まれていた。

 だから、司が体育祭の自主練の手伝いを買って出てくれたことも、彼から声を掛けてくれたことも、とても嬉しかったはずなのに……。


 なのに、気付けば怒鳴ってしまっているではないか。

 理由は翡翠自身にはちゃんとわかっていた。


 恐れたのだ。

 自分の罪を糾弾されるのが。


 ──ごめんなさい、ごめんなさい。


 翡翠は心の中で謝罪の言葉を述べる。

 何度も何度もぶり返す後悔の波に、押し潰されそうになる心を支えるように手を添えた。

 

 特に司と関わるようになってからはそれが顕著に現れている。


 おねーちゃんが死んだ代わりに生きている自分が、翡翠にはどうしても許せないでいた。

 魔導士になると言った時、おねーちゃんが止めてくれたのに、その制止を振り切ってしまったせいだ。

 普通の女の子として過ごしていれば良かった。

 憧れに近付こうとして、その憧れを自分のせいで消してしまったから。


 既に司に知られている以上、これ以上知られて『お前のせいだ』と糾弾されるのが怖くて堪らなかったのだ。


「はぁ……はぁ……」


 やがて、翡翠は足を止めた。

 今いる場所がどこかは分からない。


 何せ、辺りを見渡しても見えるのは木、木、木……。


 同じ景色だと迷子になってしまうのは明らかだった。


 が、迷子になる心配はない。

 探査術式を使い、司達の生体反応がある場所へ行けばいいのだ。


「探査術式、発動」


 翡翠は、前髪を留めている白い羽根型の魔導器を起動して、探査術式を発動させた。

 少女の瞼の裏に、ソナーのような画面が映し出され、司達の生体反応のある位置を確かめる。


「あ……」


 だが、実際に映し出された反応に、翡翠は小さく息を漏らした。

 まず一つは、四人で固まっている反応から飛び出ている反応が一つだけあったこと。


 探査術式に個人を特定する機能はないものの、翡翠にはその反応が司のものだと分かる。

 嬉しさ半分と困惑半分といった複雑な心境だが、それでも司が自分を見捨てるつもりがない、ということだけは良く分かった。


 だが、そんな気持ちを霞ませる程に、翡翠はもう一つの事実に目が離せないでいた。

 

 ──いるのだ、あの悍ましい怪物の反応が。


 ポータルが現れていないことから、はぐれであることは明白だった。

 たったの五体。


 その五体のはぐれ唖喰が、ゆっくりと自分のいる地点に寄って来ているのだ。


 だが、翡翠の両足は縫い付けられたように動けない。 

 それどころか、ガクガクと震えてロクに力も入らないでいた。

 

 これでは、戦う事はおろか、逃げることも叶わない。

 

「あ、あぅ……」


 恐い。

 恐くて堪らない。

 翡翠の脳裏に、唖喰に下半身を食い千切られた瞬間がフラッシュバックする。

 否、もっと少女の奥底に秘める絶望──大好きだったおねーちゃんが亡くなったと知った時の虚無感を思い出した。


 何も出来ないまま、何より大事な人を死なせてしまった。

 それは少女の心に深々と刻まれた、罪の意識だ。


 唖喰に対する恐怖と罪の意識に板挟みになり、自分がどうするべきか迷っている内に、はぐれ唖喰の生体反応はどんどん近付いて来ていた。


「シャアアアア!」

「グルルル」

「シュルル……」

「ヒィッ……!」


 そして、とうとう肉眼で互いを捉えられる距離にまで迫ってきた。


 五体のはぐれ唖喰……ラビイヤー一体、イーター二体、シザーピード二体。


 唖喰が翡翠を食料として見ていない、無機質な視線を向ける。


 たったそれだけで、天坂翡翠という小さな魔導少女にあったなけなしの戦意は、霞のように霧散した。

 その証拠に、少女は両足の力を完全に失くし、その場に尻餅をついて座り込んでしまった。


 特に、シザーピードはダメだ。

 別個体とはいえ、母親を食い殺し、自身の下半身を食い千切り、おねーちゃんを殺した唖喰相手には、三重苦の恐怖を否応なしに感じてしまう。


 ──いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 ──こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。


 声にも出ない程に弱々しい現実逃避を、虚しく胸の中で浮かべるだけで、魔導装束を身に纏う事すら出来ずに、ガタガタと震えるしかなかった。


 文字通り好の餌となった翡翠に、唖喰は大口を開けて近付き、少女はせめてもの抵抗として頭を抱えて蹲る。


「シャアッ!」


 そうして、痺れを切らした一体が飛び掛かり……。




 ──パァン!




「シャブッ!?」

「ぁ……」


 森林に似つかわしくない破裂音が木霊し、ラビイヤーが悶える声が聞こえた。


 ザッザッ、と小さくなって蹲る翡翠を守るようにして、立ちはだかる人物がいた。


「──つっちー……」

「あぁ、やっぱり追いかけて良かったよ」


 先程怒鳴ったことなど全く気にしていない穏やかな声音で、彼は翡翠の無事に安堵していた。

 司の持つ魔導銃の銃弾をを受けたラビイヤーが、体を痺れさせていることに他の四体は警戒心を露わにし、露骨に距離を取りだす。


 それは唖喰を倒す手段を持たない司にとっては、これ以上ない幸運だった。


「ったく、こんなところにはぐれがいるとか、とことん運が無いなぁ俺って……まぁ、間に合ったのと、菫ちゃん達にまで被害が及ばなかっただけ、まだマシってことにするか……翡翠」

「は、はい……」


 一方で、唖喰に対して嫌悪感を一切隠さない態度で愚痴る。

 そして、首も動かさずに後ろにいる翡翠へ声を掛けた。


「俺が動きを止めるけど……やれるか?」

「え、あ、ぅ……」


 司の問いに、翡翠はどう答えたものか悩んでしまう。

 彼の助けによって幾ばくかマシになったものの、唖喰に対する恐怖に屈している現状では術式の発動もままならない。


「──解った。まずは一旦無力化させるよ」

「ご、ごめんなさい、です……」


 そんな翡翠の心境を察したのか、司は代案を口にする。

 せっかく頼ってくれたのに力になるどころか、足を引っ張る始末になってしまったことに対して謝罪の言葉を口にした。


「謝んなくていいよ。怖いのは同じだからさ」

「──っ!」


 それに、司は気にしてないと返した。

 だが、怖いのは同じと言ってもまるで正反対の行動をする司に、翡翠は一層自分を責め立てる。


「グルルルァ!」

「っち!」


 しかし、そんな彼女の心情に気を配る余裕など与えないとばかりに、二体のイーターが二人に飛び掛かる。

 司は素早く狙いを定め、先と同じ破裂音を二回響かせて、二体共打ち抜く。

 

「シュルル!」

「っ、翡翠!!」

「きゃっ!?」


 その隙を突いて、一体のシザーピードが大きなハサミを鈍器のように振り下ろしてきた。

 警戒を緩めなかった司は、咄嗟に翡翠を抱えてその場から飛び去る。


 火事場の馬鹿力とでもいうべき、素早い動きによって唖喰の一撃は回避した司は、お返しとして数発相手に見舞う。


 だが、もう一体のシザーピードがハサミを盾にして銃弾を防いだため、残念ながら不発に終わることとなった。


 相変わらずの妙な連携に司は舌打ちをするが、それくらいで悲観に暮れていてはこんな怪物の相手をしてられないと気を取り直す。


 翡翠を小脇に抱えたまま、司は牽制としてシザーピードへ銃弾を撃ち続ける。


 一体は防ぎきれずに被弾して行動不能に出来たが、それはもう一体がその後ろに隠れて盾にした結果であり、あまり好転したとは言い切れないでいた。

 

「シャアアッ!!」

「はぁ!? クソッ!!」


 それどころか、先に行動不能にしていたラビイヤーが復活する始末だった。

 司は愚痴りながらも標的をラビイヤーに切り替えて、迎撃することで事無きを得たが……。


「シュル!」

「っ、この──がぁ!?」

「つっちーっ!?」


 それは罠だった。

 一瞬だけ目を逸らした隙に、味方の背後にいたシザーピードの接近を許し、司は乱暴な扱いをすることに申し訳ないと思いながらも、翡翠だけ助けるように右斜め上に放り投げた。

 結果、未だ腰を抜かしたままの翡翠はかすり傷で済んだが、司はシザーピードの一撃をもろに受けてしまう。


「ごはっ!」


 その一撃は相当重かったのか、左方向に勢いよく殴り飛ばされた司は、一本の木に背中を思いきり打ち付けた。


 衝撃で肺の空気を押し出されたせいで呼吸が覚束ないだけに留まらず、彼の右腕はあらぬ方向に折れ曲がっていた。

 完全に骨折していた。

 さらに、魔導銃も落としてしまったことで、今度は司がピンチとなってしまった。

 その様子を察した翡翠に、より大きな恐怖が圧し掛かる。


 ──司が唖喰に食い殺されてしまう。


 そんなことになれば、一体何人の人が悲しみに暮れるだろうか。

 一度、翡翠はゆずに司を助けられたはずだと責められたことがある。


 もし、このまま司が唖喰に殺されてしまえば、ゆずが殺しに来ると思える程に、彼女は自分を責めるだろう。

 ゆずだけではない。

 鈴花に菜々美やアリエル、ルシェアも司の死に大きなショックを受けるだろう。

 

 自分一人ならまだいい。

 だが、司はダメだ。

 

 おねーちゃんに続いて司まで居なくなっては、翡翠はもう自分がどうなるかまるで想像できない。

 だというのに、この体はピクリとも動かないままだった。


「ぅ、あぅ、やだぁ……やだぁ……!」


 目端から涙が零れる。


 なさけない、なんて弱い、なんて惨めだ。

 一体司が駆けつけてから何度、こんな不甲斐無い想いをしないといけないのだろう。

 一体、何度ゆず達が戦う姿を見て、自分を奮い立たせようとして、失敗をしてきただろうか。


「げほっ、ごほっ……」


 むせ込む司に、じりじりとシザーピードが寄っていく。

 それでも一向に動かない体に、翡翠はどんどんと恐怖が心に圧し掛かって重さを増す。


 どうして最初に狙った自分を放って、彼の方に行くのか……。

 おねーちゃんが亡くなった時もそうだった。

 致命傷を負って、治したと言っても意識を失っていた自分では無く、何故まだ動けた彼女を殺したのか。


 唖喰という怪物の行動に、翡翠はまるで理解が出来ないでいたが……事此処に至ってようやく理解した。


 あの怪物は、翡翠の心を殺しに来ているのだ。

 

 翡翠の前で、彼女の大事な人を食い殺す事により、小さな少女の身も心も食い物にする気だと、明確に察した。


「つ、つっちー! 早く、逃げてぇ……!」


 弱々しく、掠れるように司に逃走を促がす。

 だが、翡翠の言葉に反し、司は息を整えながら首を横に振った。


「逆、だ……今の内に翡翠が逃げるんだ」

「ぇ……」


 何を言ってるのだろうか。

 真っ先にそんな疑問が浮かんだ。

 翡翠が聞き返す前に、司が口を開く。


「ほら、今は俺を狙ってるだろ? なら、翡翠には逃げるチャンスがあるってことじゃねえか」


 さも当然のように語る司に、翡翠は言葉が出なかった。


 なんでこんな不甲斐無い自分を助けようとするのか。

 彼は自分がどんな状況なのか理解していないのか。


 浮かんでは消える疑問をどう口に出したものか逡巡するものの、答えは出ないまま刻一刻と司と唖喰の距離は縮まる。


「大丈夫だ。ちょっと呼吸もマシになって来たし、足は動かせる、から……翡翠は逃げてルシェちゃんを呼んでくれればいい。俺、なんだかんだで悪運強いから、死にはしないよ」


 それだと言うのに、司は翡翠を安心させようと強がりにも程がある嘘を並べる。

 当然、翡翠が逃げて助けを呼んだところで、司が助かる保証はどこにもない。


 むしろ『なんでさっさと助けなかった』と彼女が責められる方が確実だ。

 無謀とも言える底無しの優しさに、翡翠は最早自分がどう行動するべきか分からなくなってしまう。


「シュルルル」

「ぁ……ゃ……」


 そうして彼女が迷っている内に、ついにシザーピードは司との距離を詰めて、その大きなハサミを開いて彼を捕食しようとする。


 司はどうにか身を動かそうとするも、シザーピードは彼を逃がす様子はなかった。


 意志も恐怖もごちゃ混ぜになった幼い心に、場を改善する力など発揮できるはずもなく、ハサミは司の頭部から胸元まで食い千切ろうと一際グワッと開かれて──。




 ──ハチの巣のような大量の穴を空けられて、粉々に粉砕された。



ここまで読んで下さってありがとうございます。


次回は3月30日に更新します。


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