161話 引き継ぎとクロエの忠義
ノートルダム大聖堂の展望入り口まで戻り、近くの飲食店で昼食を摂った後、アリエルさんは仕事のために大聖堂へ戻って行った。
「あぁ、近くとはいえ、一時でもアリエル様をお一人にするなど不安だ……」
そうして現在、オリアム・マギフランス支部が地下にある廃アパートの前に着いていたが、アリエルさんと別れてからというものの、クロエさんは頻りに主のいるノートルダム大聖堂をチラチラと視線を送っては、ため息をつきながら心配だと口に出していた。
その様子は、子供をはじめてのおつかいに行かせるお母さんのようだった。
ただ、アリエルさんは十月に二十歳になる女性なのだと考えると、かなり過保護だなと思ってしまう。
ちなみにアリエルさんの年齢と誕生日を知っているのは、彼女と二人で話し終えてからゆず達が来るまでの間に聞いてもいないのに教えてくれた。
「ポーラさんに教導係の引継ぎのためにクロエさん本人が立ち会う必要があるのでしっかりお願いします、とアリエルさんに言われて二つ返事で了承したのに、今さら不安にならないでください」
あまりにしつこいのか、ゆずがそう苦言を伝えると、クロエさんはゆずの方にキッと鋭い視線を向け………。
「ナミキ殿……そう言われましても、目と手が届かない内にアリエル様に何かあったらと思うと……」
「確かに、自分の手が届かない内に大切な人が危険な目に合ったらという気持ちは、私にも痛い程解ります」
ゆずがチラリと俺を見ながらそうクロエさんに諭した。
実感の籠った言葉は、実際に俺がベルブブゼラルに眠らされていたことを思い出しているのだろう。
俺はゆず達から話しを聞いただけだが、ゆずにとってこれ以上ない深い後悔として胸に刻まれていることを悟るのは容易だった。
「そ、それなら――」
「ですが、アリエルさんがクロエさんにルシェアさんの教導係を任せたのは、あなたなら出来ると信じているからです。いつまでもずるずると心配を引きずっていては、アリエルさんの信頼を傷付けることになります」
「う……」
続けて言われたゆずの言葉に、クロエさんはたじろいだ。
純粋にアリエルさんを心配している分、より心に突き刺さったのかもしれない。
俺も菜々美さんに、自分達は常に心配してもらう必要がある程弱くない、と叱られたことがある。
それだけにクロエさんの気持ちはゆず同様、俺にもよく分かる。
「あ、あの、ボクならこれまででも一人で何とかこなして来ましたので、クロエ様はアリエル様のお側に――」
「いや、それじゃ何ための引き継ぎなんだよ……」
自分のことは気にしなくていいと言うように遠慮するルシェちゃんにツッコミを入れる。
「で、でも……」
「案ずるな。アリエル様からの命令である以上、ルシェア・セニエの指導は徹底的に行うつもりだ」
逆に言えば、アリエルさんの命令がなかったらどう頼もうとも教導係を受けてくれなかったってことか、なんて藪蛇は言わないほうがいいだろう。
「そもそも、ポーラはルシェアに対して教導係らしいことはほとんどしてないんだし、引き継ぎなんて一分もしない内に終わるんじゃない?」
「そうだよ、むしろ喜んでクロエさんに預けると思いますよ」
「……そうだな」
鈴花と菜々美さんは、すぐに終わると励ましていくと、若干立ち直ったのか、クロエさんは優しい微笑みを浮かべた。
クロエさんは会ってから険しい表情か、恍惚とした表情しか見たことがなかったから、そんな表情も出来るのかと少し目を奪われていた。
「……おい、リンドウ・ツカサ……何をジロジロと見ている?」
「なんでもないです……」
ちょっと見ていただけで、素敵な笑顔が一瞬で不機嫌になり、人を殺しそうな鋭い眼光を俺に向けて来た。
そんなに男が嫌いか……。
なんて会話をした後、ようやく踏ん切りの着いたクロエさんを先頭に俺達はフランス支部の中へと入っていった。
エレベーターに乗って着いた地下五階の訓練場前フロアで、すぐにポーラ達と鉢合わせた。
アリエルさんの付き人であるクロエさんが突然現れたことに、親衛隊の面々は大いに驚いていた。
「! く、クロエさん!?」
「丁度良かった、ポーラ・プーレ。お前に用があって来たところなのだ」
「……ワタシに一体何のようなのかしらぁ? 忙しいのだから早めに終えて欲しいのだけれどぉ?」
驚きを隠せない様子のポーラがそんなことを口にする。
「(訓練に飽きたから外に出ようとしてるだけでしょ……)」
「(そうだろうけど、今は穏便に引き継ぎを済ませるために黙っとけよ?)」
「(はいはいー)」
鈴花が小声で愚痴を零したのに肝を冷やしながらも抑えるように注意する。
「そう難しい話ではない。アリエル様の指示でルシェア・セニエの教導係をワタシが引き継ぐことになったのだ」
「は?」
クロエさんがなんて事のないように引き継ぎの話を伝えると、ポーラはポカンと呆けた。
それもそのはずだろう。
会社で例えたら自分の部下が上層部に引き抜かれるということだからだ。
「……どういうことなのぉ?」
「え、えっと……」
自分の耳に入って来た言葉を飲み込んで理解したポーラは、キッとルシェちゃんを睨み付けながら問いかけた。
正直、ルシェちゃんもまだクロエさんが自分の教導係になることを完全に受け入れている状態ではないため、戸惑い気味な返事しか出来なかった。
それをどう受け取ったかは分からないが、ポーラが自身の魔導器である悪趣味な柄の扇を開いて口元にかぶせた。
「ふん、アリエル様に何か贈り物でもして取り入ったってところかしら?」
「ええ!? ボク、そんなことはしていません!」
「じゃあ何故クロエさんがあなたの教導係になるのよ!? どんなズルをしたっていうの!?」
「はぁっ!? 人の話を聞きなさいよ、アリエルさんの指示だって言ってんでしょ!」
喜んでルシェちゃんの教導係を代わると思っていたポーラが、何故か食い下がって来た際に放った暴言に、鈴花が不正はなかったことを告げる。
「〝天光の大魔導士〟に取り入って、次はアリエル様だなんて、なんて卑しい小娘なのかしら……どうやら躾が必要のようね」
嗜虐心を宿した怪しい目でルシェちゃんを睨むポーラの物言いに、何故食い下がったのかを察した。
こいつ、ルシェちゃんがクロエさんの近くに居られると、自分のストレス発散が出来ないことを嫌がってる。
要は自分のおもちゃを取り上げられたくないだけの子供の我が儘だ。
「あの女……!」
「待って下さい、司君」
とことん性悪なポーラに苛立って前に出ようとするが、ゆずに制止された。
理由を問う前に、答えはすぐに訪れた。
「ポーラ・プーレ、貴様はアリエル様のご命令に反するというのか?」
「いえいえ~、ただその前に躾を――」
「ルシェア・セニエの教導係はアリエル様の指示によってワタシ、クロエ・ルフェーヴルが務めることになっている。彼女に仕置きを下すのは既に貴様の管轄外ということになる」
ポーラは仮面を被ったような薄っぺらい笑みを浮かべながらアリエルさんの指示に逆らわないと口にするが、クロエさんは食い気味にポーラの行いを制止する。
「はぁ……あのー、ワタシはまだ代わると言っていな――」
「貴様ではなくワタシを彼女の教導係に任命すると、アリエル様からのご命令だ」
きっと何度もあったやり取りなのだろう、愚直なクロエさんに対し、ポーラは嘆息しながら言い繕おうとするが、クロエさんは顔色一つ変えずに四の五の言うなという風に断言する。
傍から聞けばクロエさんの言い分はキツイ。
だが、アリエルさんから託された役目を全うする意思を何より優先するクロエさんにとって、ポーラの言い分など聞く耳を持つ価値もないのだろう。
それが伝わったのか、ポーラの笑顔の仮面に微かなヒビが入ったようで、眉がピクリと揺れた。
「……っ、だから――」
「アリエル様のご命令が聞けないのか?」
「そ、その小娘がアリエル様に何かあることないことを吹き込んだのね!? あんなの、教導係のワタシからの愛の鞭だって気付いていないのよ! アリエル様はあの小娘に騙されているのか、もしくはアリエル様の命令を騙っているかもしれないわ!」
なおも食い下がるポーラは、自分に非はないと訴え、あまつさえルシェちゃんがクロエさんとアリエルさんを騙していると、根拠の無い支離滅裂な罵りを尤もらしく言い出した。
いい加減マジで眉間に鉛玉ぶち抜くぞ、バカ女。
鈴花も菜々美さんもゆずも、ポーラに心底救いようない阿呆を見るような向けているし、ルシェちゃんは謂れのない罵りにどう返せばいいのか分からず、戸惑いと怯えから暗い表情を浮かべいる。
だが、俺達が何か言うより早くクロエさんが動いた。
「――っし!」
「――ヒィッ!?」
クロエさんは目にも止まらない速度で腰の警棒を引き抜き、ポーラの喉元へと突き付けた。
ポーラが自分の喉元に触れるものに遅れて気付いて、恐怖を顕わにして腰を抜かした。
クロエさんの一連の動作には全く無駄がなく、彼女がフランスで二番目の実力を持つ魔導士はだということの説得力には十分な動きだった。
もしあれが直撃を狙っていたら、ポーラの細い首など簡単にへし折ってしまえるかもしれなかった。
そう思わされる程の怒気と威圧を、クロエさんから感じた。
「な、何するのよ! 当たったら危ないじゃない!!」
わざと当てなかったことに気付いていないポーラがそうヒステリックに喚き立てる。
あんな脅しを受けて、まだ反論する余裕があるのかよ……。
しぶとさだけは一人前だな。
「黙れ」
「――っ!?」
でもその余裕も、クロエさんの冷徹な声から発せられた一言によって、あっという間に砕かれた。
激情あまり一周回って無表情の面持ちからは、男の俺と関わっていた時とは次元が違う程の燃え盛る炎のような怒りが伝わって来ていた。
その理由も、実に単純で解り易いものだ。
「貴様如きがアリエル様の御心を決めつけるな。アリエル様のお考えを侮辱するな。アリエル様のお言葉を疑うな。アリエル様のご命令を無視するな。アリエル様の意思に反するな」
アリエル・アルヴァレスという主人が、白と言えば黒を白に塗りつぶしそうな程の盲信を見せるクロエさんの威圧的で偏執的な言葉は、アリエルさんに向ける絶対の忠義を存分に推し量るのに十分だ。
「アリエル様のご命令は絶対……神より賜った天啓そのものだ。それに反するのは罪だ。そしてその罪は死を持って贖うことになると肝に銘じておけ」
「あ……うぅ……」
それ以外に正しいことなどないという口調で脅されたポーラはもちろん、後ろで事の成り行きを見ていた親衛隊達にもクロエさんの言葉は効いていた。
「ポーラ・プーレ、もう一度だけ言うぞ……アリエル様からのご命令だ。ルシェア・セニエの教導係はワタシが引き継ぐことになった」
「――わかり、ました……」
青ざめた顔色のまま引き継ぎを了承したポーラに言うことはなくなったクロエさんは、警棒を畳んで腰に差し直した。
「さて、これで引き継ぎは済んだ……ルシェア・セニエ、明日からしっかり指導するからな。それではワタシはアリエル様の元へ戻らせてもらうぞ」
「は、はいぃ……」
さも穏便に済ませたという風に清々しい笑みを浮かべるクロエさんを引き止めることなど出来ず、その場にいた俺達はエレベーターに乗って主の元へ赴く彼女を黙って見送ったのだった。
クロエさんが去ったことを確かめたポーラ達も、居たたまれなくなったのかそそくさともう一つのエレベーターに乗って出ていった。
「「こえええええっ!!?」」
残された俺達五人の内、俺と鈴花は声を揃えて悲鳴を上げた。
あの人は絶対過去に、アリエルさんを馬鹿にした人達を男女問わずにああやって脅して病院送りにして来たんじゃないか!?
「一年前より過激になっていますね……アリエルさんを貶めるような発言だけであれ程とは、ちょっと恐ろしいですね」
「え、司くんのことで怒ったゆずちゃんもあんな感じだよ?」
「菜々美さん、私はクロエさんと違って過剰に脅したりしてません……ですよね、司君?」
菜々美さんの指摘に、違うと言うゆずに促されて、俺が第三者に馬鹿にされた時の彼女の言動を思い返してみる。
『ふん、冴えない男に媚びるのに必死な子供は言うことだけは立派ね』
『…………いいでしょう、それでしたら明日の訓練が楽しみですね。せっかくですから親衛隊の皆さん全員対私で模擬戦をしましょうか。その腐った性根を叩き潰して、先の自信も粉々に砕いて、彼を冴えないなんて言ったことを後悔させてあげますよ?』
あれ?
菜々美さんの言う通りじゃないか?
自分のことはいくら罵られようがどこ吹く風というような感じなのに、俺のこととなると普段の煽り耐性が一瞬で吹き飛んでキレるゆずさんってば、本当にクロエさんと変わらなくないか?
「司君? どうしてすぐにそんなことはないって言ってくれないんですか?」
「いいっ!?」
ハイライトが消えた緑の目で俺を見つめるゆずさんに思わずビビッてしまう。
自分の望む答えじゃないと不満とか、クロエさんより性質悪いな!?
そう思ったが、ゆずはクスリと笑みを浮かべた。
「冗談です。人の振り見て我が振り直せと言いますし、次に司君が侮辱された時は病院送りで済むように善処しますよ」
善処して病院送りとか、改める前は相手をどうするつもりだったんだよ。
怖いから絶対に聞かないけど。
そんな漠然とした恐怖を覚えつつ、クロエさんが去ってから俯いているルシェちゃんに声を掛ける。
「ルシェちゃん、さっきから俯いてるけど大丈夫か?」
「あ、つ、ツカサさん……」
「え、どうして泣いてるんだ!?」
さっきポーラから酷い中傷を受けたことがそんなにショックだったのか、ルシェちゃんは目に涙を浮かべていた。
俺は慌てて慰めようとするが、ルシェちゃんは指で涙を拭って何でもないという風にニコリと笑って答えた。
「違うんです……アリエル様の付き人のクロエ様が教導係を引き受けてくださったことって、よく考えるとボクの目標に大きく近付いたことになるんだって気付いたら、なんだか無性に……ご心配を掛けてしまってすみません……それもこれも皆さんのお蔭です、ありがとうございます!」
ルシェちゃんの感謝の言葉を聞いて、俺は胸の奥がほんのりと暖かくなるような感覚がした。
確かに、クロエさんが教導係になったということは、将来はアリエルさんの役に立ちたいと願った彼女の夢にとって大きな前進だ。
「ルシェちゃんが夢を諦めずに必死に頑張った成果だよ」
「いえ、昨日のようにユズさん達が鍛えてくれたり、戦闘の時にツカサさんが助けてくれなかったら、ボクは死んでいたかもしれないんです……だから、皆さんのお蔭です!」
ルシェちゃんはそう言ってぺこりと頭を下げた。
自分一人でここまで来れていないと自覚してもなお揺るがないひたむきさに、俺から言うことは何もないだろうと思い、ルシェちゃんの頭を撫でるだけに留めた。
「ん、えへへ、ツカサさんがこうやって撫でてくれると、もっと頑張れる感じがします」
「――っ! そ、そっか……」
本当に嬉しそうにはにかむルシェちゃんの表情に、ドキリと胸の高鳴りを感じた俺は、気恥ずかしさを覚えつつも彼女の頭を撫で続けた。
このあと、その様子を羨ましそうに眺めていたゆずと菜々美さんの頭を撫でることになったことは、また別の話であった。
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次回は10月29日に更新します。
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